2015年4月29日水曜日

中羽前/北羽前街道の旅 [後編]

【承前】中羽前/北羽前街道の旅 [前編]
2日目はチェックアウトの時間近くまでゆっくーり休んでからゆっくーり出発。

■ 鮭延城/真室城跡

ひとつめの目的地は、宿泊した新庄と同じ最上地方の真室川。新庄から県道308号を北西に進む。この地域は戦国時代にまさに激戦地となったところで、庄内地方の大宝寺氏、秋田南部の小野寺氏、山形の最上氏、三者の争奪のマトとなった。

はじめ、この地を支配する鮭延氏は小野寺傘下だったのが、1581年に最上義光に攻められて降伏。以後、鮭延貞綱は最上義光に仕え、重臣のひとりとなった。その拠点となったのが、今からいく鮭延城で、真室城とも。

そこそこ険しい道を上っていくと...


かなり広い空間が。野球場が2つは入りそうな広大なスペース。どうやら上ってきた道は搦手で、大手門は逆の方向らしい。


本丸からみた景色。目の前を鮭川が流れる。右手奥の街並みは真室川町。案内板によると、この本丸広場から川辺の地下船蔵まで地下道が通じていたように描写されている。なんとも男心をくすぐる施設ではないか。


鮭川を渡った地点からながめた鮭延城全景。なかなかの城跡である。この要害っぷりは、平穏な江戸時代には逆にアダとなり、後にこの地に入封した戸沢氏は一度はこの鮭延城に入ったものの、平地に新庄城を築いて移動したのは以前の記事で触れたとおり。城は廃城となり、放置された。

■ 清水城跡

次の目的地も最上郡の拠点となった城跡のひとつ、清水城。ほぼ鮭川に沿うかたちで、県道35号 → 国道458号を大蔵村まで南下。


清水城は最上の一族、清水氏が統治していたが、6代清水義氏には子がなく、最上義光の3男・義親を養子に迎えた。彼は養子として清水家に入る前、豊臣への人質として大阪に預けられていたために、豊臣秀頼と近しい仲だった。

1614年、大坂の陣の直前にこれが問題となってしまう。清水義親は実の兄である最上家親から豊臣に通じている疑いをかけられ、清水城は攻撃され切腹させられることになってしまった。


城の入口を登っていくと、二の丸と本丸の間の空堀にいきつく。空堀は相当深く、3メートル近くはあった。現在はこれをV字型の坂道で昇り降りするが、当時は橋がかかっていたのではないか。


二の丸は田んぼになっていたが、本丸は広場として整備されている。こちらも鮭延城並みに広い敷地で、当時はいろいろな屋敷や櫓が建っていたであろうことが想像される。


本丸から見下ろす城下。最上川の水運を利用できる絶好の位置にあることがわかる。まだ「五月雨を あつめてはやし」という時期ではないものの、その流れは十分に速い。

■ めざせ鳴子峡

さて、ここから旅の復路となる。今回は往路で通った鍋越峠、中羽前街道のひとつ北、北羽前街道を通る。こちらは松尾芭蕉が有名な『奥の細道』で通った道で、奥州から羽州に入った芭蕉のルートを逆走するかたちになる。

清水からはまっすぐ東に進んで国道47号(北羽前街道)に入る。途中、最上町のコンビニで小休止。このあたりも、戦国時代には小国城があった場所で、ちょうど写真奥の山がそれだと思われる。

とりあえず県境をこえてから、景勝地として有名な鳴子峡と、芭蕉ファンの間では有名な旧仙台藩の尿前の関を目指していたのだが、休憩中にググっていたら、街道沿いに山形藩側の関所である笹森番所跡なるものもあることを発見し、そちらも目指すことに。

ただ、最上町笹森のあたりにあることはわかったのだけど、肝心の跡地は見つからなかった。この北羽前街道はこのあと何度もとおることになると思うので、またの機会に後回し。

北羽前街道は、狭い道が続いた鍋越峠と比べると、ゆるやかで道幅も十分なふつうの国道である。ただ、その分トラックややたらとスピードを出す車も多く、原チャリ族にとってはむしろ走りにくい。

県境の中山峠をこえてしばらく進むと、目的地の鳴子峡。


橋の前にドライブインがあり、そこからの眺めが最高だ。本来、鳴子峡は秋の紅葉で有名な場所であるので、葉っぱが色づいてきたらもう一度来ようと思う。

鳴子峡の橋を渡ってちょこっと進むと、尿前の関跡がある。自分にとっては旧仙台藩の旧跡として興味がある場所なのだが、芭蕉ファン、および俳諧ファンにとっては「聖地」であり、一度は来なければならない場所らしい。


関所跡も復元され、周囲には芭蕉の句碑が建つなど、だいぶ整備されている。

■ 一大イベント

さて、景色のいいドライブを十分に満喫したところで、あとは岩出山経由で帰るだけなのだけど、今日は自分にとっての一大イベントを控えており、朝からそればっかりが気になっていた。朝、出発の段階でスクーターの走行距離が7700キロを超えており、このままいけば今日中に走行7777.7キロの7ゾロ目を迎えられそうだったのだ。

清水城を出たあたりで、おそらく鳴子のあたりで数字がそろいそうだなー、と思っていたところ、尿前の関で止まった時点で残り15キロくらいだった。

幸い、ここからは1.8車線くらいの本線脇に十分な幅がある道が続いていたので、メーターとにらめっこしながら自分の中でカウントダウンをしつつ、その時がくるのを待ちながら走る。そして...


祝! 7777.7㎞走破!!

さて、次にメーターがそろうのはあと7万キロ走った後か。原チャリで77777.7の数字を見た人っているんだろうか...笑

■ 岩出山とその周辺

これでメーターに気を取られることがなくなったので、あとはぶっとばして仙台まで帰るだけ。途中、道の駅岩出山(「あ・ら・伊達な道の駅」というナゾの名前なのだが)で遅めの昼食をとったあと、ちょっと寄り道して一栗城を目指す。


ここは大崎家の家臣、一栗氏の居城で、大崎家の執事でありながらたびたび本家に反抗した岩出山の氏家党の一派である。

その氏家党の本拠地・岩出山城はのちに伊達政宗の居城となるも、すぐに仙台に本拠地を移したため、事実上の拠点となったのは10年間程度だった。ただし、岩出山は仙台藩の要害として統治の拠点ではあり続けた。


今回はブログに使う全景写真をとりたかっただけなので、さらっと見学しておしまい。岩出山周辺には、有備館や伊達家の霊廟など見るべきところがいろいろあり、とても半日では収まらないのでこれもまたの機会に。

そのまま南下して、往路で通った中新田へ。そこからは同じルートをたどって帰宅。それにしても2日目は前日のようなトラブルもなく、走行距離も縁起のいい数字が並び、快適な一日だった。2日間を通して、天気のいいドライブ日和な日だったのも幸い。2週間前のお花見ツアーでも、これくらいいい天気が続けばよかったんだけどなぁ...。

■ 旅のルート・立ち寄りスポット


2015年4月21日火曜日

戦国時代 秋保一族

秋保あきう

秋保(あきう)の郷。仙台近郊の温泉地として有名。
戦国時代は伊達・最上間の街道として重要だった。
湯元・長袋・境野・馬場・新川秋保五ヶ村からなる。
秋保 盛房(讃岐守、~1551年(天文20年))
秋保義光の嫡男。伝承によれば、明応9年(1500年)に名取郡大曲の領主・長井晴信から攻められ、出羽の最上義守のもとへ12年間身を預けることになった。しかし秋保の百姓が決起して盛房を帰還させ、長井晴信が拠点とした楯山城を攻め落としたという。
もっとも、最上義守は1521年の生まれであり、長井晴信なる人物の実在性も疑わしいが、秋保と最上氏のつながりを示す伝承ではある。

秋保 盛義
→ 義光の子。馬場盛義。

秋保 則盛(伊勢守)
盛房の嫡男。最上義守の娘を妻としており、上記の伝承となんらかの関わりがあるものと思われる。一方で、現在の宮城県南部に勢力を伸ばしてきた伊達稙宗に臣従することになった。1543年(天文12年)7月12日、伊達稙宗から大崎義宜の指揮下に入って活動するよう命じられており、天文の乱の際は稙宗党であった可能性が高い。

