「信長の野望・創造」より 統率79/武勇79/知略78と、 戦闘では使い勝手が非常に良い |
詳しい生年は不明。没年は1609年(慶長14年)とも1611年(慶長16年)ともされる。
ちなみに裏付けとしての参考にはならないが、『信長の野望・創造』のデータでは1565年誕生、1609年没となっている。名前の読みが「みつやす」になっているが間違いだろう。「光」の字は主君・最上義光からの偏諱(字の拝領)であるため、「あきやす」が正しいハズ。父親の代から最上家に仕えるが、彼の名が一気にとどろいたのが東の関ヶ原・慶長出羽合戦における長谷堂城の戦いにおいてである。
志村光安は副将格の鮭延秀綱らとともに長谷堂城にこもり、最上の本城・山形城を目指す上杉・直江兼続が率いる1万8000の兵をわずか1000名の手勢でくいとめた。
この間、最上は親戚にあたる伊達に援軍を要請し、政宗も留守政景の率いる援軍を送っているが、実際には戦闘には及ばなかったため、実質 孤立無援の戦いであった。
通常城攻めには敵の3倍の兵力が必要とされているが、この戦いにおいては上杉軍は籠城勢に対して18倍の兵力で、なおかつそれを率いるのはかつて上杉謙信にも才能をみこまれ、家康をめちゃクソに激怒させたこともある天下の軍師・直江兼続である。これを撃退したのだから、彼の名前が轟くのもうなずける。
戦後は東禅寺城、後に改名し亀ヶ崎城3万石を拝領した。