昔から変わらぬ雨上がりの田園風景(宮城県某所) 写真中央には消えかかった虹がうっすら見える |
仙台藩の官選地誌の一覧。仙台藩の学者の主導により藩全域について記述されたもの4点についてまとめた。ポイントとしては、
- 誰によって書かれ
- いつ完成し
- どの様な特徴があり
- 現代の我々が参照するにはどうしたらいいか?
の4点を意識して書いてみた。というのも、特に4つ目のポイントなのだが、これらの地誌、現代の我々が読んでいてもそれなりに面白い。
旧仙台藩域(宮城県全域、福島県の一部、岩手県の南部)にお住いの方なら、自分の暮らしている土地が昔どの様な場所だったのか、とても楽しく読めると思う。
旧仙台藩域(宮城県全域、福島県の一部、岩手県の南部)にお住いの方なら、自分の暮らしている土地が昔どの様な場所だったのか、とても楽しく読めると思う。
旧仙台藩の領域で旅をするなら、かたわらに携帯し、現代の風景と見比べてみるといろいろと新しい発見に恵まれることうけあいである。昔の地名と今の地名を比較してみるだけでも面白い。
それではどうぞ。
それではどうぞ。
『奥羽観蹟聞老志』 写真は仙台市HPより拝借 |
仙台藩の地誌の先駆けであるばかりでなく、名所旧跡、神社仏閣などを和歌、物語、民話、伝説などを交えて説明している点に特色がある。そのため、地理情報よりも歴史・文化といった類の情報が目立ち、佐久間に編集を命じた藩主・綱村が作詞・詠歌を好んでいたことも影響しているとみられる。
また、記述の対象は仙台藩領に限らず、陸奥国南部(現在の福島県)、出羽国南部(現在の山形県)にも及んでいる。
完成までに9年を費やしたが、その間、自ら藩域を巡視したり、宝永4年(1707年)の仙台大火で編集記録が消失したりなど、苦労が絶えなかった。また、著者自身の筆と称される書写本が多く、貧窮した佐久間が自らの生活の足しにしていたという逸話も残る。
また、記述の対象は仙台藩領に限らず、陸奥国南部(現在の福島県)、出羽国南部(現在の山形県)にも及んでいる。
完成までに9年を費やしたが、その間、自ら藩域を巡視したり、宝永4年(1707年)の仙台大火で編集記録が消失したりなど、苦労が絶えなかった。また、著者自身の筆と称される書写本が多く、貧窮した佐久間が自らの生活の足しにしていたという逸話も残る。
郡奉行であった萱場高寿かやば たかとしが、部下である役人の佐藤信要のぶあきに命じて藩内の名所や古今の事跡を各地の役人に尋ねさせたもの。編集の過程で『奥羽観蹟聞老志』に基づいて調査を行い、誤りを訂正したため、『聞老志』の改訂版とも言える。
神社・古城・旧跡・地名・仏寺・地理・風景などについてまとめられており、漢文で書かれた『観蹟聞老志』に対して『封内名跡志』は和文で書かれている。著者も官吏であることから民政に役立てようという視点があったことがわかる。
神社・古城・旧跡・地名・仏寺・地理・風景などについてまとめられており、漢文で書かれた『観蹟聞老志』に対して『封内名跡志』は和文で書かれている。著者も官吏であることから民政に役立てようという視点があったことがわかる。
萱場高寿が佐藤信要に編集を命じたのが享保15年(1730)秋で、約10年後の寛保元年(1741)年に完成した。佐藤信要は『聞老志』の著者・佐久間義和の門人であり、佐久間と相談しながら編集をすすめたが、完成前に佐久間が没したため、以後は高橋以敬の指示を仰いで文章を整えたという。佐久間義和と高橋以敬は、仙台藩の儒者・遊佐木斎の同門で、兄弟弟子の間柄である。
『仙台叢書』第8巻に収められている。
【参考】仙台藩の地誌編集者人脈 |
『封内風土記』 写真は平成版『仙台市史 通史編5』(近世3)から拝借 |
ややこしいのだが、『風土記』と略記される事例がよく見られる。通常『風土記』と言えば奈良時代に元明天皇の詔により書かれた『風土記』を指すことが多いが、仙台郷土史の文脈では『風土記』と略して特にこの『封内風土記』を指すことが多く、注意が必要。
