2015年10月2日金曜日

【秋田の旅?】 2日目 雨雲から逃げる

昨日は横手で宿泊。今日はとりあえず、角館を経由して秋田市を目指すことにした。

■ 横手城

まずは横手城。戦国時代にはこの地方を支配した小野寺氏の拠点として機能。小野寺氏は関ヶ原で西軍の上杉景勝に味方したため、改易され、一時的に最上領に。戦後、秋田に転封した佐竹領となる。

一国一城令の後も破却を免れ、佐竹の支城として幕末まで存続するも、戊辰戦争で仙台藩・庄内藩の攻撃を受けて落城した。

天守閣は1965年に復元されたもので、これは東北地方における復元天守の先駆けとのこと。一帯は横手公園として整備されており、桜の名所として有名。

■ 道の駅 雁の里せんなん 雁太郎

横手を出たのちは、基本的にまっすぐ北上しながら角館を目指す。途中、道の駅 雁の里せんなんでブランチ。横手焼きそばに続いて、またしてもいい感じのB級グルメを発見したのでさっそく注文。

納豆三郷豚丼


三郷たぬ中である。納豆豚丼はそのままなのだが、豚丼に納豆をトッピングする、というのはありそうでなかったというか、「その手があったか!」といった新鮮な驚き。メニューには「ミスマッチがイケてます!」と紹介されているのだが、いや、全然そんなことないよ! かなりマッチしてるよ!

たぬ中はおそらく「たぬき中華」の略だと思われ、たぬきうどん中華麺バージョン、といったところ。こちらも美味。

いい機会なので言っておきたいのだが、これぞ道の駅のレストランにあるべきメニューだと思う。場所によっては、地元の高級食材をふんだんに使った1000円以上もするメニューを取り揃えているところもあるのだが、それよりも自分は、こういうご当地B級グルメが食べたい!

■ 戸部一憨斎の墓?

さて角館に行くまでに一か所拠りたい場所があって、それを探してみたのだけれども、どうも場所がよくわからない。探していたのは一憨斎 戸部正直の墓。誰かというと『奥羽永慶軍記』の著者である。東北の戦国時代は、そもそも残っている史料が少ないために未解明な部分が大きい。そこで役に立つのがこの『奥羽永慶軍記』で、著者の戸部一憨斎は自分の足で旅をして、土地の古老に戦国時代の話を取材しながらこの本をまとめた。


事前に調べたところ、横堀の熊野神社というところに墓があるという話だったのだが、どうも見つからなかった。情報をお持ちの方はぜひお知らせいただきたい。

■ みちのく小京都・角館

さて、角館に到着。角館については戦国時代、戸沢氏の拠点で、昔ながらの屋敷が残っている、といったくらいしか事前知識がなかったのだが、正直来てみて驚いた。「昔ながらの屋敷が残っている」といったレベルではなく、完全に武家町の雰囲気が残っている見事な街並みだった。


恥ずかしながら、訪れてみて初めて知ったのだけど角館は「みちのく小京都」の異名をとるらしい。いや、むしろこの町並み、京都よりもタイムスリップ感があるのではないだろうか? なんというか、黒に統一された町並みが本当にきれいで、着物の人が歩いている情景を脳内再生することが簡単にできてしまう。自分の中では、京都を歩いているよりも楽しかった。



角館は先にふれたように、戦国時代には戸沢氏の拠点だった。佐竹領になってから、城は破却されたものの、館として地方支配の拠点であり続けた。そのため、城はないものの城下町として町並みが存続し、このきれいな街並みが今に続いている。

■ 田沢湖と進路変更。あれ? 秋田の旅?

さて、角館から北上して田沢湖へ。こちらは日本一深い湖として有名。角館を出たあたりで軽い雨が降ってきたので心配だったのだが、田沢湖に着いたときにはまた晴れだして、心地のよいドライブだった。県道247号 → 38号で湖をぐるっと半周。

左側にちらっとうつっているのは、田沢湖のシンボルたつこ像

ここでもう半周して角館方面へと戻り、秋田市へ向かう予定だったのだが、天気予報をチェックすると、角館よりも西は現在進行形で雨が降っている。しかも、明日、明後日も雨の予報。雨の中を原付で長距離移動するのは思っている以上にきつい。

一方で太平洋側の岩手の天気予報をチェックすると...

快晴

である。うーん。空も曇りだしてきているので、この辺りもすぐ雨が降り出すことは確実。秋田の旅と題して始めたこの旅だけど、わずか2日目にしてするしかない。進路変更! 秋田の旅改め、岩手の旅に変更だ!

雫石城址。
というわけで、国道46号線を通ってそのまま盛岡へと向かう。途中、雨も降ってきてしまったのだが、進行方向には雲の切れ目が見える! このまま突っ切れば時期に止むはず。国道46号線はトンネルだらけの峠道で、普通だったらこういう道よりもつづら折りの道の方が峠越え感があって楽しいのだが、今回ばかりはトンネルがとてもうれしい。

県境である仙岩トンネルを抜けると、さっきまで降っていた雨がきれいに止んだ。日本海側と太平洋側ではこうも露骨に天気が切り替わるものなのか。

途中、道の駅 雫石あねっこで濡れた体をぬぐって休憩。途中、一か所だけ雫石城跡に寄り道をして、本日は盛岡に宿泊。天気予報を確認すると、どうも明後日から台風が接近し、数年に一度の大雨、暴風雨とのこと。

うーん。これはもう明日一日かけて仙台まで帰るしかない。タイトルが【秋田の旅?】とクエスチョンマークが入っているのにお気づきいただけたであろうか? 5日間の秋田の旅の予定が、まったく違うものになってしまった。うーん。

続く。

2015年9月28日月曜日

【秋田の旅】 1日目 花山峠を越えて横手まで

シルバーウィークに遅れること1週間、今日から5日間の休みになったので、どっかにいくことにした。目的地はまた例によって「どっか」という適当さなのだが、とりあえずまとまった日数が確保できたので遠くへ行こうと思い、目的地を秋田に設定した。実は私、秋田には行ったことがない。

5日間の休みだが、どうも最終日に当たる金曜日の天気予報が雨(台風?)なので、実際にはもっと早く帰ってくることになるかもしれない。



とりあえず前日あたりから、Google Mapに行きたい場所をマーキングしながら、なんとなくルートが見えてきた。仙台を発し、栗駒山わきの国道398号から横手方面に秋田入り。角館 → 秋田 とまわって、あとは日本海沿いに南下。そのまま山形に入って鶴岡から六十里街道 → 関山街道で仙台に戻る。なんとなく、仙台・秋田・庄内を反時計回りに一周するルートになる。

時間があれば角館から大舘、能代を回って秋田まで大回りすることも考えているの。が、途中で立ち寄る場所でどれだけ時間がかかるかわからないし、移動手段も50キロちょいしかでない原付なので、カーナビの到着予定時刻があてにならない。いつもなんとなくのルートは想定していくのだが、ほぼその通りにはならない。もっとも、旅はその方が面白い。

■ 川口城

一日目は、とりあえず秋田県の横手を目指すことにした。

仙台からは国道4号 → 457号 → 398号のルートでひたすら北上。秋田に入る前に立ち寄ろうと思ったのが、栗原市の川口城址。戦国時代には大崎氏傘下の狩野修理の居館。このあたりは、ちょうど大崎氏と葛西氏の境界線に位置する。江戸時代には仙台伊達藩の領土となり、「所」として存続した。ここの領主となったのが遠藤氏で、「中野宗時の乱」で登場した遠藤基信の子孫である。


なかなかの山で、山頂までの階段の先が見えず、登る気力を奪う。後で調べたところ、山頂は約125メートルに対してふもとは標高70メートルの、比高約50メートルといったところ。山城としては高いに越したことはないが、江戸時代の当地の拠点としてはいささか不便である。おそらく、江戸時代には政庁としての居館が麓に設けられたことだろう。


階段を登りきると、八雲神社があるが、本丸にしては狭い気がする。今回、この川口城に関しては遠藤基信の関連でどんな場所だか気になって、ちょうど秋田へのルート上にあったので立ち寄ってみた程度。伊達四十八舘についてはいずれ全て制覇しなければ、と思っているので、そのうち本格的に調査に訪れることになると思う。

■ 寒湯番所跡

398号沿いに北上すると見えてくるのが、仙台藩寒湯番所跡。仙台藩に27か所あった番所(=関所)のひとつで、領土を接する秋田佐竹藩との境目である。ちなみに「寒い湯」と書いて「ぬるゆ」と読む。なぜ!?

