2017年11月28日火曜日

飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【悲運の一族・飯坂氏シリーズ③】【資料集付】

奥州合戦後に佐藤一族の領地であった飯坂にやってきた伊達為家。彼が居館としたのは佐藤基治の拠点・大鳥城ではなく、古館と呼ばれる城館だった。

■ 飯坂城(古館、湯山城)と大鳥城

これは地元でも混同されているのだが、佐藤一族の城である大鳥城と飯坂一族が居館とした飯坂城(=古館、湯山城)は別物である。おそらく地元の人に「飯坂城ってどこですか?」と聞くと誤って大鳥城を案内されることになるだろう。


混同されやすい両者を比較してみよう。まったくの別物であることがわかる。

比較① 規模

上の写真を見てもらえば一目瞭然かと思うが、大鳥城は現在「館の山公園」として整備されている一帯で、比高120メートル級の大規模な山城である。一方の飯坂城は温泉街中心の小高い山で、せいぜい比高15メートルの丘だ。


比較② 位置と実態
大鳥城が温泉街の中心街からすこし離れた場所に要塞として居座っているのに対して、飯坂城は温泉街の中心、一番有名な鯖湖さばこ湯からわずか130メートルの距離にある一等地に位置している。古館という名が示す通り、軍事施設としての「城」というよりは領地支配のための「居館」がその実態に近かったはずだ。


比較③ 遺構と現状
なお、大鳥城には曲輪や土塁と思われる設備が今でも見受けられるのに対し、飯坂城には遺構と呼べるものはまったく残っていない。現在は温泉街と住宅地、公共施設に飲み込まれ、「古館公園」として整備された一画に案内板が立つのみである。

...あるいは、これだけ大規模な要塞である大鳥城を破棄するのも単純に「もったいない」気もするので、平時は飯坂城、戦時には大鳥城にこもる、といった運用の想定もあったかもしれない。が、奥州合戦以降、飯坂が戦場となった記録はないので、証明は難しい。


■ 飯坂城の様子を伝えるもの

飯坂城の様子を伝える資料がないかいくつか探してみたのだが、びっくりするほど見つからない。前述のとおり、城というよりも居館が実態に近かったと思われること、住宅や公共施設用地として利用されたことから、遺構もまったくと言っていいほど残っていないし、発掘調査が行われたことがあったかどうかすらわからなかった。

それでも、飯坂城について触れた資料をいくつか集めてはみたので、興味のある方はページの末尾をご覧いただきたい。


近代以降はこの地の用途は割とはっきりしており、小学校、郵便局、電話局、警察署、消防署を経て現在は古館公園として整備されている。


■ 飯坂城のあわただしい正月 -飯坂城と政宗-

まともな記録のない飯坂城について唯一、確かなのは天正19年に伊達政宗が訪問している、ということだ。これは伊達家の正史である『貞山公治家記録』に記載があるのでそのまま引用してみよう。

〇此年 公、信夫郡飯坂城ニ於テ御越年。
(『貞山公治家記録』巻之十五 巻末) 
天正十九年辛卯 公御年二十五
正月庚寅大元日戊戌。御旅館信夫郡飯坂城ニ於テ御祝儀アリ。
(略)
〇九日丙午。飯坂ヨリ米澤ニ御歸城。

(『貞山公治家記録』巻之十六 冒頭)

というわけで、天正18年(1590)~同19年(1591)の年末年始を、政宗は飯坂城で過ごしている。正月とはいえ、この時期の政宗はなかなか忙しい。天正18年(1590)は葛西・大崎一揆が勃発した年で、政宗はこの鎮圧に向かうも蒲生氏郷から一揆の扇動を疑われてしまう。

秀吉への弁明のため、正月晦日(1月30日)には米沢を出発、翌閏正月26日には尾張 清州城で関白・秀吉と対面している。有名な黄金の十字架を背負って入京するシーンはこの直後である。

説明黄金の十字架を背負い、葛西大崎一揆扇動疑惑の釈明をしに上洛する政宗。
実際にはこれに先駆けて清州城で秀吉との面会を済ませている。ザ・パフォーマンス。

そういう経緯なので、正月でありながら政宗の心にはあまり安らぎはなかったかもしれない。普段であれば「誰々、挨拶に参上」といったような記述が並び、ゆっくりと家臣団の謁見をするのが常の正月なのだが、そういった記述も見当たらないし、正月7日には浅野長政との会議のため二本松まで日帰り出張をしたりと、かなり慌ただしい。

とはいえ、せっかく飯坂で年越ししているのだから、温泉にひたって汗を流すシーンくらいなら、想像したとしても実像とそうかけ離れてはいないだろう。


■ 初代・為家の晩年

さて、第2回、第3回と続けて飯坂の地理ネタにお付き合いいただいたわけであるが、話を飯坂氏の歴代当主に戻したいと思う。まずはこの記事のテーマ・飯坂城を建てた初代・伊達為家の晩年から。

