昼の休憩時間、天気がよかったので近くを散歩していたら、ビルの谷間に神社の鳥居があったので、ふと立ち寄ってみる。
写真をみてお分かりのとおり、本当にビルの谷間に参道があって、拝殿は見えない。ちょっと興味をそそられたので入ってみると、ちゃんとあった。
ずいぶんとこじんまりとした神社だ。当然、その由緒が気になる。
これだけ街なかにあるということは、仙台城下町時代からあって、開発の波にのまれてしまった可能性が高い。だとすれば、それなりに古い神社かもしれない...と考えていたら、ちゃんと由緒書きがあった。要約すると
- 慶長6年(1601)1月11日、政宗が仙台城下町の縄張りをはじめる。野中神社は、その縄張りの起点となった場所で、城下の中心点となったところ。
- 町割りの縄張りに使った縄を地中に埋め、その場所に野中神社を創建した。
- 1945年7月10日、仙台空襲により消失
- 1946年、仮社殿を建てる。
- 1986年、大町通商店街の街づくりとともに、野中神社再建の機運が高まる
- 1988年7月10日、再建。
とった感じ。というわけで、この場所を起点に仙台城下町の建設が始まったと考えると、ここが仙台の中心なのだ!
確かに、野中神社の場所を地図で確かめてみると、すぐ西に国分町通りが南北に伸びているのがわかる。
画面中心部の★が野中神社。すぐ西に国分町通りが伸びる。 |
この国分町通りは、今でも仙台の繁華街として有名なスポットだが、江戸時代の呼び名は奥州街道である。
仙台開府より前、この地域にまだ奥州街道は整備されておらず、昔からの「奥大道」と呼ばれる街道があった。政宗はその奥大道を仙台城下町の中心部に導入することで、仙台に人と物資を呼び込んだのだ。
先に奥州街道の場所を決めて、その近くに野中神社を建てたのか、あるいはその逆に、町割りの起点に奥州街道を通したのか、前後関係はよくわからない。が、どちらにせよ政宗の城下町設計プランにおいて、野中神社と奥州街道はセットだったことは間違いないだろう。
その後、どちらかといえば仙台城下町の中心地として認識されていたのは芭蕉の辻の方だろう。こちらは奥州街道と仙台城の大手門からまっすぐ伸びる大町通りが交差する場所だ。
今日、仙台の中心といえばどこになるだろう。仙台駅前か。国分町か。あるいはアーケード街か。
現在、野中神社のある一帯はオフィス街となっており、町の中心からは少し離れている。ビルの谷間に埋もれていることも含めて、時代の移り変わりを感じれる場所だ。
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