2014年10月12日日曜日

雑感 -Google Mapのありがたさ-

■Google先生の弱点

史跡めぐりをしていて避けて通れないのが、その場所の特定である。当たり前だが、場所がわからなければ訪れることはできない。

さすがに「大阪城」だとか「松下村塾」といったレベルの史跡ならば、Google先生に訪ねれば一発で解決なのだけれども、なかには場所がわかりにくいものもある。

たとえば仙台には「芭蕉の辻」という歴史的に有名な交差点がある。旧奥州街道と仙台城の大手通が交わる、仙台の「ヘソ」だ。これも残念ながら、「芭蕉の辻」と検索してもピンポイントでは指し示してくれない。

史跡としての「芭蕉の辻」跡は検索されない。
ヒットするのは「芭蕉の辻 支店」。これがGoogleの限界か。

これはまだ交差点だけあって場所の特定が楽なほうなのだが、中には城跡など、場所の特定が極めて難しいものもある。それこそ図書館で市町村史をみて「~旧○○街道の××里西方に」だの「本丸には○○神社が残っており」だのといった文言を参考に、現地で人に訪ねまわって、ようやく場所がわかるものもあるのだ。

「最寄りのTSUTAYA」とか「整形外科」といったような生活に必要な情報なら抜群の威力を誇るのだが、史跡という観点からみれば、まだGoogle先生は万能の存在とは言い難い。

…と、タイトルが「Google Mapのありがたさ」なのに、なんだか天下のGoogle先生をディスる内容になってしまった。このままではタイトル詐欺である。

■ 苦労してこそ旅の思い出

ただし。

個人的には「場所の特定」も含めての史跡めぐりだとおもっているので、それはそれで楽しいから問題ないと考えている。

上記のように図書館で調べものをしたり、土地の人に訪ねながら目的地を探すのは、楽しいし、むしろそこにこそ、旅の本質がある。目的地まで一直線の旅なんて、面白くない。

何より、そういった苦労話も含めて自分の体験を元に特定した場所を具体的に指し示すところに、こういった史跡巡り系ブログの価値が生まれるのである。そして、その表現方法としてのGoogle Mapに、ブログ主はありがたさを感じている、というのが今回述べたいことなのだ。

■紙の限界と、デジタルマップの有用性

とある史跡ガイドの定番本より、花巻周辺。
こんなおおざっぱでわかるかっ!!
史跡の場所について具体的に地図を載せている旅行ガイド本は多い。

しかし、問題はその縮尺である。一枚の地図に多くのスポットを載せようとするあまり、おおまかな位置はわかっても、実際に現地で近づいてみると場所がまったくわからないものも多いのだ。

「とにかくがんばれ」だの「熱意があれば伝わる」といった精神論だけを説き、具体的な指示をくれないポエム系上司の説教にどこか似ている。「なんとなくその辺に行けば見つかるよ」と。

それがどこやっちゅうねん。

とはいえ、一件ずつ詳細な地図を載せるのも、紙幅の関係上難しいのであろう。地図はあんがい、スペースを食う。

やはり同じ理由で、説明と地図のページがかけはなれていて、いちいちページを往復できない構成のものもあり、それもまた不便に感じる。

その点、Google Mapはありがたい。

たとえば、(手前味噌で申し訳ないのだが)当ブログ主が編集した下の地図を見ていただきたい。これは、江戸時代の仙台藩における城/要害/所/在所/番所/関所をまとめた地図である(ただいま絶賛更新中)。



このデジタルマップならば、拡大して詳細な位置を確認するのも、縮小しておおざっぱな位置関係を捕らえるのも、思いのままなのである。

こういった城郭関連だととくにそうなのだが、城の位置関係を大局的な地図でながめて、
「あぁ、仙台藩の要害は北方の対南部、旧葛西・大崎領、南方の対相馬・仙道口に集中しているんだなぁ」
とか
「旧気仙郡には要害も在所もないけど、統治はどうしてたんだろう」
とかいったヒントを得られることもあるし、城の位置をもっと狭いスケールで確認して、実際に訪れるときの助けにしたり、周りの地形と照らし合わせながら、
「絶妙な場所に本丸があったんだなぁ」
とか
「この位置なら、この街道を抑えるのがこの城の役割だったんだろうなぁ」
といったヒントを得ることができるのだ。

拡大縮小も、同じ一枚の地図でできる。

その上、(機能は上記のように完璧でないにせよ)検索もできる。

地図に載っていない情報でも、自分で編集して加えることができる。

さらに、それをブログに埋め込める

あと地味に便利なのは、「この史跡から次の史跡まで車で何分」というルート表示・検索もできること。一枚の地図が、歴史的考察の助けにも、カーナビ替わりにもなるのだ。

このブログは特に埋め込みではない画像地図を作成する際にも、Google Mapの地形図をべースに編集させてもらうことが多い。

まさに、当ブログはGoogle Mapにはおんぶにだっこ状態なのである。

2014年10月5日日曜日

黒川晴氏 -伊達と大崎のはざまで-

くろかわ はるうじ
黒川 晴氏 
別名
月舟斎
生誕
1523年(大永3年)
死没
1599年(慶長4年)8月25日 享年77歳
死因
病死
君主
(大崎寄りの)独立領主 ⇒ 伊達政宗