写真にある四脚門は現存のものとのこと。明治2年に発布された関所廃止令により、全国の関所はことごとく廃されたため、このように遺構が残っているの関所というのは、全国的にも大変珍しいそうで、国の史跡に指定されている。

役宅。こちらは安政4年(1857年)建造。

現在の宮城県と秋田県の県境は、近世の仙台伊達藩の秋田佐竹藩の境界と一致する。そのため、これから峠を越えて秋田入りするぞ、という期待を前にしてこういう関所跡を見学できるのは、気分がオーバーラップしてとてもテンションがあがる。ここからいよいよ、花山峠を越えて秋田県に入る。

■ 花山峠

現在の国道398号は、歴史的には「湯浜街道」という。現在のルートも、たどっていくと三陸の志津川港へいきつく。というわけで、三陸の海産物を秋田側に輸送するためのルートだったそうで、湯浜街道の「浜」は三陸海岸を指しているのだろう。「湯」はこの先にある湯沢のことだろうか。


さきほどの関所跡のあたりから宮城県側のルートは1車線程の道幅になり、急なつづら折りが続く。これぞ峠。こういう道は、車よりも二輪の方が走っていて断然楽しい。



途上には、栗駒山が眺められるスポットがちらほら。山頂はすでに赤く染まっていて、紅葉が始まっている模様。

そして、人生初の秋田県入り。途中、他にも景色のいい場所はあったのだが、走るのが楽しくて立ち止まって写真を撮るのがめんどくさかった。ツーリングあるある。

ところで、同じ国道398号線なのだが、秋田県に入った途端にきれいな2車線道路に変貌する。似たような現象は宮城・山形間の関山峠、笹谷峠でも見られる。関山峠(国道48号)はどちらも2車線道路なのだが、山形側はところどころに登坂車線や待避所が設けられているのに対し、宮城県側にはなにもなくだいたいどの年も峠のどこかで雪崩がおこって通行止めになるのだが、たいていは宮城県側である。笹谷峠(国道286号)も、宮城県側はつづら折りが激しいのに対して、山形側は比較的なだらかなカーブが続く。

どうも宮城県は、峠ルートの整備に対してケチらしい。もっとも、現在宮城県側の関山街道のあちこちで工事を行っているので、なんらかの対策はしている模様。

■ 小安狭

秋田県に入ると小安峡なる景勝地・温泉があるらしく、一応マークはしておいたものの、花山峠のいたるところで絶景がおがめたので、素通りでいいかな、と思っていた。ただ、国道のわきに渓谷にかかる橋が見当たったのでちょこっと立ち寄ってみたところ、小安峡をナメていたことを痛感した。




た、高い!

写真だと伝わりにくいのだが、拡大すると川の脇に遊歩道があり、そこを歩いている人の姿が映っているのがわかるだろうか? その大きさを比較すると、渓谷の深さがお分かりいただけると思う。橋には二人のおじーちゃんがいたのだが「いやぁ、高いですねぇ」とあいさつすると「ケツの感覚がおかしくなっちめーわ! はは!」と返答された。高所で尻がゾクっとなるあの感覚である。自分も然り。ここでバンジージャンプをやったら、さぞ楽しいことだろう。


なお、小安峡の少し手前の国道沿いには、小安御番所跡がある。こちらは、同じ湯浜街道の秋田佐竹藩側のもの。

■ 伝統的建築物群保存地区 増田

ここからはほぼまっすぐに横手を目指すのだが、一か所だけ立ち寄ったのが、増田。江戸時代に物流の拠点として栄えた場所で、要は商人の町である。昔ながらの建物が残り、「伝統的建築物群保存地区」に指定されている。蔵の街並み、ということで、雰囲気は同じく商人の町だった宮城県の村田と似ている。

戦国時代には増田城なるものが存在したが、一国一城令により廃城。蔵の街並みからすぐの場所だったので行ってみたのだが、現在は小学校になっており、遺構らしきものはほとんど見当たらなかった。小学校の敷地沿いをなんとなく土塀らしきものが囲っているのだが、ただ小学校の境界として整地したもののようにも思える。うーん。


保存地区では蔵の内部見学なんかもできるらしく、本当はゆっくりと見学したかったのだが、村田で見たものと似ていて既視感があったことと、15時から雨の予報が出ていたので、町並みを歩いただけで満足して目的地の横手へ向かうことに。

■ 横手やきそば

今日は朝から快晴で、峠越えも最高だったのだが、増田に着いたあたりから曇り始め、横手まであと10分ほどのところでポツポツと降り出し、予約していた宿まであと少しというところで猛烈に降ってきた。びしょ濡れになりながら、宿にチェックイン。

宿についてからしばらく休んでいると、雨も止んだので夕飯を食べにいくことにした。なんとなくこってりしたラーメンが食べたいなぁと思っていたのでラーメン屋を検索すると、なぜか画像にやきそばが。なんでもこの横手は「横手焼きそば」なるものがご当地グルメとして有名らしい。自分、こういったB級グルメに目がない。高尚なグルメを出されるよりも、B級グルメを大盛りでがっつり食べたい派。

せっかくなので食べてみたところ、ソースの具合とか、自分の好みにぴったり! 横手焼きそばの特徴としては、

・目玉焼きがのっていること
・若干水分が多め
・しょうがの代わりに福神漬けを添える

といったところらしい。今回立ち寄ったのは「らーめんへのかっぱ」というお店で、本来はラーメン屋らしい。平日の5時台なのにも関わらず、結構人が入っていた。横手では「横手焼きそば四天王決定戦」なるイベントが毎年行われているそうで、この店もなんどか四天王に選ばれたらしく、店に賞状が飾ってあった。横手駅からも歩いて1分。おすすめ。

明日は、横手城を見学してから、何か所かたちよって角館、秋田を目指す予定。どこまでいけるかは、明日になってみないとわからない。

続く

2015年9月25日金曜日

中野宗時の乱 02 -謀反の発覚からその顛末まで-

【承前】前編 -伊達輝宗、中野宗時、そして遠藤基信-

前編では伊達輝宗と中野宗時の対立ボルテージが最高潮まで高まったところまで解説した。

■ 新田義直の捕縛 -謀反の発覚-

元亀元年(1570年)4月4日、輝宗の下に新田景綱がその息子・義直を捕えて献上した。新田景綱によれば、中野宗時、牧野久仲がクーデタをたくらんでおり、義直もこれに荷担していたため、それを防ぎ、息子の義直を捕えてきたという。

新田義直は、中野宗時の嫡子・親時の娘婿にあたる。つまり、中野宗時からみれば義理の孫となる。この縁で中野宗時から謀反計画に加わるように誘われた。義直は「父・景綱と相談したい」と答えたが宗時はこれを責めたて、義直は仕方なく計画に加わった。

このあたり、関係がややこしいのだが中野宗時にまつわる縁者を系図にしてみたので、下の図で確認してほしい。



この件について義直が父に相談すると、景綱はこれを静止し、壮絶な親子ゲンカが始まる。どれくらい壮絶な親子ゲンカだったかといえば、これは実際に『治家記録』から引用してみよう。
遠州(※新田景綱)驚き、汝縁類の好よしみを以って累代の主君に対し暴逆無道の与動を作さんや、必ず思い止まれと警いましむ。四朗(※新田義直)、武士の一度約して違変すること有んと言う。遠州、一たびは怒り、一たびは歎きて言を蓋して静し止む。四朗終ついに従わず。遠州大に怒りて、(※伊達輝宗)に背くのみか父を棄すてる大賊、手打にせんとて刀を抜く。四朗即ち逃去る『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
口論の末、刀に手をかけるまでの親子ゲンカである。「一度約束した以上武士として背くわけにはいかない」という義直の理論と、「親族の縁よりも歴代の主君に仕える方が大事」という景綱の理論。どちらも正論といえば正論なので、決着はつかない。となれば、もはや戦いで決するしかない。

