2019年5月22日水曜日

中目重定 -伊達に寝返った大崎宿老-

なかのめ しげさだ
中目 重定 
別名
兵庫助、兵庫頭、隆政?
生誕
不明
死没
不明
君主
大崎義直 → 義隆 → 伊達政宗
勢力
大崎家 → 仙台伊達藩
家格
四家老? → 不明
所領
-1590 下中目 兵庫館(および伊場野古城?)
1590- 不明。浪人?

1593- 青生・彫堂
氏族
中目氏(渋谷氏系統か)
父母
不明
兄弟
不明
氏家直俊の娘
中目弥五郎重種
子孫
中目太郎左衛門
親戚
中目相模? 中目大学?
氏家隆継(義理の甥)、氏家吉継(義理の大甥)
墓所
不明
中目兵庫重定は大崎家の家臣でありつつも、戦国時代の末期に伊達家に仕えた武将である。中目は「中ノ目」「中野目」とも表記されることから、「なかのめ」と読むのが正しいと思われる。

『葛西・大崎盛衰記』によれば中目家は大崎の「四天王の御家臣」であり、四家老と呼ばれたりするのだが、これは近世の著作であり、大崎氏の初期~全盛期においてはともかく、重定の時代にこの四家老なるタイトルが実情に即していたかどうかは疑わしい。


■その支配地

大崎地方に下中目(現在の宮城県 大崎市 古川 下中目)という集落があり、そこを治めていた様だ。下中目は現在、低地の田園地帯となっているが、そこにぽっかり島の様に浮かんだ丘がある。「中目城」あるいは「兵庫館」とよばれていた城館跡があり、『風土記書出』では城主を中目兵庫と伝える(以下、出典史料については【史料集】中目重定を参照)。

ここは鳴瀬川に多田川が合流するポイントで、昭和32年(1957)以降は新江合川もそそぐ結節点となった。いずれにせよ、治水がそれほど進んでいなかった戦国時代当時は、それなりの湿地帯であっただろう。河川の氾濫がおこれば、中目城はあるいは水の浮城のような城塞となったのかもしれない。ただし、

①現在の様子を見ても、小規模な居館といった印象
②大崎合戦においても対伊達の防衛ラインとして用いられていない
③葛西・大崎一揆においても簡単に陥落している

ことから考えて、本格的な籠城に耐える城ではなかった様だ。

また、『貞山公治家記録』『風土記書出』では下伊場野村の古城(伊場野古城)についても城主を中目兵庫と伝えている。となれば、鳴瀬川をはさんで南北にその領地をもっていたこととなる。伊場野は伊達領の大松沢(大松沢氏)や松山(遠藤氏)と接する場所であり、のちに大崎を見限って伊達に接近するのも、こういった地理的要因があったかもしれない(上記 兵庫館・伊場野古城の位置については下記Google Map参照)。


■活動の初見 - 黒川への使者

中目兵庫重定の名が初めてみえる史料に、「黒川氏宛 大崎義直黒印状」がある。弘治3年(1557)のものと推定されており、大崎家の第11代当主・義直が黒川景氏・稙国親子に宛てたものである。

内容は、近隣の大名である留守氏の当主・顕宗に対して家臣・村岡氏がおこした反乱に関するもので、この留守氏内紛を調停しようと動いていた黒川親子へのねぎらいと、協力の約束である。最後に「委曲 中目兵庫助 理申すべく候」とあるので、大崎義直の使者として、中目重定が黒川へ派遣され、詳細を伝えるメッセンジャーの役割を任せられたのだろう。

以上から、中目重定が大崎義直の代から現役だったことがわかる。一方で、続く第12代・大崎義隆の時代末期まで、しばらくその活動の詳細は不明である。


■大崎合戦

天正末期、大崎家がふたつに割れた天正大崎の内乱においては、中目兵庫重定は大崎義隆・新井田刑部の側についたと『成実記』にみえる。

ただし、その内乱が発展し伊達政宗の介入を招いた天正16年(1588-)からの大崎合戦においては、伊達勢を迎え撃った大崎家臣団の中に中目重定の名前が見えなくなる。あるいはこのとき既に伊達によしみを通じていた、もしくは中立的な態度をとっていたのかもしれない。

『葛西・大崎盛衰記』では桑折城に中野目兵庫が加勢したと見えるが、『葛西・大崎盛衰記』は近世成立の軍記物であり、『成実記』と比べても大崎方の陣容にかなりの誇張があると思われ、信頼するには怪しい。

このとき大崎氏は対伊達戦線として、本拠地・中新田を守備するべく下新田城・師山城・桑折城を防衛ラインに設定していたが、それよりも前線側にある中目城は無視されている。

