2015年9月24日木曜日

蘆名盛信

はりゅう もりのぶ
針生 盛信 
別名
丑松丸、小太郎、民部太夫
生誕
天文22年(1553年)
死没
寛永2年(1625年)8月9日、享年73歳
君主
蘆名義広 → 佐竹氏 → 伊達政宗
仙台藩
家格
準一家(仙台藩)
所領
常陸国 金井 18000石
陸奥国 胆沢郡 衣川
氏族
針生氏
針生盛秋
針生盛直
子孫
蘆名盛景(幕末期、額兵隊総督)
先祖
蘆名盛滋(針生氏の祖)
会津を拠点とする蘆名氏の一族、針生氏の当主。

天正期には蘆名方の武将として伊達軍と対峙する。天正17年(1589年)の摺上原の戦いでは伊達政宗と決戦に及ぶが、蘆名氏はこれに敗北、お家滅亡となる。

この後の盛信の行方について『三百藩家臣人名事典1』では「のち日立の金井に1万8000石を領したが、関ヶ原の戦いで石田郡に与したことで采地を失い」とある。

明言はされていないが、当時の蘆名家の当主・義広が佐竹氏の出身であったことから、これに従って佐竹氏の客将となって常陸で所領を得たのだと思われる。佐竹氏は関ヶ原で石田三成に味方したため、秋田に移封となる。この際に浪人となったのだろう。

慶長7年(1602年)、伊達政宗の招きに仕えてその家臣となる。大阪冬の陣、夏の陣ともに功があり、胆沢郡衣川に領地を与えられ、準一族に列せられた。

寛永2年(1625年)、8月9日没。

蘆名氏の本家は佐竹氏に従って秋田藩へと移ったが、この系統は後に断絶する。これによって蘆名の門跡が途絶えることを憂いた伊達綱村の命により、延宝4年(1676年)針生氏が蘆名に改姓した。

子孫の蘆名盛寿は加美郡中新田において3000石を領したが、故あって1500石に減らされたうえで登米郡小谷地へと移封となった。

■ 参考文献
・家臣人名事典編纂委員会編 『三百藩家臣人名事典1』新人物往来社、1987年



0 件のコメント:

コメントを投稿