休みができたので、9月29日(木)、30日(金)および10月1日(土)の3日間で旅行に行くことにした。移動手段はまた原付バイク。目的地は、前から行きたいなーと思っていながらなかなか機会がなかった新潟市。10月2日(日)に山形県の天童市で仕事があるので、前日までに天童付近にはついていたい、ということ以外ほぼノープラン。とりあえず、前日に新潟市内のゲストハウスに予約だけ入れて、初日に新潟まで行ってみることにした。
結果通ったルートは、こんな感じに。
原付なので、速度は50キロがマックス。こんなスピードしか出ないうえ、城跡や道の駅に立ち寄りながらトロトロと進んでいくのはいつも通り。加えて、この日は雨だったので視界、走り心地ともに良好とは言えなかった。初めにいくつかルート上の立ち寄れそうな場所をピックアップはしておいたのだけれども、雨の強弱や時間とのかねあいで、スキップしたり、路上の看板につられて急に立ち寄ったり、かなり気まぐれな旅である。
■ 関山街道と大滝ドライブインせいの
仙台・山形間のルートはいくつか存在するが、今回は国道48号、関山峠をチョイスした。仙台・山形間のルートとしては、他に国道286号(笹谷峠)および並走する山形自動車道などがあるが、48号は峠道にしては道もなだらかで走りやすく、交通量も多い。山形県各地でサクランボ狩りのシーズンとなる6、7月や、サッカーのベガルタ仙台VSモンテディオ山形戦の際には一般車による渋滞が激しくなるほどだ。
筆者も仕事で何度か通っているのだが、原付で通行するのは今回が初めてだった。後続するトラック運転手にとってはさぞ邪魔であったと思うが、どうか大目に見ていただきたい。
さて、県境である関山トンネルを抜けると、大滝ドライブインせいのがある。すでに雨に濡れて体温が下がりきっていたので、こちらで一服。
ドライブインの奥には大滝と呼ばれる高さ約10mの滝がある。
さらにドライブイン敷地内に、殉難の碑がある。今使われているトンネルよりも以前に、関山隧道と呼ばれる古いトンネルがあった。工事は明治13年(1880年)に着工。道の開削のなかでも、峠道のトンネル工事は最大の難所である。
事件が起きたのは7月21日のことだった。工事に用いられる火薬が誤って爆発してしまい、一瞬のうちに死者25名、重症8名を出す大惨事となってしまった。当時の感覚でどうだったかはわからないが、現代の感覚でいえば死者25名の事故となれば間違いなく新聞の一面記事である。峠道の開削には、常に危険が伴う。
そういった難工事の果てに明治15年(1882年)10月に竣工した関山街道には、以後山形・秋田方面への物資や人が行きかい、街道沿いは茶屋や宿でにぎわったという。この殉難の碑は、開削工事に思いをはせた大滝ドライブインせいの の店主さんにより建てられたものらしい。こういうの、大切。
■ 椹平の棚田
続いて立ち寄ったのが椹平くぬぎだいらの棚田(山形県朝日町)。「日本の棚田百選」に認定。予定にはなかったのだが、道案内が出ていたのと、ようやく雨がやんだので休憩がてらによってみた。
ちょうど雨は止んだタイミングだったのに、iphoneのカメラに水滴が入ってしまったようで、この先くもった写真がしばらく続く。曇りとはいえ、実物はもう少し綺麗だった。いや、右手に棚田、左手に朝日町の街並みが一望でき、なかなかいい景色である。次はぜひ、青空の下で見てみたい。
■ 鮎貝八幡宮
さて、今回の目的地のひとつだった、鮎貝八幡宮(山形県の白鷹町)に到着。ここは以前、鮎貝城というお城だった場所だ。戦国時代、この地は伊達・最上の境界線だった。
1587年に事件はおこる。この地を治めていた鮎貝氏は、当初伊達氏に従っていた。そこへ手を伸ばしてきたのが最上義光、伊達政宗の叔父である。山形を拠点とする最上氏からみれば、鮎貝の地を手中におさめることは、伊達の本拠地である米沢・置賜盆地への入り口を抑えたに等しい。
鮎貝氏はいままで通り伊達方につくべしとする父・鮎貝日傾斎盛次とその嫡男・鮎貝宗信に分裂した。政宗は電光石火の速さで鮎貝に軍勢を差し向け、城にこもる鮎貝宗信を討たんとした。鮎貝宗信は当然、最上義光に援軍を要請したが、それが受け入れられることはなかった。
結局、鮎貝宗信は最上領へと逃亡し、鮎貝氏は伊達氏にあらためて忠誠を誓った。以後、鮎貝氏は宗信を廃嫡し、弟の宗益を跡継ぎにすえた。この家系は、江戸時代を通して気仙沼の領主として存続している。
この鮎貝騒動は、割と平和だった1587年の政宗にとってほとんど唯一の大事件といってもいい。そういういきさつがあるので、この鮎貝八幡宮では神社の宮司さんに話を聞いたりしつつ、いろいろな角度から写真をとってじっくりと見学したのだが、どれもくもってまともに使える写真がない!