それだけでなく、おなじく中目兵庫が城主だったとされる伊場野古城、親族だと思われる中目大学が城主だった伊場野館も防衛ラインとしては外され、一段下がった師山城 = 桑折城が防衛ラインとして設定されている。

クリックで拡大。大崎合戦開始前(1588.01)の戦闘配置。『成実記』より。
南東の白いアイコンが中目氏関連の中目城(兵庫館)・伊場野館・伊場野古城。
これら3城は利用されず、大崎方の防衛線は一歩下がった師山=桑折城ラインに設定されている。

先述のとおり、城の脆弱性が原因かもしれないが、あるいはやはり、中目氏はこの頃すでに大崎防衛部隊からは戦線離脱していたのかもしれない。いずれにせよ、中目重定がこの戦いで目立った動きをしなかったことは確かだ。


■大崎への手切れと伊達への接近

大崎合戦において大崎方は、戦術的には中新田で伊達軍を打ち破りながらも、政宗による大崎家臣団の切り崩しや粘り強い講和条件交渉により、大局的には大崎方の劣勢に推移していった。

上記のように、もともと大崎合戦においては行動がはっきりとしない中目重定であったが、天正17年(1589)3月初頭、同じ大崎家臣の古川氏の配下を攻撃し、明確に反大崎の姿勢を明らかにする。これは『貞山公治家記録』(3月7日の条)およびその史料集ともいうべき『政宗君記録引証記』に紹介されている。

この中目重定の行動のタイミングを考察するに、少しさかのぼる2月上旬に大崎氏における最大の抵抗勢力・氏家吉継をはじめとする氏家党のメンバーたちが政宗の米沢にいる参上したことと関係があると考えられる。『古川市史』では中目の行動をもっと厳密に、氏家吉継が米沢から岩出山に帰還した直後の3月2日のこととしている。

氏家党メンバーの米沢参上は、彼らが大崎家を離れて伊達に出仕することを意味する。実は中目重定の妻は氏家氏出身で、吉継は親戚にあたる。氏家吉継は伊達出仕への手土産として、中目の大崎離反を工作したのかもしれない。あるいは逆に、中目重定が自ら流れに乗り遅れまいとして、反大崎の行動をとったのかもしれない。

また、同じく天正17年(1589)の12月24日には政宗からの書状(政宗文書579)で大崎の合戦が勝利した暁には、四日市場の領土を加増する旨を約束されている。この四日市場は、大崎の本拠地・中新田の近辺で、おそらく大崎方に属する地である(『古川市史』は下新田氏の領地と推測。下記に地図あり)。中目重定はこの時点で、完全に大崎に反し伊達方の武将として行動している。


■葛西・大崎一揆

その後、大崎氏は小田原参陣を果たせなかったことから、改易となり大名としては滅亡した。大崎と、同じく取りつぶしとなった葛西の旧領には木村吉清が入封するが、これに対して旧葛西・大崎家臣や農民たちの一揆がおこる。

伊達政宗や、蒲生氏郷はこの一揆の鎮圧に乗り出すが、途中、政宗は一揆を扇動していることを疑われ、弁明のために上洛。有名なセキレイの花押のエピソードで秀吉の疑いを解いた政宗は、一揆の第2次鎮圧を開始する。

この第2次鎮圧の開始直前(天正19年(1591)6月8日)、政宗は中目重定に宛てて書状を書いている(政宗文書837)。「これから出陣するので、(現地で)直接いろいろ申し付ける」といった内容で、このとき中目重定が一揆には加わらず、むしろ鎮圧側として政宗に協力していたことがわかる。

一方、『伊達治家記録』天正18年(1590)11月20日の条には中目相模なる人物が中目城に籠って一揆に参加していたことが書かれている。伊達方の武将・遠藤心休斎によって簡単に攻略されているが、この中目相模はおそらく重定の親族の誰かであろう。中目一族も一枚岩ではなかった様だ。

中目城(兵庫館)。中目兵庫重定の居館と伝わる。
葛西・大崎一揆(1590)では中目相模が籠城するも、
伊達方の遠藤心休斎により陥落される。宮城県 大崎市 古川 下中目。

少しさかのぼる11月11日には、政宗から中目弥五郎(『治家記録』では重定の嫡子・重種としている)宛に判物が下され、その忠節を賞されている。あるいは一族の中目相模の反乱に対して、重定・重種親子もなんらかの鎮圧行動に加わっていたのかもしれない。