この後、新田景綱は息子・義直の居城である館山城を襲い、義直を捕え事件について輝宗に報告した。こうして、中野宗時のクーデタ計画が明るみになったのである。

■ 小松城の戦い

同日(1570年4月4日)の夜には、中野宗時にも新田義直が捕えられ、謀反の計画が明るみになったとの報がもたらされた。宗時は、自宅と配下の家に放火したうえで、実子である牧野久仲の居城である小松城へと逃げ込んだ。

このあわただしいリアクションを見る限り、新田義直から計画がもれるのは完全に想定外だったのだろう。なお、米沢城下町はこのときの放火により壊滅した。『治家記録』は「御城下一宇も残らず焼亡」したと伝えている。

中野ら一党が逃げ込んだ小松城は、米沢城から直線距離でもわずか15キロの距離にある。翌4月5日、輝宗はこれを攻めるためにさっそく自ら出陣した。

小松城跡。自分は実際にここを訪れたことがないので、今回Google ストリートビューで実際の地点を確かめて
みた。城跡を囲む道を進みながら画像をみていると、見事に土塀で囲まれたまま遺構が残っていることがわか
る。便利な時代になったなぁ。               (場所:山形県 東置賜郡 川西町 中小松

まず、新田景綱・小梁川宗秀らの軍団が押し寄せた。小梁川宗秀は敵武者を打ち取る手柄をあげたが、このとき負傷し戦死。一方、新田景綱の軍団の力戦っぷりはすさまじかった。おそらく、謀反に荷担した息子の尻拭いをしなければいけないという新田家としての体面、息子をそそのかした中野宗時への恨みをこの戦いにぶつけたのだろう。

籠城する中野一党は
宗時・久仲ふと籠城す。よって久しく保ち難し。大勢の攻め寄せざる前に相馬に奔らんと思い、一方を打破り、刈田関・湯原に中野が采地の有けるを便にして、遂にこの山中にかかりて逃行きけり。
 『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
大した計画もないままに追い込まれるようにして小松城へ籠城せざるをえなくなったが、ここは伊達の本拠地・米沢城からも近い。援軍が大勢おしよせる前に、相馬へ亡命しようと考え、城の囲みの一方をなんとか突破して逃亡した。

■ 亘理親子の迎撃

米沢からみて相馬はほぼ真西に位置する。そこまでたどりつくには、奥州山脈を越えて福島盆地まで行き、そこからさらに山越えをして太平洋側まで行かねばならない(後述の様に、どうもこの最短ルートではなく、かなりの回り道をした可能性があるのだが)。

都合のいいことに、その経路上にある刈田郡の関・湯原は中野の領地があり、小松城を脱出した反乱軍はまずそこを目指した。

一方、彼らの逃亡を許した輝宗としても
中野・牧野を追いけれども、山路険難といい、彼が領地といい、敢えて容易く進み難し。公(※輝宗)も伊達・信夫の一族大身、中野に心を合する者も有べきかと遠慮ありて、速やかに御帰陣あり。
 『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
彼らを追撃するために通過する伊達・信夫郡の領主たちの中に、中野宗時ら反乱軍に味方するものがいるのでは? との疑いを捨てきれず、これ以上の追撃を断念した。

反乱軍は関・湯原を通って、刈田郡の宮(現・蔵王町 宮)の河原まで到達した。この時点で中野一党に従うものは500騎程であったというが、相馬まではまだ距離がある。



この宮の河原で反乱軍を待ち受けたのが、亘理元宗・重宗の軍勢であった。亘理親子は小松城の籠城事件の報告を受けて、亘理城から出撃してきており、反乱軍を迎撃。やっとの思いで逃亡してきた反乱軍にあらがう力は残っておらず大いに敗れ、中野宗時・牧野久仲らはやっとの思いで相馬へと逃げ込んだ。

■ 全ては遠藤基信の計画だった!?

結果的に中野宗時の逃亡は許してしまったものの、彼らの謀反計画は事前に露見し、失敗に終わった。後に判明するのだが、実はこれはすべて遠藤基信の計略によるものだったという。遠藤基信が中野を裏から操って謀反を起こさせた、というわけではない。中野が謀反に及ぶことがあったら、それを事前に察知できるように仕組んでいた、というのである。
新田忠功の事、畢竟(※ひっきょう、つまるところ)遠藤基信が計策より出たり。中野連々驕肆(※きょうし、驕りたかぶること)甚しくして、遂には謀反すべき事を予め慮り、新田四朗(義直)を中野が縁者に成し置かば謀反の時遠州(新田景綱)まず知るべし、遠州は権勢も有りて忠貞の志深ければ、却かえって中野を亡すべき人なりと思い、大膳(中野宗時)が壻に取り計らいしなり。基信が知慮の深き事、この時に至りて皆嘆美せり。                      『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
新田義直が中野宗時の縁者となったのは、権勢もあり、主君への忠節の厚い父・新田景綱を見込んでの縁談であったという。これを仕込んだのが、遠藤基信だったというのだ。新田親子にしてみれば巻き込まれた感は否めない気がするが、何にせよ、遠藤基信の仕込んだ安全弁が役に立ったのだ。

もともと輝宗の信頼厚かった基信の名声はこの事件で飛躍的に高まり、以後、伊達家における遠藤基信の執権体制が確立する。彼は君主・伊達輝宗と二人三脚で伊達家の舵取りをしてゆくことになる。

■ 事件の後始末

『治家記録』を読む限り、この中野の乱の後処理にはかなりの時間がかかったものと思われるフシがある。というのも、この件に関する論功行賞が、かなり時間をおいてポツポツと散見されるからだ。

事件の後始末に関する事項を書き出してみよう。

  • 1570年4月23日 小関土佐、今後の奉公を誓う。輝宗は彼の処置を父・晴宗に任せる
    (小関は事件の際に上方にいた。詳細は不明だが、『治家記録』著者は中野の親族と推測している。)
  • 1570年5月    亘理元宗・重宗親子に加増
  • 1570年9月上旬 小梁川盛宗(泥播斎)、白石宗利、宮内宗忠、田手宗光を赦免。
  • 1571年12月17日 鹿股壱岐に加増

注目すべきは9月上旬の小梁川盛宗らの赦免である。「赦免」とは彼らの領地を中野宗時が通過したのを見逃した罪に対する赦免である。

疑問なのは、事件からここまでに約半年が経っていることだ。彼らの赦免に関しては伊達晴宗や伊達実元の奔走も記されており、それによって時間が延びたとも考えられる。しかし、半年である。

おそらく、事件の全容を解明するための捜査に時間がかかったのではないだろうか。

中野の謀反計画は突発的に露呈したため、反乱軍は追い詰められたように逃亡した。おそらく反乱に荷担する予定だった者も他に多数いただろうが、こういう状態では日和見を決め込んだかもしれない。事実、輝宗も小松城から逃亡した中野の追撃を、彼に味方する者が伊達・信夫の地にいることを恐れて諦めている。

今回たまたま「中野一族」の反乱という形をとったが、伊達家臣団の中に、潜在的な中野のシンパはかなりいたことだろう。下手に粛清を進めてやぶで蛇をつつくようなことにならないように、事件の後始末には慎重を期す必要があったに違いない。なお、伊達輝宗は中野の逃亡を許した者たちに対して厳罰を主張したが、これも遠藤基信が諌めて止めたという。

では、中野宗時の謀反計画の全貌とはどういったものだったのか?

