2015年9月7日月曜日

中野宗時の乱 01 -伊達輝宗、中野宗時、そして遠藤基信-

中野宗時。
グラフィックは「信長の野望・創造」より

永禄9年(1566年)1月10日付けの
蘆名盛氏からの書状では、他の宿老
数名と共に宛名として記されてお
り、内外ともに伊達家の有者とし
て認知されていたことが伺える。
政宗の父・伊達輝宗の政権下において最大の事件であった中野宗時のクーデタ未遂事件について触れたい。事件名については「元亀の乱」「中野宗時の乱」「中野父子の謀反」として紹介されることが多い。

詳しくは後で説明するが、この事件は、伊達家臣における最大の権力を誇った中野宗時が失脚した事件というだけでなく、後の政宗時代に伊達家が大きく飛躍したきっかけともなるできごとという意味で、とても重要である。

この事件の前提として、当主・伊達輝宗、その側近・遠藤基信、伊達家最大の実力者・遠藤基信の(BL的ではない)三角関係についての理解が必要なのだが、01ではその解説がメインとなった。

文章読むのがめんどくさい人は、記事の一番下にわかりやすい図解をのっけておいたので、そちらだけでもどうぞ。

■ 権臣・中野宗時

中野宗時は伊達稙宗(政宗のひいじいさま)に仕えていたが、稙宗の政策に不満を持ち、その嫡子である伊達晴宗を焚きつけて伊達家のみならず南奥州全土をまきこんだ内乱を勃発させた。天文の乱である。

内乱には晴宗党が勝利したことから、その側近であった中野宗時は晴宗政権下において絶大な権力を誇った。また、次男の久仲を同じく伊達の宿老家として高いポジションにあった牧野景仲の養子として送り込んだ。要は牧野家をのっとったのである。以後、中野宗時・牧野久仲の親子二人で伊達家中の権力をにぎった。

晴宗は永禄7年(1564年)に家督を輝宗に譲るが、輝宗政権下においてもその影響力は無視できないものがあった。また、晴宗と輝宗親子の間には不和があったといわれているが、それも宗時が画策したものであるらしい。
「代々の威権といい、若干の地を領し、剰あまつさえ当時親子の間なれば、何事も中野・牧野が裁配に因れり。宗時は佞奸邪智にして、天文の内乱も彼らが所為より出たり。公御父子(※晴宗と輝宗)の間も様々な表裏を申す」
『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
中野宗時の実子・牧野久仲
グラフィックは「信長の野望・創造」より

伊達晴宗が奥州探題に任命されたとき、
陸奥国守護代に任じられる。当時「守護
代」役職にどれだけの権限があったの
不明だが、自らこれに就任せず、
久仲を守護代に就けるあたり、権力
者・中野宗時の権力者としての政治テク
ニッが垣間見える。
上記のごとく、伊達家の公式記録である『伊達治家記録』は中野宗時について伊達家の当主をないがしろにする「悪い家臣」として描いている。「佞奸邪智 ねいかんじゃち」という四字熟語を使ってくるあたり、すさまじい強調っぷりである。

「表裏を申す」は、それぞれに別々の情報を吹き込んで晴宗・輝宗親子の関係を悪くした、という意味であろう。また、『治家記録』の筆者は伊達稙宗・晴宗親子の争いである天文の乱についても、そのきっかけは中野宗時が晴宗をそそのかしたことに始まる、と示唆している。

もちろん、『治家記録』は伊達家の公式記録であるため、その当主である伊達晴宗・輝宗親子に敵対する中野宗時は悪者でなければならない。当然、中野宗時の悪さについては"盛っている"部分もあるだろう。しかし、良いか悪いかはともかくとして、その権力の絶大さにかけては『治家記録』の著者も認めていることがうかがえる。

■ 遠藤基信の登場

輝宗としては、伊達家当主としてできるだけ中野宗時の影響力を排除したいところであった。その助けとなったのが、遠藤基信である。
宗時上を軽んじ、事あるに出仕せず。文七郎(※遠藤基信)を使として申し沙汰す。
                     『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
中野宗時は当時、輝宗を軽んじて出仕することもなかったという。伊達家中における最大の実力者はあくまで自分であり、いかに当主であろうがいちいち輝宗の意見や承認を伺う必要はない、との態度がみてとれよう。

とはいえ、完全に無視してないがしろにするのもはばかられる。自分が出仕しない代わりに、輝宗のもとに差し出したのが遠藤基信であった。
遠藤内匠基信、其のころ文七郎と称して宗時が門士なり。連歌を嗜むを以って御会の席に召し出さる。才覚御意に適う。(略)
文七郎素もとより才智勝れたる者なれば、日を追って出頭す。
                 『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
遠藤基信
グラフィックは「信長の野望・創造」より