秋保 勝盛(大膳亮、美作守)
則盛の嫡男。母は最上義守の娘であり、同じく義守の娘・義姫を母とする伊達政宗とは従兄弟の関係にあたる。国分盛氏の娘を妻とした。天正4年(1576年)の伊達輝宗による対相馬出兵の際は10番備にその名がみえる。


秋保 盛久
→ 則盛の次男。境野盛久。

秋保 盛頼
→ 則盛の三男。竹内盛頼。

秋保 資盛
勝盛の嫡男。おそらく早世したものと思われ、跡を弟の直盛が継いだ。

秋保 直盛(平五郎、弾正忠)
勝盛の3男。当初、祖母の実家である最上氏を頼り、天童氏の婿となる。しかし、兄である資盛の死去により秋保家へ戻り家督を継承した。1587年(天正15年)の『伊達天正日記』では米沢に出仕しており、鮭を献上するなど伊達家の一員であったことがわかる。1591年(天正19年)には政宗の指示で葛西・大崎一揆の鎮圧に出動。また同じ年、秋保氏は正式に伊達家御一家に格付けされる。朝鮮出兵の際は肥前名護屋の政宗からその様子を知らされている。
直盛へあてた留守政景書状によれば秋保氏と馬場氏の間に何らかの対立が生じ、これが解決にいたった旨が記されている。また、1587年の国分騒動の際は境野玄蕃の粗略を非難した政宗から境野氏を差配するように言われ、代わりに国分から最上領へ移動するものたちの荷物を改めるように命じられている。

秋保 定盛(播磨・雅楽) 
直盛の子。この代に領地替えがあり、慶長8年(1603年)、秋保宗家は刈田郡 小村崎村(現・宮城県蔵王町)に移封となった。寛永元年(1624年)、長袋・湯元・境野・馬場の各村に野谷地25町を与えられる。この開発をもとに承応元年(1652年)、伊達忠宗から楯山原の在郷屋敷を賜り、小村崎村から9軒の家中を率いて秋保へ帰郷した。

秋保氏系図


馬場氏

馬場 盛義(助太郎、賀沢左衛門)
義光の子で盛房の弟。馬場に居住し上館城を築き、馬場氏を称した。

馬場 直重
盛義の子。

秋保 定重(摂津守)
直重の子。天正17年(1589年)の正月には伊達政宗に年賀の進物をしていることから、秋保一族であると同時に政宗の直臣であったことがわかる。大崎合戦後に政宗を裏切った長江月鑑斎を預かり、後にこれを政宗の命により殺害した。1599年(慶長4年)8月19日付の政宗書状には秋保に知行地を与えられている衆は定重の命に従うようにとあり、おそらく秀吉没後の政情不安定な時期に対最上防衛を整える措置だったと思われる。秋保宗家の直盛と並んで、あるいはそれ以上に政宗から重用されている様子がうかがえる。
領内では上館から移って豊後館を築いた。また、湯本小屋館を築城したとも伝えられ、秋保地域の東西を抑える役目を担っていた。祖父・盛義の代から馬場氏を名乗っているはずだが、なぜか「秋保」の姓で登場する。

秋保 頼重(刑部)
定重の子。慶長8年(1603年)に刈田郡 円田村(現・宮城県蔵王町)に移封となる。慶長遣欧使節団を乗せた船・サン・ファン・バウティスタ号建設の際の船奉行として、その造船に関わった。


境野氏

境野 盛久(信濃)
秋保則盛の次男で勝盛の弟。境野・新川地区を領有し、境野氏を称した。『伊達天正日記』によれば、境野氏は秋保本家からは独自に政宗のもとに出仕していたことがわかる。

境野 盛元
盛久の子。

境野 玄蕃
天正15年(1587年)7月の秋保直盛宛て政宗書状によれば、同年の国分騒動の際、国分領を離れ最上領へ移動しようとした者の荷物が境野玄蕃によって留められたが、政宗は玄蕃の粗略を非難して直盛が境野氏を差配するように命じている。この玄蕃が上記の盛久、もしくは盛元のどちらかなのか、あるいは別の人物なのかは不明。

境野 盛忠
おそらく盛元の子だと思われるが詳細は不明。この代に境野氏は加美郡大村(現・宮城県色麻町)へ移封となった。


竹内氏

竹内 盛頼
秋保則盛の3男で勝盛の弟。長袋地区の竹内を領有し、竹内氏を称した。

その他

秋保若狭、秋保惣右衛門、秋保外記、秋保出雲、秋保五郎右衛門
『最上義光分限帳』に名前が見える。それぞれ詳細は不明だが、最上氏に仕えていた秋保一族もいたようである。

秋保氏関連の城館
仙台・山形間最短の山越え街道である二口街道(県道62号)に城館が点在しているのがわかる。
水色はおとなり・国分氏の城館。より詳細な地図はこちらから。
■ 参考文献
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 通史編2 古代中世』(仙台市、2000年)
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 通史編3 近世Ⅰ』(仙台市、2001年)
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 特別篇7 城館』(仙台市、2006年)
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 特別篇9 地域誌』(仙台市、2014年)
・秋保・里センター 「秋保の歴史

2015年4月18日土曜日

伊達家・仙台藩に関する史料一覧

伊達家や仙台藩の歴史について研究するうえでよく登場する史料/資料について解説する。基本的には伊達家の記録だが、家臣や一門の領内について参考になる史料についても併せて記入した。

あ行

『会津四家合考』
(あいづしけ ごうこう)
寛文2年(1662)、会津藩士・向井新兵衛吉重が著す。会津を領有した蘆名・伊達・蒲生・上杉4家の歴史を記述したもの。
天正8年(1580)の蘆名盛氏の死去から、慶長6年(1601)に上杉景勝が会津から去り、蒲生秀行が会津城主となって入封するまでを扱っている。全12巻で、巻9~12は附録。

『飯坂盛衰記』(いいざか せいすいき)
伊達家の分流である飯坂氏についての記録。上下巻。記述は、政宗時代の飯坂家当主・飯坂宗康、その娘で政宗の側室となった飯坂の局、彼女の養子になった飯坂宗清について集中しており、飯坂家が断絶するまでを描いている。
いつ、誰が書いたのかは明確ではないが、その筆法から飯坂家の遺臣によるものではないかと推測される。

『石川氏一千年史』(いしかわし いっせんねんし)
陸奥国の独立領主でもあり、戦国時代末期には伊達家臣となった石川氏についての記録。石川家あるいは石川家ゆかりの旧家に残されていた史料がまだ散逸していなかった大正7年(1918)に編纂された。上下巻と続編からなり、上巻では石川晴光までの時代を、下巻では角田に移って以降の昭光~邦光までの時代について書かれている。『角田市史』の別巻①として1985年に復刊。

『遠藤山城文書』(えんどう やましろ もんじょ)
遠藤山城とは伊達輝宗の側近・遠藤基信のこと。31通の書状が所蔵されており、そのうちのほとんどが遠藤基信宛のもの。早いうちから室町幕府に見切りをつけ、信長とも連絡をもった輝宗外交について解き明かすうえで大切な史料。

『奥羽永慶軍記』(おうう えいけい ぐんき)
伊達家というよりも奥羽の戦国時代全般にわたる軍記物語。著者は出羽の国 雄勝郡 横堀生まれの戸部正直(一憨斎、一閑斎とも)。15歳のころから諸国を旅して歩き、旧記を求め、史跡を訪ねて古老の話を聞き、ついに元禄11年(1696年)それらの成果をまとめた『奥羽永慶軍記』40巻をまとめあげた。一閑斎54歳のころであるから、実に40年ちかくかけた大作である。
同時代の人物による著作ではなく、軍記物語として「文学」に分類されることも多いので基本的には一次史料として扱うことはできないうえ、明らかな史実上の誤りや」混同も散見される。しかし、奥州の戦国時代に関する記録自体が少ないため、どうしても参考にしなければならない部分も多く、引用する歴史家も多い。その内容、ボリューム共に軍記ものの傑作であるとされている。伊達家に関する部分も多い。

『奥州余目記録』(おうしゅう あまるめ きろく、『余目氏旧記』『留守氏旧記』とも)
宮城郡の記録と、その中心・留守氏の歴史。永正11年(1514)成立。
著者は留守氏の執事で、塩釜津の領主・佐藤氏と言われる。大崎氏の奥州支配の正当性を強調していることから、留守氏内の伊達派に対する大崎派に属する人物だと思われる。