この人は第1回でも触れた通り、建暦2年(1212)6月7日、「御所侍所に宿直し、荻生右馬允と私闘」したことで佐渡に流されたり、承久元年(1219)には鎌倉で3代将軍・源実朝に拝謁するなど、いろいろと派手に動いている痕跡はみえるのだが、飯坂での活動の実態があったのかどうかについては定かではない。

伊達氏と同じく奥州合戦の功労で奥州に所領を得、「奥州総奉行」となった葛西清重(伊達のお隣さん大名・葛西氏の祖)ですら、実際の活動はほぼ鎌倉で、奥州の所領には代官を送って統治していたのではないかと言われる。

あるいは為家も、鎌倉に常駐して御家人として仕えていたのかもしれないが、少なくとも晩年に飯坂城に住み、この地で没したのは確かなようだ。「藤原姓下飯坂氏系図」によれば建長4年(1252)7月26日に没している。享年78歳、大往生である。


■ 付録・飯坂城に関する資料集
01.『貞山公治家記録』
上記に掲載。伊達家の公式記録で元禄16年(1703)成立。天正18年末~19年初頭に伊達政宗が飯坂城に滞在していたことがわかる。文章は『仙台藩史料大成 伊達治家記録二』(宝文堂、昭和48年(1973))に拠った。


02.『信達一統記』
上飯坂邨
飯坂
町の東に在り小さき坂なり、熊野宮の前坂にて南向也、愚按ずるに昔飯坂右近將監宗貞此地に居住し給へる故に飯坂と云え又邨名も飯坂と云ふなるべし、古は佐波子邨と云へしが溫泉も佐波子邨に在る故に佐波子の湯と云へしなるべし、昔飯坂殿盛なりしときならむ、實に古き溫泉なり、東鑑に佐藤基治を湯の庄司とも書り
(信夫郡之部、巻之五)

天保12年(1841)に村役人・志田正徳が著述した風土記。居館については記述がないが、この項目「飯坂」の丘そのものが飯坂城の場所に当たる。飯坂氏が住んでいたから飯坂の地名になった、という記述だが実際には逆で、飯坂の地名を苗字として名乗ったのが飯坂氏である。文章は『福島縣史料集成第一輯』(福島縣史料集成刊行會、昭和27年(1952)、p473)に拠った。


03.『飯坂湯野温泉史』

古舘址 字古館にあり、現時飯坂(尋常脱)高等小学校舎の在る所にして、築造の年代考ふ可らざるも、永禄年間(一五五八-七〇)飯坂右近将監宗康之に居る、宗康後に伊達政宗に属し、仙台に移住すといふ。

飯坂出身の民間人・中野吉平による飯坂の地理書。念頭には『信達一統記』の改定があったという。大正13年(1924)発行。宗康は政宗の岩出山移封、仙台築城前に亡くなっているので「仙台に移住」は誤り。この年代、用地が小学校として使われていたことは下記案内板と一致する。文章は『福島市史資料叢書 第74輯』(福島市史編纂委員会、1999)に拠った。


04.現地案内板


クリックで拡大可。斜めで申し訳ないが、十数年後にはインクが剥げてそうな看板なので、記録の意味を込めて画像で掲載する。平成16年(2004)、飯坂町史跡保存会により設置。筆者の幼少時の記憶では、確かに以前、ここに消防署があった。


■ 悲運の一族・飯坂氏シリーズ一覧

飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家-
こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学- 
飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【資料集付】← 今ココ
鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる-
分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族-
┗【資料集】中世の飯坂氏
⑥飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク-
⑦飯坂宗康と戦国時代 -その功罪-
【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
┗【資料集】飯坂宗清
┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
┗【資料集】近世の飯坂氏
⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表

2017年11月23日木曜日

こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学- 【悲運の一族・飯坂氏シリーズ②】

さて、奥州合戦ののち、飯坂にやってきた伊達為家。彼の4代目の子孫である政信の時代に「飯坂」を名乗るようになり、飯坂氏の歴史が始まるのだが、そのファミリーヒストリーに触れる前にそもそも為家が居住した飯坂なる場所がどんなところなのかについて触れておこうと思う。

戦国時代の終盤以降、飯坂一族は飯坂の地を離れることになるのだが、それまでの約400年弱、彼らは飯坂の地で暮らしたのだし、その地名を家名として冠したわけである。やはり一族の歴史に詳しく入り込むまえに、飯坂という地について一度きちんと理解しておきたい。


■ その位置

まず飯坂の位置だが、現在の自治体名で言うと福島県 福島市、旧国名で言うと陸奥国 伊達郡、信夫郡にまたがった地域になる。


福島県の県庁所在地である福島市の中心街から約20分の距離にあり、東北自動車道を通行中に飯坂インターの名を目にした方もいるだろう。また、JR福島駅からは鉄道・福島交通飯坂線に乗り換えて終点が飯坂温泉駅となる。

