2015年4月21日火曜日

戦国時代 秋保一族

秋保あきう

秋保(あきう)の郷。仙台近郊の温泉地として有名。
戦国時代は伊達・最上間の街道として重要だった。
湯元・長袋・境野・馬場・新川秋保五ヶ村からなる。
秋保 盛房(讃岐守、~1551年(天文20年))
秋保義光の嫡男。伝承によれば、明応9年(1500年)に名取郡大曲の領主・長井晴信から攻められ、出羽の最上義守のもとへ12年間身を預けることになった。しかし秋保の百姓が決起して盛房を帰還させ、長井晴信が拠点とした楯山城を攻め落としたという。
もっとも、最上義守は1521年の生まれであり、長井晴信なる人物の実在性も疑わしいが、秋保と最上氏のつながりを示す伝承ではある。

秋保 盛義
→ 義光の子。馬場盛義。

秋保 則盛(伊勢守)
盛房の嫡男。最上義守の娘を妻としており、上記の伝承となんらかの関わりがあるものと思われる。一方で、現在の宮城県南部に勢力を伸ばしてきた伊達稙宗に臣従することになった。1543年(天文12年)7月12日、伊達稙宗から大崎義宜の指揮下に入って活動するよう命じられており、天文の乱の際は稙宗党であった可能性が高い。

秋保 勝盛(大膳亮、美作守)
則盛の嫡男。母は最上義守の娘であり、同じく義守の娘・義姫を母とする伊達政宗とは従兄弟の関係にあたる。国分盛氏の娘を妻とした。天正4年(1576年)の伊達輝宗による対相馬出兵の際は10番備にその名がみえる。


秋保 盛久
→ 則盛の次男。境野盛久。

秋保 盛頼
→ 則盛の三男。竹内盛頼。

秋保 資盛
勝盛の嫡男。おそらく早世したものと思われ、跡を弟の直盛が継いだ。

秋保 直盛(平五郎、弾正忠)
勝盛の3男。当初、祖母の実家である最上氏を頼り、天童氏の婿となる。しかし、兄である資盛の死去により秋保家へ戻り家督を継承した。1587年(天正15年)の『伊達天正日記』では米沢に出仕しており、鮭を献上するなど伊達家の一員であったことがわかる。1591年(天正19年)には政宗の指示で葛西・大崎一揆の鎮圧に出動。また同じ年、秋保氏は正式に伊達家御一家に格付けされる。朝鮮出兵の際は肥前名護屋の政宗からその様子を知らされている。
直盛へあてた留守政景書状によれば秋保氏と馬場氏の間に何らかの対立が生じ、これが解決にいたった旨が記されている。また、1587年の国分騒動の際は境野玄蕃の粗略を非難した政宗から境野氏を差配するように言われ、代わりに国分から最上領へ移動するものたちの荷物を改めるように命じられている。

秋保 定盛(播磨・雅楽) 
直盛の子。この代に領地替えがあり、慶長8年(1603年)、秋保宗家は刈田郡 小村崎村(現・宮城県蔵王町)に移封となった。寛永元年(1624年)、長袋・湯元・境野・馬場の各村に野谷地25町を与えられる。この開発をもとに承応元年(1652年)、伊達忠宗から楯山原の在郷屋敷を賜り、小村崎村から9軒の家中を率いて秋保へ帰郷した。

秋保氏系図


馬場氏

馬場 盛義(助太郎、賀沢左衛門)
義光の子で盛房の弟。馬場に居住し上館城を築き、馬場氏を称した。

馬場 直重
盛義の子。

秋保 定重(摂津守)
直重の子。天正17年(1589年)の正月には伊達政宗に年賀の進物をしていることから、秋保一族であると同時に政宗の直臣であったことがわかる。大崎合戦後に政宗を裏切った長江月鑑斎を預かり、後にこれを政宗の命により殺害した。1599年(慶長4年)8月19日付の政宗書状には秋保に知行地を与えられている衆は定重の命に従うようにとあり、おそらく秀吉没後の政情不安定な時期に対最上防衛を整える措置だったと思われる。秋保宗家の直盛と並んで、あるいはそれ以上に政宗から重用されている様子がうかがえる。
領内では上館から移って豊後館を築いた。また、湯本小屋館を築城したとも伝えられ、秋保地域の東西を抑える役目を担っていた。祖父・盛義の代から馬場氏を名乗っているはずだが、なぜか「秋保」の姓で登場する。

秋保 頼重(刑部)
定重の子。慶長8年(1603年)に刈田郡 円田村(現・宮城県蔵王町)に移封となる。慶長遣欧使節団を乗せた船・サン・ファン・バウティスタ号建設の際の船奉行として、その造船に関わった。


境野氏

境野 盛久(信濃)
秋保則盛の次男で勝盛の弟。境野・新川地区を領有し、境野氏を称した。『伊達天正日記』によれば、境野氏は秋保本家からは独自に政宗のもとに出仕していたことがわかる。

境野 盛元
盛久の子。

境野 玄蕃
天正15年(1587年)7月の秋保直盛宛て政宗書状によれば、同年の国分騒動の際、国分領を離れ最上領へ移動しようとした者の荷物が境野玄蕃によって留められたが、政宗は玄蕃の粗略を非難して直盛が境野氏を差配するように命じている。この玄蕃が上記の盛久、もしくは盛元のどちらかなのか、あるいは別の人物なのかは不明。

境野 盛忠
おそらく盛元の子だと思われるが詳細は不明。この代に境野氏は加美郡大村(現・宮城県色麻町)へ移封となった。


竹内氏

竹内 盛頼
秋保則盛の3男で勝盛の弟。長袋地区の竹内を領有し、竹内氏を称した。

その他

秋保若狭、秋保惣右衛門、秋保外記、秋保出雲、秋保五郎右衛門
『最上義光分限帳』に名前が見える。それぞれ詳細は不明だが、最上氏に仕えていた秋保一族もいたようである。

秋保氏関連の城館
仙台・山形間最短の山越え街道である二口街道(県道62号)に城館が点在しているのがわかる。
水色はおとなり・国分氏の城館。より詳細な地図はこちらから。
■ 参考文献
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 通史編2 古代中世』(仙台市、2000年)
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 通史編3 近世Ⅰ』(仙台市、2001年)
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 特別篇7 城館』(仙台市、2006年)
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 特別篇9 地域誌』(仙台市、2014年)
・秋保・里センター 「秋保の歴史

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