ごとう のぶやす
後藤 信康 | |
「信長の野望・創造 戦国立志伝」より
統率64、武勇73、知略61、とここまではいいのだが、政治24
と完全に猪武者扱いである。後述の仙台城 普請惣奉行の功績や
治水事業のことを考えれば政治の値はもう少し高くてもいいと
思う。
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別名
| 孫兵衛、肥後 |
生誕
| 弘治2年(1556年)注1 |
死没
| 慶長19年(1614年) 8月8日注2(没年59歳) |
君主
| 伊達輝宗 → 政宗 |
藩
| 仙台藩 |
家格
| 宿老 |
所領
| 時期不明- 米沢 のそ紀村、堀金村、柳沢村 1585- 耶麻郡 檜原城 1589- 会津のうち北方 たいとく村 1591- 亘理郡 坂本城 1600以降- 栗原郡 宮沢邑 時期不明- 桃生郡 大森邑 2500石 1605- 領地召し上げ 1611- 江刺郡 三照邑 500石 (後に遠田郡 不動堂村 22貫657文加増) |
氏族
| 湯目氏 → 後藤氏 |
父
| 実父:湯目重信(重弘) 養父:後藤信家 |
兄弟
| 実兄:湯目実広(半内実広/元康とも) 義弟:後藤寿庵? |
子
| 後藤近元 |
子孫
| 後藤元康、後藤寿康、後藤良康、後藤充康 (いずれも仙台藩奉行職に抜擢) |
親戚
| 湯目景康 |
墓所
| 正源寺(江刺郡(奥州市 江刺区)三照) |
■ 後藤氏
後藤氏は、左大臣 藤原魚名を遠祖とする後藤則明から始まる家系である。その4世孫の孫兵衛実基のときはじめて後藤の性を称し、その子基清が検非違使、それ以後も基綱・基政・基隆が鎌倉および六波羅の評定衆に任ぜられるなど、鎌倉幕府の御家人であった。
後藤氏が伊達氏に仕えるようになったのは、基末のときであったが、その時期も経緯も不明である。このとき基末は伊達氏によって羽前置賜郡において「のすき村」「堀金村」「柳沢村」の三邑をあてがわれた。これらの村が、現在のどこに相当するのかは不明である。『小牛田町史』では、これ以前の後藤氏に奥羽に所領を賜った形跡がないことから、これが新地給与であり、これが後藤氏が奥州に下ったはじめてのことであるだろう、としている。
19代信秀の弟、秀基は織田信長の兄、織田信広に仕えた。彼は出陣の際に織田信長から左文字の太刀、甲冑、朱柄槍および織田木瓜の紋を賜ったという。以後、朱柄の槍は関羽ひげの大男がもつならわしとなり、片倉氏の糊刷毛槍のりはけやり、茂庭氏の胴白槍とともに「後藤の髭」として伊達行列の名物となった。秀基は主君・織田信広と共に伊勢長島の戦いで戦死している。
秀基の遺児である後藤信道は、叔父にあたる信秀の養子となり、改めて織田信長に仕えた。信長の偏名である「信」の字を与えられ、織田木瓜の紋の使用もみとめられたという。
...ここまではすべて『小牛田町史』(pp215-218)が出典だが、織田信長の名前まで出てくると、さすがにあやしい気はする。織田側の史料を確認してみないとなんともいえない。
■ 孫兵衛 信康
はじめ孫兵衛と称した信康は、弘治2年(1556年)、湯目重信(雅樂允、重弘とも)の次男として生まれた。父・重信は湯目景康で有名な湯目家の分家にあたり、洲島城主を務めた。孫兵衛もこの洲島城で生まれている。同世代の伊達家臣としては、一つ上に鈴木元信、ひとつ下に片倉小十郎がおり、政宗と比べると10歳年上である。のちに刎頚の交わりとなる原田宗時は9歳下になる。
いつの頃かは不明だが、子がなかった後藤信家の養子となり、後藤家を嗣ぐことになった。養父、信家の病死後、のそ紀村注3、堀金村、柳沢村の所領も継承する。