か行
『片倉代々記』(かたくら だいだいき)
伊達家家臣・片倉家の正式記録。著者および編集の年代は代をおっているので数次にわたっている。初代・景綱~3代・景長までの部分は、貞享2年、片倉家第4代当主・村長が家臣・本沢直方に命じて書記させたものをベースに、水野与茂九郎、上野十治郎、佐藤権右衛門、渋谷左衛門らが編集し、最後に片倉村長自身が細詳を加えて貞享3年(1688)11月5日に完成したもの。本沢直方は、『伊達治家記録』編纂事業に史料を提供したこともある人物である。
現在は『白石市史4 史料篇(上)』に収録されている。

『木村宇右衛門覚書』(きむらうえもん おぼえがき)
9歳のころから伊達政宗の小姓を務めた木村宇右衛門可親(よしちか)が書き留めた政宗の言行録。『覚書』の記録は政宗の没年である1636年までにとどまらず、慶安5年(1652)の17回忌の記事までを収録しており、同じ年に木村宇右衛門に対し知行があてがわれている。これらから考えると、政宗の17回忌である1652年に間もない時期に成立したと考えるのが妥当であろう。
のちに『伊達治家記録』を編集する田辺希賢、遊佐木斎らは、その過程で『木村宇右衛門覚書』も参考にしている。彼らの『覚書』に対する評価は「大形者相違多キ者ニ相見ヘ」た様だが、それでも『覚書』から多くを引用しており、やはり政宗の言行を直接目撃した小姓の証言録として当時から貴重であったことがうかがわれる。『伊達政宗言行録』として1997年に復刊。

『御知行被下置御帳』(ごちぎょう くだされおき おんちょう)
延宝4(1676)年の末から3年4ヶ月かけて、仙台藩が十石以上の武士達に、知行する土地の「先祖以来の拝領の由緒」を書き出させ、それをまとめたもの。『仙台藩家臣録』として出版されている。

さ行

『成実記』(しげざねき)
伊達成実が晩年の寛永年間(1624~1644)に記したとされる、政宗と自身の軍記もの。自身が従軍した仙道方面の戦について特に詳しく、また出奔したとされる時期については記述がない。題名の異なる多くの異本が残されているが(『政宗記』『伊達日記』『伊達成実日記』など)、『成実記』を元に編集、脚色を加えたものだと考えられている。

『塵芥集』(じんかいしゅう)
伊達稙宗が定めた分国法。前文、本文171ヶ条、稙宗の署名と花押のあとに添えられた12名の家臣の起請文から成っている。一般的に、この起請文の日付である天文5年(1536)4月14日が制定年月日とされている。当時なにを規制しなければならなかったのかを示す史料であるため、当時の社会の様子がみてとれる。

『仙台領古城書上』(せんだいりょう こじょうかきあげ)
仙台藩内にかつて存在した中世の城館536城について作成された記録。江戸幕府に提出され、その時期は延宝年間(1673~1681年)のことと言われている。
城館について郡村ごとに平城/山城の別、大きさ、城主、来歴などについて記してある。多くの写本があり、内容について若干のばらつきはあるものの基本的な情報について大きな差異はなく、中世の城館について研究するうえでの基本史料となる。

た行

『伊達家史叢談』(だて かし そうだん)
伊達家31代目当主の伊達邦宗による、伊達家にまつわる記録を集めた書。大正9年~11年(1920~1922)にかけて作成。伊達の家系、歴代当主の事跡、仙台城の様子、家中行事などについての記載がある。

『伊達治家記録』(だて じかきろく、じけきろく)
『伊達治家記録』
仙台藩で編集された仙台藩、および伊達家の正史。正史であるがゆえに「勝者側の記録」という批判はどうしても免れないが、信頼性も高く、伊達家について研究するうえで一番外せない基本史料となる。
当主の代ごとにまとめられており、それぞれ『●●公治家記録』と呼ばれ、たとえば政宗の場合『貞山公治家記録』となる。
輝宗の代の『性山公治家記録』および政宗の代の『貞山公治家記録』は4代藩主・伊達綱村田辺希賢、遊佐木斎ら仙台藩の儒学者を用いて1703年(元禄16年)に完成。その後も編纂が続き、幕末の伊達慶邦の代までがおさめられている。

『伊達正統世次考』(だて せいとう せじこう)
伊達氏初期の系譜に疑問が多かったために興味をもった仙台藩4代藩主・伊達綱村が編集させたもので、落合時成・窪田権九郎・遊佐木斎・田辺希賢らが担当した。元禄16年(1703年)頃の成立と見られる。
「伊達出自正統世次考首巻」と、神代から伊達初代・朝宗に至る伊達氏の系譜を記した「伊達出自世次考」、朝宗から15代・晴宗までについて記した「伊達正統世次考」、「伊達出自正統世次考系図」から成る。中世までの伊達氏の動向を知る上での基本史料。

『伊達世臣家譜』(だて せしんかふ)
仙台藩の100石以上の知行をうける全藩士について、その家祖から明和(1764~1772年)・安永(1772~1780年)年間までの系譜と、知行高の増減、役職の任免などについて記している。藩の儒学者である田辺希文・希元・希績らが三代にかけて編集し、寛政4年(1792)の頃に成立した。希績はその後も編集を続け、文政7(1824)年までの諸家の系譜を記載した『伊達世臣家譜続編』を文政7年(1824)頃に完成させた。漢文調。

伊達天正日記』(だて てんしょう にっき)
天正15年(1587)1月1日~天正18年(1590)4月20日まで、飛び飛びではあるものの伊達家の公式記録として書かれた日記を集めたもので、信憑性は高い。その性質上、伊達家当主である政宗の行動やその周辺に重点がおかれている。著者は不明だが、決められた一人の記録者によって書かれ続けている。ただし、途中で記録者の交代はあった。
タイトルは「天正日記」であるが、編集されたのは江戸時代、伊達綱村による収支事業が推進された時期と考えられており、『治家記録』の引用参考書のなかに「当家其時代之日記」とあるのはこの天正日記のことであると考えられる。したがって、成立は1703年より以前となるが、編集により日記は忠実に保全され、内容に手が加えられることはなかった。

『伊達騒動実録』(だてそうどう じつろく)
自身も仙台藩士であった国語学者・大槻文彦による寛文事件(伊達騒動)の記録。関係各家の史料などをふんだんに盛り込んでおり、騒動についての基本史料となっている。
大槻文彦の祖父で蘭学者の大槻玄沢の時代、すでに伊達騒動は小説、軍談、歌舞伎の題材として世に知られていたが、どれも脚色され、真実からは遠ざかっていた。それをなげいた玄沢は伊達騒動の実録を作ろうと考えてその材料を集め、その子玄幹(文彦の叔父)がそれに増補して「寛文秘録」と題する書を編じた。しかし、当時は関係する各家の名誉も考慮しなければならない時代であったために、発表する機会に恵まれなかった。意思を継いだ文彦は明治35(1902)年に編集をはじめ、明治42年(1909)に『伊達騒動実録』を完成させた。

『段銭古帳』(たんせん こちょう)
天文7年(1538)成立。『棟役日記』と同じく、伊達稙宗が領内の支配を整えるために作成したもの。

は行

『晴宗公采地下賜録』(はるむねこう さいち かしろく)
天文の乱後の天文22年(1553)正月、伊達晴宗が家臣に所領安堵の判物を給与した際の控えを集成したもの。366通の安堵状や給与の文書が収録されている。伊達領内の領主・支配地の様子がうかがえる。

ま行

『棟役日記』(むねやく にっき)
天文4年(1535)成立。伊達稙宗が領内の支配を整えるために作成。

『茂庭家記録』(もにわけ きろく)
伊達家家臣・茂庭家に関する記録。天保5年(1834)に編纂された。

ら行

『留守分限帳』(るす ぶげんちょう)
戦国時代の留守領の様子を示した史料。『御館之人数』(おやかたのにんず)、『里之人数』(さとのにんず)、『宮人之人数』(みやうとのにんず)の三冊からなる。『御館之人数』では留守氏譜代の直属家臣、『里之人数』では外様の家臣、『宮人之人数』では塩釜神社の神職について、それぞれの知行地の規模が貫高で示されている。天文の乱が終結した天文17年(1548)以後に、混乱した家臣の所領について整理・確定するために作成されたものと思われる。