2015年9月24日木曜日

蘆名盛信

はりゅう もりのぶ
針生 盛信 
別名
丑松丸、小太郎、民部太夫
生誕
天文22年(1553年)
死没
寛永2年(1625年)8月9日、享年73歳
君主
蘆名義広 → 佐竹氏 → 伊達政宗
仙台藩
家格
準一家(仙台藩)
所領
常陸国 金井 18000石
陸奥国 胆沢郡 衣川
氏族
針生氏
針生盛秋
針生盛直
子孫
蘆名盛景(幕末期、額兵隊総督)
先祖
蘆名盛滋(針生氏の祖)
会津を拠点とする蘆名氏の一族、針生氏の当主。

天正期には蘆名方の武将として伊達軍と対峙する。天正17年(1589年)の摺上原の戦いでは伊達政宗と決戦に及ぶが、蘆名氏はこれに敗北、お家滅亡となる。

この後の盛信の行方について『三百藩家臣人名事典1』では「のち日立の金井に1万8000石を領したが、関ヶ原の戦いで石田郡に与したことで采地を失い」とある。

明言はされていないが、当時の蘆名家の当主・義広が佐竹氏の出身であったことから、これに従って佐竹氏の客将となって常陸で所領を得たのだと思われる。佐竹氏は関ヶ原で石田三成に味方したため、秋田に移封となる。この際に浪人となったのだろう。

慶長7年(1602年)、伊達政宗の招きに仕えてその家臣となる。大阪冬の陣、夏の陣ともに功があり、胆沢郡衣川に領地を与えられ、準一族に列せられた。

寛永2年(1625年)、8月9日没。

蘆名氏の本家は佐竹氏に従って秋田藩へと移ったが、この系統は後に断絶する。これによって蘆名の門跡が途絶えることを憂いた伊達綱村の命により、延宝4年(1676年)針生氏が蘆名に改姓した。

子孫の蘆名盛寿は加美郡中新田において3000石を領したが、故あって1500石に減らされたうえで登米郡小谷地へと移封となった。

■ 参考文献
・家臣人名事典編纂委員会編 『三百藩家臣人名事典1』新人物往来社、1987年



2015年9月7日月曜日

中野宗時の乱 01 -伊達輝宗、中野宗時、そして遠藤基信-

中野宗時。
グラフィックは「信長の野望・創造」より

永禄9年(1566年)1月10日付けの
蘆名盛氏からの書状では、他の宿老
数名と共に宛名として記されてお
り、内外ともに伊達家の有者とし
て認知されていたことが伺える。
政宗の父・伊達輝宗の政権下において最大の事件であった中野宗時のクーデタ未遂事件について触れたい。事件名については「元亀の乱」「中野宗時の乱」「中野父子の謀反」として紹介されることが多い。

詳しくは後で説明するが、この事件は、伊達家臣における最大の権力を誇った中野宗時が失脚した事件というだけでなく、後の政宗時代に伊達家が大きく飛躍したきっかけともなるできごとという意味で、とても重要である。

この事件の前提として、当主・伊達輝宗、その側近・遠藤基信、伊達家最大の実力者・遠藤基信の(BL的ではない)三角関係についての理解が必要なのだが、01ではその解説がメインとなった。

文章読むのがめんどくさい人は、記事の一番下にわかりやすい図解をのっけておいたので、そちらだけでもどうぞ。

■ 権臣・中野宗時

中野宗時は伊達稙宗(政宗のひいじいさま)に仕えていたが、稙宗の政策に不満を持ち、その嫡子である伊達晴宗を焚きつけて伊達家のみならず南奥州全土をまきこんだ内乱を勃発させた。天文の乱である。

内乱には晴宗党が勝利したことから、その側近であった中野宗時は晴宗政権下において絶大な権力を誇った。また、次男の久仲を同じく伊達の宿老家として高いポジションにあった牧野景仲の養子として送り込んだ。要は牧野家をのっとったのである。以後、中野宗時・牧野久仲の親子二人で伊達家中の権力をにぎった。

晴宗は永禄7年(1564年)に家督を輝宗に譲るが、輝宗政権下においてもその影響力は無視できないものがあった。また、晴宗と輝宗親子の間には不和があったといわれているが、それも宗時が画策したものであるらしい。
「代々の威権といい、若干の地を領し、剰あまつさえ当時親子の間なれば、何事も中野・牧野が裁配に因れり。宗時は佞奸邪智にして、天文の内乱も彼らが所為より出たり。公御父子(※晴宗と輝宗)の間も様々な表裏を申す」
『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
中野宗時の実子・牧野久仲
グラフィックは「信長の野望・創造」より

伊達晴宗が奥州探題に任命されたとき、
陸奥国守護代に任じられる。当時「守護
代」役職にどれだけの権限があったの
不明だが、自らこれに就任せず、
久仲を守護代に就けるあたり、権力
者・中野宗時の権力者としての政治テク
ニッが垣間見える。
上記のごとく、伊達家の公式記録である『伊達治家記録』は中野宗時について伊達家の当主をないがしろにする「悪い家臣」として描いている。「佞奸邪智 ねいかんじゃち」という四字熟語を使ってくるあたり、すさまじい強調っぷりである。

「表裏を申す」は、それぞれに別々の情報を吹き込んで晴宗・輝宗親子の関係を悪くした、という意味であろう。また、『治家記録』の筆者は伊達稙宗・晴宗親子の争いである天文の乱についても、そのきっかけは中野宗時が晴宗をそそのかしたことに始まる、と示唆している。

もちろん、『治家記録』は伊達家の公式記録であるため、その当主である伊達晴宗・輝宗親子に敵対する中野宗時は悪者でなければならない。当然、中野宗時の悪さについては"盛っている"部分もあるだろう。しかし、良いか悪いかはともかくとして、その権力の絶大さにかけては『治家記録』の著者も認めていることがうかがえる。

■ 遠藤基信の登場

輝宗としては、伊達家当主としてできるだけ中野宗時の影響力を排除したいところであった。その助けとなったのが、遠藤基信である。
宗時上を軽んじ、事あるに出仕せず。文七郎(※遠藤基信)を使として申し沙汰す。
                     『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
中野宗時は当時、輝宗を軽んじて出仕することもなかったという。伊達家中における最大の実力者はあくまで自分であり、いかに当主であろうがいちいち輝宗の意見や承認を伺う必要はない、との態度がみてとれよう。

とはいえ、完全に無視してないがしろにするのもはばかられる。自分が出仕しない代わりに、輝宗のもとに差し出したのが遠藤基信であった。
遠藤内匠基信、其のころ文七郎と称して宗時が門士なり。連歌を嗜むを以って御会の席に召し出さる。才覚御意に適う。(略)
文七郎素もとより才智勝れたる者なれば、日を追って出頭す。
                 『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
遠藤基信
グラフィックは「信長の野望・創造」より

修験者・金伝防の子。若いころに
諸国を旅してその見聞を広めた。
のちに事件の全てが基信の計略
あったことがわかるが、それにつ
いては後編で。中野宗時に仕えた
のも、彼の壮大な計画のはじまり
すぎなかったのかもしれない。
彼はもともと、中野宗時の家臣である。『治家記録』には「門士」(門番)として仕えたとしている。連歌の才能があったことで輝宗に気に入られたのが彼の活躍のはじまりだった。以後、遠藤基信は中野宗時の代理人として、輝宗に仕えるようになる。

宗時としては、遠藤基信に対して連絡係 兼 出向秘書のようなポジションを期待していたのだろう。輝宗が自分に対してあまり反抗的な態度をとらない様に、監視役としての任務も与えていたのだと思われる。しかし、これが中野宗時の誤算であった。

もともとは歌の才能をきっかけに輝宗に気に入られた遠藤基信だったが、風流だけでなく、まつりごとついても輝宗の良き相談役になったらしい。詳細は遠藤基信の項目を参照してほしいのだが、この人、若いころに諸国を旅して見聞を広めたなかなかの器量人で、何事においても輝宗にとって欠かせない人材となった。