※なお、飯坂地域はおおざっぱにわけると摺上川を境にして東の湯野地区、西の飯坂地区に分けられる。中世の郡分けでいえば、東部・湯野が伊達郡、西部・飯坂が信夫郡に属した。飯坂の地理については信夫郡飯坂だったり伊達郡飯坂だったりと混在しているが、これが原因だと思われる。

■ 奥州最古の温泉地帯♨

そして飯坂といえば、第一に飯坂温泉である。

写真は飯坂のシンボルのひとつ、十綱(とつな)橋摺上川を挟んで多くの温泉旅館が軒を連ねる。余談ではあるが、この川は「すりかみ川」と読む。伊達氏の歴史に詳しい方なら、「摺上」と聞くと政宗の人生のハイライトのひとつ・摺上原の戦いを連想するだろう。こちらは「すりあげ原の戦い」と読む。筆者は摺上=すりかみと読む環境に生まれたせいか、つい最近まで「すりかみ原の戦い」だと思い込んでいた。

その歴史は古く、飯坂温泉オフィシャルサイトの説明によれば
2世紀頃、日本武尊が東夷東征の際、病にかかり、”佐波子湯”に浸かった所たちまち元気になった。とされています。飯坂温泉の歴史
という。古代にヤマトタケルの東国遠征隊が本当にここんな奥地までやってきたのか? とはツッコミたくなるところである。湯治ツーリズムが流行した江戸時代あたりにコマーシャルトークとして誰かが言い出したのではないかという気がするし、せめて「征夷大将軍・坂上田村麻呂も蝦夷征討のときにたち寄って入浴した」くらいなら信じられなくもないのだが、実際のところはよくわからない。



しかし、少なくとも平安時代末期には後述する佐藤基治が「湯の庄司」と呼ばれているので、古くから温泉地として知られた土地柄であるのは間違いない。

湯の庄司=佐藤基治と断定していいかどうかについては異論もあるだろうが、少なくとも平安時代末期には飯坂が「湯の庄」として認知され、それを「司」る地方豪族がいたことは確かだ。

江戸時代には松尾芭蕉も奥の細道の道中、飯坂温泉を訪れており、他に「正岡子規、与謝野晶子、ヘレン・ケラーも入った湯」という説明は飯坂でよく聞く。

飯坂温泉で一番有名な鯖湖湯(さばこゆ、写真はこちらから拝借)。
ヤマトタケルの時代? かどうかはさておき、古くは「佐波子湯」と表記。

なお、秋保温泉(宮城県仙台市)、鳴子温泉(宮城県大崎市)と並んで奥州三名湯に数えられている。「奥州」という割には3つとも場所が南東北に偏っている気もするが、多賀城が陸奥国の北限だった時代からの呼称と考えれば納得がいく。

■ 佐藤一族の拠点

さて、地元飯坂でも飯坂氏についてはあまりフィーチャーされないことが多いのだが、その反面、飯坂が観光資源として推している歴史的有名人といえば佐藤兄弟、すなわち佐藤継信・忠信であろう。飯坂ではいまだにタッキーこと滝沢秀明が義経を演じたNHK大河『義経』(2005年)ののぼりが目につく。あとあんま関係ないけど『八重の桜』も。

チャンネル銀河 大河ドラマ『義経』のページより拝借

佐藤継信・忠信は義経主従として有名で、奥州藤原氏傘下、佐藤基治の息子である。藤原秀衡の命により義経の下に参じ、名臣の誉れが高い。飯坂はそんな継信・忠信兄弟の父・佐藤基治の拠点である。

佐藤基治は飯坂の大鳥城主で、奥州合戦の緒戦・石那坂の戦いで源氏軍に敗れているのだが、息子たちが義経の幕下にいたこと、拠点の飯坂近くの石那坂、あるいは阿津賀志山が戦場になっていることから考えても、平泉=奥州藤原軍の主戦派として戦ったことは間違いない。

石那坂の場所ははっきりとはしないものの、
比定地のひとつが福島市 平石 原高屋にある。

なお、その佐藤基治を石那坂の戦いで打ち破ったのが、伊達家の初代・朝宗(に比定される常陸入道念西)と為家を含む4人の息子たちであった。飯坂は、伊達氏の発祥にも多少なり関係がある土地、ということになる。

というわけで、飯坂氏の祖となる伊達為家が入封した飯坂という土地は、関東からやってきた伊達氏にとっては敵方の最重要拠点であり、そこを抑える役目を授かった為家への期待も大きかったのではないかと推測できる。

ちなみに、飯坂地域にはいまだに佐藤姓の家が多く、佐藤兄弟、松尾芭蕉に続く地元の有名人(?)・佐藤B作もその一例だ。


■ 置賜=信達ルートの入り口

飯坂の地理についてもう少し考察してみたい。奥州合戦での活躍の褒賞として伊達郡に新たな土地を得た伊達氏はその支配領域を徐々に広げ、いつのことかははっきりわからないが、近隣の信夫しのぶも支配下に収めた。

上記の地図右側に、斜めに横たわったひょうたん形の盆地があるのがわかるだろうか? だいたいひょうたんの上半分が伊達郡、下半分が信夫郡のイメージで、二つ合わせて信達しんたつ地方あるいは福島盆地などと呼ぶ。