唯一、まだ見るに堪えるのがこの写真。
左手が鮎貝八幡宮の境内で、こちらはその裏手にあたる場所。なかなか立派な水堀が写っている(のがギリギリみえる)。宮司さんによれば、現在の八幡宮は二の丸に相当するらしい。八幡宮だけでも立派なものだったので、本丸や周辺施設を含めると、総面積でいえばなかなか大規模なお城だったようだ。
■ 新潟へ
鮎貝八幡宮を抜けたあとは、国道113号(越後街道)をとおってひたすら新潟へ向かった。
道の駅 白い森おぐにで遅めの昼食。カレーと牛串ベーコン巻き。
道の駅 関川で無料の足湯。今回、短パンの上からレインスーツを着ていたので、防水パンツと靴を脱ぐだけですぐに足湯につかれるという便利な技をあみだしてしまった笑。
となりに「せきかわ歴史とみちの館」があって、越後街道の歴史に触れる意味でも立ち寄りたかったのだが、すでに日が落ちかけているため、泣く泣く断念。「戦国自衛隊の城」として有名な新発田城も同じ理由でスキップ。ひたすら新潟市内に向かう。
焦ったのは、国道7号 新新バイパスだ。筆者は原付を運転する際、スマホのGoogle Mapをカーナビ代わりにして走る。当然、車の運転に最適化されたルートがチョイスされ、新新バイパス経由のルートが表示されていたのだが、新新バイパスは自動車専用道路だったのだ! 自動車専用道路なので、原付は進入が禁止されている、事実上の高速道路だ。進入直前に原付進入禁止の表示を発見して、急停止からの90度の直角左折でエスケープ! いやー、あぶねがった!
■ ゲストハウス人参
というわけで、脇道の県道を通ってたどり着いた新潟市内。本当は夕方に到着して、夜の街を散策しようかなーと思っていたのだが、もうすでに20時近い。予約していた宿に直行した。
泊まったのは、ゲストハウス人参という場所。筆者はもともとバックパッカーなので、宿泊先にゲストハウスなりユースホステルといった相部屋・安宿を利用することが多かったのだが、ちかごろは年のせいか(つってもまだ20代だけど!)ビジネスホテルの利用が増えた。今回、久し振りにゲストハウスに泊まろう、と思ったのだが、これが正解だった。
ゲストハウス人参は、共有空間がバーを兼ねていることもあってか、宿泊客だけでなく地元の人が集まるコミュニティスペースとしての側面をもつ。チェックインを済ませてから、そのバーで地元の方や新潟で働く外国人と話せたのはいい体験だった。なにより、旅の晩に同世代の若者同士で酒を交えながら語りあうのはバックパッカーの醍醐味だ。
その晩に出会った人たちは、地元愛の強い人が多く、仙台から来た異邦人である筆者に向け、新潟はこんなところだよ、と一生懸命に教えてくださった。
なんかこの感覚懐かしいなー、旅先で友達ができる、出会いがあるゲストハウスってやっぱいいなー、と思いながら、就寝。
ところがゲストハウスでの出会いは、これだけで終わらなかった。
続く:【新潟の旅】2日目 新潟エクスカーション
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