■大崎耕土の開墾

その後の中目重定の活動は明確ではないが、1593年3月23日の段階で、伊達氏から中目兵庫(重定)宛てに朱印制札が出され、青生・彫堂の地の開墾を指示されている。青生・彫堂はいずれも下中目のすぐ東側の土地であり、制札では「あれ地」と表現され、葛西・大崎一揆で荒廃したことが示唆されている。あるいは中目相模が中目城に籠ったことと関係しているのかもしれない。


政宗は葛西・大崎一揆をきっかけに本拠地の置賜や現在の福島県域に獲得した領地を没収され、かわりに葛西・大崎の旧領を与えられた。これは石高としては大幅にダウンで、伊達家としては中目たちの様に、諸家から伊達に鞍替えして増えた家臣を、減少した収入で養わなければならなかった。

その解決策として行われたのが、このように給与の直接支給ではなく土地を与えて家臣たちの開墾を推奨する方法で、近世には地方じかた知行制と呼ばれた。これがのちに「実質200万石」ともいわれる穀倉地帯・仙台藩の姿につながる。中目重定に指示されたこの青生・彫堂の開墾は、その典型のように思える。


■その子孫

...以上のように、大崎家から伊達の配下となったことは確かな中目重定なのだが、その後の動向は子孫も含めてよくわからない。

彼の嫡子とされる中目弥五郎は、「伊達政宗最上陣覚書」と呼ばれる史料にその名前が見えることから、東北の関ケ原・長谷堂城の戦いへ派遣された伊達の援軍に参加していたことがわかる。つまりこのとき、すでに重定は第一線を退き、嫡子・弥五郎重種に家を継がせていたのではないかと思われる。既に活動の初見(1557年)から40年以上が経過している。妥当なところだろう。

仙台藩の家臣録である『伊達世臣家譜』には「大崎の旧臣」を称する中目家が載っているのだが、元寺尾姓、隆継・一慶を経て定継の代の慶長19年(1614)に伊達家に仕えた、とするなど、どうもここに紹介した中目重定の家とは一致しないように思える。あるいは、中目相模や中目大学の家系だろうか。

上記で紹介した政宗文書などは「中目家文書」として伝わっているものなのだが、文書について『政宗君引記録証記』では「右、津田民部預給主中目太郎左衛門所持」と解説している。中目重定が政宗から与えられた文書を所持していた中目太郎左衛門は、重定の子孫であることに間違いはないだろう。「津田民部 預給主」とあるので、兵庫重定の子孫たちは、佐沼要害を拝領した津田氏配下の伊達家臣として近世を生きた様である。


■参考文献
直接の出典となった史料についてはこちらを参照 ⇒ 【資料集】中目重定
  • 佐々木慶市『奥州探題大崎十二代史』1999年、今野出版企画
  • 遠藤ゆり子「大崎氏の権力構造」(『戦国時代の南奥羽社会』2016年、吉川弘文館 所収。初出は『立教 日本史論集』第8号に掲載の「戦国大崎氏の基礎的研究」2001年)
  • 『古川市史1』第1巻 通史Ⅰ、2008年






2019年5月21日火曜日

【資料集】中目重定

戦国時代末期に大崎家に仕えつつも、のちに伊達の被官となった中目兵庫重定に関する史料・資料の抜き出し。各資料を編年の順で抜き出した。

01.居館・兵庫館および伊場野古城
01-1.『仙台領古城書上』
   下伊場野村

一 下伊場野城 東西 三十三間
一 下伊場野城 南北 十三間
一 下伊場野城 
城主 中目大學。

一 古城    東西 十七間
一 古城    南北 廿五間
一 古城    
城主 中目兵庫頭。
仙台藩内にかつて存在した中世の城館について作成された記録。江戸幕府に提出されたもので、成立時期は延宝年間(1673~1681年)のことと言われている。出典は『仙台叢書』第4巻(大正12年(1923))所収の「仙台古城記」に拠った。

下伊場野村について、中目大学を城主とする下伊場野城、および中目兵庫を城主とする下伊場野古城にふれ、どちらも山城としている。また、中目城(兵庫館)については記載がない。現代の尺度に直すと、下伊場野城は東西60m、南北23.6m。古城は東西30.9m、南北45.4mの規模となる。

また、下記04-2.『貞山公治家記録』でも中目兵庫の居住地を下伊場野としている。


01-2.『封内風土記』巻之十六
下中目邑。(中略)古壘一。傳云。中目兵庫不傳。所居。(後略)
仙台藩の儒学者・田村希文が安永元年(1772)に完成させた地誌。志田郡 下中目邑の項目。詳しくはこちらを参照。出典は『仙台叢書 封内風土記』の国会図書館デジタルコレクション版に拠った。


