2015年4月18日土曜日

伊達家・仙台藩に関する史料一覧

伊達家や仙台藩の歴史について研究するうえでよく登場する史料/資料について解説する。基本的には伊達家の記録だが、家臣や一門の領内について参考になる史料についても併せて記入した。

あ行

『会津四家合考』
(あいづしけ ごうこう)
寛文2年(1662)、会津藩士・向井新兵衛吉重が著す。会津を領有した蘆名・伊達・蒲生・上杉4家の歴史を記述したもの。
天正8年(1580)の蘆名盛氏の死去から、慶長6年(1601)に上杉景勝が会津から去り、蒲生秀行が会津城主となって入封するまでを扱っている。全12巻で、巻9~12は附録。

『飯坂盛衰記』(いいざか せいすいき)
伊達家の分流である飯坂氏についての記録。上下巻。記述は、政宗時代の飯坂家当主・飯坂宗康、その娘で政宗の側室となった飯坂の局、彼女の養子になった飯坂宗清について集中しており、飯坂家が断絶するまでを描いている。
いつ、誰が書いたのかは明確ではないが、その筆法から飯坂家の遺臣によるものではないかと推測される。

『石川氏一千年史』(いしかわし いっせんねんし)
陸奥国の独立領主でもあり、戦国時代末期には伊達家臣となった石川氏についての記録。石川家あるいは石川家ゆかりの旧家に残されていた史料がまだ散逸していなかった大正7年(1918)に編纂された。上下巻と続編からなり、上巻では石川晴光までの時代を、下巻では角田に移って以降の昭光~邦光までの時代について書かれている。『角田市史』の別巻①として1985年に復刊。

『遠藤山城文書』(えんどう やましろ もんじょ)
遠藤山城とは伊達輝宗の側近・遠藤基信のこと。31通の書状が所蔵されており、そのうちのほとんどが遠藤基信宛のもの。早いうちから室町幕府に見切りをつけ、信長とも連絡をもった輝宗外交について解き明かすうえで大切な史料。

『奥羽永慶軍記』(おうう えいけい ぐんき)
伊達家というよりも奥羽の戦国時代全般にわたる軍記物語。著者は出羽の国 雄勝郡 横堀生まれの戸部正直(一憨斎、一閑斎とも)。15歳のころから諸国を旅して歩き、旧記を求め、史跡を訪ねて古老の話を聞き、ついに元禄11年(1696年)それらの成果をまとめた『奥羽永慶軍記』40巻をまとめあげた。一閑斎54歳のころであるから、実に40年ちかくかけた大作である。
同時代の人物による著作ではなく、軍記物語として「文学」に分類されることも多いので基本的には一次史料として扱うことはできないうえ、明らかな史実上の誤りや」混同も散見される。しかし、奥州の戦国時代に関する記録自体が少ないため、どうしても参考にしなければならない部分も多く、引用する歴史家も多い。その内容、ボリューム共に軍記ものの傑作であるとされている。伊達家に関する部分も多い。

『奥州余目記録』(おうしゅう あまるめ きろく、『余目氏旧記』『留守氏旧記』とも)
宮城郡の記録と、その中心・留守氏の歴史。永正11年(1514)成立。
著者は留守氏の執事で、塩釜津の領主・佐藤氏と言われる。大崎氏の奥州支配の正当性を強調していることから、留守氏内の伊達派に対する大崎派に属する人物だと思われる。

か行
『片倉代々記』(かたくら だいだいき)
伊達家家臣・片倉家の正式記録。著者および編集の年代は代をおっているので数次にわたっている。初代・景綱~3代・景長までの部分は、貞享2年、片倉家第4代当主・村長が家臣・本沢直方に命じて書記させたものをベースに、水野与茂九郎、上野十治郎、佐藤権右衛門、渋谷左衛門らが編集し、最後に片倉村長自身が細詳を加えて貞享3年(1688)11月5日に完成したもの。本沢直方は、『伊達治家記録』編纂事業に史料を提供したこともある人物である。
現在は『白石市史4 史料篇(上)』に収録されている。