修験者・金伝防の子。若いころに
諸国を旅してその見聞を広めた。
のちに事件の全てが基信の計略
あったことがわかるが、それにつ
いては後編で。中野宗時に仕えた
のも、彼の壮大な計画のはじまり
すぎなかったのかもしれない。
彼はもともと、中野宗時の家臣である。『治家記録』には「門士」(門番)として仕えたとしている。連歌の才能があったことで輝宗に気に入られたのが彼の活躍のはじまりだった。以後、遠藤基信は中野宗時の代理人として、輝宗に仕えるようになる。

宗時としては、遠藤基信に対して連絡係 兼 出向秘書のようなポジションを期待していたのだろう。輝宗が自分に対してあまり反抗的な態度をとらない様に、監視役としての任務も与えていたのだと思われる。しかし、これが中野宗時の誤算であった。

もともとは歌の才能をきっかけに輝宗に気に入られた遠藤基信だったが、風流だけでなく、まつりごとついても輝宗の良き相談役になったらしい。詳細は遠藤基信の項目を参照してほしいのだが、この人、若いころに諸国を旅して見聞を広めたなかなかの器量人で、何事においても輝宗にとって欠かせない人材となった。

基信は、輝宗の信頼を勝ち取り、側近としてのポジションを確かなものにする。

■ 遠藤基信 暗殺未遂事件

伊達家当主・伊達輝宗。
グラフィックは「信長の野望・創造」より

言わずと知れた伊達政宗の父親。中野
宗時の謀反が起きた当時、27歳の青年
当主であった。老臣の専横について、は
がゆい思いがあったに違いない。

有能な側近である基信を手に入れた輝宗にとって、中野宗時の必要性は低下した。輝宗にとっての中野宗時は、伊達家を運営する上で欠かせない実力者ではあるが、あくまで「目の上のたんこぶ」である。これに頼らなくて済むならば、それに越したことはない。

また、反比例するように、遠藤基信に対する必要性と信頼は上昇していった。

一方、宗時にしてみれば、スパイとして敵方に送り込んだ部下・遠藤基信が自分を裏切って敵に寝返ったように見えただろう。自分の部下が有能なせいで、自分の地位が脅かされる。権力者にとってこれほどの屈辱はない。こういう状況で生まれてくる男の感状とは、「嫉妬」である。「嫉妬」という文字は女偏で書くが、男の嫉妬は女のそれよりも激しい。

中野宗時は遠藤基信の暗殺をはかった。
後には宗時悔い妬みて、親しき者を遣わし、偽って盗賊のまねし、衢ちまたに伏さしめ、深更(※深夜)に及んで連歌の席より帰る道を要して(※遠藤基信を)殺さんとす。衣装を裁って身に中あたらず。
                       『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
宗時は「親しき者」に盗賊のふりをさせて、連歌の会から帰宅する遠藤基信を襲わせた。おそらく刃物で襲撃させたのだろう。しかし、その刃は服を切り刻んだだけで、基信を殺害することには失敗した。
(※遠藤基信は)直に御前(※輝宗のもと)に参ってこの由を告す。宗時が所為なりと思召す。宗時驕奢日々に盛にして公も悪みたまう事漸ようやく深し。
                       『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
遠藤基信がこの事件について輝宗に報告すると、輝宗も事件の主犯は中野宗時であろうと推測した。

ひとつ前の引用文では、『治家記録』の筆者は暗殺事件の背後にいるのは中野宗時であると断定した書き方をしているが、この当時は決定的な証拠はつかめず、状況証拠からみて宗時が基信の暗殺をはかった、と推測するのが精いっぱいだったのだろう。

事実、この事件についての後始末については何も記述がないことに注目したい。伊達家当主の最も信頼する部下の暗殺を謀っておきながら、その首謀者を処罰できないという当時の権力バランス。輝宗サイドとしても、中野宗時の勢力を排除するだけの決定打に欠けていたことがうかがえる。

一方の宗時は
是に於て宗時 禍の身に及ばん事を恐れて、親族郎党を集めて密かに公室を奪わん事を謀る。久仲を始めとしてくみする者甚だ多し。
                       『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
基信暗殺に関与した証拠は残さなかったにせよ、これで輝宗との対立は決定的になってしまったことを自覚した様だ。家中における最大の実力者とは自分であるとはいえ、あくまでも輝宗が当主である。その輝宗に自分たちの陣営を責める口実を与えてしまったことは否めない。

「やられる前にやれ」が戦国時代のルールである。

宗時は牧野久仲ら「親族郎党を集めて」「公室を奪わん事」、つまり伊達家のっとりのクーデタを画策した。これに荷担した者が「甚だ多」かったのは伊達家の公式記録も認めるところである。


こうして、伊達輝宗 vs 中野宗時の権力闘争はそのボルテージを最高レベルまで高めた。あとは、どちらが先にしっぽを出すか、である。

【図解】ここまでの状況の簡単なまとめ

【その①】

【その②】

作ってみて、なかなかわかりやすい図解だと自負している次第である。うん。

続く! → 02 -謀反の発覚からその顛末まで-

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