天正10年(1582年)、かねてより伊具郡の領有をめぐって争っていた相馬氏との戦に出陣する。これが信康の初陣で、26歳のときのことであった。信康は政宗の麾下に入っていたと伝わっており出典B、このときに後に檜原城主を任せられるだけの信頼を勝ち取ったとものと思われる。
なお、伊達家の嫡子・政宗は前年の天正9年(1581年)当時15歳の年に初陣を済ませており、当時の武将としては、信康の戦デビューは遅かったといえるかもしれない。
■ 会津侵攻と檜原城代
檜原城。福島県 耶麻郡 北塩原村 檜原 |
一方、会津方面への攻守のかなめとなる土地・檜原には新しく城を築いて、これを後藤信康に守らせることにした。天正13年(1585)6月28日のことである。以後信康は、蘆名氏の滅亡(天正17年、1589年)までの約5年間、檜原城代としての役目を担うことになる。
檜原は、伊達の本拠地・米沢と蘆名の本拠地・会津との間の最短の峠道である。政宗の南下作戦は今後仙道方面が主戦場となったため、信康は最前線からは退き、地味な任務につくかたちになってしまったが、檜原の地政学的重要性は前述のとおりであり、在番中、信康をねぎらう政宗の書状が何度かきている。また、政宗の正室・愛姫(陽德院)からも信康を気づかってうちかけを与えている。
檜原城代に任ぜられて間もなくの天正13年(1585)閏8月28日には政宗の書を受けて小手森城の大内定綱攻めにも従軍したという。これについて、『小牛田町史』では「参加した」としているが、『伊達治家記録』の同日の条には政宗が信康と上郡山景為に向けて小手森陥落を知らせる書を送ったことだけが記されており、信康本人の従軍については述べられていない。檜原城代を命ぜられてからわずか2か月後のことであり、すぐさまその任を投げ出して大内攻めに加わったとするのは不自然に思われる。
また、この檜原城代のころ、信康の武勇は敵方にも知れ渡っていたらしく、高坂弾正(武田信玄配下の四天王のひとり、高坂昌信)の再来と恐れられ、城の近くに近づく者はいなかったという出典C。高坂昌信は、川中島の海津城主として上杉の武田領侵攻を抑え続けた名将であることから、信康を彼に比する言説が生じたのだと思われる。
■ 喜多方への移封
天正17年(1589)、摺上原の戦いで蘆名氏が滅亡すると、会津北方の備えとして喜多方城主に任命される。これも『小牛田町史』が出典だが、調べても喜多方城(北方城とも)なる城はどこにも発見できなかった。喜多方地方のどこかの城の別名だと思われるが、どの城を指しているのかは不明である。一方で『仙台藩家臣録』(『御知行被下置御帳』)には
会津之内北方たいとく村 被下置候由、御知行高は不承伝候。とあり、喜多方地方のどこかに所領を新しく賜ったことは確実である。
■ 葛西・大崎一揆
宮崎城。宮城県 加美郡 加美町 |
二人はいつも先陣を競い合っていたのだが、後藤信康が夜にこっそり抜け出して城に忍び入って石壁に取りつくと「えらい早駆けじゃのう」という声がする。みてみると信康よりも先に忍び込んでいた原田宗時が城門の柱にしがみついていた。城門から敵が攻めてきたが、二人は隠れて城内にとどまった。敵の攻撃がやんで城内に戻ると、二人は城門を開け放って味方を招き入れ、そのまま城は大混乱になったという。出典F一説によれば、後に改易となるのはこのときの抜け駆け行為が原因だといわれるが、詳しくは後述する。
続く佐沼城の戦いでは、敵兵の山内内膳を一騎打ちのすえに討ちとる活躍が伝えられている出典A。
■ 坂本城への移封
白石城。関ヶ原の戦いに連動して
伊達政宗が上杉から奪還した。
