2016年11月24日木曜日

中野宗時の乱 04 -伊達家の戦国大名化-

中野宗時の乱(元亀の乱)シリーズ。ここまで01で事件の背景02で事件の顛末を解説し、03で事件の全貌を推理してみたが、最終回となる今回は、事件の影響について書いてみたい。

結論から言うと、この事件をきっかけに伊達家はようやく君主権力が確立し、伊達家が一丸となって軍を動員できるようになった。これは、のちに政宗が飛躍する前提となっている。

どういうことか。詳細に追ってみよう。

■ 稙宗政権

伊達家の歴代当主の政権がどういったものだったかを検証するために、まずは伊達稙宗(輝宗の祖父、政宗の曾祖父)時代から振り返ってみる。

稙宗の時代、君主権力は強かったといえよう。例として、分国法である『塵芥集』の制定が挙げられる。この『塵芥集』で稙宗は地頭の私成敗(勝手に領民を裁くこと)を禁止したり、段銭徴収や棟役制度(税金の徴収)の整備を行っている。

『塵芥集』。画像は宮城県の重要文化財紹介ページから拝借。
天文5年(1536)に成立。171か条からなる。
一方で、そういった君主の方針に家臣も不満を抱えており、その不満が天文の乱という形で噴出する。

■ 晴宗政権

天文の乱の結果、敗北した稙宗は隠居を余儀なくされ、その息子である晴宗政権が成立する。
伊達稙宗と晴宗の方針の違いについてはこちらを参照 ⇒ 伊達稙宗の行動原理
しかしながらこの晴宗政権では、乱の論功行賞のために、晴宗方についた家臣の「惣成敗」「守護不入」や、本来伊達家の収入となるべき租税の徴収権を認めた結果、今度は家臣の力が強いという性格の政権になってしまった。

その家臣の筆頭が中野宗時とその息子である牧野久仲である。晴宗も中野宗時と牧野久仲にはそれなりに気を使っていた形跡があり、例えば牧野久仲は、伊達晴宗が奥州探題に任命されるのと同時に、奥州守護代に任命されている。

■ 輝宗政権

元亀の乱以前の伊達輝宗政権も、基本的には晴宗政権を引き継いだものだったため、家臣の力が強かった。この点は、仙台市博物館の菅野正道先生も指摘しておられる。

輝宗政権の初期段階において、輝宗は領国経営を任せる重臣の選択ができる立場にはなく、実質的には晴宗政権の枠組みを維持せざるを得なかったのである。」(『伊達氏と戦国争乱』p41)

しかしながら、元亀の乱で中野宗時が失脚したため、輝宗は自由に権力を行使できる立場になった。03で触れたように、乱の以前は中野一派の潜在的なシンパは多かったと思われるが、その当主である中野宗時が失脚したため、輝宗にストップをかけられる存在がいなくなったためである。

遠藤基信の進言により、中野に関与したと思われる者たちへの処罰もほとんどなかったことから、こういった旧中野シンパの者たちの間で、輝宗に対する心理的な負い目が生まれたことだろう。あるいは「積極的に手柄を立てることによって汚名をそそがなくては」という発想が生まれる。

■ 小梁川盛宗にみる輝宗政権の性格

典型的なのは小梁川盛宗(泥播斎)だ。彼は以前の記事でも触れたように、中野宗時の逃亡を見逃したことで輝宗の不興を買ったが、遠藤基信の進言によりその罪を許されている。その後、天正2年(1574)の最上との戦における小梁川盛宗の活動を『性山公治家記録』から抜き出してみると
  • 1月25日、上山城の里見民部への攻撃命令を受ける
  • 5月7日、伊達輝宗が高畑城に立ちよった際、2000貫を献上
  • 5月20日、最上との戦、畑谷口での戦闘で1番備えとして出陣
  • 8月1日、部下3名が五十嵐源三と共に敵3名を打ち取る
と、必死で輝宗の役に立とうとしている姿が想像できる。この小梁川盛宗の行動が積極的であったにせよそうでなかったにせよ、輝宗政権においてはある程度家臣をコントロールしやすくなったことは間違いない。

ちなみに小梁川盛宗は次世代の政宗政権においても活躍し、政宗側近衆のひとりとなっている。江戸時代以降は子孫も野手崎の領主として繫栄し、一家 第4席の家格を与えられた。

■ 天正4年 相馬の陣

続いて注目したいのが、天正4年(1576)の対相馬戦である。この戦において輝宗は、宿願である伊具郡の奪回を目指して大動員をかけた。その陣容をみてみると
  • 01番備 亘理重宗
  • 02番備 泉田景時
  • 03番備 田手宗時
  • 04番備 白石宗実
  • 05番備 宮内宗忠、砂金常長
  • 06番備 粟野宗国
  • 07番備 四保宗義、沼辺重俊、福田助五郎
  • 08番備 石母田三郎、大町七郎、江尻彦右衛門
  • 09番備 村田近重、小泉下野、中名輿市郎、舟迫右衛門
  • 10番備 秋保勝盛、中嶋宗意、中村盛時、支倉時正、小野雅樂之允
  • 11番備 桑折宗長、大條宗直、成田紀伊、下郡山朝秀、西大窪九郎三郎、桐ケ窪治部大輔
  • 12番備 中目長政、中嶋宗求、桜田三河、間柳式部大輔、山崎丹後
  • 13番備 飯坂宗康、瀬上景康、大波長成、須田左馬之助、須田太郎右衛門
  • 14番備 原田宗政、富塚宗綱
  • 15番備 遠藤基信、濱田大和
  • 16番備 伊達実元
  • 17番備 御旗本(『性山公治家記録 巻之三』天正4年8月2日の条より)

という錚々たるメンツである。ほとんどが城主あるいは中規模の領主クラスの者たちで、当時の伊達領における現在の福島県北部(伊達・信夫郡)から宮城県南部(刈田郡・柴田郡・伊具郡・亘理郡・名取郡)あたりの武将は総動員といった状況を呈している。

注目したいのは、稙宗政権・晴宗政権時代にこれだけの動員がかけられた形跡が認められないということだ。やはり輝宗政権では、伊達家当主・輝宗の号令のもとそれなりの軍事力を行使できた、ということになる。輝宗政権において伊達家は、はじめて真の意味で戦国大名化した、とも言えるだろう。

■ 政宗時代の飛躍はこれが前提

政宗の時代だけに注目すると、さも当たり前かの様に配下が政宗の命令を聞き、伊達家一丸となって戦をしているイメージがあるのだが、それは当たり前のことじゃないんだ、ということを筆者は言いたかった。

実際、家中の統制が最後までうまくいかず、小田原参陣ができなかったために秀吉に改易された葛西氏の例がすぐ隣の大名としてあるではないか。あるいはさらにその北の南部氏も、家中統制には苦労して九戸政実の乱が起きたといった例がある。

政宗だって、家臣のコントロールができない状態ではあれだけの領土拡大はできなかったに違いない。そういう意味で、伊達家中の統制強化のきっかけとなった中野宗時の乱とその鎮圧は、まことに歴史的意義の大きい事件であった、ということがわかっていただけただろうか。

前稿と似たような結論になってしまうが、改めて言いたい。今日、後世の我々が英雄・伊達政宗の活躍に心を躍らせることができるのも、この事件があったからこそなのだ。



0 件のコメント:

コメントを投稿