2017年10月30日月曜日

戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-

伊達政宗の側室のひとり、飯坂の局を語るうえでひとつ外せないテーマとしてあるのが、政宗の側室になる前の黒川式部との婚約関係だ。

もともと黒川式部との婚約があったのを、年の差を理由に離縁され、政宗の側室となった、という筋書きはどれも同じなのだが、書物によって微妙にニュアンス、ディテールが異なる。

この話が登場する資料として『飯坂盛衰記』『成実記』『政宗記』『伊達秘鑑』の4つを用いたのだが、そのあたりを読み比べながら細かく検証してみたい(他にも出典となりうる資料を御存知の方がいらしたら、是非ともご一報ください)

史料の原文はどれも【史料集】飯坂宗康の記事に収録したが、必要だと思われる個所は改めて引用する。


検証① 黒川式部とは?

伊達政宗の詳細はさておき、ここでのメインの登場人物となる黒川式部なる人物についてまず触れる。この人の割と素性ははっきりしており、黒川晴氏の叔父であるということが『飯坂盛衰記』を除く3冊と、黒川氏の系図で確認できる。また、「源姓黒川氏大衡家族譜」なる系図では氏定という諱も伝わっている。

黒川晴氏の叔父ということは、黒川氏の当主・稙国の弟、景氏の息子ということになる。黒川式部の父・黒川景氏は「源家足利黒川系図」(『大和町史 上巻』p356)に「実飯坂弾正清宗長子」とあり、飯坂氏から黒川に入嗣した人物である。

『飯坂盛衰記』巻末の「伊達分流飯坂氏系図」と
「源家足利黒川系図」(『大和町史 上巻』)を参考に作成。

この飯坂清宗なる人物は飯坂氏側の当主系図には名前がないので、誰に比定するべきか、あるいは分家の人物なのかは不明だ。しかし、飯坂氏の血を引いていることは確かで、黒川式部と飯坂の局の婚姻は、そもそも同族婚であったことになる。


検証② 黒川式部が伊達に仕えたのは?

どの資料も、黒川式部が輝宗の代から伊達に仕えだしたことは共通している。しかし『飯坂盛衰記』のみが「恨る事有て伊達へ來り」と、もともと黒川の実家には居づらい事情があったことをほのめかしている。

『飯坂盛衰記』は飯坂氏の視点に立った書物なので、邪推するならば、少しでも黒川式部の人間性を貶めることで飯坂宗康の罪を相対化しようとする意図を感じることもできる。


検証③ 縁組を命令したのは?

どの資料も、黒川式部が飯坂の局と婚約することは、式部が飯坂宗康の

  • 名代:『飯坂盛衰記』『成実紀』『政宗記』『伊達秘鑑』
  • 家督:『飯坂盛衰記』

つまり婿養子=後継者となることとセットであったことは一致している。問題は、それが誰の命によっての縁組だったかということだ。

『飯坂盛衰記』にははっきりと「政宗公の仰には」と書かれている。『成実記』『政宗記』には特に記述はなく、『伊達秘鑑』では主語が誰なのか文脈上はっきりしないのだが「命セラル」とは書かれており、上からの命令であったことは示唆されている。命令によるものであるとすれば、当時の当主・輝宗だろう。

飯坂氏は伊達の支族であるし、家臣の婚姻に主君が介入するのは当時としては何の不自然さもない。命令の主体が当時幼年だった政宗の意思だったとしても、当主・輝宗の同意は当然あっただろうし、逆も然りだ。

結論としてはあいまいだが、ある程度は当家どうしの合意が成立したうえで、伊達家当主のお墨付きを得て行われた婚姻だっただろう。

検証④ いつの事件なのか?