家格
一家(伊達家の元で)
所領
黒川郡一帯
居城:鶴館城(下草城)
氏族
黒川氏
在位
当主:1568-
黒川稙国
不明
兄弟
稙家、晴氏
大崎吉兼の娘
実子:竹乙姫(留守政宗の妻)
養子:黒川義康(大崎義直の子)
子孫
黒川季氏(孫、この代で黒川家は無嗣断絶)
先祖
黒川景氏(祖父)
墓所
不明
■黒川一族

黒川氏は、宮城県北部・黒川郡を所領とした一族。あくまで独立した勢力ではあったが、大崎・葛西、および少しずつ北進してくる伊達氏に挟まれた地政学的にかなり不安定な土地柄であったため、大崎や伊達氏の家臣の様に書かれることもあり、事実上そうなっていた時期もないとは言い切るのが難しい、なんともグレーゾーンな領主である。

晴氏の祖父・黒川景氏は伊達一門・飯坂清宗の息子であった注釈A。その縁から、この時代の黒川氏は大崎氏よりも伊達への親睦度が深かったようだ。

この代に伊達天文の乱がおこるが、景氏は稙宗党についた。

乱は晴宗党の勝利でおわるが、晴宗にとって敵方だったといえども、北方の伊達勢力の一角としての景氏の価値は無視できず、「大崎鎮撫のことはすべて景氏に任せる」といった意のことの述べている。当時は大崎に対する備えとして、伊達にとっては留守氏と並ぶ北方の同盟勢力であったことがうかがえる出典01

しかし、伊達の威光を背景に入嗣した景氏も、周囲を大崎系の諸族に囲まれた根なし草の状況を打破すべく、娘たちを大崎一族の百々氏、高城氏などに嫁がせ、また高城氏や一迫氏からの娘をめとった。

景氏の息子(晴氏の父)・稙国、その息子(晴氏の兄)・稙家を経て、稙家が1568年に死去すると晴氏が家をついだ。

■伊達・大崎 二方面外交

祖父・景氏はおそらく伊達方の武将としての自意識があったはずであるが、孫の代にまでなってくると、周囲には大崎系の血が濃くなっている。上記のような状況下で育った晴氏は、おそらく大崎に対する親しみのほうが強かったのかもしれない。

ただし、晴氏も大崎一辺倒の外交をしていたわけではなく、小領主としての宿命から、一方では伊達との誼を深めることも怠っていない。

奥州の情勢図。現在の仙台市周辺には国分・留守・粟野・秋保・亘理といった中小勢力がひしめいていたが、戦国時代が終わりに近づくにつれ、最終的にことごとく伊達傘下となった。黒川氏も、伊達・大崎のはざまで決断を迫られるようになる。

1574(天正2年)年には、伊達輝宗の日記に晴氏から年始として扇子・茶碗が送られてきたことがみえ、政宗の家督相続の際は祝いの品を送っている。

伊達政景が留守氏に入嗣した際、余目氏、村岡氏、佐藤氏などが反乱をおこすと、晴氏は進んで調停役に尽力。やがて娘・竹乙姫(鳳仙院)を留守政景に嫁がせる仲にまで発展し、近隣の勢力である留守氏との結びつきを深めている。

また、晴氏には男子がなく、大崎家当主の義直の息子、義康を養子とした。その義康には伊達一門の亘理元宗の娘をめとらせている。このことからも、伊達・大崎との2方面外交を行い、勢力の安定に努めていたことがうかがえる。


黒川晴氏を中心とした系図。やたらとややこしくなってしまったが、要はこの人の婚姻政策はやたらとややこしいのである。周辺勢力との結びつきにより家を守ろうとする小領主の苦労(およびこの系図を作成した筆者の苦労)が垣間見える系図であろう。

■大崎合戦の勃発

そんな折の1588年、大崎家の内乱に伊達政宗が介入し、大崎合戦がはじまる。大崎・伊達と両方に誼をつうじていた晴氏も、どちらかにつかなければならないときがやってきた。

伊達勢は浜田景隆を陣代に、大将に泉田重光留守政景の2頭体制。

留守政景は前述のとおり黒川晴氏の義理の息子にあたる人物。そのことに加え、伊達勢の中でも最北端に所領をもつ武将であることもあり、大崎情勢には詳しかったのだろう。必然的に政景は慎重な攻略策を提案するが、もう一人の大将・泉田重光は強硬論を唱える。

この対大崎戦における伊達勢の目標は、大崎家中における伊達派であり、政宗に援軍を求めた岩手沢城の氏家吉継との連絡をつけることが第一である。伊達勢は出撃拠点の松山城から、鳴瀬川沿いに進軍し、いっきに大崎の本拠地・中新田城をぬいて岩手沢を目指すことが合理的であり、これこそが強硬派・泉田の主張した策でもあった。

しかし、問題はその進路上にある桑折城に、あろうことか晴氏が入ってしまったことである。当初、晴氏がどちら側につくのかはっきりとわからなかったこともあり、伊達勢は泉田案のとおり、直接中新田城を攻撃することになった。





伊達郡は2月2日に行動開始。

注釈A:『大和町史』p388。『報恩寺系図』によると、黒川景氏は飯坂清宗の子であるという。しかしながら、飯坂側の資料である『飯坂盛衰記』付属の系図には「飯坂清宗」なる人物名は記載されておらず、誰に比定すればよいのかは今後の研究が必要であろう。どちらにせよ、黒川景氏が飯坂氏の出身であることは間違いない。「飯坂清」はまた時代の違った人物なので注意が必要。
出典01:『大和町史』