さらに伊達氏は拡大をつづけ、9代・伊達政宗(戦国時代の独眼竜・政宗ではなく南北朝時代の大膳大夫・政宗)の時代には置賜地方(山形県 米沢市周辺)をその支配下におさめた。元来の本拠地である伊達郡と置賜郡は奥羽山脈で隔たれているため、となればその回廊コリドール、つまり連絡通路が重要になってくる。

通常、置賜(米沢)~信達(福島)間の往来に使えるルートは、今も昔も変わらず、ほぼ3通りで

  1. 栗子峠(国道13号):急な山道で有名。明治時代に土木マニアの鬼県令・三島通庸の工事強行によりようやく栗子隧道が開通。つい最近(2017.11.04)高速・東北中央自動車道と東北最長のトンネル開通が話題となったばかり。
  2. 鳩峰峠(国道399号):舗装がはがれたり積雪・土砂崩れなどによる通行止めも頻発する「酷道」として一部マニアには有名なルート。走行中、猿に遭遇することも。
  3. 二井宿峠(国道113号、七ヶ宿街道):他の2つと比べて一番ゆるやかな道だが、福島=米沢間交通としてはかなり大回りになる。江戸時代には、日本海側の大名たちの参勤交代ルートとして用いられた。

である。置賜の拠点は米澤だが、信達側の伊達の拠点は時代とともに少しずつ移動する。ここでは地図上に伊達の本拠地として高子岡城、梁川城、桑折西山城をポインティングし、他に伊達晴宗の隠居城である杉目城(大仏城、福島城)、伊達成実の居城で政宗も前線基地として何度か滞在した大森城も落とし込んでみた。

そして、それらと置賜を結んでみると



上記の様になる。実際には現在の車道ルートと当時の往来には齟齬もあるだろうが、おおまかな道筋は一緒だ。すると、特に栗子峠(R13)と鳩峰峠(R399)は飯坂がその出入口になっていることがわかる。しかも、険しい山道を降りてくるとそこにあるのは古くから栄えた温泉である。これはひとっ風呂あびていくしかない。

というわけで伊達氏にとって飯坂とは、交通の要衝としての戦略的価値もそれなりにあっただろうと思われる。

その裏付けになるかどうかはさておき、天文22年(1553)に作成された「晴宗公采地下賜録」からは伊達の重臣・中野宗時が飯坂に一部所領を持っていたことがわかる。中野宗時といえば、晴宗・輝宗に仕え、一時は伊達家当主をも凌ぐほどの権勢を誇った人物だ。中野は天文の乱の後、晴宗による家臣団とその所領の再編・整理にかかわっているので、自ら望んで飯坂の土地を得た可能性も考えられる。

以上、交通の観点から飯坂というロケーションについて考察してみた。

しかしながら、栗子峠、鳩峰峠が中世にどれだけ利用されていたかについての実態については具体的な資料をみつけることができておらず、上記内容については我ながら根拠の裏付けが弱い、とも書いていて思った次第。筆者は峠大好き人間でもあるので、引き続き調査を進めたい。


■ 飯坂の地理的要素まとめ

というわけで、飯坂の紹介として3つのポイントを挙げてみた。
  1. 古くからの温泉地帯:古代から人が集まるロケーションだった
  2. 佐藤一族の拠点:進駐軍としてやってきた伊達氏にとっては、必ず押さえないといけない旧敵の根拠地
  3. 米沢=福島間交通の要:奥州山脈を越える峠道の入り口で、人・軍・物資・情報の往来が盛んだったことが想像される
3点目はカッコつきのポイントではあるものの飯坂という土地がどんな場所であるかについてはお分かりいただけたと思う。これらを理解していただいた上で、次回からは本格的に飯坂氏の群像にスポットを当てていこうと思う。

■ 悲運の一族・飯坂氏シリーズ一覧

飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家-
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飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【資料集付】
鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる-
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⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
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⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表

2017年11月20日月曜日

飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家- 【悲運の一族・飯坂氏シリーズ①】

■はじめに

これから数回にわけて伊達氏の庶流である飯坂氏について触れたいと思う。

飯坂氏と言えば伊達政宗の側室となった飯坂御前(飯坂の局、松森御前、吉岡御前とも)や政宗の第3子で飯坂家を継いだ飯坂宗清(伊達宗清とも)あたりが有名と言えば有名になるのだろうが、あまりメジャーな一族であるとは言えない。

飯坂氏の中でも、筆者が一番興味を持った飯坂宗康という戦国時代の武将についてTwitter上で知名度調査をしたことがあるのだが


という結果に終わった。母数は99票(おしい!)。筆者のこのTweetに反応してくれている時点で、仙台や伊達家の歴史に興味をもっている方が相当数のはずである。それでも、半数以上が知らない。飯坂の局の父親、と言えば多少なりピンとくる方が約3割。ストレートな認知度は約2割である。

