■ 齋藤邸別邸の歴史
この家を建てたのは斎藤喜十郎(1864-1941、4代目)なる人物で、明治時代なかばから新潟の数々の企業勃興にかかわってきたビジネスパーソンである。
斎藤家は幕末のころに家業の清酒問屋から事業を発展させ、明治時代には海運業(越佐汽船会社)、銀行(新潟銀行)、化学工業(新潟硫酸会社)などにも関与する、新潟三大財閥のひとつにまで発展した。現代風にいえば斎藤ホールディングス、斎藤フィナンシャルグループ、である。
画像は「旧齋藤家別邸庭園調査報告書」より拝借 |
戦後の混乱の中で斎藤家がこの別邸を維持することが難しくなったなか、新たなオーナーとなったのが新潟の建設会社、加賀田組の2代目社長・加賀田勘一郎である。
加賀田はビジネスだけではなく、新潟市議会議長として地方政治にかかわったり、囲碁や茶道をたしなむ趣味人でもあった。また、屋敷を文化交流の場として市民に開きながら維持してきたことで、新潟市民にとってもこの屋敷は愛着のあるものになったのである。
加賀田組のオーナーシップはつい最近2005年まで相続するが、そののちにこの屋敷が荒廃してしまうことを惜しんだ新潟市民の請願により、新潟市によって公有化され、今にいたっている。
…と、お土産に買ったガイドブックを参照しながら駆け足でこの斎藤家別邸の歴史について書いてみたが(だいぶ端折ったけど)。
斎藤邸について調べてみるだけでも、新潟の経済史、文化史の一側面がわかる。斎藤邸には興味深い資料がたくさんあるので、興味がある方は是非一度訪れてほしい。
ちなみに、このお屋敷は斎藤家の本邸ではなく「別邸」なのがミソで、ここは斎藤財閥や加賀田組にとってお客さんを迎えるための、いわばゲストハウスだった。地方の有力企業のゲストハウスともなれば、ここを訪ねた客も錚々たるメンツで、ガイドブックには総理大臣・若槻礼次郎、ノーベル賞作家・川端康成、おなじく総理大臣・田中角栄の訪問、そして囲碁のタイトル戦である第10期本因坊戦の様子などが写真とともに紹介されている。
■ 邸宅とその庭園
さて、前置きが長くなったので、斎藤邸については実際に写真で見てもらおう。
二階大広間から |
大正スタイルの和風トイレ 窓がハート形になっているのに注目。 |
中庭の井戸。斎藤邸はかなり海岸に近い場所にあるが、きちんと真水がでるのだとか。
主庭の様子。9月末でもう、もみじが色づいている。 |
主庭の茶室にてガイドさんの説明を聞くご一行。 |
庭石。はるばる江戸の仙台屋敷から運ばれてきた、との言い伝えがある。おそらく廃藩置県後に江戸の大名屋敷が不必要になった際、斎藤財閥が買い取ったのだろう。しかし、庭ができたのが明治時代だとして、どうやってここまで運んできたのだろうか?
- 鉄道:新潟市域としては初の沼垂ぬったり駅が1897年(明治30年)に開業。だけど貨物としては重すぎる?
- 陸路:自動車はまだ普及していない。使えるのは馬車? 関東から中山道・三国街道を通って?
- 海路:当時はまだ海運が大規模輸送の柱だったと思われる。斎藤家は上記のとおり「越佐汽船会社」なる海運業も営んでいたから、これが一番現実的だろうか。
...といったことを考えてしまう。おそらく伊達家の藩士たちも眺めていたであろう庭石が今は新潟にあるというのが面白い。
新潟らしくて面白いなー、と思ったのがこれ。多脚の樹である。根上がりの松と呼ぶらしい。
根を張った木のまわりの砂が波風でさらわれ、根っこが地表に出てしまった結果、このような姿になるのだという。木の幹が分かれているのではなく、根っこが地表から露出し、重量を支えるために太くなったものだ。海に近い新潟の古い屋敷ではそこまで珍しいものでもない、とのことだが、初見者にとっては充分なインパクトがある。
主庭から主屋に臨む |
同じく主庭から。後ろに見えるのが新潟で2番目に高いビルであるNEXT21(128m、左)と、4番目に高いグランドメゾン西堀通タワー(111m、右)。斎藤邸から見るとグランドメゾンの方が近いため、高さはほとんど同じに見える。
この写真を撮影した場所は、主庭のなかでも斎藤邸主屋を真正面に眺めることができるビューポイントであるため、2つの高層建築物に対しては「せっかくの眺めを妨害する邪魔者」という声もあるらしい。このふたつのタワーが写りこまないようにするには、ひとつ前の写真の様に別の場所から少し見上げる角度で撮影するしかない。
しかしこの眺め、筆者は好きだ。
現代の最先端高層建築と、約100年前当時の粋をこらした邸宅。一見ミスマッチに思えるかもしれないが、これはこれで今の新潟を象徴していると思う。今やパリの代名詞とも言えるエッフェル塔だって、建設当時はパリの伝統的な景色を壊すという理由で反対の声があった。にもかかわらず、現在のパリには外して語ることのできない建造物ではないか。
同じようにNEXT21も、1994年に完成して以降、新潟のランドマークとして親しまれているらしい。19回の展望フロアは入場無料で一般に開放されており、新潟観光の定番の様だ。
和風家屋とのミスマッチ感をなげくよりも、「異なる時代のそれぞれの最先端建造物を一度に眺められる場所」として楽しんでしまった方がオトクなんじゃないか、と筆者は思うのだ。
主庭の滝 |
高低差のある庭のステップとして用いられている敷石なのだが、まんなかに穴が空いている。もともと、佐渡の金山・銀山で使われていた石臼なのだという。こういった本来の用途とは違った使い方をするのにも、庭師の遊び心と工夫が感じられる。
■ 庭の造成者・松本兄弟
この庭を造成された時代の背景を語るうえで欠かせないキーワードとして、「近代数寄者」と「自由主義風景式庭園」がある。
まずは近代数寄者から。数寄者すきものといえば、漫画『へうげもの』で有名な古田織部や、千利休の名が良く知られている。
茶道をはじめとして、小道具や建築などに独自の工夫と自分のスタイルを反映した趣味を極めた人たちである。彼らは戦国時代の人間で、武家や商人だったが、近代(明治時代)になると茶の湯や骨董の収集に熱心な財界人や政治家が出現した。彼らを「近代数寄者」と呼ぶ。
『新潟市旧齋藤家別邸 公式ガイドブック』より |
宗教観にもとづいた精神的な庭から、西洋文化の影響をうけた写実的な庭へ。これが「自由主義風景式庭園」である。もちろん、いろいろと工夫はこらされているのだろうが、ぱっと見のわかりやすさを追求した、といったら簡単に要約しすぎて職人に怒られてしまうだろうか。
近代数寄者である益田孝、克徳兄弟(佐渡生まれ)や高橋義雄といった人々の庭園に対する考え方に影響を受けたのが松本兄弟だった。2代目・松本幾次郎と松本亀吉である。この二人が、斎藤邸別邸の造園を行った庭師たちだ。
彼らはこの庭の他に渋沢栄一の曖依村荘あいいそんそうの庭園や、成田山新勝寺の作庭を行ったことで知られている。
邸内の案内の際、ついガイドさんの説明に夢中になり、写真撮影がなおざりになってしまった。庭の写真ばかりなのはそのためである。片手落ち感が否めないので、次に新潟にいくときはきちんと邸内の様子も撮影してこようと思う。
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