基信は、輝宗の信頼を勝ち取り、側近としてのポジションを確かなものにする。

■ 遠藤基信 暗殺未遂事件

伊達家当主・伊達輝宗。
グラフィックは「信長の野望・創造」より

言わずと知れた伊達政宗の父親。中野
宗時の謀反が起きた当時、27歳の青年
当主であった。老臣の専横について、は
がゆい思いがあったに違いない。

有能な側近である基信を手に入れた輝宗にとって、中野宗時の必要性は低下した。輝宗にとっての中野宗時は、伊達家を運営する上で欠かせない実力者ではあるが、あくまで「目の上のたんこぶ」である。これに頼らなくて済むならば、それに越したことはない。

また、反比例するように、遠藤基信に対する必要性と信頼は上昇していった。

一方、宗時にしてみれば、スパイとして敵方に送り込んだ部下・遠藤基信が自分を裏切って敵に寝返ったように見えただろう。自分の部下が有能なせいで、自分の地位が脅かされる。権力者にとってこれほどの屈辱はない。こういう状況で生まれてくる男の感状とは、「嫉妬」である。「嫉妬」という文字は女偏で書くが、男の嫉妬は女のそれよりも激しい。

中野宗時は遠藤基信の暗殺をはかった。
後には宗時悔い妬みて、親しき者を遣わし、偽って盗賊のまねし、衢ちまたに伏さしめ、深更(※深夜)に及んで連歌の席より帰る道を要して(※遠藤基信を)殺さんとす。衣装を裁って身に中あたらず。
                       『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
宗時は「親しき者」に盗賊のふりをさせて、連歌の会から帰宅する遠藤基信を襲わせた。おそらく刃物で襲撃させたのだろう。しかし、その刃は服を切り刻んだだけで、基信を殺害することには失敗した。
(※遠藤基信は)直に御前(※輝宗のもと)に参ってこの由を告す。宗時が所為なりと思召す。宗時驕奢日々に盛にして公も悪みたまう事漸ようやく深し。
                       『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
遠藤基信がこの事件について輝宗に報告すると、輝宗も事件の主犯は中野宗時であろうと推測した。

ひとつ前の引用文では、『治家記録』の筆者は暗殺事件の背後にいるのは中野宗時であると断定した書き方をしているが、この当時は決定的な証拠はつかめず、状況証拠からみて宗時が基信の暗殺をはかった、と推測するのが精いっぱいだったのだろう。

事実、この事件についての後始末については何も記述がないことに注目したい。伊達家当主の最も信頼する部下の暗殺を謀っておきながら、その首謀者を処罰できないという当時の権力バランス。輝宗サイドとしても、中野宗時の勢力を排除するだけの決定打に欠けていたことがうかがえる。

一方の宗時は
是に於て宗時 禍の身に及ばん事を恐れて、親族郎党を集めて密かに公室を奪わん事を謀る。久仲を始めとしてくみする者甚だ多し。
                       『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
基信暗殺に関与した証拠は残さなかったにせよ、これで輝宗との対立は決定的になってしまったことを自覚した様だ。家中における最大の実力者とは自分であるとはいえ、あくまでも輝宗が当主である。その輝宗に自分たちの陣営を責める口実を与えてしまったことは否めない。

「やられる前にやれ」が戦国時代のルールである。

宗時は牧野久仲ら「親族郎党を集めて」「公室を奪わん事」、つまり伊達家のっとりのクーデタを画策した。これに荷担した者が「甚だ多」かったのは伊達家の公式記録も認めるところである。


こうして、伊達輝宗 vs 中野宗時の権力闘争はそのボルテージを最高レベルまで高めた。あとは、どちらが先にしっぽを出すか、である。

【図解】ここまでの状況の簡単なまとめ

【その①】

【その②】

作ってみて、なかなかわかりやすい図解だと自負している次第である。うん。

続く! → 02 -謀反の発覚からその顛末まで-

2015年7月7日火曜日

石原莞爾将軍墓所 -陸軍の異端児が眠る霊廟-

石原莞爾
Wikipedia より拝借
仕事で酒田まで来たので、ついでによれる場所はないかと検索してみたところ、「石原莞爾の墓」なるものがヒットした。そういえば、この人も東北(鶴岡)出身者である。最近は戦国時代、伊達家にまつわる記事ばかりをアップしているので自分でも忘れてしまいそうになるのだが、このブログのテーマはあくまで「みちのく」である。

この石原莞爾(いしら かんじ)なる人物、一言で説明するなら「満州事変(1931)を起こした主謀者」だ。それだけ聞くと、左よりの人たちからは拒否反応が出てしまうかもしれないが、石原はそこまで単純な人物ではない。満州事変の首謀者でありながら、二・二六事件の反乱軍を鎮圧したり、日中戦争の拡大に反対したりしている。

一方では日蓮宗の熱心な信者であり、『世界最終戦論』では将来の日米戦争(太平洋戦争)を予言し、その最終戦争のあとには、人類は永久平和の時代を迎えると説くなど、一言で「軍国主義者」と片づけるわけにはいかない何かがこの男にはある。

その「何か」について語っていると、それだけで専門のブログができてしまう程の奥深さがある人物なので、詳しく知りたい方は彼の著作である『最終戦争論』『戦争史大観』あたりを読んでみてほしい。彼がどういう思想・世界観をもった人間なのかがよくわかるはずである。

私は高校生(当時)のときにヤングジャンプで連載していた本宮ひろ志の『国が燃える』という漫画がきっかけで石原莞爾の存在を知って以来、彼への興味は尽きることなく今日まで生きている。




ともあれ、石原について語っていると止まらなくなってしまうので、この記事では彼の墓について述べるに留める。

■ 墓の場所

墓所は「旧墓所」と「新墓所」の2か所あり、どちらも近い位置にあるのだが、間に国道7号 吹浦バイパスが通っているため直通ができず、大きく迂回するしかない。ちなみに新墓所には駐車場がある。


住所は 山形県 飽海郡 遊佐町 菅里 菅野

酒田から国道7号を北上し、吹浦バイパスと旧道が分岐するY字路の近辺。石原莞爾が晩年を過ごした場所の近くということらしい。

■ 旧墓所

文字がハゲているが、「石原莞爾先生の墓」とある。

入口は住宅地の奥、雑木林になっているところ。



雑木林の中、整備された道を進んでいく。案内板に従って歩けば迷うことはない。



石原莞爾の墓。てっぺんには「南無阿弥陀仏」と書いてあった。石原莞爾は熱心な日蓮教徒としても知られており、彼の『最終戦争論』には日蓮宗の教義の影響もみられる。



石原莞爾が目指した戦後日本復興の三大スローガン、「都市解体」「農工一体」「簡素生活」の碑。現代にも通じるものがあると思うのは私だけではないだろう。「都市解体」は地方分権を彷彿とさせるし、「簡素生活」はEUに支援を求めておきながら自らは財政再建の努力をしない(少なくとも私にはそう見える)ギリシアのことをなんとなく思い起こさせる。

なお、仕事帰りにたちよったため、このあたりから写真が暗くなっており、無理やり編集で明るくしたので画質が粗くなっていることをお断りさせていただく。

■ 新墓所

新墓所は国道7号吹浦バイパス沿いにあり、駐車場もあるので入りやすい。
右が国道7号 吹浦バイパス。左手奥が新墓所。


「私はただ仏様の予言と日蓮聖人の霊を信じているのです 石原莞爾」とある。


旧墓所と同じ三大スローガン。


同志之霊碑。日も落ちておやすみのところ、フラッシュで眠りを妨げてしまって申し訳ありませんでした...。

旧墓所、新墓所ともにとても丁寧に手入れがされており、管理されている方々の心情がうかがい知れる場所だった。墓所のホームページによれば、「石原莞爾顕彰会」なる団体が墓所を管理されている様だ。