なぜそんなマイナー一族にスポットを当てようかと思ったかと言えば、まず筆者が飯坂(福島県 福島市 飯坂町)の生まれであり、どことなく「地元の殿様」感があって親しみを覚えることが大きい。

とはいっても、地元の飯坂ですら、飯坂氏なる一族がいたことはあまり知られていないように思う。

飯坂の有名人と言えば、義経主従として知られる佐藤継信・忠信兄弟、『奥の細道』の道中飯坂温泉にも滞在した松尾芭蕉、そして俳優・佐藤B作である。ちなみに筆者の祖母も母も、飯坂氏という地元豪族の存在は知らなかった。

猫御前@秋吉久美子 NHK大河『独眼竜政宗』より
詳細は別項で述べるが、飯坂の局と新造の方をあわせた
空気読めない設定の架空のキャラクターである。
地元でもあまり知られていない飯坂氏だが、その知名度に反比例して、不明点が多い。わからないことや、事実が混同されていることが実に多く、飯坂御前と新造の方を同一人物として扱い、飯坂御前=宇和島藩祖・伊達秀宗の生母とするような言説はその最たるものだろう。

詳しくは別記事で触れるが、本シリーズでは飯坂御前は伊達秀宗の生母とは別人である、と断定するに至った。

さらに後述するように、飯坂氏は仙台藩主・伊達家の庶流でありながら江戸時代初期に断絶したこともあってか、後世に伝わりきっていない情報も多い。

このシリーズでは、飯坂氏について何がわかって、何がわかっていないのかの整理をしつつ、わかっていない点については自分なりの推論を交えた上で、一族の発祥からその断絶までを通史的に描いてみることを目的に筆を進めていこうと思う。


■その起源

伊達氏の庶流・派生支族
宮城が誇るサンドウィッチマン
伊達みきおが大條氏(明治時代に
伊達に復姓)の末裔なのは有名な話。
飯坂氏の祖が誰なのかについては、はっきりしている。伊達為家なる人物がそれである。

これについては飯坂氏の旧臣が書いたと言われる『飯坂盛衰記』及び仙台藩の家臣録である『伊達世臣家譜略記』共に記録が一致している。飯坂氏の分家である、下飯坂家に伝わる系図でも同様だ。

伊達為家は、伊達氏初代・伊達朝宗の第4子である。伊達氏には政宗以前に枝分かれした支族として桑折氏、瀬上氏、大條氏、小梁川氏などがあるが、伊達氏初代の息子を祖とする一族ということで、飯坂氏は伊達支族の中でも最古の部類に入ることになる。

そもそも伊達氏初代・伊達朝宗ともむねといえば、源頼朝の挙兵に参加した関東の豪族である。源頼朝が鎌倉幕府をひらいたのち、鎌倉=源氏政権と平泉=奥州藤原政権が激突した奥州合戦で活躍し、その緒戦である石那坂の戦いでは、平泉方の武将である佐藤基治を破った。

その功績から戦後朝宗は伊達郡を与えられ、以後伊達氏を名乗るようになる。

石那坂の位置ははっきりしないが
候補地のひとつに碑文が残る
もっとも、伊達氏の発祥については、石那坂の戦いでの活躍が伝わる常陸入道念西を伊達朝宗に比定し、同一人物とする説が一般的であるが異説もある。佐藤一族についてもいろいろ検討は必要なのだが、この時代については筆者の勉強が追い付いていないため、あまり深く突っ込まずにスルーさせていただくのを容赦いただきたい。

そのうち興味がわいたら詳しく調べて加筆したいと思う。


■ 飯坂氏初代・為家

飯坂氏の祖である為家も、父である朝宗や兄弟たちとともに奥州合戦を戦い抜き、戦後この地にやってきた様だ。『大鳥城記』によればはじめ伊達郡の半田に住み(※)、のちに古館の地に移ったとされる。
※『大鳥城記』(菅野円蔵、1970)に「四番目の伊達四郎蔵人右衛門尉為家は、最初伊達郡半田に住んだが、後信夫郡飯坂の古館に居住し飯坂氏の元祖となった」とある。他の資料で為家が半田に住んだという記述を今のところ筆者は発見に至っておらず、出典は不明。要追加調査。


古館、とは飯坂に今も残る地名で、飯坂温泉街を見下ろせる小高い丘になっている地点だ。飯坂氏が城館を設けたことから、このような地名が定着したと思われる。また、飯坂氏が本拠地とした城館は飯坂城湯山城の名でも呼ばれる。

為家の人生の詳細についてだが、筆者の勉強不足によりあまり詳しくは触れられず申し訳ない。同時代の資料ではないが『伊達略系』と『仙台人名大辞書』から引用して少しだけ紹介したい。

爲家君
左衛門蔵人。石那坂役被創有
功。建歴二年六月七日。宿直于御所侍所。興荻生右馬允闘争。坐配于佐渡後召還。(『伊達略系』作並清亮、明治27年(1894))

