看板によれば、この場所について江戸時代に書かれた『風土記御用書上』という文書に、「葛西家敗軍の砌みぎり...又は大崎家敗軍の節、御一家様方御生害」あるいは「此辺このへん古戦場」と書かれているとのこと。
この地で何が起きたのか、実はよくわかっていないのが現状らしい。説としては2つあり、
説①:天正18年(1590)8月、葛西氏が秀吉の奥羽仕置に抵抗して戦い、敗れた場所
説②:天正19年(1591)8月、葛西・大崎一揆の処理で一揆の指導者が伊達軍に殺された場所
あるいは、その両方に該当するとも考えられる。看板の名義は河南町教育委員会(河南町は2005年に石巻市に合併)で、平成12年(2000)3月25日の日付である。
では、その隣にあるもっと古そうな石碑はいつ、誰が建てたものなのか。
こちらもはっきりしており、大正3年(1914)11月に、日本初の近代辞書『言海』の著者として知られる大槻文彦博士が建てたものである。石碑の表には「大槻但馬守平泰常殞命地(おおつき たじまのかみ たいらのやすつね いんめいのち)」と題され、裏に漢文で碑文が刻まれている。
では、石碑の裏にはなんと刻まれているのか。それをじっくり読んでみよう。下にスクロールすると現代語訳があるので、漢文を読むのに抵抗がある方はそちらまで飛ばしていただいて結構である。
■ 原文
本来は漢文なので縦書きなのだが、ブログという制約上、横書きにした。従って、左上から右下に向かって読む。陸前桃生郡須江村糠塚殿入澤實爲吾家祖但馬守君殞命地君葛西氏支
実際の碑文
族居西磐井郡金澤村大槻館天正十八年葛西氏爲豊臣氏所滅木村吉清
來領其封苛政誅求葛西氏遺臣憤怒擧兵逐吉清伊達氏來討勸降拘将領
二十餘人於此地待命及豊臣秀次東下命斬伊達氏遣兵來臨二十餘人奮
闘遂爲所斬塩淹其首送京師君實在其中時天正十九年八月十四日也年
五十五子孫住西磐井郡中里村存祀文彦至此地歔欷低徊不能去茲建一
碑以慰君在天之霊今地主桑島氏及龜山氏賛襄之
大正三年甲寅十一月 十世孫 文學博士大槻文彦謹記
■ 書き下し文
とはいえ、このままでは現代人である筆者も読むのは無理ぽオワタなので、頑張って書き下し文にしてみた。ついでに、旧字体も現代風に直してある。読みやすい様にスペース、句読点も挿入した。
陸前桃生郡 須江村 糠塚 殿入沢は、実に吾家祖 但馬守君 殞命の地なり。ちょっとずつ読めるようになってきた。まだ古語が多用されているのでわかりにくい。いくつか言葉の解説を加えると、
君は葛西氏の支族にして西磐井郡 金沢村 大槻館に居る。
天正十八年、葛西氏 豊臣氏の滅す所と為る。
木村吉清 来領し、其の封で苛政誅求す。
葛西の遺臣、憤怒し兵を挙げ吉清を逐う。
伊達氏来たり討ち降を勧め、将領二十余人を此の地に拘し、命を待つ。
豊臣秀次の東下に及び、斬を命ず。
伊達氏、兵を遣り来り臨む。
二十余人奮闘、遂に斬する所と為る。
その頭を塩淹し、京師に送る。
君、実に其の中に在り。
時に天正十九年八月十四日也。
年五十五。
子孫 西磐井郡 中里村に住し、祀を存す。
文彦この地に至り歔欷低徊し、去る能わず。
茲に一碑を建て、以て君が在天の霊を慰む。
今、地主桑島氏及び亀山氏これを賛襄す。
大正三年 甲寅 十一月 十世孫 文学博士 大槻文彦 謹記
- 但馬守:大槻泰常のこと。葛西氏の武将。
- 殞命:いんめい。命を落とすこと。
- 苛政誅求:かせいちゅうきゅう。容赦のない過酷な政治。
- 降を勧め:降伏をすすめる、の意。
- 将領:指揮者、指導者。
- 塩淹:えんえん。塩漬け。
- 祀:し。神や先祖をまつること。
- 歔欷:きょき。すすり泣き、むせび泣きのこと。
- 低徊:ていかい。うろうろと歩くこと。
- 賛襄:さんじょう。助けて事を行うこと。
■ 現代語訳
陸前の国 桃生郡 須江村 糠塚 殿入沢(現在の宮城県 石巻市 須江糠塚)は、私(大槻文彦)の先祖、但馬守 大槻泰常が没した地である。大槻泰常は、葛西氏の支族であり、西磐井郡 金沢村(現在の岩手県 一関市 花泉町)の大槻館に住んでいた。
天正18年(1590)、葛西氏は豊臣秀吉の奥羽仕置によって滅亡した。旧葛西領には木村吉清が新領主として派遣されたが、彼の政治は容赦のない厳しいものであったため、葛西の旧臣たちは激怒し、挙兵して木村吉清を追放しようとした。
一揆の鎮圧のために伊達の軍勢がやってきて降伏を勧めたが反乱はやまず、指導者約20人をこの場所に捕えて、次の命令を待った。
豊臣秀次が東北にやってくると、彼は反乱指導者たちの処刑を命じた。それを受けて伊達の兵たちが押し寄せてきた。葛西旧臣たちは奮闘したが、ついに斬られてしまい、首は塩漬けにされ、京都に送られた。大槻泰常が絶命したのもこのときである。ときに天正19年8月14日。享年55歳。