◾︎ 東北出身の軍人たち

さて、石原莞爾は1889年に山形で生まれ、1901年まで同地で幼年期を過ごした。1902年から3年間、仙台陸軍地方幼年学校に在学しており、その後は全国各地、あるいは海外で勤務することも多かったが、まごうことなき「東北人」である。

石原莞爾もそうだし、彼とともに満州事変を主導した板垣征四郎も岩手県出身である。

この時代に活躍した旧・大日本帝国軍人、および関東軍軍人には、「あんたもか!」ってくらいに東北出身者が多いことに驚く。冷静に考えれば日本軍はかなり大きな組織なので、東北出身者が多くいても当たり前なのだが、以下、思いつく限り列挙すると

小磯国昭
生まれは宇都宮だが、旧新庄藩士の長男として生まれ、旧山形県中学校(現在の山形県立山形東高校)を卒業。陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官、内閣総理大臣を歴任。東京裁判で終身刑判決。
米内光政
岩手県盛岡市に旧盛岡藩士の長男として生まれる。連合艦隊司令長官、海軍大臣、内閣総理大臣を歴任。
服部卓四郎
山形県出身。陸軍士官学校時代は「34期の三羽烏」と称された秀才。参謀本部勤務などを経て関東軍作戦主任参謀に。ノモンハン事件においては作戦参謀の辻政信と共に拡大方針を唱えた。
甘粕正彦
宮城県仙台市に旧米沢藩士の父と母(仙台藩士の娘)の長男として生まれる。憲兵となったのち、1923年関東大震災のときに起こした社会主義者・大杉栄の殺害事件(甘粕事件)で有名。軍を退官後、フランス留学を経て満州に赴任。満州国の建国、運営に大きな影響を及ぼした。

今村均
宮城県仙台市生まれ。祖父は仙台藩士。陸軍大学校を首席で卒業後、関東軍参謀副長、教育総監部本部長などを歴任。太平洋戦争においては第8方面軍司令官としてラバウル島防衛の任につく。温厚で高潔な人柄と、占領地での軍政・指導能力は高く、名将という評価を受けており、旧占領国の現地住民だけでなく、敵国であった連合国側からも称えられている。

などがいるだろうか。

一口に「東北出身の軍人」とは言え、所属部隊や階級、思想も行動もバラバラなのだが、薩長閥に牛耳られた帝国軍において「朝敵」の子孫として育った彼らの心のうちには、なんらかの共通点を見出せそうな気がしてならない。

東北出身者ということであれば、昭和恐慌下の厳しい不況、および東北を苦しめた冷害の被害者が、彼らの身内や親しい人の中に大勢いたはずなのである。

そういう境遇にある軍人が「満州をとれば、中国をとれば日本は少しはマシになる」と考えるのは必然だったのかもしれない。当時の世界は「ブロック経済」「帝国主義」のロジックで動いた世界であるから、なおさらである。石原莞爾もそうであったのかもしれないし、実際、関東軍にはそういった東北出身の兵卒・下士官が多かったと何かで読んだことがある。



東北出身の帝国軍人は多い。

彼らの中に共通項を見いだせるかどうかはやってみないとわからないが、いつか、彼らがどういった状況で、どういう考えに基づいてどんな行動に至ったのか、じっくり研究してみたいところではある。

2015年6月11日木曜日

未来屋書店に文化を担う書店としてのプライドはないのか!? -イオングループに対するレジスタンス宣言-

■ 岩波文庫を置かない未来屋書店

昨日、仕事帰りにとある仙台近郊のイオンモールに立ちよった。個人的にイオンは大嫌いなのでなるべくイオンで買い物はしないようにしているのだが(理由は後述)、帰り道の途中にたちよれる場所で目的の買物ができる場所がそこしかなかったので、仕方なくイオンに入ったのだ。

たちよった未来屋書店の実際の風景。
イオンモールのHP画像から拝借。
買物を済ませた後、本屋に立ち寄った。

未来屋書店という名前である。

学生時代に読んだ本をふともう一度読みたくなったので、それがないかどうか、探すためである。本のレーベルは岩波現代文庫なので、文庫本コーナーの岩波の棚を探した。

ない。

目的の文庫本が見つからなかったのではない。岩波現代文庫が1冊も置かれていないのである。そもそも、通常の岩波文庫すらおいていない。

結局みつけることのできなかった岩波の棚を探す過程で、店内をぐるっと一周したので気付いたのだが、その未来屋書店にはビジネス書のコーナーもなかった。ノンフィクション、社会情勢、政治、経済、経営、といった類のコーナーは存在しない。ましてや理工書、専門書なんぞの類は一冊もない。

厳密にいえば、売れ筋のビジネス書なんかは新刊コーナーに置いてあるのだが、常設のビジネス書コーナーは存在しないのである。

この書店のレイアウト、ラインナップをみて、無性に腹が立ってきた。

じわじわと怒りがこみあげてきた。

この書店に、本屋としてのプライドはないのか? 
文化を担う書店としての矜持はないのかっ!!?

■ 元書店アルバイトとして思うこと

...実はブログ主、学生時代に某大手書店でアルバイトをしていたことがある。都内の敷地面積がそこそこ広い店で、チェーン店内における売上もそこそこ良かった。

まさにこんな感じのカリスマ書店員もいて、
当時ブログ主のあこがれだった笑それに
しても稲盛いずみはっても美人だなぁ
...話はそれるが、昔からのファンである。
(画像は戦う! 書店ガールのHPから)
その書店では、当然のものとして、岩波の棚は存在した。その某大手書店的発想から言えば、岩波文庫が置いてない書店なんて、ありえなかった(※1)。
(※1)個人的には岩波文庫はあまり好きではない文庫ではある。文字が小さくて読みにくく、同じタイトルの本が新潮文庫であれば間違いなくそちらを買う。新潮文庫はひものしおりがデフォルト装備なのがいい。
社員さんたちは自分が担当する棚のレイアウトやラインナップに対してこだわりを持っていたし、文化の守護者・発信者たる書店員としてのプライドを感じることができて、当時学生だった自分はそんな社員さんたちをみて、憧れをいだいた。

なにより、社員さんだけじゃなくアルバイトも含めてみんな本が大好きで、好きな本のジャンルは人それぞれなのだけど、酒を飲みながら読書論だったり、好きな作家について語り合えるあの書店の仲間たちが、自分は大好きだった。

教養もあって尊敬しあえる仲間たちと一緒に働けてたことが自分はうれしかった。

当時は学生だったから、フルタイムで働けなかったので特定の棚を任せてもらえることはなかった(※2)が、それでも文化を担う書店員としての誇りを、自分も生意気ながらに、もって働いていた。
(※2)アルバイトでも昼の時間週4~5で入っていた人たちは、自分の担当・ジャンルの棚を任されることがあった。
そういう経験があったものだから、この未来屋書店に対して、余計に腹が立った。

腹立たしさは、やがて「情けねぇ」という思いに変わった。

この書店の店員どもは、こんなくだらねぇ本しか並べてない自分の店が恥ずかしくないのか?

■ 未来屋書店はイオンのグループ企業

そりゃあ、敷地面積的な制限で岩波を置けない小さな書店は世の中にたくさん存在する。誰が買うかもわからない岩波文庫よりも、ドラマ化した小説、話題の本など万人ウケする売れ筋の本をメインに揃えないと、やっていけない書店もあるだろう。岩波を置きたくても置けない書店は、確かにある。

けれど、この岩波の棚がなかった未来屋書店は、イオンの系列書店である。Wkipediaの表現をかりるなら
全国に約220店舗展開する、イオングループの中核企業
http://ja.wikipedia.org/wiki/未来屋書店、強調は筆者による)
なのである。天下のイオングループ様の、中核を担う企業なのだ。今日び、良くも悪くもイオンというだけで人は集まってくる世の中だし、その書店もけっして敷地面積の狭い方ではなかった。

それなのに、岩波文庫すら置かないで、クソみてぇな本ばっかり並べていやがる書店でいいのか?
おまえら書店員は、そんなファッ●ンな本屋で働いてて楽しいかっ!!?