…どれもなかなか手に入りにくいものばかりで嫌になる。古本を探そうとするとアホみたいな値段がつくものばかりなので、図書館に通うのが現実的だろう。宮城県の図書館だと、宮城県図書館メディアテーク(市民図書館)の郷土史コーナーがとても充実している。関東の人なら、国会図書館に行けば何でもそろうはず。

手に入ったとしても、古文・漢文調なのは当然で、活字化されていない古文書や書状となれば崩し字になるので、現代人たる我々にはなかなか素直に読みにくいものばかりだ。

郷土史研究の道は長い。

2015年4月16日木曜日

松森城 -仙台の鶴ヶ城-

まつもりじょう
松森城
松森城遠景。南方面から。2015年。
別称
鶴ヶ城、鶴館、乙森城
城の格
本城(国分氏時代、諸説あり)
在所(仙台藩、江戸時代~)
城郭構造
平山城、または山城
天守構造
なし
比高
約50m (ふもとの標高:約20m、本丸約70m)
残存遺構
曲輪、土塁、堀切、空堀、虎口
指定
特になし
築城
築城年
不明
築城者
国分氏?
城主
国分氏
国分宗政、盛重(-1587年10月)
石母田氏
石母田景頼(在番衆、-1588年6月)
粟野氏
粟野宗国、国治(定番、1588年6月-1589年6月)
不明
奥州仕置~江戸時代初期の扱いは不明
粟野氏
粟野宗国、重清(-1614年前後)
矢野氏
矢野定芳、定孝、定明、定継(1729年12月-)
廃城
廃城年
不明(江戸時代は在所として存続)
理由
不明
位置
住所
宮城県仙台市泉区 松森内町
現状
鶴ヶ城公園、山林、鶴ヶ岡中学校
鶴ヶ城、ときけば普通は会津の鶴ヶ城を思い浮かべるであろう。だが、実は仙台にも鶴ヶ城なる城がある。中世に松森城と呼ばれたものがそれで、現在の仙台市街地がちょうど北にすりきれるあたりに位置している。

1.松森城の歴史 
1-1.国分氏時代
松森城をいつ、誰が、何のために建てたのかはっきりしたことはわかっていないが、おそらくこの一帯を支配した国分氏によるものだろう。

1506年(永正3年)5月には国分家中の有力親族である松森盛次が反乱を起こしており、国分胤実の討伐を受けている。同じ年の4月には国分氏のライバル・留守氏との間で小鶴沼合戦が起きて大敗したばかりであり、これとなんらかの連動があったと思われる。

また、『伊達正統世次考』の牧野安芸・石田山城宛て伊達稙宗書状(1537年(天文6年12月26日条))で、国分氏と留守景宗との戦について述べるながれで松森城の名が出てくる。

1542年(天文11年)に天文の乱が発生すると、同年11月に晴宗党の留守景宗が稙宗方の国分氏・松森城に攻め入っていった。当時の国分当主は国分宗政である。

1-2.国分騒動
その後、国分氏には伊達家から伊達晴宗の子・盛重が入嗣する(1577年(天正5年)12月)が、『仙台領古城書上』ではこの盛重が小泉城から松森城に移り住んだとしている。となれば、松森城は国分氏にとっての本城であったことになる。

なお二の丸については盛重の家来・高平大学が城主となり「乙森城」とも呼ばれた。別の城として扱われていたのかもしれない。

しかし、養子として国分家に入った盛重の統治はうまくいかなかった。!1587年(天正15年)には盛重に反対する家臣らとの間で内紛がおきた。この年の春には反盛重の代表格・堀江長門が盛重居城(松森城のことかどうかは不明)を滅亡寸前まで追い込んだが、盛重の兄であり、ご近所の大名でもある留守政景の援軍によりなんとか事なきを得る。

一度は収まった騒動も、10月ごろになると再び反盛重の動きがたかまり、業を煮やした伊達政宗は小山田頼定に軍勢を預け、武力で国分盛重を鎮定しようとした。

驚いた盛重は米沢に参上してワビをいれ、国分領は盛重の手から離れることで一件落着した。その後、松森城を含む国分領はどうやら政宗直轄領になったらしい。

1-3.対大崎後方基地へ
政宗が国分領を直轄領としたのには、事情がある。この国分騒動と並行して、伊達北方の大崎領がどうもキナ臭くなりだしたのだ。

国分氏の場合と同じく大崎家中の内紛なのだが、政宗はこれに乗じて大崎領をわが物にしようともくろんだ。松森城はちょうど大崎領侵攻のうえで後方基地の任を担える位置にあり、政宗による松森城の体制強化が行われる。

赤が大崎領。伊達の本拠地からは飛び地となる「松山」と記した緑色の
一帯あたりが対大崎最前線となるのだが、国分領はとなりの留守領と
並んでその後方基地となりえる地勢であったことがわかる。
1587年(天正15年)12月16日の伊達政宗書状からは、大崎家の内紛に際して伊達の軍勢が松森城に駐屯しており、翌年1月の大崎攻めの際も松森城からの援軍を発進させる考えがあったことがわかる。

人員も強化され、田副帯刀助が派遣され、「在番衆」として石母田景頼が松森に駐屯した。1588年5月には石母田景頼が仙道方面に出動したため、北目城主の粟野宗国・国治兄弟が「定番」として松森城に詰めている。おそらく、この1587~88年が松森城近辺が一番あわただしかった時期ではないだろうか。

1-4.松森城の合戦
一度は収まった国分騒動だが、今度はどういう事情かはわからないものの、最終的に政宗は国分盛重を討つことに決めた。文禄5年(1596年)3月(1599年説もあり)、政宗の軍勢は松森城を攻め、国分盛重は義兄でもある常陸の佐竹義重のもとへ逃げ延びた。

このエピソードは『奥羽永慶軍記』に収められているのだが、なんとも謎が多い。そもそも1587年の段階で国分盛重の手を離れた松森城に、なぜ盛重がいるのかがよくわからない。加えて、松森城の兵はことごとく「討死に」したとあるのだが、盛重の子である古内重広などは後に仙台藩の重臣となっている。

いずれにしてもこの時期に政宗が国分盛重を討ち、その戦場となったのが松森城であることは確かなようだ。

1-5.「在所」松森
その後の松森城に関して記すところは少ないが、葛西・大崎一揆がおこると、大崎合戦のころと同じく後方基地としての重要性がクローズアップされ、1590年(天正18年)11月14日には一揆の鎮圧に赴いた蒲生氏郷が松森城に着陣している。

江戸時代になると松森城は城として機能することはなくなったものの、仙台藩の「在所として統治の拠点であり続けた。

大崎合戦の時期に「定番」として松森城に詰めた粟野宗国の所領となっている。宗国は比較的近所の北目城主から、奥羽仕置のあとで大原城(岩手県一関市)へと移封になり、再度宮城郡へ戻ってきたかたちになる。

『野初絵図』 宮城県図書館所蔵
宗国の子・重清は政宗の長男・秀宗にしたがって宇和島に行くことを命じられたがこれを断って改易となった。いつから松森が粟野家の所領となっていたかはわからないが、重清の改易が1614年前後であることから、それよりも前であることは確かである。

1-6.矢野氏時代
ここからまたしばらく松森の状況がわからなくなるのだが、享保14年(1729年)12月には矢野定芳が600石とともに松森の在所を拝領しており、以後矢野氏の所領となる。

矢野氏時代の松森は、隣の岩切城付近とあわせて狩場として用いられることが多く、仙台城からも近場であることからたびたび藩主が訪れたらしい。やがてこれが定着し、軍事訓練でもあり、御遊びとしての狩りでもある「野初のはじめ」として正月の恒例行事となった。現在、松森城付近は住宅地となっているが、おだやかな丘が続く地帯であり、仙台城からも近いことを考えると確かに狩りをするには絶好の場所かもしれない。

2.松森城の構造
松森城の別名「鶴ヶ城」は鶴が翼を広げた鶴翼のかたちに似ていることからきている。


上の図はGoogle Mapの衛星写真に、へたくそなマウス操作で引いてみた城郭ラインだ。大きく、西部の曲輪群東部の曲輪群にわけられていることがわかる。現在、大手通(青のライン)であったと思われる道を上っていくことができるのは東部の曲輪群のみで、西部は山林に埋もれている(よって、この記事で述べるのは主に東曲輪群と薬師神社一帯についてとなる)。