泰常の子孫は西磐井郡 中里村(現在の岩手県 一関市 蘭梅町)に住み、先祖を敬ってきた。同じく子孫である私、文彦はこの地に至って思わずすすり泣き、うろうろしては立ち去りがたい想いに駆られた。よって天に召された泰常の霊を慰めるため、この地に石碑を建てたのである。石碑建立に際しては、この地の主である桑島氏と亀山氏に大いに助けていただいた。
大正3年(1914)11月。10世孫 文学博士 大槻文彦 謹んでこれを記す。お分かりいただけただろうか。石碑は、大槻文彦が先祖である大槻泰常の死を悼んで建てたものなのである。文面から、文彦は説②の立場であったことがわかる。すなわちここは、葛西・大崎一揆の後始末の際、一揆の主導者たちが集められ、豊臣秀次の命を受けた伊達の軍勢によって殺された場所なのだ。
大槻文彦。1847-1928。 日本初の近代辞書『言海』の著者として有名。そのため、国語学者として紹介されることが多いが、 晩年は伊達騒動(寛文事件)や葛西氏の研究など、郷土史研究家としての顔も併せ持っていた。 写真は、歴史仲間の @るぞさんが撮影してくれた みちのく伊達政宗歴史館の蝋人形。生々しい... |
...それにしても、文学博士・大槻文彦の漢文を台無しにする下手クソな現代語訳である。現代語訳というか、解説も含めた意訳になってしまったが、その点はご容赦願いたい。
■ 『伊達治家記録』との照合
この碑文の内容を、反乱の鎮圧者である伊達側の記録と照合してみよう。江戸時代に書かれた伊達家の公式記録である『伊達治家記録』のうち、『貞山公治家記録 巻之十七』天正19年8月16日の条から書き出してみる。
この時点で、葛西・大崎一揆の最大の拠点である佐沼城が天正19年(1591)7月3日に陥落し、一揆鎮圧が最終段階に入ろうとしているシチュエーションである。〇八月丁酉大六日己亥。この日中納言(秀次)二本松へ到着、大神君(※徳川家康)もこの時節、二本松御着と云々(日知れず)。公(※政宗)、この節御病気のところに、弾正小弼殿(※浅野長政)より去る三日書状を以って、御病気少しも御験気(※おしるしけ。病状が回復すること)においては、さっそく二本松まで御出然るべき由、仰せ進ぜらるにつきて、二本松へ御出あり。然るに中納言殿より御両使(氏名伝わらず)を以て、大崎葛西一揆の様体を尋ねらる(強調、注釈はブログ筆者による。表記は現代風に改)
葛西・大崎旧領での一揆以外にも、東北各地で奥羽仕置に反発する一揆が続発しており、その鎮圧のために秀吉の甥である秀次や徳川家康が二本松まで来ている。
政宗も二本松へ向かったところ、秀次の使者から一揆の様子を尋ねられた。
公(※政宗)御請うには、一揆ども城多く相抱え、百姓等まで譜代の者たるに依て、御退治も御難しき義なり。幸い一揆の者ども詫び言仕るにつきて、身命許りは何とぞ相扶らる様にと存じ、深谷と申す所に引き寄せ、差し置きたり。何様にも御指図次第に相計らはるべきの旨仰上げらる。(強調、注釈はブログ筆者による。表記は現代風に改)政宗は「一揆勢はその勢力圏に多くの城を抱え、一揆に参加している百姓も葛西の旧臣たちが多いので、一揆の鎮圧は難しい。幸いにも、一揆指導者たちからの謝罪があったので深谷という場所に彼らを集めている。彼らをどうするかは、秀次の指図に従う」と答えた。深谷とは殿入沢周辺の地名である。
一段の事なり、早々誅戮(※殺すこと)せらるべき由、中納言お指図あり。因って泉田安芸重光に黒川の御人数(※黒川郡を治める黒川氏の軍勢。この時期、黒川は事実上伊達の属国化している)相そえ、一揆武頭二十余人討ち果たし、首中納言殿(※秀次)へ差し出さる。即ち塩漬けに仰せ付けられ、京都へ差し上げられると云々(公二本松へ御出の日ならびに一揆の首差上げらる日等知れず)。(強調、注釈はブログ筆者による。表記は現代風に改)秀次は「さっさと一揆の指導者たちを殺せ」と命じたので、政宗は泉田重光に黒川の軍勢を添えて一揆の指導者たち20人あまりを討ち果たした。首を秀次に差し出したところ、塩漬けにして京都へ送るように指図したという。
大槻文彦の書いた碑文と『伊達治家記録』の記述は
- 一揆指導者を殺すように命じたのは豊臣秀次であること
- 直接手を下したのは伊達の軍勢であること
- 犠牲者は「二十余人」であること
- 反乱者たちの首を塩漬けにして京都に送ったこと
という点で伊達側の記録と一致していることがわかる。と、いうか大槻文彦も碑文を書くうえで『治家記録』を参照したのあろう。大槻文彦は旧・仙台藩士であり、晩年は郷土史研究にも打ち込んだ人物でもある。
■ 実際の事件の規模は?