01-3.『風土記御用書出』志田郡 北方 下中目村(敷玉村)の部
一 古館 壱ツ
 一 兵庫館 竪 四拾五間
 一 兵庫館 横 貳拾五間
 
一 兵庫館 御城主 中目兵庫様ニ御座候由申傳候共 右年月 相知不申候事
仙台藩の儒学者・田辺希元(希文の子)が『封内風土記』を補うべく編纂した地誌。安永2年(1773)から同9年(1780)にかけて、各村の肝入から提出させた調査書がベースとなっている。詳しくはこちら。兵庫館については『封内風土記』と比べて規模の情報が加筆されている。現在の尺度に直すと、縦(南北)81.8m、横(東西)45.4mとなる。


02.活動の初見
02-1.弘治3年ヵ正月晦日「黒川氏宛 大崎義直黒印状」

村岡宮城之錯□付而、従其方之助
成、太義存候、就其義、当方へ合力之
義承候、葛西六郎方憑由、被申候
間、彼義無拠候、併年来御懇切
候条、対其方無余義候間、少々扶
佐之義、可申付候、委曲中目兵庫助
可理申候条、令略候、恐々謹言、 
□□正月晦日 左京大夫義直(黒印「國」)
□□□□黒川下総守殿
□□□□同 修理大夫殿
  • 村岡宮城之錯~:宮城(留守氏)に対して家臣・村岡氏がおこした反乱のこと。
  • 葛西六郎:六郎は葛西氏の歴代当主の幼名。当時の当主は親信だろうか?
  • 左京大夫義直:大崎義直。第11代当主。
  • 黒川下総守・修理大夫:黒川景氏・稙国親子。

大崎義隆が黒川景氏・種国親子に宛てた書状。佐々木慶市『奥州探題大崎十二代史』および『仙台市史 資料編1』では弘治3年(1557)のものと比定している。留守氏に対する家臣・村岡氏の反乱に際して、その調停につとめる黒川親子への協力の約束、葛西からの協力はあてにならないこと、詳細は中目兵庫が伝えること等が書かれている。

出典は『仙台市史 資料編1 古代中世』文書番号324に拠った。『古川市史 第7巻 資料Ⅱ 古代・中世・近代1』文書番号341にも収録。中目家文書より。


03.天正大崎の乱

⇒ 【資料集】大崎合戦 を参照のこと


04.大崎合戦以後
04-1.『政宗君記録引証記』八
一 遠藤出羽ニ被下候と相見得候御書写、但シ前ノ氏家ニ被下候御書、自松山之書札と有之ニ付、此書出羽ニ被下候と相考申候 
氏弾其地二無相違打越、自其も途中無異義様ニ相送候哉、簡用迄候、於爰元中ゝゝ無心元候間、兼而自是も飛脚遣候キ、漸可打越候哉、仍中目家中、古河家風之者討候哉、因之、中目所より其元及内儀旨候欤、併世間見合無聊尓刷、千言万句候、其上何辺氏弾へ相談之上、彼口可及取刷、仙道口、最上弥々静謐候、可心安候、尤小成田惣右衛門登之刻、諸事可申越候、恐々謹言、
    三月七日 政宗御書判
     無御宛所 
右ハ二日町土屋彦右衛門所持、御記録江摘載之、
藩政時代に編集された伊達家の公式記録である『伊達治家記録』を編集する際に集めた史料・出典を集めた『引証記』から。他の書状との兼ね合いから、遠藤高康宛ての政宗書状だと推測している。出典は『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』文書番号389に拠った。語句解説は下記04-2.で併せて。


04-2.『貞山公治家記録』巻之八 天正17年(1589)3月7日の条
〇遠藤出羽高康へ御書ヲ賜フ。氏家弾正其地へ無相違打越シ、其許ヨリモ途中異義ナキ様ニ相送ラレタル哉、肝要ナリ、爰許ニ於テモ御心許ナク思サレ、兼日飛脚ヲ遣サル、漸可打越歟、然レハ中目家中ノ者、古川家風ノ者ヲ討タル哉、因テ中目所ヨリ其元ヘ内議ニ及フ旨アル、併ラ世間見合聊爾ナキ刷ヒ肝要ニ思召サル。何篇氏家ニ相談、彼口取刷ヒ然ルヘシ、仙道口、最上口、彌以テ静謐ナリ、心安カルヘシ、尤モ小成田惣右衛門登リノ節、諸事可申越旨著サル。中目・古川共ニ大崎家臣ナリ。中目兵庫ハ志田郡下伊場野ニ住シ、古川弾正ハ同郡古川ニ住ス。
  • 遠藤出羽高康:松山千石城主。対大崎最前線の城主であり、松山城は大崎合戦において伊達方の出撃基地となった。
  • 氏家弾正:岩手沢(のちの岩出山)城主・氏家吉継。大崎合戦の一方の当事者にして、昨2月上旬に政宗のいる米沢に参上している。
  • 古川家風ノ者:宝文堂版の平重道の解説によれば「家風の者」と「家中の者」との区別は不明で耳慣れない言葉ではあるが、「古川家に所属しているらしい者」という意味ではないかと、伝聞・推定のニュアンスを込めて推測している。
  • 聊爾:りょうじ。いいかげんであること。04-1.では「聊尓」と表記。
  • 刷ヒ:つくろい。
  • :いよいよ。
  • 小成田惣右衛門:のちの山岡重長。柴田郡 小成田の領主。大崎合戦に目付として参戦し、その後も対大崎工作を担う。