また、訪れた限りでは薬師神社のあたりも独立した曲輪群のように見受けられたのだが、上述の『野初絵図』では東西の曲輪が城として認識されているのに対し、薬師神社の近辺は曲輪としては描かれていない。あるいは神聖な神社の一帯は狩場から外れたのかもしれず、これも城の一部とするのが自然だろう。

上記の「1-2.国分騒動」で触れた「二の丸には高平大学が住んで乙森城と呼ばれ云々...」の二の丸に相当するのは、おそらく西曲輪群のことだと思われる。

2-1.東曲輪群 登城口
登城口は途中で大きく曲がりくねっている。


登りきると、現在の駐車場になっている広場にいきつく。はじめ東曲輪群の三の丸に相当するものかと思ったのだが、写真左側が相当な急角度でえぐれているため、駐車場を設けるために整地したものだろう。

駐車場からは徒歩で移動。これもまた大きく曲がりくねっている。

おそらくここが大手門跡か。この先から二の丸と本丸に道が分かれる。本丸に向かう道はさらに曲がりくねり、虎口になっている。

2-2.東曲輪群 本丸
本丸の様子。かなり広い。お隣の鶴ヶ岡中学校のチャイムが響く。

本丸から仙台市街を一望(クリックで拡大)。画面中央奥の山並みが留守氏の岩切城。右手の煙突は松森のクリーンセンター。左の広場が本丸。右側で大きく突き出している広場が二の丸。

二の丸から見上げた本丸。上のパノラマ写真は、ちょうど画面中央の枯れ木のあたりから撮影。

2-3.東曲輪群 二の丸
本丸の南東部に大きく細長く突き出ているのが東曲輪群の二の丸である。

本丸から見下ろした二の丸。

向かいに見える山は、国分氏のライバル・留守氏の岩切城(高森城)。現在は二つの城の間は住宅地となっているが、当時、ふたつの城に挟まれた場所で平和に暮らせるわけがない。

特筆するべきはその距離の近さで、二つの城の距離はたったの1500メートル程しかないのだ。しかも、松森城、岩切城ともにそれぞれ国分・留守の本城であった可能性があり、そうなれば一触即発。記録に残っている戦い以外にも、小競り合いが頻発していたのではないかと思われる。いよいよもって、これらの城の間に住むのは危険極まりない。

二の丸の南側は大きく落ち込んだ沢になっている。

2-4.薬師神社一帯
この一帯が松森城の一部であったかどうかは定かではないが、本記事ではそうであったと仮定したうえで話を進める。ただし、東曲輪群と薬師神社一帯の間には大きく落ち込んだ堀切があり、薬師神社へも一度山を下りたうえで長い階段を上っていくことになる。

神社の奥に続く道をゆくと...

大きく落ち込んだ堀切がある。写真の左手が東曲輪群、右手が薬師神社一帯。

2-5.松森城周辺
松森城の裏側(北川)にあたる鶴ヶ岡中学校。住宅地化が進んでおり、だいぶ整地された後だと思われるが、このあたりも城の一部だったのではないか。


松森城の南側から。仙台では貴重な田園地帯となっている。ふもとの住宅地付近には城下町とまではいかないまでも、集落があったことが中世の絵図からわかる。また、水堀も存在した(上記『野初絵図』参照のこと)。写真の左側が東曲輪群、右側が薬師神社一帯。間の木が生えていないあたりが、上記写真の堀切である。

松森城の北側。今回の訪問では入ることのできなかった西曲輪群の裏側あたりにあたる。急な崖がそびえたつ。
最後に、松森城の遠景。南側から撮影したもの。いやー、天気のいい日でよござんした。

■参考文献
・仙台市史編さん委員会 『仙台市史 特別編7 城館
・古内泰生『政宗が殺せなかった男 秋田の伊達さん』(現代書館、2014年)
・紫桃正隆『みやぎの戦国時代 合戦と英雄』(宝文堂、1993年)
・現地案内板


2015年4月14日火曜日

「信長の野望・創造」における東北地方にツッコミをいれる

3月の末から立て続けに2本の記事(こちらこちら)を投稿したのだが、結局ブログの更新が昨年の12月から大きく空いてしまった。すいません。というかあけましておめでとうございます。

ゲーム公式HPはこちら
発売は2014年末。いまさらかよっ!
なぜこんなにも更新が滞っていたかといえば...

そう、信長の野望・創造のパワーアップキット(PK)が発売されたからなのだ!

コイツのせいで筆者のブログ執筆は滞り、奥州の人物事典・観光スポット事典を作り上げようという夢は一歩遠のいてしまった。なんとも罪なゲームである。

■ 簡単な感想

まぁ、それだけ面白いことの証明なのだが、簡単に感想を述べると、PKによって会戦の強化、編集機能の実装、その他多くの機能が追加され、かなり楽しいゲームになっていることは間違いない。

一方、城の改築やら敵武将の調略、朝廷外交といった、勢力が拡大してから行えることに関してはいろいろと増えたのだが、いかんせん弱小勢力からスタートした場合、軌道に乗せるまでが大変で、その間に大きい勢力はより巨大化し、手が付けられなくなる、というこのゲームの特徴については、あまり変わっていないように思える。

1567年8月の全国マップ。東北はほとんどが支城ひとつの弱小大名である。

城の強化は、小規模な勢力だからこそ、周りの列強から攻められるからこそ必要なのであり、ある程度の勢力になってからは、防戦よりも攻撃が主体になるので城の改築には(人口を増やす施設以外には)あまり必要性を感じない。

人手不足になりがちな小規模勢力にとって、敵武将の引き抜きも大切なのだが、成長してからは時間と資源を使って引き抜きをするよりも、敵を滅ぼして吸収したほうが速い場合が多い。

朝廷外交による官位の習得、敵勢力との和解も同じ。

ただ、小勢力がこれらの機能を使いこなすのは極めて難しい。金銭収入も、普請を行うための労力も、圧倒的に足りないのだ! 人口が少なすぎる(=労力が少ない)ために人口を増やすための施設を建設できないという、パラドックス!

しかもその間に大きな勢力はより大きくなって、手が付けられなくなる。時間がたてばたつほど不利になっていくのだ。特に、東北のマイナー大名でスタートすることが多いブログ主にとっては痛いところである。

◼︎ ゲームにおける東北は「僻地」扱い

今作における東北の扱いは「酷い」の一言につきる。まずもって、人口が少なすぎる。東北の本城の人口と、近畿の支城では後者の方が多いくらいだ。たとえば1567年「天下布武」のシナリオでは陸中の本城・高水寺城の人口8770人に対して近畿の支城・有岡城は14587人である。

そのぶん諸勢力が多く、これらを取り込むことでカバーは可能だが、取り込みで人口が増やせる本城はともかく、支城はどうしようもない。

また、街道の整備状況も悲惨なもので、レベル3の街道はまったく存在しない。現在の国道4号・奥州街道ですらこれである。ただでさえ山道ばっかりなのに。一概に、東北は国力を増強するよりもまずは基本的な体制を整えることから始めなければいけないという点で、大きなディスアドバンテージを背負っている。

また、本城の少なさも気になるところ。いくらなんでも北海道から福島までを統一して本城が10(北から徳山館、石川城、檜山城、三戸城、高水寺城、山形城、利府城、米沢城、小高城、会津黒川城)では少なすぎる。できれば


  • 岩城を東西に分割 → 現在の中通りと浜通りに分割、二本松もしくは須賀川あたりを本城に。伊達領の桑折西山に城をもうけてそこを本城化してもいいかも
  • 北羽前を南北に分割 → 庄内地方を独立、鶴岡もしくは酒田を本城に
  • 陸前を南北に分割 → 宮城北方の葛西家を強化、寺池あるいは石巻を本城に
  • 羽後を南北に分割 → 横手地方を独立、横手あるいは由利本荘あたりを本城に

くらいの扱いがあっても、ほかの地域と比較して不公平ではあるまい。ちなみに東北よりも狭い九州は本城の数が12である。

■ そこは違うよコーエーさん

さて、ここからは細かいツッコミを入れていく。史実と明らかに相違する部分もあるので、できれば改善をお願いしたいところ。

01.関ヶ原シナリオにおける鶴岡城の扱い

これは明らかな史実ミスである。関ヶ原シナリオにおいて庄内の鶴岡城が最上家所属になっているのだが、正しくは上杉領である。
現山形県地域を完全統一してしまった最上家。いや、最上義光
おじさまにとっては願ったりかなったりなのだが…。いいのか?