『伊達治家記録』も文彦の碑文も、犠牲者の数については「二十余人」という表現で共通している。
しかしながら、宮城の郷土史家・紫桃正隆氏はその著書『仙台領の戦国誌』において、犠牲者はもっと多かったはずである、と主張されている。氏は『仙台領の戦国誌』で事件の犠牲者の名を76人ほど列挙したあとでこう述べている。
斯様かようにして考えてみると、深谷で誅殺された人々はおびただしい数にのぼることがわかる。筆者も、この事件で殺害された葛西・大崎の旧臣は20人では済まなかったと思う。紫桃氏の言うように、犠牲者になった武将それぞれが城主クラスの者たちであり、それぞれに従者がいたと考えるのが自然である。実際、大槻泰常も大槻館主であった。一人でこの地に来ていたとは考えにくい。さらに紫桃正隆氏が指摘されるとおり、葛西旧臣の家系図には先祖がこの事件で殺されたことを示唆する記述が多く見受けられるのである。
筆者が掲げた人だけでも、約80名の多きに達している。勿論、この中には異名同一の人が、ある程度いたようで、重複している面が、ないでもないが、それにしても余りにも多い。
それに、前記の人々は、概ね、葛西大崎の諸城主といわれた大身のものたちであって、これに各々数人の従兵が付随していたわけであるから、実際の人員はその数倍になっていたのは充分に想像されるところである。(p469)
それでいて『伊達治家記録』に犠牲者が「二十余人」と書かれているのはどういうわけか?
それには、2つの理由があると筆者は推測する。
- 第1に、伊達家として事件の汚点をあまり強調したくなかったこと。
- 第2に、事件の遺族・子孫たちも表立って事件を公にする必要がなかったこと。
葛西俊信。画像は「信長の野望・創造」より 葛西氏最後の当主・晴信の弟の孫。馬術の 名手として知られ、京都で技を披露したことも。 |
第1は明白であろう。伊達軍は秀次に命じられたとは言え、いわば汚れ仕事である一揆首謀者殺害の実行犯となってしまったのだ。犠牲者は少ないに越したことはない。
忠実に『治家記録』を読めば、「一揆武頭二十余人討ち果たし」と記述されており、「武頭」以外にも事件現場には数多くの武将たちがいた、とも読むこともできる。
どちらにせよ、被害者の数をあまり強調したくはないスタンスが読み取れる。
第2であるが、事件犠牲者、つまり葛西旧臣の遺族・子孫たちは、江戸時代に伊達家に召し抱えられたものが多い。
例えば、葛西氏の末裔である葛西俊信は1627年、政宗によって仙台藩「準一家」の家格に列している。
他に、木村勘助という例もある。彼の本名は寺崎貞次といい、実は父の寺崎正次もこの殿入沢で殺された葛西旧臣、かつ葛西支族の一人である。貞次は伊達家に仕えるにあたって「寺崎」の姓を用いることをはばかり、木村勘助と変名した。
そういった者たちにとって、仙台藩の公式記録である『治家記録』になんと書かれようとも、異議を申し立てるのは難しい。滅亡した大名の旧臣たちは、生き抜くのに必死だったのである。
■ 大槻一族と仙台藩
こういった事情は大槻一族も同様であった。
大槻泰常の曽孫にあたる茂慶の代に大肝入(※大庄屋のこと。仙台藩では庄屋を「肝入」と呼ぶ)に任命されて民政と仙台藩政の橋渡し役となったのをきっかけに、大槻一族は仙台藩で活躍する人材を次々に輩出してゆく。
- 大槻玄沢:蘭学者。『解体新書』を書いた杉田玄白、前野良沢の弟子。藩医として仙台藩に召し抱えられた。また、江戸幕府の「蛮書和解御用」にも任命され、翻訳書多数。
- 大槻磐渓:玄沢の子で漢学者、儒学者。戊辰戦争の際に藩主・伊達慶邦の学問相手として藩論を影響力をもち、イデオローグとして奥羽越列藩同盟の結成に尽力。
- 大槻文彦:磐渓の子。仙台藩士として幕末の京都で情報収集の任務を負っていた過去もある。国語学者として日本初の近代辞書『言海』を著す。晩年は郷土史研究にも尽力。
- 大槻平泉:儒学者。仙台藩の藩校・養賢堂の学頭を40年近く勤め、学制改革を行う。