巻数は全22巻であるが、巻三(宮城郡)、巻十八(栗原郡)、巻二十(磐井郡)が上下にわかれているので、実際には25巻となる。巻一では藩域の総論がまとめられ、他藩との境界、気候、風俗、特産物などについてまとめられている。巻一の後半部および巻ニは「府城」すなわち仙台城下について書かれており、以下は一巻一郡ごとに記述がなされている。
会津藩でまとめられた地誌である『会津風土記』、『新編会津風土記』を意識して編纂されたと言われ、統治の参考にするための実用書として役立てることを目指したと考えられる。『奥羽観蹟聞老志』『封内名跡志』とはフォーマットが異なり、郡の境界、百姓の戸数、馬数、収穫高や郡内に所領を持つ家臣の氏名とその配下などについての記述があることもその一端と言えよう。
一方で、仙台藩においては地誌編纂の文脈上、『奥羽観蹟聞老志』『封内名跡志』の影響が大きかったこともあり、名所旧跡についての記述の充実度とくらべて民政の参考になる情報の現地調査が不足していることは否めない。場所によっては脱漏も多かったことから「治具之要典」とするには不完全であったとも指摘されている。もっとも、この点については著者の田辺希文も自覚していたようで、老齢のために不十分に終わった現地調査の継続を息子の田辺希元に託し、増補版である「風土記捨遺」の完成を目指していた。
現在は絶版となっているものの『仙台叢書』シリーズとして3冊にまとめられたものが宮城県内の各図書館に収められていることが多い(が、館内閲覧のみ可能な場合も)。他県でも、比較的大きな図書館や大学図書館には所蔵されている模様。国立国会図書館デジタルコレクションでも閲覧可能なので、こちらの方が便利か。
■『風土記御用書出』(ふどき ごよう かきだし)
『封内風土記』を編纂した田辺希文の子・田辺希元は、父の意思を継いで「風土記捨遺」の編集を計画していた。これを受け、仙台藩では安永2年(1773)から同9年(1780)にかけて、各村の肝入(庄屋のこと)から「風土記御用書出」と呼ばれる邑内情勢の調査書を提出させている。また、村の情報だけでなく、「代数有之御百姓書出」「品替御百姓書出」「古人書出」「神職書出」「寺院書出」などと呼ばれる調査書の提出も行われた。これら一群の古記録を総称して『風土記御用書出』と呼ぶ。
これらの調査書をまとめた上で最終的には「風土記捨遺」の編集が目指されたが、結局は完成をみることはなかった。いわば、幻となった「風土記捨遺」編纂のための資料集、ゲラ集のようなものと言えよう。
ゲラとはいえ、これらの書出は各村にも控えが保存され、その情報は以降の肝入たちが必ず備えておくべき行政書類の一種となった。いわば、『封内風土記』が果たすことのできなかった「治具之要典」としての役割を、きちんと果たしていたのである。
『封内風土記』に対して『安永風土記』あるいは『安永風土記書出』『風土記書出』といった略称・異称で呼ばれることも多いが、単に『風土記』と紹介されることもある。『封内風土記』も『風土記』と略されることがあるので、その場合どちらの風土記を指しているのかわからないことがあり、非常にまぎらわしい。出典情報を記述するときは『風土記御用書出』か『安永風土記』と書くように注意しよう(筆者の自戒の意味も込め)。
編集者である田辺希元自身も各村の実地調査に赴き、その過程では民政に携わる郡奉行、大肝入、肝入だけでなく、藩各地に散らばる有力家臣たちの協力があった。これは、希元が仙台藩の家臣禄である『伊達世親家譜』の編纂にも携わっていたことが関係しており、例えば刈田郡の記述については片倉家の協力があったとみられる。
惜しむらくは、あまりに膨大な文量のため書写が難しく、中には散逸してしまった村の記録もあることだ。もっとも、お蔵入りしがちな無用の書物とは違い、実用的であるがゆえにあちこちで使われていたことの証明とも言えるだろうか。また、それぞれの調査書は執筆担当者が異なるため、基本的には変体漢文だが、多少文体のばらつきがみられる。