伊達家の公式記録である『伊達治家記録』より。出典は『仙台藩史料大成 伊達治家記録 一』(平重道 責任編集、昭和47年(1972)、宝文堂)に拠った。表記や言い回しに若干の変更はあるが、04-1.を書き下しつつ引用し、中目兵庫と古川弾正についての解説を加えている。

前半は米沢参上後に岩出山へ帰還する氏家吉継の護衛を促す内容か。後半では中目兵庫と古川弾正の間に衝突があったことと、中目から遠藤に相談があるかもしれないので、その際は世間の評判が悪くならないように、氏家吉継とも相談して対処するように、と指示している。


04-3.天正17年12月24日「中目兵庫頭宛 知行宛行朱印状」


太崎弓箭本意ニ執成
候者、四日市場可宛行候、
永代不可有相違者也、
仍証文如件、 
天正一七 丑巳年極月廿四日 政宗(朱印)
中目兵庫頭殿
太崎弓箭~:太(大)崎での弓揃(戦)が上手くいけば、四日市場を宛がう、との意。
・四日市場:現在の宮城県 加美郡 加美町 四日市場。中新田の街並みのすぐ南東に位置する。

出典は『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』文書番号579に拠った。『古川市史 第7巻 資料Ⅱ 古代・中世・近代1』文書番号475にも収録。翻刻は同じ。中目家文書より。

また、政宗はこの文書と同日に、同じく伊達寄りの大崎家臣である鮎田大隅守に米泉・清水、磯田典膳正に「似合之知行」を宛がう文書も発行している。政宗の大崎切り崩し工作の一環。


05.葛西・大崎一揆以後
05-1.天正19年6月8日「中目兵庫頭宛 伊達政宗書状」



就下向ニ書状到来、披見候、仍
近日其表出馬之儀ニ候間、
其刻諸事可相理候条、不具候、
謹言、
六月八日 政宗(花押)
中目兵庫頭殿
出典は『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』文書番号837に拠った。『古川市史 第7巻 資料Ⅱ 古代・中世・近代1』文書番号530にも収録。翻刻は同じ。中目家文書より。右筆によるもの。


05-2.『貞山公治家記録』巻之十六 天正19年(1591)6月8日の条
〇八日壬寅。中目兵庫重定ニ御書ヲ賜フ。御下向ニ就キテ、書状到来、披見シ給フ、仍テ近日其表御出馬ノ間、其節諸事仰斷ラルヘキノ旨著サル。兵庫ハ大崎舊臣ナリ。此節浪人タリ。一揆ニ與セスシテ、去年十一月以來御退治ニ與力シ奉ル。
  • 其表:大崎方面。
伊達家の公式記録である『伊達治家記録』より。出典は『仙台藩史料大成 伊達治家記録 ニ』(平重道 責任編集、昭和48年(1973)、宝文堂)に拠った。上記05-1.の趣意文。

タイミングとしては、政宗が葛西・大崎一揆の扇動疑惑に対する弁明上洛を終え、米沢帰還したのが5月20日。第2次鎮圧のために米沢を出陣するのが6月14日で、その間となる。中目兵庫の説明として当時「浪人」としているが、この時点ではまだ伊達の家臣扱いではなかったのだろうか。


