いずみだ しげみつ
泉田 重光 | |
「伊達家臣二十四将図」より
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別名
| 助太郎、安芸守 |
生誕
| 1529年(享禄2年) |
死没
| 1596年(慶長元年)享年68歳 |
君主
| 伊達政宗 |
藩
| 仙台藩 |
家格
| 一家 |
所領
| 岩沼城 8000石 薄衣所 1400石(1591年-) |
氏族
| 泉田氏 |
在位
| 当主:1582-87年の間 - 1596年 |
父
| 泉田景時 |
母
| 八幡景業の娘 |
兄弟
| 光時、重光、小平重隆 |
妻
| 不明 |
子
| 養子:泉田重時(亘理元宗の子) |
子孫
| 泉田志摩(幕末期) |
墓所
| 東安寺 |
元服がいつなのかは定かではないが、現代風にハタチで成人したと考えても1549年。おそらく思春期を天文の乱(1542 - 1548年)に重なる時期にすごしたはずである。この伊達家内乱において泉田家がどちらに組したかは定かではないが、時期的には伊達稙宗 → 晴宗 → 輝宗、そして政宗と4代にわたって仕えている計算になる。
父である泉田景時の名前は、伊達の軍勢が総動員された天正4年(1576)の対相馬戦でみつけることができる。このとき泉田景時は単独で2番備えを形成している。ひとつの備えは300 - 800人で形成され、それを養うには1万石近い経済力が必要であった。
実際に泉田家は岩沼城主時代に8000石の知行があったとされる。伊達家のなかでも、泉田家はなかなかの大身であったはずだ。天正4年の対相馬戦のとき、重光は48歳。彼も出陣していたと考えるのが自然だろう。
天正10年(1582)年には、重光の兄である光時が相馬との戦で討死。
鮎貝宗信の謀反に際し、湯目景康、宮沢元実らとともにこれを攻めたのが天正15年(1587年)である。兄の戦死からこの間に、正式な家督を継承したと思われる。1582年に当主就任としても既に54歳。なかなかの遅咲きである。
■ 大崎合戦における主戦論
天正16年(1588)の大崎合戦では留守政景とともに大将格として出陣するが、折から母親の実家の相続問題に関して留守とはもめていたため、松山千石城における出陣前の軍議でも口論におよぶ。
一気に中新田城を攻めようとする泉田に対し、留守政景は慎重論を展開。確かに、伊達軍の出撃拠点・松山千石城から中新田城までの間には桑折城・師山城が備えており、これを素通りしての中新田攻めはのちのち挟み撃ちになるリスクが高い、という留守説のほうが常識論の様にきこえる。
大崎合戦における関連城配置図。青が伊達、赤が大崎の城。伊達の出撃拠点・松山千石城から中新田城までは約20キロのみちのり。
当初、鳴瀬川沿いに西進する伊達勢と岩手沢の氏家吉継とが大崎の拠点・中新田城を挟み撃ちにする計画であった。
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この留守政景の主張に対し泉田は
「兵は拙速を尊ぶ」「桑折城の黒川晴氏は留守殿の舅に当たられる人物。戦にときをかけるとは、時間をつぶして大崎を利するつもりでもあるのか?」「黒川晴氏は留守殿の親戚なのだから、そなたがなんとか参戦を阻止できよう」
と嫌味ったらしい反論。加えて、松山千石城主・遠藤出羽守の親戚が師山城の後背に位置する新沼城を守っていることもあり、これを無力化できるとの見込みもあった。
戦場の常で、慎重論よりも勇ましい攻撃案が採用され、泉田先鋒、留守後陣で伊達軍は出陣する。
■ 中新田城攻め失敗と虜囚生活
出陣した泉田勢は、師山、桑折城を素通り。このときは留守の恐れた両城からの挟み撃ちもなく静かな様子であったため、泉田勢は「大崎勢はわれらに恐れをなした」とはなから相手をナメきっている。しかし、これはあえて伊達の主力を素通りさせる黒川晴氏の策であったのだ。
泉田勢は中新田城を攻めるも、大雪(季節は新年早々の1月)と、城を囲む湿地帯に阻まれて思うように攻撃がはかどらないうえ、守将の南条隆信も戦に長けた人物で、みごとな采配で泉田を阻む。
結局撤退を余儀なくされるが、ここにきて南条隆信は城を出て泉田勢を追撃。さらに、素通りした師山城、桑折城からも敵兵が出撃し、泉田は敵中に完全に孤立。なんとか新沼城へとのがれこみ、ここから約1か月の籠城戦が始まる。
大河ドラマ 『独眼竜政宗』より