この事件当時、各資料にはそれぞれ飯坂の局の年齢を

  • 『飯坂盛衰記』:いまだ十歳に足らず幼年
  • 『成実記』:十計
  • 『政宗記』:ようやく十歳計り
  • 『伊達秘鑑』:十歳ハカリ幼少

としている。10歳未満とする『飯坂盛衰記』と、約10歳であったとする他3冊でニュアンスが異なるが、おおむね一致している。間をとって、事件当時の飯坂の局の年齢は8~12歳の頃だったと仮定してみよう。

検証④-a.飯坂の局の年齢
『飯坂盛衰記』には飯坂の局の没年齢が記されているので、そこから彼女の生年と事件がいつだったのか、ある程度割り出せそうだ。飯坂の局は寛永11年(1634)に66歳で亡くなっているので、逆算すると永禄12年(1569年)の生まれになる。事件当時8~12歳の頃だとするなら、天正4年(1576)~天正8年(1580)のできごとという計算になる。

飯坂の局の没年齢から逆算した事件のタイミング考察

ちなみに当時の式部の年齢だが、彼の生没年が伝わっていないので飯坂の局の様に逆算はできない。だが、ふたりの間にかなりの年の差があったことは事実のようだ。『飯坂盛衰記』は「三十の餘り」、『政宗記』は「三十に及」としており、30代であると記述、『成実記』は「年入候」、『伊達秘鑑』は「壮年」としている。


検証④‐b.「側室」ということは...
離縁のあと、飯坂の局は伊達政宗の側室となった。「側室」とは「正室」に対する言葉なので、飯坂の局が政宗の側室となったのは、すでに正室・愛姫との婚約が終わった天正7年(1579)以降のことだろう。


検証④-c.黒川氏側の記録では...
黒川式部についていろいろ調べてみたら、手掛かりになりそうな情報があった。「源姓黒川氏大衡家族譜」なる系図がそれで、『大和町史 上巻』(pp.357-360)に収められている。大衡氏は黒川の支族で、当時の当主・大衡宗氏は黒川式部の同母弟でもある。

黒川式部について詳しく載っているのでそのまま引用してみよう。

氏定 黒川源四郎式部
弘治元年春 伊達家族 飯坂右近宗信 配長女 為継嗣 居於奥州伊達郡飯坂邑 永禄六年 有故与宗信不和親 同年十月 出飯坂 赴越後州 為上杉家幕下 賜采地
元亀二年八月四日 卒於越州宮川荘 年五十一 母同宗氏

「宗信」とあるが、宗康のことで間違いないだろう。要約してみると
  1. 弘治元年(1555)春、飯坂の局と婚約
  2. 永禄6年(1563)に宗康との関係悪化(=婚約破棄か)
  3. 永禄6年(1563)に越後へ出奔
  4. 元亀二年(1571)に死去
となる。うーん、困った。というのも、飯坂の局の誕生が永禄12年(1569年)なので、1~3はタイムライン的に矛盾してしまうのだ。「わしに娘が生まれたらそなたの嫁にくれてやろう」的な口約束があった可能性もあるが、生まれる前の娘と婚約し、それを反故にされたから他国へ出奔というのはちょっと考えにくい。当の飯坂の局が生まれる前のできごとだとしたら、ここまでの大ごとにはなりようがない。

しかも、この資料を注意深く読んでみると「長女を配す」とあるのだが、飯坂の局は飯坂宗康の次女である。「上杉家の幕下と為る」という他の資料には出てこない情報といい、宗康を宗信と誤表記するなど、どうもこの系図、細かい間違いが多そうだ。

上記の推論と整合性を持たせるならば、永禄6年が天正6年の誤りだとすると、つじつまが合いそうだ。すなわち

天正6年:飯坂の局10歳、式部と離縁

である。10歳に達しているので「十歳に足らず」とする『飯坂盛衰記』と矛盾するが、「然るに宗康兼々の所存に。式部は已に三十の餘り。娘はいまだ十歳に足らず。不都合なる故。此人に世を譲る共久しき契にも有まじ。殊に我身の榮花も久しからし。所詮式部と父子ノ緣を切。」なので、文脈の順序として宗康が二人の婚姻を「不都合」に思ったのが10歳未満のとき、実際の離縁は10歳になってからと考えると無理やりではあるがつじつまがあう。


検証④の結論
以上の考察を総合して、本考察では

  1. 天正5年(1577)より前:飯坂の局と黒川式部との婚約
  2. 天正5年(1577)より前:舅の飯坂宗康、黒川式部をうとましく思う様になる
  3. 天正6年(1578):離縁
  4. 天正6年(1578)以降、黒川式部、越後へ出奔
  5. 天正7年(1579)以降、飯坂の局、政宗の側室となる
という時系列を結論としたい。


検証⑤ 離縁の理由は?