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文禄元年(1592)からの朝鮮の役にも政宗に従い渡海した。この文禄の役のさなか、朋友である原田宗時が風土病にて没している。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに連動した上杉との戦いでは7月の白石城の戦いに従軍する。『伊達世臣家譜』8月には政宗から、相馬氏に対しての備えを怠らないようにとの書をうける。こののち、前線の白石方面から退いて坂本城の守りについたと思われる。結局相馬と戦いになることはなかったが、このとき政宗から鳥毛鞘の槍を賜った出典G。
■ 仙台藩創世期の活躍
関ヶ原の戦いの後、政宗は居城を岩出山から仙台へと移し、仙台藩が成立する。信康は栗原郡 宮沢邑主(宮沢城主)となった。宮沢には、延長約4000メートルの「後藤江」なる用水路があり、『小牛田町史』ではこの「後藤江」が後藤信康、あるいはその義弟という説(後述)がある後藤寿庵による建設・設計である可能性について触れられている出典D。
宮沢の後、桃生郡 大森邑に移封となる。加えて新田を給与され、所領は2500石となる。宮沢、大森ともに移封がいつのことかははっきりしないが、『伊達世臣家譜』の文脈上、関ヶ原(慶長5年、1600)以後、慶長10年(1605)年以前のことであることは間違いないだろう。
また、この間の慶長6年(1601)1月11日には、仙台城築城にさいして川島宗泰と共に普請の惣奉行に任命されている出典E。仙台城はこの前年の慶長5年(1600)12月24日、政宗自ら縄張りはじめを行い、翌慶長6年(1601)正月11日から着工、慶長7年(1602)7月18日には一応完成して8月8日に政宗が仙台城入りした。
この間、新しい領地の経営と仙台城の普請を同時並行で行っていたとすれば相当な忙しさであろうし、仙台城普請惣奉行の功績が認められて宮沢、大森へと移封、加増されたと考えるのが自然ではないだろうか。
■ 謎の改易と晩年
ただ、この説以外にはどうして信康が改易となったのかを説明するものはなにもなく、理由はまったくの不明である。前後関係から考えれば、新しい領地の大森で何らかのトラブルがあったと考えられるかもしれない。あるいは、仙台藩内部において派閥争いのようなものがあり、それに巻き込まれたのかもしれない。当時は信康のような武功派の武将から文治派の官僚タイプに活躍の場が移りつつある世の中で、徳川家でも大久保忠隣の改易事件といった例がある。が、これらはあくまで、ブログ執筆者の想像にすぎず、いずれにせよ、信康改易の理由はわかっていない。
慶長16年(1611)、赦免されて江刺郡の三照村に50貫文(500石)にて知行を得る。さらに遠田郡 不動堂村にも22貫657文(226石)をあてがわれたが、以前の2500石と比べれば大幅な減俸である。屋代景頼のように追放された者もいることを考えれば、復帰できただけでももうけものであろうか。また『伊達世臣家譜』には宮城郡 赤沼村に「後藤堤」なる堤があり、この赤沼も後藤信康の所領であったであろうとしている。
慶長19年(1614)8月8日、59歳で没する。
子の近元の代に加増され、2000石まで復帰。さらに不動堂要害を賜る。後藤家は仙台藩において「宿老」の家格を与えられ、奉行を何人も輩出している。
■ 原田宗時との関係
「伊達二十四将図」より。 やっぱり並んでいる後藤信康と原田宗時。 |
原田宗時は、年少ながら武勇絶倫で知られていた。故あって信康に恨みがあり信康との決闘を望んだ。信康は客と囲碁をしていた最中であったが、宗時は信康への恨みを語ったうえで決闘を申し込むが、信康は悠遊と囲碁を続けている。対局が終わったのち、信康は落ち着いた様子で語った。