これはかなり重大なミスで、東北の関ヶ原である慶長出羽合戦はこの庄内の扱いが遠因で起きたとも言えないことはない。簡単に経緯を述べると、

戦国末期、最上家と上杉家はどちらも庄内地方の領有をもくろんでいた。結局、上杉家が十五里ヶ原の戦いで最上家を破り庄内を手に入れるのだが、これは秀吉による惣無事令のあとだったために、厳密には無効化されなくてはいけない戦果だった(たとえば、政宗は惣無事令の後に手に入れた会津の領有を放棄せざるを得なくなっている)。 
上杉家は早くから秀吉と通じていたため、例外扱いされ結局庄内は上杉領有のままとなる。これは上杉が越後から会津に移封となったのちも続き、最上から見れば会津と庄内に挟まれ、上杉からみれば最上領が会津と庄内を分断している、という対決不可避な状況になってしまった。
...といったところ。実際に慶長出羽合戦の際には、最上は会津方面からも庄内方面からも攻められ、ボッコボコにされながらも(政宗の送ってきた援軍はろくに動かねーし)なんとか長谷堂で進撃を食い止めているうちに関ヶ原で東軍勝利の報がとどき上杉撤退...というながれなのだ。

というわけで、この関ヶ原シナリオで庄内が最上家領有になっていると、いくぶん最上義光おじさまの苦悩が再現しきれない。これは早急に改善すべきであろう。

あとついでに庄内地方について言及するなら、酒田に港がないのはどうなんだ!? 日本海有数の港町である酒田に港がないだとぉ?


02.白石城が登場しても良いのでは?

同じく関ヶ原シナリオへのツッコミ。史実ではまず
  1. 伊達政宗が上杉領へと侵攻
  2. 伊達・上杉が和睦
  3. 上杉が最上領へと侵攻(上記で述べた慶長出羽合戦)
という流れなのだが、このシナリオではいきなり3から始まる。やはりここは1の伊達vs上杉から始めてほしいところであり、その舞台となるのが片倉小十郎の城として腐女子歴女のおねーさま方に人気上昇中の白石城なのだ。

画面中央の赤いポイントが白石。もともと伊達領だったが、葛西・大崎一揆の煽動を疑われた
ことにより没収。蒲生領をへて関ヶ原当時は上杉家の領土だったものを伊達政宗が奪回。
これは関ヶ原前後に伊達政宗が唯一強奪に成功した重要な地域であるので、ぜひとも登場させてほしかった。

なお、地点としての白石は登場し、人力で築城することは可能である。しかも平地の街道が4つ交わる好立地! なぜここに白石城を置かない!? 加えて細かい指摘ではあるが、この時期 杉目城はすでに福島城に改名している。

03.南部家を攻撃させろ!

和賀忠親は武将としては伊達家所属で
登場する。関ヶ原の戦いのあと、責任
感じて切腹したことになっている...のだ
が、本当のところはどうだったのだろう?
 ね、政宗くん?
またも関ヶ原シナリオへのツッコミ。関ヶ原の戦いに乗じて政宗は南部家に対し小細工をしかけている。

岩崎一揆と呼ばれるものがそうで、簡単にいうと奥州仕置ののちに南部領となった和賀地域の旧領主・和賀忠親をそそのかし、おなじ東軍である南部家を裏から攻撃するという工作を行っているのだ。なお、これがバレたために政宗は家康からの「100万石のお墨付き」を反故にされてしまうのである。最後の最後まで手癖の悪い、政宗の面目躍如? なシーンである。

ところが、ゲームではこれを再現できない。伊達も南部も同じ「石田家包囲網」に参加しているために、お互いへの攻撃ができないシステムになっているのだ。包囲網参加勢力同士でも攻撃は可能で、そうすると参加勢力からの信用が下がる、とか、そういうシステムにしてくれないかなぁ。

もっとも、包囲網をしかける側からしてみれば、おいそれと参加国同士でドンパチやってくれるのも困りものではあるのだが...。

04.石川家を出してくれ!

PKで白河小峰に白河家が登場したことで、東北の大名はほとんど出そろった感があるが、ひとつだけ忘れられている勢力があるのに気付いただろうか? そう! 石川家である! 支城ひとつの大名としてでもいいので、登場させてほしかったところ。

本拠地は三芦なので、ゲームに登場する地点としては表郷か棚倉あたりが妥当か。

戦国末期の当主は石川昭光で、伊達晴宗の息子であり、政宗の叔父である。摺上原の戦いのあとで政宗に降伏し、伊達一門の筆頭となる地味な重要人物でもある(なお、伊達成実が一時期出奔したのは、この石川昭光が外様のくせにいきなり最高ランクという扱いに不満をもったからとも言われる)。

もっとも、3月のアップデートで支城勢力を編集・登場させることができるようになったので、人力編集でこれを再現することは可能になった。

ついでにいうなら、上記の和賀家も登場させてほしいところ。ゲームでは諸勢力として岩崎に和賀衆・和賀義勝が登場するが、稗貫家が独立勢力として登場するならそこは和賀家もだろ! とは思い禁じえない。こちらはすでに諸勢力として登場しているので、人力編集もできない。

同じく諸勢力として登場する黒川晴氏も、いっそのこと黒川家としてだしてくれないかなぁ...とも思ったりするのは、ブログ主の東北愛ゆえであろうか...。

05.胆沢城っていつの時代やねん! そこは水沢城にしとけや!

あやしい関西弁を使って気を悪くした関西の方がいらしたら申し訳ない。東北の田舎モンががんばってツッコミをしてみた結果がこれである。

さて、上記画像の下部にうつっている胆沢城。これはいくらなんでも年代が古すぎる。胆沢城は平安時代の蝦夷対策の城柵で、この時代からみればすでに遺跡レベルの古城である。この時代、この地域の城としては水沢城が妥当だろう。

些細なポイントではあるが、ブログ主には利府城が多賀城として登場するくらい違和感がある。もっとわかりやすく言うなら、戦国時代の京都が「平安京」として登場するくらいの違和感、と言えばピンとくるだろうか。

城の名前についてはキリがないのだが、先述のように杉目城は時期によっては福島城とするべきだし、黒川城も会津若松城、小泉城もいっそのこと千代城(後に仙台城、青葉城)でいいじゃねぇか、とも思う。



...とまぁいろいろとツッコんではみたものの、ゲームとしての信長の野望・創造は「面白い」の一言につきる。なにせ、ブログ主の執筆を3か月延滞させたほどの威力だ(しつこい)。



今回、登場地域と武将が前シリーズまでと比べていっきに増えたため、このブログ主のような輩どもから重箱の隅をつつくような攻撃にさらされてしまうことになった開発陣には同情の思いを禁じ得ない。次回作、あるいは今後のアップデートにも期待大である。

...なお、このブログの人物事典シリーズでこのゲームの顔グラフィックを勝手に使用していることについてこの場を借りてお詫びしたい。その分宣伝になっているとはおもうので、なんとか許してください、コーエーさんっ!!