- 大槻習斉:平泉の嗣子。同じく養賢堂の学頭を務める。養賢堂の支校を開設。
簡単に列挙しただけでも、これだけの一族出身者が仙台藩士として活躍している。
クリックで拡大。 大槻家は一関で大肝入として活躍した一関大槻家、仙台で養賢堂学頭として活躍した仙台大槻家、 学者として主に江戸で活動した江戸大槻家の3つの系統がある。特に著名な大槻・磐渓・文彦を大槻三賢人と呼ぶ。 |
■ 先祖の没した地に立って
この殿入沢跡は、宮城県道257号線(河南登米線)沿いにあるが、普通に車を走らせていたらまず気付かずに通り過ぎてしまう場所だ。冒頭にも述べたように、古い街道沿いでよく見かける板碑のひとつにみえる。
そんな場所について長々と書いたのは、実は筆者が大槻文彦の子孫だからである。文彦の玄孫にあたる。大槻文彦の子孫ということは、自動的に大槻泰常も先祖になる。実に14世代前のご先祖様だ。
文彦はこの殿入沢の地に立ってすすり泣き、うろうろしては立ち去りがたい想いに駆られたという。国語学者だった文彦は「歔欷低徊し、去る能わず」というなかなか格調高い言葉遣いで自身の気持ちを表現している。
文彦の様な文才はなく、浅学な筆者ではあるが、子孫として文彦の想いについてもう少し掘り下げてみたい。
文彦は旧仙台藩士でありながら、廃藩置県後の明治時代に活躍した学者である。したがって、それまでの大槻家の人々と比べれば旧仙台藩のしがらみは弱まり、割と自由な観点から研究ができたはずだ。事実、藩政時代には到底不可能であっただろう伊達騒動(寛文事件)の研究成果として『伊達騒動実録』を著し、晩年には伊達家に滅ぼされた葛西氏の研究にも手を伸ばしている。
文彦には旧仙台藩士として、また郷土史家として藩祖・伊達政宗が当時おかれた苦しい立場も理解できた。一方、伊達政宗の命令によって、大槻家の祖・大槻泰常は討たれたことを考えると、子孫としては複雑な心境であろう。
...しかし、それこそが戦国という時代だったのだ。
それぞれに立場があり、相容れなければ戦って雌雄を決するしかない。
そういう世の中だった。
戦いは勝者と敗者を分ける。
昨日の勝者が明日の敗者となる。
勝者の歴史は記録され、敗者の記憶は薄れていく。
思えば戦国の勝者、仙台伊達藩ですら、戊辰戦争に敗れて朝敵の汚名をかぶった。
それでも月日は流れ、遺恨も薄れていく。
子孫たちは新しい時代を生きる。
歴史はそうやって、少しずつ紡がれていく。
そんな歴史の1ページを、後世の我々はきちんと記憶せねばならない。
...明治が去り、大正の世となった当時、こんな風に考えながら文彦が「低徊」している姿を、筆者は想像できる。自分でもうまく説明できないが、ふと「歔欷」してしまった文彦の姿を、筆者には想像できる。先祖である泰常が、文彦が、石碑を通してそのように語りかけてくるのだ。
...とまで言ってしまったら、流石に嘘くさいだろうか。
しかし、イギリスの歴史学者 E・H・カーが著書What is history? (『歴史とは何か』)で残した名言を思い出してほしい。
What is history? It is a continuous process of interaction between the historian and his facts, an unending dialogue between the past and the present.
歴史とは何か? それは、歴史家と歴史家にとっての史実との、一連の相互作用のプロセスであり、過去と現在の終わりのない対話である。歴史とは対話なのだ。筆者は現代を生きる人間としてこの場所に立ち、大槻泰常と、大槻文彦と、あるいはこの場所で繰り広げられた歴史と対話した。そうしたら、彼らはそんな風に答えてくれた気がした。
この場所は、筆者にとって過去との対話ができる、とても大切な場所なのだ。
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