さらなる怒りがわいてきた。


...少し補足させてもらうと、自分は未来屋書店が岩波文庫が置いてないことにムカついているわけではない。むしろ岩波文庫は上記注釈で触れたように、自分はあまり好きではないのだ。

ここで自分が怒りの対象としているのは、岩波文庫に象徴される、「教養」なり「知識」の倉庫としての本を置かずに、どこの本屋にいっても同じように平積みされている新刊本、話題の本、雑誌類、つまりさきほど自分が「クソみてぇな」と表現した本で埋め尽くされたレイアウトに対してである。

そしてそのレイアウトを許容している、未来屋書店およびその店員たちのプライドのなさに対してである。

奴らの「文化の守護者たる書店」としての自覚のなさに対してなのである。

再びWikipediaの情報によれば、そんなクソみてぇな未来屋書店が、全国に約220店舗も存在するらしい。これでは、本離れが叫ばれて久しいこの世の中の悪い流れを、さらに加速させるだけである。

■ 文化の破壊者 イオン


そもそも、この未来屋書店を擁するイオングループが「文化の守護者」どころか「文化の破壊者」であることは様々な場所で議論されている。

ためしに「イオン 文化破壊」で検索してみただけでも42万4000件のヒットがあった。有名な話、イオンモールはテナントとして全国チェーンばかりを出店させるので、どこのモールに入っても金太郎あめの様な画一的風景になるし、地元の零細企業はイオンモールでの出店、取引ができないのでそうやって地方の文化は廃れていく。

「復興の象徴」の触れ込みで被災地に新規出店をしておきながら、被災地の企業、個人商店にはいっさい金が入らないシステムでの出店であるため、むしろ迷惑に感じる人もいた、というエピソードはもっと世に知られて然るべきだろう。

この一定の売れゆきが確保できるだろうと思われる全国チェーンばかり出店を許し、地方の文化の担い手である個人商店はどれだけ儲かるかわからないからはじく、というイオンモールの出店スタイル、どこかで聞き覚えがないだろうか。

確実な売れゆきが確保できるだろうと思われる新刊、話題の本、雑誌ばかりを並べ、文化、教養の基礎となる本はどれだけ売れるかわからないからはじく...。

そう、未来屋書店の本のラインナップは、イオンモールのショップラインナップの縮図なのである!
文化の破壊者である「イオングループの中核企業」である未来屋書店が、文化の守護者たりえるわけがないのである!!

気分がノってきたので(笑)もっとはっきり言おう! 

なにが「未来」屋だこのクソ書店野郎!!
おまえら書店員のくせに「温故知新」って言葉知らねーのか! 
過去の英知の象徴である岩波文庫も置いてねえ書店が、偉ぶって「未来」名乗ってんじゃねーよ!!

おまえらみたいな大企業のくせに文化を破壊してる奴らに「書店」を名乗る資格なんかねーんだよ!!


■ 文化破壊に対するレジスタンス

...あぁ、なんだかここまでボロクソに未来屋書店をディスりきってある程度スッキリはしたのだが(笑)、イオンおよび未来屋書店に対する怒りはまだまだ冷めやらない。

と、いうわけで個人的にイオンに対するレジスタンスを行うことにした。文化の破壊者たるイオンに対して、ブログ主はささやかながら抵抗を試みることにした。

具体的には

  • 未来屋書店では本を買わない
  • イオンで買い物をしない
  • イオン系コンビニであるミニストップで買い物をしない
  • 岡田克也が代表をつとめる民主党には投票しない(※3)
  • なるべく個人経営なり地元密着型の企業、小売店で買い物をするように心がける

といった方法である。要はイオングループに対する不買運動だ。ミニストップまで巻き込んでいることに対し、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」じゃねーかよ、という批判は甘んじて受けよう笑
(※3)民主党代表、岡田克也はイオングループCEOの岡田元也の実の弟である。そのため、岡田克也の政治的行動にはイオングループの意向が反映されると考えてまず不自然ではない。まぁそもそも、岡田克也が代表であるかどうかにかかわらず民主党には投票しないが笑
まぁ、戦いの結果は火を見るよりも明らかだろう。こっちは単なる零細ブロガー。一方で相手は天下のイオングループ様様である。凡庸なたとえで言うなら、象に挑むアリといったところか。

しかし。


アリも群れれば猛獣を倒すこともある。このブログを読んでもし共感してくださった方がいらしたら、ぜひともイオングループに対するレジスタンス戦線に加わっていただきたい。

我々は常に、文化の破壊者に対して毅然たる態度をもって応じなくてはならない。特に、こういった地域史・郷土史をテーマとしているブログの執筆者なら、なおさらなのである。


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2015年5月13日水曜日

宮崎城 -伊達軍を翻弄した要塞-

みやざきじょう
宮崎城
宮崎城遠景。南東方面から。2015年。
別称
特になし
城の格
大崎家臣・笠原氏本城
伊達仙台藩「
城郭構造
山城
天守構造
なし
比高
約70m (ふもとの標高:75約m、本丸約145m)
残存遺構
堀切、曲輪
指定
特になし
築城
築城年
不明(1339年以前、もしくは正平年間(1346-70))
築城者
笠原重広?
城主
笠原氏
(宮崎氏)
笠原重広、為広、為宗、為時、詮時、兼時、
仲沖、隆治、隆親
城預かり
片平親綱、山岡重長、石母田宗頼
(文禄より慶長のはじめ、交代で統治)
牧野氏
牧野盛仲、茂中(?)
石母田氏
永頼、宗存、頼在、興頼(1652-1757)
古内氏
義清、義周、実徳、実道、実直、実広
(1757-1869)
廃城
廃城年
不明(江戸時代は所として存続)
理由
不明
位置
住所
宮城県 加美郡 加美町 宮崎 麓一番
現状
山林
今回紹介する宮崎城は、宮城県内でも有数の天険である。

1.宮崎城の歴史
1-1.笠原氏
宮崎城が建てられたのがいつなのかははっきりしない。『宮崎町史』には「初代笠原重広が延元四年(一三三九)宮崎城を賜って」とある。もともと存在していた城を「賜った」のか、彼が築城したのかは不明だが、少なくとも1339年の時点では存在していたようだ。

一方で『日本城郭大系』には「笠原氏系図」に正平年間(1346-70年)に笠原重広が宮崎城を築いたことが記されている、としている。

現地の案内板には「大崎氏時代には三大名城のひとつといわれ、自然の要害の地であった」と記されている。

笠原氏は大崎氏の家臣で、親族である柳沢(屋木沢)氏、米泉氏、谷地森氏などを従えてこの一帯(現在の加美町北部、旧宮崎町)あたりを支配した。笠原宗家は宮崎の姓を名のってもいる。

大崎氏内部では、氏家氏など、大崎宗家に公然と反旗を翻す一族もあったなか、笠原一党は比較的忠実に大崎家に仕えたようである。大崎家が分裂した天正末期の騒動では大崎義隆の呼びかけに宮崎、屋木沢、谷地森氏が応えて参陣している。

1-2.宮崎城の戦い
宮崎城が脚光をあびるのが、葛西・大崎一揆においてであた。大崎家は葛西氏とともに奥州仕置の際に改易となり、新領主として秀吉旗下の木村吉清・清久親子が入ってくるが、これに対する一揆が旧葛西・大崎領で頻発した。

この一揆の特徴は、単なる農民暴動ではなく、旧領主・大崎家や葛西家の家臣たちが組織的に新領主・木村親子に反抗したことにあった。また、伊達政宗がこれを扇動していたとする説が有力で広く知られているが、実際のところはわからない。

ときの笠原家当主・笠原(宮崎)隆親も一揆に参加したうちの一人である。実は隆親の叔父にあたる谷地森直景の娘(つまり隆親のイトコ)が大崎家当主・大崎義隆の妾であり、嫡子・庄三郎(義興)を生んでいたのである。