『木村宇右衛門覚書』(きむらうえもん おぼえがき)
9歳のころから伊達政宗の小姓を務めた木村宇右衛門可親(よしちか)が書き留めた政宗の言行録。『覚書』の記録は政宗の没年である1636年までにとどまらず、慶安5年(1652)の17回忌の記事までを収録しており、同じ年に木村宇右衛門に対し知行があてがわれている。これらから考えると、政宗の17回忌である1652年に間もない時期に成立したと考えるのが妥当であろう。
のちに『伊達治家記録』を編集する田辺希賢、遊佐木斎らは、その過程で『木村宇右衛門覚書』も参考にしている。彼らの『覚書』に対する評価は「大形者相違多キ者ニ相見ヘ」た様だが、それでも『覚書』から多くを引用しており、やはり政宗の言行を直接目撃した小姓の証言録として当時から貴重であったことがうかがわれる。『伊達政宗言行録』として1997年に復刊。

『御知行被下置御帳』(ごちぎょう くだされおき おんちょう)
延宝4(1676)年の末から3年4ヶ月かけて、仙台藩が十石以上の武士達に、知行する土地の「先祖以来の拝領の由緒」を書き出させ、それをまとめたもの。『仙台藩家臣録』として出版されている。

さ行

『成実記』(しげざねき)
伊達成実が晩年の寛永年間(1624~1644)に記したとされる、政宗と自身の軍記もの。自身が従軍した仙道方面の戦について特に詳しく、また出奔したとされる時期については記述がない。題名の異なる多くの異本が残されているが(『政宗記』『伊達日記』『伊達成実日記』など)、『成実記』を元に編集、脚色を加えたものだと考えられている。

『塵芥集』(じんかいしゅう)
伊達稙宗が定めた分国法。前文、本文171ヶ条、稙宗の署名と花押のあとに添えられた12名の家臣の起請文から成っている。一般的に、この起請文の日付である天文5年(1536)4月14日が制定年月日とされている。当時なにを規制しなければならなかったのかを示す史料であるため、当時の社会の様子がみてとれる。

『仙台領古城書上』(せんだいりょう こじょうかきあげ)
仙台藩内にかつて存在した中世の城館536城について作成された記録。江戸幕府に提出され、その時期は延宝年間(1673~1681年)のことと言われている。
城館について郡村ごとに平城/山城の別、大きさ、城主、来歴などについて記してある。多くの写本があり、内容について若干のばらつきはあるものの基本的な情報について大きな差異はなく、中世の城館について研究するうえでの基本史料となる。

た行

『伊達家史叢談』(だて かし そうだん)
伊達家31代目当主の伊達邦宗による、伊達家にまつわる記録を集めた書。大正9年~11年(1920~1922)にかけて作成。伊達の家系、歴代当主の事跡、仙台城の様子、家中行事などについての記載がある。

『伊達治家記録』(だて じかきろく、じけきろく)
『伊達治家記録』
仙台藩で編集された仙台藩、および伊達家の正史。正史であるがゆえに「勝者側の記録」という批判はどうしても免れないが、信頼性も高く、伊達家について研究するうえで一番外せない基本史料となる。
当主の代ごとにまとめられており、それぞれ『●●公治家記録』と呼ばれ、たとえば政宗の場合『貞山公治家記録』となる。
輝宗の代の『性山公治家記録』および政宗の代の『貞山公治家記録』は4代藩主・伊達綱村田辺希賢、遊佐木斎ら仙台藩の儒学者を用いて1703年(元禄16年)に完成。その後も編纂が続き、幕末の伊達慶邦の代までがおさめられている。

『伊達正統世次考』(だて せいとう せじこう)
伊達氏初期の系譜に疑問が多かったために興味をもった仙台藩4代藩主・伊達綱村が編集させたもので、落合時成・窪田権九郎・遊佐木斎・田辺希賢らが担当した。元禄16年(1703年)頃の成立と見られる。
「伊達出自正統世次考首巻」と、神代から伊達初代・朝宗に至る伊達氏の系譜を記した「伊達出自世次考」、朝宗から15代・晴宗までについて記した「伊達正統世次考」、「伊達出自正統世次考系図」から成る。中世までの伊達氏の動向を知る上での基本史料。