2015年4月10日金曜日

戦国時代 粟野家臣団

粟野家

粟野 国定
粟野家当主。1482年(文明14年)、伊達氏の傘下に属す。1505年(永正2年)、北目城を嫡男の国高に譲り、沖の館(沖野城のことか)に住んだ。

粟野 高国(~1528)
粟野家当主。国定の嫡男。享保元年(おそらく享禄元年、1528年の誤り)3月に伊達稙宗に従って小手森の合戦に参加し、討ち死。

粟野 長国(新三郎、遠江守、三河守、~1566)
粟野家当主。高国の嫡男。天文の乱においては稙宗党につき、晴宗党の留守景宗と対立。天文の乱のさなか、1544年(天文13年)閏11月26日伊達稙宗の書状では、粟野の所領から亘理に兵糧米が流通せず、亘理(同じく稙宗党)が難儀している様子が描かれている。天文年間(1532 - 1555年)の間に伊達の「大老臣」となったとされる。2人の娘は堀江長門、朴沢政時(共に国分家臣)へ嫁ぐ。

粟野 国勝(刑部、~1528)
高国の子、長国の弟。祖父・国定から隠居領である沖野館を譲り受ける。父・国高とともに小手森の合戦に参加し、討ち死に。

粟野 宗国(重国、大膳亮、~1623)
粟野家当主。父・長国の没後、宗国が幼かったために伊達からの「御仕置」を受ける。詳細は不明だが伊達による介入強化と家臣団の増強のことだと思われる。1587年、国分騒動に介入、1588年、大崎合戦に際して松森城警備、1589年、1590年仙道方面に出撃など、政宗配下の武将として転戦。1591年には大原へ移封となる。養子・重清、与五右衛門の他に実子・左右衛門がいた。

粟野 国治(助太郎、左衛門尉)
国勝の子、宗国の弟。沖野城主。1588年、兄・宗国とともに松森城の警備を担当。のちに兄とは境目論争で対立し、兄を是とした伊達政宗の裁定により逃亡を余儀なくされる。
伊達家臣を郡ごとに書きあげた「在郷衆日記」には粟野左衛門尉の名が記されており、兄・宗国からは独立した伊達家臣であった可能性もある。

粟野 重清(重次、清蔵、~1659正月)
粟野家当主。粟野宗国の養子。実父は亘理重宗。大坂冬の陣の直後、1614年(慶長19年)に伊達秀宗について宇和島へいくことを命じられるが、これに従わずに改易となり、伊達郡で浪人する。政宗の没後忠宗の代に仙台藩への帰参を許され、実家の亘理氏(当時は涌谷伊達氏)を頼り、亘理肥後と称する。

粟野氏系図


家臣団 あ行

相原 越後守
永禄12年(1569年)7月20日に高野山に登り粟野大膳(長国のことか)の菩提を弔ったことから、粟野氏の一族、または重臣であった可能性がある。

相原 助左衛門(和泉、~1655年正月28日)
粟野大膳の一門で「名取七騎」のひとりに数えられた。

相原 友久(~1664)
助左衛門の子。粟野宗国の没後も名取郡に残って政宗に仕え、後にその命によって政宗の三男・宗清に仕え黒川郡にうつる。宗清が没したのちは政宗の末子・宗勝に仕え、300石でその家老職をつとめ、一関に住んだ。

相原 善兵衛
助左衛門の子、友久の弟。兄と同じく伊達宗勝に仕え、一関で知行100石を得た。曾孫に医者であり『平泉実記』『平泉雑記』などの著作がある相原友直がいる。

赤井沢 掃部丞
粟野宗国の家老職をつとめたが、粟野家が没落したときに録を失う。

赤井沢 掃部
掃部丞の子。同じく粟野宗国の家老職をととめたが、主家没落とともに録を失う。

石沢 藤十郎
「高野山観音院過去帳」によると、天正19年(1591年)3月に「奥州名取郷北目 石沢藤十郎」が父母の菩提を弔った記録がある。この時点で北目城はまだ粟野氏の居城であることから、藤十郎も粟野氏の家臣、あるいは与力だった可能性がある。

石橋 八郎左衛門
仙台市太白区根岸の宗禅寺に残る粟野宗国の供養碑の背面に「奉造立 石橋八郎左衛門」とあることから、おそらく粟野旧臣の代表的人物であったと推察され、粟野氏現役時代も石橋氏なる有力家臣がいたものと思われる。

板橋 定近(丹後、1658年11月27日)
父・板橋隼人の武功を聞き及んだ政宗により家臣として召し抱えられたという。

入生田 成定
山岸成宗の3男。この代から入生田を名乗る。合戦で負傷して以降出仕できず、子も幼かったので所領の富沢は屋代景頼に与えられた。

入生田 元康(~1636年6月)
成定の子。武功をあげ、1592年(天正20年、文禄元年)に旧領である富沢を返還される。伊達政宗死去に際し殉死。


か行

柿沼 五郎兵衛
前沢館主。場所は粟野亮南方にあたるが、1588年(天正16年)に留守政景から直接安堵状をもらっており、留守家配下であった可能性が高い。その場合、前沢館は留守領の飛び地となる。


さ行

菅井 景国(内膳)
伊達稙宗に仕える。天文元年(1532年)12月、四郎丸にいた名取四朗某を討ち、その武功により翌1533年1月に「四十二町四郎丸」を賜り、そこに居住した。

菅井 常国(藤右衛門、大炊祐)
景国の子孫。『伊達世臣家譜』では名取四朗を討ったのは常国となっている。伊達氏より粟野氏の後見を命じられたという。

菅井 直国(内記)
景国の子孫。四郎丸領を相続。伊達氏より粟野氏の後見を命じられた。

菅井 実国(藤兵衛、和泉)
直国の子。常国とともに伊達氏より粟野氏の後見を命じられた。

菅井 泰国(和泉)
景国の子孫。四郎丸領を相続。


た行

富沢 伊賀守
富沢館主との言い伝えがある。伊達との合戦で和賀川の深みにはまって戦死。その場所は伊賀淵と呼ばれている。

山岸 成宗(三河守)
出羽国長井郡入生田の将。粟野領が伊達支配下になったのち、富沢館に居住する。

は行

本郷 善四郎
粟野宗国に仕えたという。大番士・本郷氏の祖。

本郷 定実
善四郎の子。伊達政宗の小姓として召し抱えられた。知行177石・大番士として仙台藩に仕える。



■ 参考資料
  • 仙台市史編さん委員会 『仙台市史 特別編7 城館
  • 菅野正道「名取郡北目城主粟野氏の盛衰(上)(中)(下)」 仙台郷土研究会『仙台郷土研究』(各通巻255号、258号、259号所収)

2015年4月7日火曜日

粟野宗国 -仙台南方の戦国領主-

あわの むねくに
粟野 宗国 
別名
重国、大膳亮
生誕
不明 (早くても1550年代、遅くて1566年)
死没
1623年(元和9年)
死因
不明
君主
伊達輝宗 → 伊達政宗
仙台藩
家格
一族
所領
名取郡北部一帯 主城:北目城
(少なくとも1万石級の動員力)
→ 磐井郡 大原城 60貫文程度 1591-
→ 宮城郡 松森城
氏族
粟野氏
在位
1566年以降か
粟野長国
不明
兄弟
姉(堀江長門室)、宗国
妹(朴沢長門室)、国治
不明
養子:重清(亘理重宗の子)
子孫

先祖
粟野高国(祖父)、粟野国定(曽祖父)
墓所
宗禅寺(仙台市大念寺山東麓)
粟野重国とも。なかなかはっきりしたことがわからない武将なのだが、現在の仙台市南部を支配していた人物である。以下、彼についてわかっていることを記してみよう。

■ 粟野氏

戦国時代の仙台市南部、北目領と呼ばれる地域を支配していたのが、「名取郡北方三十三郷旗頭」と呼ばれた粟野氏である。

もともとは越前の一族だったのが、南北朝時代に名取郡に所領を得たという。当主・国定の代にあたる文明年間(1469 - 1487年)に伊達成宗と争い、敗れてその支配下に入ったとされ、その子・国高とさらにその次男・国勝は伊達稙宗に従って小手森合戦で戦死。

粟野氏の主城・北目城跡。
国道4号仙台バイパス鹿の又交差点付近
国高の長男で宗国の父親にあたる遠江守長国は天文の乱で稙宗党につき、晴宗党の留守景宗と対立したことがわかっている。

同時に天文年間(1532 - 1555年)の間に伊達の「大老臣」となったとされるが、これが稙宗の時代だったのか、天文の乱の後の晴宗当主時代だったのかは不明である。(系図は下にあります)

■ 伊達のテコ入れ

さて、本記事の主人公・宗国は実はいつ生まれたのかがはっきりしない。が、どういった世代の人間だったのかを探る手がかりならある。

それは宗国の父・長国の没年がわかっており、その直後に粟野氏が伊達氏からの「御仕置」をうけている、ということ。

長国の没年は1566年(弘治2年)で、伊達氏から「御仕置」をうけたのは永禄年間(1558-80年)である。

この「御仕置」が具体的にどういったものだったのかはわからないのだが、『仙台市史』では長国の跡をついだ宗国が幼少であったため、粟野氏への支配を拡大させようとした伊達氏の目論見があったとしている。

永禄年間(1558-80年)に幼少であったとするならば、早くて1550年代、遅くても父の没年である1566年の生まれになる。

同じ名取郡には粟野氏の「後見」となったという菅井氏の存在があり、また北目給衆とよばれる伊達氏が粟野氏につけた寄騎衆の存在も知られている。おそらくこの「御仕置」のあとに粟野氏の監視・支配と軍事力強化を目的に派遣された者たちであろう。