ダテ・タメイエ【伊達爲家】 朝宗公子。常陸四郎と稱す、右衛門尉蔵人に叙す、建久年中源頼朝に使へて随兵となる、建暦二年六月七日御所侍所に宿直し、荻生右馬允と私闘するに坐して佐渡に流さる、後ち召し還さる、承久元年将軍源實朝鶴岡に詣す、為家供奉となる、伊達郡飯坂城を賜はり、同地にて卒す、墓は飯坂天王寺境内大作山頂峰にあり△子伊達彦四郎家政△子小太郎宗政△子伊賀守政信、飯坂を以て稱號となす、之を伊達氏の一家飯坂氏の祖となす。(『仙台人名大辞書』菊田定郷、昭和8年(1933)、p675)

石那坂の戦いで負傷したり、御所の侍所で私闘を演じて佐渡に流されるなど、なかなか荒っぽい人生を送った様だ。後に奥州藤原政権の主戦派である佐藤氏の拠点であった飯坂の統治を任されたのも、こういった彼の武闘派な経歴を買われてのことだったのかもしれない。

『仙台人名大辞書』にもあるとおり、為家はあくまで「伊達」為家で「飯坂」の姓を名乗るようになるのは4代目・政信以降の話なのだが、どの資料もこの伊達為家を飯坂氏の祖とし、初代として数えているのは共通している。

ここから飯坂氏の歴史がはじまる。


■ これから書く予定の項目

さて、おそらく飯坂氏についてまとめようとしたとき、記事量でいうと20本前後の記事が必要になるかと思われる。現状、公開済みの記事3本+用意済みの原稿が3本程度あるのだが、だいたいどんな内容になるのか、自分に対する構想メモの意味も含めてあらかじめ示しておきたい。あくまで予定なので、増えるかもしれないし、統合もあるかもしれない。

①飯坂氏シリーズはじめました ← 今まだココ
こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学-
飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【資料集付】
鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる-
分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族-
┗【資料集】中世の飯坂氏
⑥飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク-
⑦飯坂宗康と戦国時代 -その功罪-
【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
┗【資料集】飯坂宗清
┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
┗【資料集】近世の飯坂氏
⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表

...うーむ。これだけの大風呂敷を広げるのもなんだか不安になってきた。とても全部書ききれる気がしない。とはいえ、ある程度メドはついている⑧飯坂の局の時代までは勢いに乗って書ききってしまいたい。近世の⑨飯坂宗清以降は、まだメドすらついていないので記事ができるとしても1年以上は先の話になるだろう。

連載やるやる詐欺にならないように頑張るので、過剰に期待せずに見守っていただければ幸いである。


2017年11月16日木曜日

飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-

飯坂の局の実態をより分かりにくくしているのが、新造の方との同一人物説や、宇和島藩祖・伊達秀宗の母である、といった様な書かれ方だ。特に近年では、NHK大河『独眼竜政宗』の放送以降、猫御前なる架空のキャラクターとの混同もみられ、非常に紛らわしい。

■ まずは結論から

これから飯坂の局に関する世間の誤認を訂正していくわけだが、まずは正しい情報からお伝えしたい。

  • 飯坂の局と新造の方は別人である
  • 飯坂の局の父は飯坂宗康であり、新造の方の父親は六郷伊賀守である
  • どちらも伊達政宗の側室である
  • 政宗の長男であり宇和島藩主・伊達秀宗の実の母親は新造の方である
  • 政宗の3男である伊達宗清の実の母は新造の方である。が、宗清が幼いころに新造の方がなくなったため、後に飯坂の局が宗清の養母となっている。
  • 猫御前なる名称は史実上存在せず、飯坂の局と新造の方をモデルにした架空のキャラクターである。

以上が飯坂の局と新造の方にまつわる誤認を排した正しい情報である。複数の人物が登場するのでややこしいと思う。すっきりイメージするためにも、正しい関係図を掲載するので、こちらを参考にしてほしい。
これが正しい関係図

以上の情報は、世間ではあまり正しく伝わっていないのが実情だ。では、世間ではどのように誤解されているのか?


■ 混同のパターン

飯坂の局と新造の方は、どちらも伊達政宗の側室である。そして、政宗の実子である伊達秀宗、宗清とのかかわりがある人物であることは間違いないのだが、ここが特に紛らわしい。別人の二人の側室を同一人物であるかのような書き方をする場合、いくつかのパターンがある。

① 別称として扱うケース
「飯坂の局(新造の方とも)」あるいは「新造の方(飯坂の局とも呼ばれる)」といったような書かれ方。近年では「猫御前とも」といった表記も。紛らわしいふたりの人物の検証についてあまり触れず、両論併記でお茶を濁すパターン。

② 伊達秀宗の母を飯坂の局とするケース
伊達秀宗の母は新造の方であり、飯坂の局は秀宗とは特に関係がない。秀宗の弟である宗清にとっては新造の方=実母、飯坂の局=養母なのだが、いつしか「伊達宗清の母は飯坂の局」 ⇒ 「であれば、兄である秀宗の母も飯坂の局」と混同されたのだと思われる。