『伊達世臣家譜』(だて せしんかふ)
仙台藩の100石以上の知行をうける全藩士について、その家祖から明和(1764~1772年)・安永(1772~1780年)年間までの系譜と、知行高の増減、役職の任免などについて記している。藩の儒学者である田辺希文・希元・希績らが三代にかけて編集し、寛政4年(1792)の頃に成立した。希績はその後も編集を続け、文政7(1824)年までの諸家の系譜を記載した『伊達世臣家譜続編』を文政7年(1824)頃に完成させた。漢文調。

伊達天正日記』(だて てんしょう にっき)
天正15年(1587)1月1日~天正18年(1590)4月20日まで、飛び飛びではあるものの伊達家の公式記録として書かれた日記を集めたもので、信憑性は高い。その性質上、伊達家当主である政宗の行動やその周辺に重点がおかれている。著者は不明だが、決められた一人の記録者によって書かれ続けている。ただし、途中で記録者の交代はあった。
タイトルは「天正日記」であるが、編集されたのは江戸時代、伊達綱村による収支事業が推進された時期と考えられており、『治家記録』の引用参考書のなかに「当家其時代之日記」とあるのはこの天正日記のことであると考えられる。したがって、成立は1703年より以前となるが、編集により日記は忠実に保全され、内容に手が加えられることはなかった。

『伊達騒動実録』(だてそうどう じつろく)
自身も仙台藩士であった国語学者・大槻文彦による寛文事件(伊達騒動)の記録。関係各家の史料などをふんだんに盛り込んでおり、騒動についての基本史料となっている。
大槻文彦の祖父で蘭学者の大槻玄沢の時代、すでに伊達騒動は小説、軍談、歌舞伎の題材として世に知られていたが、どれも脚色され、真実からは遠ざかっていた。それをなげいた玄沢は伊達騒動の実録を作ろうと考えてその材料を集め、その子玄幹(文彦の叔父)がそれに増補して「寛文秘録」と題する書を編じた。しかし、当時は関係する各家の名誉も考慮しなければならない時代であったために、発表する機会に恵まれなかった。意思を継いだ文彦は明治35(1902)年に編集をはじめ、明治42年(1909)に『伊達騒動実録』を完成させた。

『段銭古帳』(たんせん こちょう)
天文7年(1538)成立。『棟役日記』と同じく、伊達稙宗が領内の支配を整えるために作成したもの。

は行

『晴宗公采地下賜録』(はるむねこう さいち かしろく)
天文の乱後の天文22年(1553)正月、伊達晴宗が家臣に所領安堵の判物を給与した際の控えを集成したもの。366通の安堵状や給与の文書が収録されている。伊達領内の領主・支配地の様子がうかがえる。

ま行

『棟役日記』(むねやく にっき)
天文4年(1535)成立。伊達稙宗が領内の支配を整えるために作成。

『茂庭家記録』(もにわけ きろく)
伊達家家臣・茂庭家に関する記録。天保5年(1834)に編纂された。

ら行

『留守分限帳』(るす ぶげんちょう)
戦国時代の留守領の様子を示した史料。『御館之人数』(おやかたのにんず)、『里之人数』(さとのにんず)、『宮人之人数』(みやうとのにんず)の三冊からなる。『御館之人数』では留守氏譜代の直属家臣、『里之人数』では外様の家臣、『宮人之人数』では塩釜神社の神職について、それぞれの知行地の規模が貫高で示されている。天文の乱が終結した天文17年(1548)以後に、混乱した家臣の所領について整理・確定するために作成されたものと思われる。


…どれもなかなか手に入りにくいものばかりで嫌になる。古本を探そうとするとアホみたいな値段がつくものばかりなので、図書館に通うのが現実的だろう。宮城県の図書館だと、宮城県図書館メディアテーク(市民図書館)の郷土史コーナーがとても充実している。関東の人なら、国会図書館に行けば何でもそろうはず。

手に入ったとしても、古文・漢文調なのは当然で、活字化されていない古文書や書状となれば崩し字になるので、現代人たる我々にはなかなか素直に読みにくいものばかりだ。

郷土史研究の道は長い。

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