「おぬしの申すこと、いちいち心当たりがある。決闘するのは構わないが戦国の世にあっておぬしのような勇猛な士を失うのは惜しいし、私もそのようなことで死ぬのは御免である。国のために忠戦して戦場で死ぬべきであって、私憤で命を捨てるべきではない」
この信康の態度に感服した宗時は信康に謝り、以後彼を尊敬し、二人は刎頸の交わりとなったという出典C。このとき原田宗時がもった「恨み」がなんだったのかはよくわからない。あるいは幼くして勇猛として知られていた原田宗時は、同じく勇猛で知られていた後藤信康とどちらが強いのかをはっきりさせたかったのかもしれない。
さて、こういったエピソードのせいか、常にセットで語られることが多い信康と宗時であるが、Wikipediaをはじめとして、中には混同されているものも見受けられる。
朝鮮出兵の際、伊達の武者行列が京を通ったとき、派手ないでたちに「これぞ伊達者」と京の町衆が大騒ぎした。このとき、後藤信康と原田宗時は長さ一間半(約2.7メートル)の大太刀をぶらさげて...というものなのだが、このとき大太刀をぶらさげていたのは遠藤宗信と原田宗時であり出典H後藤信康ではない。前述の通り、後藤家には信長から賜った槍を賜ってこれは伊達行列の名物になっているし、原田宗時のとなりには常に信康がいる、というイメージから混同されたものだと思われる。
■ 後藤寿庵との関係
仙台領における治水工事を行い、キリシタン武将としても有名な後藤寿庵が、信康の義弟であったという説がある。後藤寿庵の出自についてははっきりとわかっていないのだが、だいたい3通りの説がある。
- 後藤信家の第2子であったが、キリシタンであったために士族であっては信教の自由がないために、自分から家を継ぐのを辞退したという説
- 葛西氏の支族にして藤沢城主の岩淵秀信の一族であるという説
- 岩淵氏の出ではあるが、政宗が寿庵を登用するにあたって後藤信康の義弟としたという説
どれも確証はないのだが、寿庵が後藤信康と義兄弟の関係にあったとすると、後藤信康が仙台城の普請惣奉行に任命されたのにも納得がいく。すなわち、信康ならキリシタン武将として最先端の土木技術をもつ寿庵からのサポートを得られると見込んで、政宗は信康を奉行に任命したのだ。これらのことから、『小牛田町史』では「なんらかの『属縁』関係にあったのではないかとみられる」としている。
■ 関連地図と系図
■ 出典・注釈
注1:出典の『小牛田町史』p218には弘治2年(1583)とあるが1556年の誤り。
注2:出典の『小牛田町史』p222には8月8日とあるが、一方『三百藩家臣人名事典1』には8月29日とある。どちらも慶長19年没としているのは共通。
注3:出典は『仙台藩家臣録』第1巻 「拙者曽祖父後藤四朗兵衛儀」より。「のそ紀村」とは上記の「のすき村」の事だろう。
出典A:『伊達世臣家譜』
出典B:『小牛田町史』pp218、219
出典C:『仙台人名大辞書』 「後藤信康」の項
出典D:『小牛田町史』pp236、237
出典E:『貞山公治家記録』巻之二十一 慶長六年 正月十一日の条
出典F:『宮崎町史』より要約
出典G:『貞山公治家記録』巻之二十上 慶長五年 八月上旬の条
出典H:『貞山公治家記録』巻之十八上 文禄元年 三月十七日の条 「其中ニ遠藤文七郎宗信、原田左馬助宗時両人ハ、刀脇指ハ常ノ如クニ佩キ、其上ニ又木太刀ヲ長サ一間半ニ在リテ拵テ佩ク、長キ故ニ小尻ノサカリタルヲ、眞中此ニ金物ヲ打テ金鎖ヲ以テ肩ヘ釣リ上タリ」
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