嫡子の母親の家系・つまりは外戚として、笠原一党は大崎家中における主流派を形成していた。ともなれば、お家の滅亡を黙って受け入れられないのも必定。笠原党は庄三郎を擁し、大崎家復興のために宮崎城で挙兵した。

浜田景隆の墓宮崎中学校わき)
胸部を撃ち抜かれても「体を城の方へ
埋葬してくれ」と言い残し死したという。
ときの権力者・秀吉から鎮圧を命じられたのは伊達政宗だった。伊達の軍勢は約1万。対する籠城軍は約3000人である。

攻撃は天正19年(1591年)6月24日から開始された。初日から伊達の智将・浜田隆景が討ち死にし、大松沢元実も腰を撃ち抜かれるなど被害甚大な激戦となった。

2日目になると伊達の総攻撃が始まるが、このときの原田宗時後藤信康のエピソードが伝わっている。二人はいつも先陣を競い合っていたのだが、後藤信康が夜にこっそり抜け出して城に忍び入って石壁に取りつくと「えらい早駆けじゃのう」という声がする。みてみると信康よりも先に忍び込んでいた原田宗時が城門の柱にしがみついていた。

城門から敵が攻めてきたが、二人は隠れて城内にとどまった。敵の攻撃がやんで城内に戻ると、二人は城門を開け放って味方を招き入れ、そのまま城は大混乱になったという。

城主・笠原隆親は降伏を申し出たたが政宗はこれを許さず、徹底的な殲滅を主張した。おそらくはここで撫で斬りのパフォーマンスをすることにより、他の一揆勢に対するデモンストレーションとしたかったのだろう。しかし伊達成実が「敵の本拠地は佐沼城にあり。佐沼も堅城である故、宮崎での犠牲は少なく済ませ、早急に佐沼へ向かうべし」と献策した。政宗は成実の意見に納得するも許しがたかったらしく、城は炎に包まれた。

笠原隆親は家臣らとともに秘密の坑道を抜けて脱出。出羽の小国へと落ち延び、舅を頼ろうとしたものの城内に妻子を残してきたためにどうも居心地が悪かったのか、最終的には由利まで赴いている。

宮崎城を落とした伊達勢は佐沼へと転戦。政宗の主張した「徹底的な殲滅」は佐沼にて行われることになる。

1-3.伊達領 宮崎所
葛西・大崎一揆の終結とともに宮崎も伊達領の一部となる。岡千仭『仙台藩史料』によれば「文禄より慶長のはじめ宮崎城は片平親綱、山岡志摩(重長)、石母田宗頼の三人に預けられ交代してここを管理」していたようだ。

江戸時代になると宮崎城は伊達四十八舘のひとつ、城郭ランク「所」として領内支配の拠点となる。江戸時代初期の統治者は記録には残っていないものの、『宮崎町史』では牧野家の支配管理下となったが、故あって改易、家断絶となったために伊達家の記録から抹消されたものと推測している。

記録が残っているのは承応元年(1652年)からで、この年に石母田家6代目の永頼が岩ケ崎から転封となって宮崎に入る。以下、7代・宗存、8代・頼在と続き、9代・興頼のころ、宝暦7年(1757)に高清水へと移封となる。

代わりに入ってきたのが古内氏で、5代・義清、6代・義周、7代・実徳、8代・実道、9代・実直と続き、10代・実広のころに明治維新を迎えた。

なお、石母田氏の時代、明暦元年(1655)には領主の館を移している。旧館は狭い傾斜地にあり、町場の形成に難があり、街道からも離れていたので宿場北側に移転したという。『史料 仙台伊達氏家臣団事典』では、石母田氏に代わって入封した古内氏もその館を引き継いだ、と推測している。


2.宮崎城の構造
現在の加美町役場 宮崎支所の裏山、熊野神社の東側一帯が宮崎城の城域にあたる。熊野神社までは道が通っているが、城域には道がないので、雑木林をかき分けて進んでいくしかない。

登山道が整備されていないことも相まって、まずもって言えるのが、一目見ればわかる大要塞である。

以下は、Google map から取得した等高線だ。東西に二つ高台になっている箇所があり、東側の曲輪はすぐに田川へと落ち込む崖になっていることがわかる。


『宮崎町史』には宮崎城の推定図が載っており、これと一致する。


『宮崎町史』では東側を本丸、西側を二の丸としているが、高さはどちらもほぼ同じだった。おそらく当時は、二つの高台が橋で結ばれていたのだろう。

東側本丸から崖にそって、ゆっくりと標高が落ちていく箇所が登城道だったようだ。西側のふもとは今も住宅が並ぶが、ここに侍屋敷が数件立っていた。

2-1.西部二の丸近辺
城のふもとは畑になっていて、私有地っぽくて勝手に入るのも気が引けたので、熊野神社のわきを通る道、城の案内板があるあたりから雑木林の中に入っていくことにした。


すぐに山が段々になっており、曲輪の痕跡が残っていることに気づく。


周囲と比べると少し傾斜がなだらかになっている場所がある。ここが登城道の跡か。


そのすぐ下は、急な斜面で堀になっていた。


二の丸の平坦部。紫桃正隆氏の『仙台領内古城・館』には「東西80m、南北50mの長方形に近い」とある。

2-2.東部本丸


二の丸から降りて本丸へ向かう。その間は空堀になって隔離されている。右が二の丸、左が本丸。


かなり急な本丸の斜面。

本丸平坦部。『仙台領内古城・館』によれば「東西70m、南北50mの楕円形」


頂上部で、石神様を発見。この一帯で初めて人工構造物を発見かと思いきや...


木の根っこの下に洞穴が。写真後ろに映る積み上げられた木の枝もそうだが、どうも人の手が加えられている様な気がしてならない。もしかして誰か住んでた? (もしくは現在形で住んでる?)

こういう山の中で、動物よりも人の気配がすることがなにより怖い。日の明るい時間にきてよかったー、と心から思った。あるいは、これが笠原隆親が逃げたという地下道の跡!?



本丸のてっぺんは約145メートル。麓との比高は約70メートルで、かなり見晴らしもいいはずなのだが、木が生い茂っているせいでいい眺めを見れる場所はない。木の合間からちょこっとだけ見えているのが田川。

写真ではなかなか伝わりにくいと思うが、東本丸から田川へと落ち込む斜面。相当な急角度。


城を歩いていて遭遇したアオダイショウ。冬眠から目覚めたばっかりだろうか。周囲の景色に同化して、あやうく踏んづけるところだった。


2-3.城の周辺


城の西側・熊野神社。こちらは参道が整備されており、わざわざ林の中を歩かなくてもたどり着ける。1320年の勧進。


丸に三つ引きの紋。大崎氏の家紋は通常「丸に二つ引」だが、三つ引き紋が使われることもあったのだろうか。


近くの公園から見た東側の絶壁。ちょうど真上が東側本丸のあたり。田川と崖に阻まれた、まさに天嶮の要害。原田宗時、後藤信康のふたりはまさかこの崖を登って侵入したのだろうか。


山のふもとのあたり。城の南側から。『仙台領内古城・館』によれば大手門跡があるらしいのだが、発見にはいたらず。

この宮崎城、もともとかなりの要害であることは事前知識としてあったのだが、実際に訪れてみるとそれ以上のものがあった。だいたい、どこの廃城跡も登城道くらいは残されているものなのだが、宮崎城ではそれがないうえに草木は生えっぱなしで人の出入りした形跡がまるでない。iPhoneのGPS機能がなければ、スムーズな見学はできなかっただろう。ほら穴で人の気配を感じたり蛇に遭遇したりも相まって、自分の中では宮城県内トップクラスのスリリングな城跡だった。

■参考文献
・紫桃正隆『史料 仙台領内古城・館 第三巻』(宝文堂、1973年)
・紫桃正隆『宮城の戦国時代 合戦と群雄』(宝文堂、1993年)
・『日本城郭大系 第3巻 山形・宮城・福島』(新人物往来社、1981年)
・宮崎町史編纂委員会『宮崎町史』(1973年)