近代に入り、仙台藩から宮城県に引き継がれたものの大部分が宮城県図書館に現存(県の文化財指定)しているが、これも全体量の半分にも及ばないという。県図書館は各地方の所蔵者から欠落部分を借りて写し、県史編纂事業の一環として『宮城縣史』の資料編として発行した。『宮城縣史 23 史料篇1』~『宮城縣史 28 史料篇6』がそれに該当する。
■ 4書の特徴
以上、本記事では仙台藩の地誌として4つを紹介した。どれも特徴として
という特徴がある。いわば、藩としてのオフィシャルな地理書なので、記述された情報にはある程度の信頼性がある。
また、4冊の編纂過程に一本のストーリーラインが見て取れるのも面白い。すなわち文化誌としての性格の強かった『奥羽観蹟聞老志』をベースとして、少しずつ実用的な情報が書き加えられていき、『封内名跡志』『封内風土記』ができた。その不足を補うべく、最終的には「風土記捨遺」として仙台地誌の完成を目指したが、果たせなかった。しかし、その過程で集められた情報は、『風土記御用書出』として実際の民政に活用され、無駄にはならなかった。
一方、これらの地誌はどれも18世紀(1700年代)の江戸中期に書かれたものである点には注意が必要であろう。この時期は、江戸初期の新田開発がひと段落した時代で、戦国時代に荒廃した農村の風景からは大きな変化があったのではないかと想像される。なので、これらの地誌を読んで「昔からこの村は~だった」と断定するのは危険だ。一口に「昔」と言っても、江戸時代中期とそれ以前では、だいぶ事情が異なる。
ちなみに、仙台藩域については、記述が藩全域には及ばないとしても、民間人の手によって書かれた地誌も多く存在するので、機会があればそちらについても調べて紹介記事を作ろうと思う。
■ 活用の方法
読んでみると、意外と江戸時代から風景が変わっていない場所があることに気付くこともあり、そういった場所ではタイムスリップした気分を味わえる。
旧仙台藩域を旅するときは、是非携帯して今の風景と地誌の情報を見比べてほしい。...もっとも、江戸時代の書物なので、所有している人は非常に希だろう。古文書片手に旅してる人がいたらガチの歴史マニアに違いない。
上記の様に、どれも復刻版があり、『仙台叢書』と『宮城縣史』に収められている。また、各自治体による市町村史の資料編にも、当該箇所だけ抜き出して収録されていることが多い。しかし、2016年末現在、絶版本ばかりで手に入りにくいうえ、ハードカバーで重いのが難点だ。
おそらく、図書館でコピーし紙で持ち歩くのが現実的だろう。ちなみに筆者は、仙台メディアテークか宮城県図書館の郷土史コーナーでコピーしたものをさらにスキャンし、画像データをスマホに取り込んで携帯している。
『風土記御用書上』については上述のとおり、散逸してしまった部分もあるので、もし原本を所有している方がいたら
高値で売っ払えるぜうぇーい! するなり然るべき博物館、図書館に寄贈するなり、適切なアーカイブ方法を検討されたい。
■参考文献
『風土記御用書出』 写真は宮城県HPから拝借 |
これらの調査書をまとめた上で最終的には「風土記捨遺」の編集が目指されたが、結局は完成をみることはなかった。いわば、幻となった「風土記捨遺」編纂のための資料集、ゲラ集のようなものと言えよう。
ゲラとはいえ、これらの書出は各村にも控えが保存され、その情報は以降の肝入たちが必ず備えておくべき行政書類の一種となった。いわば、『封内風土記』が果たすことのできなかった「治具之要典」としての役割を、きちんと果たしていたのである。
『封内風土記』に対して『安永風土記』あるいは『安永風土記書出』『風土記書出』といった略称・異称で呼ばれることも多いが、単に『風土記』と紹介されることもある。『封内風土記』も『風土記』と略されることがあるので、その場合どちらの風土記を指しているのかわからないことがあり、非常にまぎらわしい。出典情報を記述するときは『風土記御用書出』か『安永風土記』と書くように注意しよう(筆者の自戒の意味も込め)。