また、宗国の「宗」の字も伊達輝宗氏からの偏諱であると思われる。

こういった「伊達化」は同じく仙台周辺の周辺豪族である近隣の留守氏・国分氏・葛西氏・大崎氏などに共通してみられる現象である。

■伊達・相馬戦争における動員力

1576年(天正4年)に伊達輝宗が相馬氏にうばわれた領土の奪還を目指すべく出兵を行った。この年の対相馬戦はかなり大規模な動員をかけたもので、伊達方のどういった武将が参戦しているかがわかっているのだが、そのなかに「6番備 粟野重国(宗国)」の名がみえる。

全11の備(そなえ)で構成されたこの伊達軍のなかで、単独で「備」を構成しているのは1番備:亘理重宗、2番備:泉田景時、3番備:田手宗時、4番備:白石宗実と6番・粟野宗国のみである。「備」とは陣を構成するための単位で、ひとつの備は300-800名で構成され、これだけの兵を養うには1万石級の国力が必要である。

伊達のテコ入れもあったおかげか、それなりの戦力と、伊達家内部における地位を確立していたのだろう。

これだけの動員力の背景として、粟野氏は独自の家臣団(→粟野家臣団)を持っていたことも確実で、伊達の軍事的な統制下におかれた後も、独立領主として自分の領地への支配権は確保していたことは近隣の留守・国分・秋保一族と共通である。


■伊達領北方の動乱 -国分騒動-

宗国の居城である北目城の近辺があわただしくなってくるのは、伊達政宗の南奥州統一戦争が大詰めを迎えてくる1587年(天正15年)あたりからである。

まずこの年の春には、近隣の国分氏で内紛があった。伊達氏から養子に入って国分氏を継いだ国分重盛(政宗の叔父)と家臣団が対立。この国分重盛に反抗した家臣団の急先鋒が堀江長門という人物なのだが、じつはこの人物、宗国の縁者にあたる。宗国の姉が堀江長門に嫁いでおり、義兄にあたる人物なのだ。

宗国の姉妹はどちらも国分家臣に嫁いでいる。また、系図からは同じく伊達北方の
領主である亘理家(亘理)・泉田家(岩沼)がみな血縁関係にあったことがわかる。

堀江長門は家中の反盛重勢力をあつめ、盛重の居城を落城寸前まで追いこんだ。しかし、盛重の兄である留守政景(彼も政宗の叔父)の援軍によりもちこたえ、敗れた堀江は北目城へと逃げこみ、宗国はこれをかくまっている。

一度は収まりかけた騒動も10月ころになると再び盛重に不満をもつ家臣が堀江や宗国のもとに集まりだし、盛重を攻撃する事態にまで陥った。ここにいたってようやく政宗は盛重を米沢に帰還させ、反盛重家臣団をたてるかたちで騒動を収束させた。

この国分騒動があった1587年には、宗国居城・北目城にたびたび政宗の使者として伊藤重信が派遣されていることが確認できる。また、宗国の妹も同じく国分家臣の朴沢政時に嫁いでおり、おとなりさん大名として国分家とはそれなりのつながりがあったことがわかる。

■ 大崎合戦と仙道への出撃

翌1588年(天正16年)には北方で大崎合戦が勃発し、同時に政宗が侵攻をすすめる仙道地域(現・福島県中通り)でも郡山合戦がおこるなど、伊達領はまさに四面楚歌の状況におちいる。

そんな中で宗国のもとには伊藤重信や石母田景頼が派遣され、話し合いのうえで国分領の防衛にあたることを命じられている。このことからも、前年の国分騒動以来、宗国が国分領の経営にある程度関与していたことがうかがえよう。

松森城、小泉城の防衛は石母田景頼が担当することになったが、彼は5月に仙道方面への出撃を命じられたため、かわりに宗国とその弟・国治が松森城で「定番」として警備にあたることとなった。

その宗国も翌1589年(天正17年)6月には留守政景とともに仙道方面へ出撃を命じられ、政宗の軍事行動に参加することになった。蘆名・佐竹軍との決戦がせまっている時期であり、北方の大崎領とのゴタゴタも収まっている時期であることから、南方に戦力を集中させたかったのだろう。

1590年(天正18年)4月、岩城氏から攻撃を受けた田村領の救援を目的に出兵した政宗軍勢のなかにも、宗国の姿があった。

■ 弟・国治との争論

『荒町毘沙門堂縁起』の「沖館没落之次第」という部分には、次のような話がのっている。

粟野宗国が北目城に住む一方、弟の国治は広瀬川を挟んで沖野城に住んでいた。ある日、北目城のすぐそばまで川の浸食がすすんだため、宗国は「川除」(堤防のことか)を築いたところ、今度は川が国治の領地を侵食し、これが兄弟の争いに発展してしまった。

国治は伊達政宗に訴えでたが、政宗は宗国の主張もたずね、こちらを正しいとした。結果、弟の国治は逃亡を余儀なくされ、彼の所領は兄の宗国が得たという。

現在の仙台市周辺、中世の城館。黄色が粟野氏関連の城
水色は国分氏、きみどりは留守氏。より詳細な地図はこちらから。

どこまで本当のエピソードなのかはわからないのだが、本当だとすれば先述のとおり1588年の大崎合戦の際は兄弟ふたりで松森城防衛の任にあたっているため、この年から粟野氏の転封(1591年)までのいずれかに起きたはずである。

■ 大原への移封とその後

政宗が秀吉による奥州仕置(1590年)を受け、葛西・大崎一揆を鎮圧し、岩出山に転封(1591年)となると、その家臣団も再編を迫られることになる。

粟野宗国は磐井郡大原(岩手県、現・一関市、旧・大東町)へと所替えとなる。『藤原姓粟野家譜』には「天正一九年北目城没」とあり、これをうけてか宗国が1591年の政宗 岩出山転封の際に政宗に攻められ滅亡したという記述もネット上でみられるのだが、おそらくこの「北目城没」は北目城からの移動を誤って記録したものだと思われる。



大原への転封に際し、『仙台市史』では家禄を60貫文程度まで減らされたとしており、これが本当なら600石程度である。かつて万石級の動員力を誇った国力からすれば相当な収入減になる。

もっとも、この時期は政宗のブラック上司っぷりはおいといて他の家臣も一様に家禄を減らされているので、彼だけが割りをくっているわけではない。

その後、大崎合戦の際には防衛任務についた松森城に再度配置がえとなり、旧領の北目付近にもどってくることになるが、これが宗国の代であったかどうかはわからない。

粟野氏のその後は、宗国のあとを亘理氏から養子にはいった重清が継いだ。しかし重清は政宗の長男・忠宗について伊予宇和島藩へ行くことを命じられながらこれに従わなかったため、家禄没収の上に追放処分となってしまう。
松森城遠景。宗国は再び宮城郡へ帰ってきた。

粟野氏そのものはその後も血縁の者が下級家臣として仙台藩に仕えたが、かつての「名取郡北方旗頭」の面影はもはや残されてはいなかった。

■ 宗国の名について

「宗国」のほかに「重国」の名も見られるが同一人物であることは確実だ。

「宗国」は仙台市若林区荒町の毘沙門堂にあった鰐口(仏具の一種)の寄進者名に「大檀那藤原朝臣宗国」と記されている。これは天正9年(1581-82)の銘とともにあるので、そのころには宗国と名乗っていたことがわかる。

一方の「重国」は彼の菩提寺である宗禅寺(仙台市太白区根岸町)の墓碑銘に残っている。彼の没年は1623年(元和9年)。

おそらく「宗」の字を伊達輝宗からもらって「宗国」と名乗ったのだが、後に養子・重清の代に粟野家は追放処分になってしまうため、これを返上して「重国」と名乗ったのだろう。よって、伊達家の武将として現役だった時代には「宗国」の名を用いていただろうと判断し、本ブログではこちらを記事名とした。

■ 参考資料
  • 仙台市史編さん委員会 『仙台市史 通史編2 古代中世
  • 仙台市史編さん委員会 『仙台市史 特別編7 城館
  • 菅野正道「名取郡北目城主粟野氏の盛衰(上)(中)(下)」 仙台郷土研究会『仙台郷土研究』(各通巻255号、258号、259号所収)