05-3.天正21年3月26日「中目兵庫頭宛 朱印制札」

 (朱印)札
志田郡之内、一あわう、
一ゑりだう二ヶ所のあれ地、
五年くうやニ申付、おこさせ
へく候、聊違乱有間敷候、
仍如件、
屋代勘解油
屋代勘解由兵衛
天正廿一年三月廿六日
中目兵庫
中目兵庫殿
  • あわう:青生。現在の宮城県 遠田郡 美里町 青生。
  • ゑりどう:彫堂。現在の宮城県 遠田郡 美里町 北浦彫堂。
  • くうや:『古川市史』では「こうや」と翻刻している。荒野。
  • :いささか。
  • 天正廿一年:西暦では1593年に相当するが、天正は20年12月8日に文禄元年に改元したため、天正21年は存在せず、文禄2年とするのが正しい。『古川市史』では改元情報の伝達遅延によるものか、と推測している。

中目兵庫に対して青生・彫堂の領地を開拓する様、当時岩出山の城代だった屋代景頼の名で指示された制札。青生・彫堂はどちらも下中目からすぐ東隣の集落である。「あれ地」「こうや」とあり、このあたりも葛西・大崎一揆で荒廃したものと思われる。中目城が一揆の際に籠城に使われたことと関係しているのだろうか。

出典は『仙台市史 資料編11 伊達政宗文書2』文書番号938(中目家文書)に拠った。『古川市史 第7巻 資料Ⅱ 古代・中世・近代1』文書番号546にも収録。







2018年2月15日木曜日

飯坂宗康と戦国時代 -男子なき父親の苦悩- 【悲運の一族・飯坂氏シリーズ⑦】

それではいよいよ、飯坂氏シリーズのひとつのクライマックスである、飯坂宗康の生涯について触れる。

さて、そもそもこの飯坂宗康なる武将、知名度が決して高いとは言えない。ちょっと気になったのでTwitterでアンケートをとってみたところ


という結果になった。回答総数は99票で、そもそも筆者のTweetに反応してくれている時点である程度歴史、伊達家に詳しいか、興味のある人たちのはずだ。そんな99人でも知らないが半数を超える、なかなかマニアックな武将である。

いいざか むねやす
飯坂 宗康 
NHK大河『独眼竜政宗』より
別名
幼名:小太郎
諱:宗康、宗貞、宗泰
官名:右近大夫、右近将監
生誕
不明
死没
天正17年(1589) 9月2日
異説:天正18年(1590) 3月14日
死因
不明
君主
伊達晴宗 → 伊達輝宗 → 伊達政宗
家格
一家
所領
信夫郡 飯坂城
(石高推定:2500石前後か)
氏族
飯坂氏
飯坂宗定
桑折宗保の娘
兄弟
妹:飯田宗親の妻
義弟:桑折宗長
桑折景長の娘
長女(桑折政長の妻)、飯坂御前
系譜上の養子:飯坂宗清
子孫
飯坂宗長、宗章、輔俊
先祖
伊達為家、飯坂政信 etc.
墓所
天王寺(福島市 飯坂町 天王寺)
戒名
雲岩起公
なお、以下情報の出典についてはあらかじめ【資料集】飯坂宗康にまとめてあるので、興味のある方はそちらを参照してほしい。


■ 宗康の生い立ち

宗康の生まれた正確な年代はわかっていないが、父・飯坂宗定と母(桑折宗保の娘)の間に幼名・小太郎として生まれた。

伊達家への奉公は晴宗の時代からということなので晴宗の治世(1548~1564)には現役世代だったはずだ。諱・宗康の「宗」の字も晴宗からの偏諱(一字拝領)であろう。

この時代の飯坂宗康の活躍を示す資料は残っていないが、前回の記事でも触れた彼の婚姻関係から推測するに、晴宗政権の主要人物のひとりであった桑折景長の一党として活動していたと思われる。

こういった桑折氏の婚姻政策や、分家・下飯坂氏の活躍は、後に宗康が娘を伊達政宗の側室として送り込み、一族の立場浮揚のきっかけとした発想につながったのではないか。


■ 宗康と天王寺の再興

宗康の活躍としてまず目にとまるのが、飯坂氏の菩提寺でもある天王寺の再興である。天王寺は、寺伝によれば聖徳太子の時代までさかのぼる古い由緒のある寺だが、この時代はすでに荒廃していた。

宗康は天正3年(1575)、住職の春翁正堂和尚とともに天王寺の中興をはかり、寺を臨済宗に改め、また寺田として103石を献上している。

寺田として103石という数字はなかなかたいそうな献上であり、江戸時代に表高62万石だった仙台藩が、中堅クラスの領内寺院に与えた寺領が例えば輪王寺147石、陽徳院130石、光明寺127石、資福寺84石である。宗康のような中小クラスの武将が寺院に寄進する石高としては、かなり大きな割合であることが想像できる。