③ 新造の方の父を飯坂宗康とするケース
飯坂の局の父は飯坂宗康であることは間違いないが、新造の方の父は六郷伊賀守である。

以上、3つのケースはどれも誤りである。


■ 別人である論拠 『飯坂盛衰記』

飯坂の局と新造の方を明確に別人として書いている書の代表的なものは『飯坂盛衰記』である。それぞれの出自について引用してみよう。まずは飯坂の局。

十四代の孫 飯坂右近大夫宗康に至り。世嗣の子なく息女二人もち給う。一女は桑折摂津守政長に嫁し。次女はいまだ幼年にて家に有。(中略)所詮娘事は君に指上げ奉る。願くは侍女ともなし。召仕はれ下さるべしとて指上ける。政宗公は姫君を御覧有けるに。其容色世に勝れ拾も夭桃の春を傷める粧ひ。垂柳の風を含める有様なれば。政宗公御喜悦淺からず。則側室となし御名は飯坂の局と改。
続いて、新造の方。

抑権八郎と申は。政宗公の五男にて。母は新造の御方也。此新造の御方と申は。新庄のもとの城主。六郷伊賀守の娘なり。
飯坂の局は飯坂宗康の次女、新造の方は六郷伊賀守の娘であると、明確に別人としてかき分けられている。また、上記引用の「権八郎」とは後の飯坂宗清のことである。宗清の実母は新造の方だが、宗清が幼いうちに亡くなったため、政宗が宗清の養育を飯坂の局に頼んだ(以後、養母となった)、というエピソードも出てくる。

さらに、新造の方は岩出山時代に政宗・愛姫とともに伏見で生活していたが、飯坂の局は疱瘡にかかり、政宗とともに岩出山・伏見へ行くことを拒んで松森に隠棲したことにも触れられている。

『飯坂盛衰記』は飯坂氏の視点から書かれた書物である。飯坂の局について都合の良い書き方をしようとすれば、宗清の母であり、宇和島10万石の藩祖・秀宗の母でもあるという世間の誤認をあえて正すメリットはない。そこをあえて別人、としているのには信憑性がある。


■ 飯坂の局は宗清の実母ではないとする論拠 『貞山公治家記録』

伊達家の公式記録である『貞山公治家記録』でも、新造の方と飯坂の局は別人として登場する。まず、秀宗が生まれた天正19年(1591)12月の記事(巻之十七 )に

此月、新造御方、村田民部宗殖入道萬好齋居城 柴田郡村田ニ於テ御安産、公第一ノ御子御誕生、御童名兵五郎ト稱シ奉ル。是從四位下宇和島侍從兼遠江守殿秀宗ナリ。

とあり、秀宗の母親は飯坂の局ではなく新造の方であるということが明示されている。

さらに注目したいのは伊達宗清が没した寛永11年(1634)の記事である。筆跡そのままで引用してみよう。

伊達河内殿宗清養母飯坂氏の女、と書かれてあり、宗清の「母」でも「実母」でもなく「養母」と書かれていることに注目したい。

■飯坂の局は秀宗の実母ではないとする状況証拠

世間の誤認どおり、飯坂の局が伊達秀宗の母であったと仮定しよう。そうすると、当然、宇和島藩主・伊達秀宗とその子孫たちには飯坂家の血が流れていることになる。そうなってきたときに不自然なのは、飯坂家の血筋が絶えた時、誰を跡継ぎとしたかである。

宗清以降、飯坂氏の当主は男子に恵まれず、3度にわたって養子で家をつないでいる。そのうち1回は仙台藩主・伊達忠宗の子を養子に、2回は飯坂氏と縁戚関係にある桑折氏から養子を迎えている。

宇和島伊達家に飯坂氏の血が流れているのだとすれば、遠戚にあたる桑折氏から養子をもらうよりも、直接の血のつながりがある宇和島伊達家から誰かを養子にもらってきた方が、血脈の正当性、格ともにわかりやすい。

それをしなかったのは(仙台藩と宇和島藩の軋轢が原因と考えられないこともないが)、やはり伊達秀宗の母は新造の方であり、飯坂の局ではないからだろう。


■いつ頃から混じりだしたのか?
次に、『伊達治家記録』および『飯坂盛衰記』の時点では正しく認識されていた情報は、いつ頃から混同され始めたのか検証してみたい。

01.「桑折家系図」
飯坂の局と新造の方を混同している書物として一番古いものは、筆者の知る限り海田桑折家に伝わる「桑折家系図」で、附録によれば文化戊辰(文化5年、1808)正月に書かれたものである(『桑折町史』第5巻、資料編Ⅱ)。飯坂の局について書かれている部分を引用してみる。

女 政宗公侍妾、飯坂御前又吉岡局と申す
伊達遠江守秀宗公之御実母なり、政宗公御願之上、河内守殿を御養子ニ被成候て、飯坂の苗跡相続ニ被成下慶長十七年卒、吉岡天皇寺ニ葬る

