2017年2月13日月曜日

仙台藩歴代藩主在位表 -当主就任期間ランキング-

最近、良い出会いがあった。歴史好きが集まるようなコミュニティに顔を出していると、どうしても自分より上の世代の知り合いが増えがちなのだが、彼は珍しく自分より年下の20代だった。福島生まれということもあり、もともと伊達政宗が大好きだったというが、現在旧伊達邸の鐘景閣という料亭で働いている関係もあって、明治以降の伊達家の歴史にとても造詣が深い。

彼と話していて、長い伊達家・仙台藩、あるいは廃藩置県後の仙台の歴史の中で、どうも自分の勉強が戦国時代や仙台藩創成期、幕末に偏りがちなことに気付かされた。簡単にではあるが、仙台藩の「通史」を意識した勉強をしてみようかと思い、まずは歴代藩主の事跡について調べようと思った。

その手始めに、とりあえずつくってみたのが、下の表である。

編集可能なので、もし間違えがあればコメントいただけると助かります。

青が歴代藩主の存命期間で、緑が藩主としての在位期間を示す。こうやってみると、どの時代がどの藩主の治世期間なのかヴィジュアライズされてわかりやすい。たしか、似たようなスタイルの図が仙台市博物館にも展示されていたと思う。そちらの方がもっと見やすくて細かい情報も載っていたと思うのだが、自分にはこれが精一杯なのでこれで勘弁してしていただきたい。

■ 在位期間ランキング

比較してみると、初代藩主・政宗の在位期間52年は圧倒的な長期政権であることがわかる。もっとも、仙台藩主としての在位期間なので、正確にいうと政宗の在位は当主就任の1584年ではなく、1600年からカウントするべきなのだが、それでも藩主として36年の在位期間はNo.3に入る。

次に長いのが4代藩主・綱村(43年)と5代藩主・吉村(40年)の時代である。綱村の時代には、長い治世期間とは裏腹に、寛文事件(世にいう伊達騒動)が起こるなど、実は仙台藩政は安定していたとは言いがたい。

一方で、仙台藩の修史事業をはじめたのがこの綱村で、郷土史を学ぶ後世の我々が『伊達正統世次考』『伊達治家記録』などの恩恵にあずかれるのはこの人のおかげであることに感謝しなければいけない。

5代藩主・吉村は、創世期から続く仙台藩の財政難を立て直したことから「中興の英主」と呼ばれるようになる。

高校の日本史の授業で「江戸の三大改革(享保の改革、寛政の改革、天保の改革)のなかで享保の改革が一番成果をあげたのは、単に享保改革の実施期間が一番長かったからだ」と教わった記憶がある。学説として正しいかどうかはさておき、吉村の時代の改革が一定の成果を上げたのも、彼の在位期間の長さと関係するだろう。

この表を作ってみて自分でも驚いたのが、幕末の13代藩主・慶邦よしくにの在位期間が意外と長いことだ。在位27年間は実に歴代5位に入る。

どうも幕末の藩主としてちょろっと登場してすぐに廃藩置県、というイメージが強かったのだが、ペリー来航以前から既に即位しており、幕末と呼ばれる時期には一貫して仙台藩主の座にあったことがわかる。

■ 逆に短いのは...

逆に藩主としての在位期間が最短なのは、第14代にして最後の藩主・宗基むねもとだ。1868年、戊辰戦争に敗れた結果、13代・慶邦が廃位となったあとの同年末、14代藩主として即位するが、翌1869年6月の版籍奉還をうけて藩主としては退位。実に半年間の藩主在任期間であった。

もっとも、藩知事としての職は翌1870年まで勤め、死去する1917年まで伊達家の当主ではあり続けているので、当主としての任期をカウントするなら、在位49年間は藩祖・政宗に次いで第2位となる。

次に短いのが3代藩主・綱宗の2年間だ。綱宗はどうも放蕩ぐせがあったらしく(※諸説あり)、就任直後の1660年に親族大名や家臣団の連名で幕府に藩主の隠居願いが提出され、強制隠居となってしまった殿様である。

この綱宗強制隠居事件は、のちに続く寛文事件の序章、伊達騒動の第一幕とも言うべき事件である。ほとんどの当主が死ぬまで、あるいは死去直前に隠居して藩主の座を退いているなかで、この綱宗は藩主引退後の余生の方が長かった(約50年!)という、唯一の殿様であった。

■生まれて死ぬまで、そのあとも... 

特筆すべき、というか多少説明が必要なのが9代藩主・周宗ちかむねだろう。彼は父である8代藩主・斉村の死去により、誕生直後、0歳にして仙台藩主に就任し、14歳で死去するまで仙台藩主の座にあった。生まれて死ぬまで仙台藩主だった唯一の当主である。

ところが、仙台藩の公式記録では、周宗は17歳(数え年)で隠居という扱いになっている。上記と矛盾するが、どういうことか?

実は仙台藩は、次の10代藩主・斉村が就任するまでの間、お家の断絶を恐れて周宗の死去を隠ぺいしていたらしい。つまりこの時期、実質的には仙台藩主の座は空位なのだが、あくまで周宗が生存していたという体でごまかし切ったのだ。つまり周宗は、生まれて直後に藩主に就任し、死ぬまで、そして死後もしばらくは藩主だったという、非常に特異な殿様なのだ。

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