天王寺は今も飯坂に残っており、宗康を中興の祖と位置付けている。また、彼の墓もこの天王寺にある。


■ 天正4年 対相馬戦

戦国武将としての宗康の名が初めて記録に見えるようになるのが天正4年(1576)の対相馬戦である。この戦は伊具郡の奪還を目指して伊達輝宗が福島~宮城県南部にかけての侍たちを動員しておこしたかなり大規模なもので、飯坂宗康の名が13番備筆頭として記載されている。この時共に13番備を形成しているメンツをみてみると

十三番 飯坂右近大輔(伊達郡飯坂城主、飯坂宗康)
十三番 瀬上三郎  (信夫郡大笹生城主、瀬上景康)
十三番 大波平次郎 (大波長成
十三番 須田佐馬之助
十三番 同 太郎右衛門
三番 同 新左衛門

となっている。須田一族に関してはわからないのだが、瀬上氏、大波氏ともに現在の福島市、信夫郡を拠点とする勢力で、特に瀬上景康と飯坂宗康はこの後も行動を共にすることが多かった。

一つの備を構成するのに約800名、1万石クラスの経済基盤が必要だったとされている。13番備を飯坂家、瀬上家、大波家、須田家の4族で構成しているのであれば、単純に4で割って飯坂氏の動員兵力は200名、2500石くらいの所領だった計算になる。

対相馬戦争の焦点のひとつ・小斎城と伊具盆地。
この年の戦いでは決着がつかず、その後も戦いは続いた。

また、出陣した武将として約50名程列挙されている中で、末尾の起請文には13名の署名がある。その中にも「飯坂」の名がみえることから、この時期すでに、ある程度軍議において発言権を持ったポジションにいたのかもしれない。

これは興味深いところで、筆者は今まで宗康の娘・飯坂御前が政宗の側室に → 飯坂家の立場向上、という順序だと思っていたのだが、飯坂御前の側室入りはこの天正4年よりも後のできごとであるため、それよりも前からある程度飯坂家の地位は向上していたのかもしれない。


■ 娘・飯坂御前を伊達政宗の側室に

宗康には男子がおらず、二人の娘がいた。長女は親戚である桑折政長の妻となっている。一方妹の飯坂御前だが、彼女は伊達政宗の側室となったことで有名だ。その詳しいいきさつはこちら(戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-)にまとめたが、簡単に触れると以下の通り。

飯坂宗康には二人の娘がおり、妹は黒川式部の許嫁となっていた。黒川式部は、伊達の傘下でもあり黒川郡を治める黒川氏の一族で、黒川晴氏の叔父にあたる人物だ。式部の父である黒川景氏は飯坂氏の出身でもあるため、黒川氏と飯坂氏にはもともとつながりがある。

宗康には男子がなかったことから、娘の許嫁である式部が飯坂の名代として活動し、事実上の後継者扱いとなっていたらしい。しかし、娘が美女として評判だったにも関わらず式部との年の差が大きいかったこと、次第に式部を疎ましく感じるようになってきたことから、式部と娘を離縁させ、娘を伊達政宗の側室として差し出すことを選んだ。

政宗も美女と名高い宗康の娘を気に入り寵愛したが、一方で婚約を破棄されて男としての面子をボロボロにされた黒川式部は失意のうちに越後へと去っていったという。

天真爛漫な飯坂の局(ドラマでは「猫御前」として登場)と、
うしろにぼんやり写っているのが飯坂宗康(NHK大河『独眼竜政宗』より)

経緯はともかく、こうして飯坂宗康は、側室とはいえ伊達家当主である政宗の岳父の立場を手に入れた。また、将来飯坂御前と政宗の間に子が生まれれば、その子を飯坂家の跡取りとする約束であったため、飯坂家の立場は安泰である。

この飯坂御前の側室入りと、正室である田村家の愛姫と伊達家の婚姻は、どちらも後継男子がいなかった家が、将来生まれるであろう政宗の子を跡取りとする、という約束のもとで行われた点で共通しているのが面白い。


■ 郡山合戦

次に宗康の名が記録に登場するのが、天正16年(1588年)の郡山合戦である。おそらく、それ以前の大内領塩松攻略戦や人取橋の戦いにも参戦してたのではないかと思われるが、記録は確認できない。

郡山合戦は、伊達にとっての正念場であった。同じ年の初頭、北方における大崎合戦に事実上敗北し、大崎氏と同盟を組む最上氏とも先端が開く中、南方でも佐竹・蘆名連合軍が伊達領への侵攻を開始したまさに四面楚歌の状況である。

郡山合戦(1588)。郡山城を囲む蘆名・佐竹勢と、その救援をすべく
山王山・窪田城・福原城の近辺に後詰する伊達勢。ほぼ現在の郡山市街地が戦場。
宗康が参戦した窪田城の正確な位置は不明だが、おそらく地図上の位置と推定。