宗清を養子にした、という部分はあっているのだが、飯坂の局を伊達秀宗の実母としている。兄の秀宗の実母ではあるのに、弟の宗清にとっては実の母ではないという矛盾があり、この当時にしてかなり混乱されていることがうかがえる。


02.『寛政重修諸家譜』
「桑折氏系図」の直後、文化9年(1812)に成立した江戸幕府の公式諸大名家譜である『寛政重修諸家譜』においても秀宗の母=飯坂の局、という記述が見受けられる。

秀宗 伊達遠江守村壽が祖。兵五郎 遠江守 母は飯坂氏。庶子たるにより家督たらず、別に家をおこす。『寛政重修諸家譜』巻第七百六十二) 
秀宗 兵五郎 遠江守 侍從從五位下 從四位下 松平陸奥守政宗が長男。母は飯坂氏(『寛政重修諸家譜』巻第七百六十三)

この家譜において秀宗は、仙台伊達藩の藩祖・政宗の子としてと、宇和島藩祖として2回登場するのだが、どちらも母親は飯坂氏であるとされている。幕府の公式記録にこのような誤記があったことは影響として大きかったと思われる。


03.「伊達略系」と『東藩史稿』
どちらも近代になってから当時の伊達家当主・伊達宗基が学者・作並清亮に命じて編集させたもの。伊達家の略系図である「伊達略系」(明治27年(1894))と、『伊達治家記録』に継ぐ公式記録とも言うべき簡易版仙台藩の準公式歴史書『東藩史稿』(大正4年(1915))である。まずは「伊達略系」から。

母側室飯坂氏。右近宗康娘。稱新造の方。法名心月妙圓。慶長十七年壬子四月二十二日逝。葬于松島瑞巌寺

続いて『東藩史稿』巻之十、列伝編。

側室飯坂氏、新造方ト称ス、右近宗康ノ女、秀宗君、宗清君ヲ生ム。

注目すべきは、「桑折氏系図」『寛永重修諸家譜』の段階では秀宗の母=飯坂の局、にとどまっていた誤認が一歩進んで、新造の方を飯坂の局の別称であるというところまで進んでしまったことだ。

考察するに、誤解が生まれていく順序として

  1. 宗清の養母は飯坂の局(正)
  2. 宗清の実の母は飯坂の局(誤)
  3. 宗清の兄である秀宗の実の母も飯坂の局(誤)
  4. 新造の方は飯坂の局の別称(誤)
  5. 新造の方の父は飯坂宗康(誤)
という展開であったと思われる。


■両者をフュージョンさせた架空キャラ・猫御前

以上のような経緯でしだいに混ざっていく飯坂の局と新造の方の同一人物イメージを決定的にしたのは、なんといってもNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』(1987)だろう。ドラマでは政宗の側室・猫御前として登場し、父親は飯坂宗康、秀宗と宗清の実母という設定である。

ドラマでは猫を捕まえた姿から政宗に「猫」と名付けられる

まずは「猫御前」なる名称についてだが、この大河『独眼竜政宗』放送以前に書かれた書物に「猫御前」という呼び名は存在しない。もしかしたら原作小説である山岡荘八の『伊達政宗』(1970)の時点で登場しているのかもしれないが(未確認)、いづれにせよ創作物である。

思うに、飯坂の局と新造の方という、史実上も紛らわしい二人の側室がドラマに登場してもややこしい。ドラマの演出上、二人の人物を同一人物として扱うが、それは実在の人物をモチーフとした架空のキャラクターである。それを示すためのサインとして、「猫御前」なる名称を脚本家(もしくは原作小説作家の山岡荘八)が与えたのではないだろうか。

【追記】Twitterで指摘してくださった方のご教授によると、山岡荘八『伊達政宗』の時点で「猫」の呼称が登場する様だ。

実際、ドラマでの猫御前は正室・愛姫と対称的なキャラクターとして生きているし、側室が何人いても紛らわしいだけなので、演出としては正解だったと思う。一方で、世間の飯坂の局に対する誤認にお墨付きを与えてしまう結果ともなったわけだが。


■まとめ

紛らわしいので、再度まとめてみよう。飯坂の局と新造の方と、猫御前についてである。



もっとも、新造の方についてはこの記事では『飯坂盛衰記』に従って「六郷伊賀守の娘」としたが、仙北地方の六郷氏を「新庄のもとの城主」との誤記があることもあり、彼女の素性についても少し検討が必要だと思われる。これについては後に詳しく触れてみたい。


世間の誤認を解くべく力説してはみたものの、飯坂の局も新造の方も、政宗の数ある側室の一人にしかすぎず、世間の関心を広く集めるような人物ではない。が、飯坂生まれの筆者にとっては生まれ故郷の先達として多少なりとも思い入れがある人物であり、彼女にまつわる誤解を放置しておくのもなんとも申し訳ない気持ちになってこの記事を執筆するに至った。願わくば、飯坂の局に関する真実が少しでも世に広まれば幸いである。