編集者である田辺希元自身も各村の実地調査に赴き、その過程では民政に携わる郡奉行、大肝入、肝入だけでなく、藩各地に散らばる有力家臣たちの協力があった。これは、希元が仙台藩の家臣禄である『伊達世親家譜』の編纂にも携わっていたことが関係しており、例えば刈田郡の記述については片倉家の協力があったとみられる。
惜しむらくは、あまりに膨大な文量のため書写が難しく、中には散逸してしまった村の記録もあることだ。もっとも、お蔵入りしがちな無用の書物とは違い、実用的であるがゆえにあちこちで使われていたことの証明とも言えるだろうか。また、それぞれの調査書は執筆担当者が異なるため、基本的には変体漢文だが、多少文体のばらつきがみられる。
近代に入り、仙台藩から宮城県に引き継がれたものの大部分が宮城県図書館に現存(県の文化財指定)しているが、これも全体量の半分にも及ばないという。県図書館は各地方の所蔵者から欠落部分を借りて写し、県史編纂事業の一環として『宮城縣史』の資料編として発行した。『宮城縣史 23 史料篇1』~『宮城縣史 28 史料篇6』がそれに該当する。
■ 4書の特徴
以上、本記事では仙台藩の地誌として4つを紹介した。どれも特徴として
- 藩関係者の主導による官選地誌としての性格が強い
- 記述の対象が仙台藩全域におよび、一覧性が担保されている
という特徴がある。いわば、藩としてのオフィシャルな地理書なので、記述された情報にはある程度の信頼性がある。
また、4冊の編纂過程に一本のストーリーラインが見て取れるのも面白い。すなわち文化誌としての性格の強かった『奥羽観蹟聞老志』をベースとして、少しずつ実用的な情報が書き加えられていき、『封内名跡志』『封内風土記』ができた。その不足を補うべく、最終的には「風土記捨遺」として仙台地誌の完成を目指したが、果たせなかった。しかし、その過程で集められた情報は、『風土記御用書出』として実際の民政に活用され、無駄にはならなかった。
一方、これらの地誌はどれも18世紀(1700年代)の江戸中期に書かれたものである点には注意が必要であろう。この時期は、江戸初期の新田開発がひと段落した時代で、戦国時代に荒廃した農村の風景からは大きな変化があったのではないかと想像される。なので、これらの地誌を読んで「昔からこの村は~だった」と断定するのは危険だ。一口に「昔」と言っても、江戸時代中期とそれ以前では、だいぶ事情が異なる。
ちなみに、仙台藩域については、記述が藩全域には及ばないとしても、民間人の手によって書かれた地誌も多く存在するので、機会があればそちらについても調べて紹介記事を作ろうと思う。
■ 活用の方法
読んでみると、意外と江戸時代から風景が変わっていない場所があることに気付くこともあり、そういった場所ではタイムスリップした気分を味わえる。
『宮城県史 史料篇』所収の「風土記御用書上」 磐井郡 流金澤村の箇所をスキャンしたもの |
上記の様に、どれも復刻版があり、『仙台叢書』と『宮城縣史』に収められている。また、各自治体による市町村史の資料編にも、当該箇所だけ抜き出して収録されていることが多い。しかし、2016年末現在、絶版本ばかりで手に入りにくいうえ、ハードカバーで重いのが難点だ。
おそらく、図書館でコピーし紙で持ち歩くのが現実的だろう。ちなみに筆者は、仙台メディアテークか宮城県図書館の郷土史コーナーでコピーしたものをさらにスキャンし、画像データをスマホに取り込んで携帯している。
『風土記御用書上』については上述のとおり、散逸してしまった部分もあるので、もし原本を所有している方がいたら
■参考文献
- 佐々久「解題」(『宮城縣史 23 史料篇1』宮城県史編纂委員会, 1954, p19-23)
- 平重道「『封内風土記』解説」(仙台叢書『封内風土記』第一巻, 昭和50年(1975), 宝文堂)
- 『仙台市史 通史編5』(近世3)仙台市史編さん委員会, 平成16年(2004), p310-312
- 宮城県HP, 宮城県の指定文化財>書跡・典籍のページ
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