解放された泉田重光 (by高品格)を自ら迎える政宗 (by渡辺謙)
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なお、この撤退戦において配下の小山田頼定が戦死。留守の率いる後陣もなんとか泉田に合流・救出しようと奮戦するが、かなわなかった。
2月29日、黒川晴氏の斡旋により城の包囲は解かれたが、泉田は人質として長江月鑑斎勝景と共に大崎方に引き渡される。最上義光からは政宗に叛くように促され、長江はこれを受け入れて解放されるも、一方の泉田はこれを断り、山形まで連行されてさらなる拘禁が続く。
7月21日、義姫の仲介により大崎・最上との和睦が成るとようやく解放。約半年にも及ぶ虜囚生活であった。
この時期、北方の大崎・最上や南方の蘆名との戦が相次ぎ、四面楚歌の状態でも政宗は泉田重光の解放にこだわり、見捨てなかった。松山千石城での留守との口論を見る限り猪武者のような印象もうけるが、政宗からの信頼はよほど厚かったのだろう。
■ 留守政宗との関係 -八幡騒動-
この大崎合戦より以前から留守政景と折り合いが悪かった理由として、母親の実家(※1)である八幡氏の家督相続問題があげられる。
※1 Wikipediaには「嫁の実家」とあるがこれは間違い。
簡単に述べると、留守氏の家臣筋にあたる八幡家に、景兼(かげやす)、業継(なりつぐ)という異母兄弟がいた。かねてより仲が非常に悪く、どちらも幼少であったために家督相続で大いにモメたらしい。
結局、景兼が八幡家を継ぎ、業継は叔父である下間景継の養子となるのだが、この叔父をはじめとする業継派は景兼を廃嫡して業継に八幡家をつがせる、もっと率直にいえば乗っ取ろうとした。追い込まれた景兼は主君筋にあたる留守政景に救援をもとめ、留守は下間家を滅ぼした。
後ろ盾を失った業継は留守領を出て放浪するが、後にそれを世話したのが泉田重光だった。実は業継の妹が、泉田重光の母親なのである。このあたり、似かよった名前が非常に多く登場するのでとてもややこしい。
留守政景 → 八幡景兼 vs 下間(八幡)業継 ← 泉田重光
詳しい関係は下記の系図をじっくり眺めていただくとして、できるだけシンプルに構造を示したのが上の一行。八幡家の異母兄弟・景兼、業継の対立を留守が主君として、泉田が親戚筋としてそれぞれバックアップしていたかたちになる。
岩沼から薄衣へ約100キロ北方への移封(クリックで拡大) |
■ 薄衣へ移封
話が前後したが、1591年に秀吉による奥州仕置が行われ、伊達家そのものが大きく領地を減らされてしまう。政宗も本拠地を米沢から岩出山へ移し、家臣団の再編を行う。
このときの地行割りで泉田重光は、岩沼から磐井郡 薄衣に所替えとなる。知行は約1400石。
これについては、大敗した大崎合戦からあまり年月が立っていないタイミングでの移封であることから左遷とみる意見もあるようだ。なにせ岩沼8000石から1400石である。約6分の1。
しかし、伊達家そのものが多くの所領を没収されたことで、留守政景や亘理元宗といった重臣であっても知行を減らされたうえで所領替えとなっているため、やむを得ない処置だったとも思われる
亘理重宗の息子・重時を養子に迎え、泉田家は代々薄衣を治めた。薄衣は江戸時代の仙台藩においては「所」のランクを与えられたミニ砦となる。
1596年(慶長元年)没。享年68歳。なお、大崎合戦時には政宗22歳に対して泉田重光60歳。政宗からみたらおじいちゃん世代であった(【参考】 伊達家臣 年齢対応表)。
■ 系閥
本文中ではあまり触れなかったが、亘理家との婚姻関係が太いのが目立つ。これは亘理城主の亘理家、岩沼城主の泉田家はどちらも相馬方面に対する要であったため、結束を固める意味があったのだと思われる。
ちなみにこの系図をつくりながら自分も初めて気づいたのだが、仲の険悪だった泉田と留守は亘理家・伊達宗家を経由して遠い親戚筋にあたる。このあたりの関係が、東北の戦国武将は本当にややこしい。
【追記】2020.05.023
上の系図を見直していて、留守政景と亘理氏の間に黒川氏を挿入できることに気付いた。上の系図に修正を加えたものを下に掲載する。大崎合戦における因縁の3人、泉田重光、留守政景、そして黒川晴氏までもが、親戚の関係だったのだ。ザ・閨閥ラビリンス。
■ 参考文献
・『岩沼市史』
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