伊達側は少ない兵力で必死の防衛戦を展開するが、その際に飯坂宗康も戦いに参加し、窪田城の防衛を任されている。『貞山公治家記録』には大嶺信祐とともに窪田の防衛に派遣されたことしか書かれていないが、『飯坂盛衰記』には戦闘の様子が詳細に記載されているので引用してみる。

宗康鐵石の如く堅固に守りければ。寄手の大勢 如何とも成がたく。遂に軍を班しけり、宗康は城の上より見渡し。すはや敵の足並亂しぞ。切て出よと下知すれば。早雄の若者共一度にどつと切て出て。追討に切ければ。敵大勢とは申せども。返し合する者もなく散々に亂れ立ち。右往左往に走り行く。小勢を以大敵を欺く事。比類なき事なりとて。政宗公御感心淺からず。
曰く、鉄壁の守りに敵の足並みが乱れたところに追い打ちをかけ、うまく窪田城を防衛しきった様だ。この働きもあってか、伊達側は郡山地域の防衛に成功し、ほぼ同時期に北方の最上・大崎との講和も成立、窮地を脱することになる。

またこの年の10月19日、使者をもって政宗に肴を献上したことが『貞山公治家記録』に記録されている。


■ 対岩城 田村領防衛戦

続いて宗康の戦闘行動が記録されているのが、翌天正17年(1589)4月である。これまで伊達氏と岩城氏は比較的良好な関係で、前年の郡山合戦も岩城氏の仲介によって蘆名・佐竹連合との講和が成立している。

しかし、当時ほぼ伊達の保護国と化している三春・田村氏内部の反伊達派が岩城氏の保護を受けたことや、岩城家中にも反伊達急先鋒・佐竹氏の影響力が強かったことから関係が悪化し、岩城氏が田村領へ侵攻する事件が起こる。

1588~1589年の仙道方面情勢。基本的には伊達 VS 佐竹だが、1589年には岩城氏も反伊達勢力に加勢する。

このとき、岩城軍によって田村方の鹿股城が落城するなどの被害が発生するが、その後の田村への援軍として飯坂宗康らが派遣されている。

実はこのとき、伊達家当主の政宗は落馬により足を骨折し、自ら出陣ができない状態であった。そんな政宗を気遣ってか、4月28日には政宗の元へ飯坂温泉の湯が届けられ、湯治を行っている様子が記録に残っている。おそらく、飯坂領主・宗康か、娘で政宗側室の飯坂御前の手配によるものだろう。

5月18日には、引き続き田村領に、今度は対相馬への備えとして宗康が派遣されている記録が残る。宗康の、武将としての戦闘に関する記録はこれが最後となる。


■ 死去

『飯坂盛衰記』によればこの年(1589)の9月2日に飯坂宗康は死去している。彼にとって心残りは、飯坂氏としての跡取りがまだ生まれていないことであった。

彼には男子がいなかったし、当初養子に迎えるはずだった黒川式部は既に離縁してしまっている。政宗の側室となった飯坂御前に子が生まれれば、その子を跡取りとする約束であったが、二人の間に子は生まれていない。

彼を見舞いに政宗の使者が訪れるが、宗康が政宗に遺言としての残したのは
  • 領地はすべて政宗に差し出す
  • 将来、飯坂の局と政宗の間に子が生まれたら、その子に飯坂の名跡を継がせてほしい
ということだった。この1589年9月と言えば、伊達家としては宿敵・蘆名を摺上原に破り(7月)、祝賀ムードであっただろうタイミングだ。そんな中、宗康はひっそりと息を引き取った。同じ年の春には田村領の防衛任務についていることから、あるいはこの戦いで何らかの傷を負ったのかもしれない。

飯坂・天王寺に残る宗康の墓

さて、ここからしばらく飯坂氏は当主不在の状況となる。男子が途絶えた以上、一時家は断絶したともいえる。この約15年後に飯坂の名跡は復活するのだが、次回はそれまでの間、飯坂の血筋を継いだ政宗の側室・飯坂御前の人生について触れたいと思う。


■ 悲運の一族・飯坂氏シリーズ一覧

飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家-
こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学- 
飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【資料集付】
鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる- 
分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族- 
┗【資料集】中世の飯坂氏
飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク- 
⑦飯坂宗康と戦国時代 -男子なき父親の苦悩- ← 今ココ
【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
┗【資料集】飯坂宗清
┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
┗【資料集】近世の飯坂氏
⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表