これについてはほとんど一致している。

  • 飯坂の局と黒川式部に年の差がありすぎたこと
  • 宗康が、黒川式部に飯坂の家を継がせることが嫌になったこと
  • どうせ美人な娘なら、政宗に嫁がせようと目論んだこと

である。飯坂氏視点の『飯坂盛衰記』ですらこれを認めているので、信憑性はあるだろう。

『伊達秘鑑』には「(宗康が)輝宗ヘハ作惡ヲ訴ヘテ。名代ノ緣ヲタツ」という一文があり、飯坂宗康が黒川式部との縁を絶つにあたって輝宗に対し「作惡」、つまりあることないことを吹き込んで離縁の口実にしたと書かれている。他の資料には登場しない話であり、脚色の可能性も高いが、ありえない話ではない。


検証⑥ その後の黒川式部は?

これも一致している。実家である黒川には戻らず、越後へ去ったという。

なお、『飯坂盛衰記』意外の3冊は、この事件がのちに黒川晴氏が大崎合戦の際、伊達に背いて大崎方へついた理由の一つであるとしている。そもそも文脈上、この話が出てくるのは大崎合戦の際になぜ黒川晴氏が裏切ったのか? というエピソードとして登場する。

このエピソードはNHK大河『独眼竜政宗』でも登場する。
政宗「黒川月舟(晴氏)の寝返りは猫のせいだぞ。月舟は身内の許嫁を俺に取られて恨んでおるのだ」
猫御前「うれしゅうございます。殿は猫一匹と黒川の所領をお取替えになりました」

黒川晴氏は式部から見て甥にあたる。彼の目から見れば、叔父の婚約者を伊達政宗が略奪したように見えたのだろう。略奪婚は晴宗の代から伊達の伝統といえば伝統である。面子を失った叔父は、あわれ越後の国へ去った。

黒川晴氏はそこまで単純な動機で伊達に背く人物とは思えないが、心のしこりがあったことは確かだろう。

なお、「源姓黒川氏大衡家族譜」のみが越後に去った式部は上杉家に仕えたとしているが、その信憑性についてはここではあまり深入りしないでおく。


結論

以上の検証を総合すると、以下の様になる。

  • 天正5年より前:伊達家当主・輝宗のお墨付きを以って飯坂の局と黒川式部との婚約。黒川式部は飯坂氏の次期当主となる予定であった。
  • 天正5年より前:舅の飯坂宗康、黒川式部をうとましく思う様になる。理由は娘との年の差や、娘を式部よりも政宗の側室とした方が家の繁栄につながると考えたから。
  • 天正6年:実際に離縁
  • 天正6年以降、黒川式部、越後へ出奔
  • 天正7年(1579)以降、飯坂の局、政宗の側室となる
  • 天正16年(1588)、黒川式部の甥・黒川晴氏、大崎合戦にて伊達に背いて大崎方として参戦

最後に、この一連のできごとがそれぞれにとってどういう意味を持ったのか考察してみたい。

まず、黒川式部だが、許嫁との婚約を反故にされ、メンツを失い実家にも帰れず、異国の越後で再スタートを切ることになったのだから、損失しかないうえにダメージは大きい。

飯坂氏にとっては、一見プラスが大きい様に見える。飯坂の局は政宗の側室となり、飯坂宗康も(側室とはいえ)伊達家当主・政宗の岳父の地位を手に入れ、地位は向上している。しかし、政宗と飯坂の局の間に子は生まれず、念願の飯坂氏の跡取りは宗清の入嗣(慶長9年(1604))を待つことになる。

筆者は、この一連のできごとによって一番のダメージを負ったのは、実は伊達政宗ではないかと思う。

『飯坂盛衰記』によれば、政宗は「其容色世に勝れ」た飯坂の局を側室に迎え「御喜悦淺からず」という喜び具合だったという。一時は正室・愛姫との不仲もあったから、側室・飯坂の局の存在が政宗の心の支えになったこともあっただろう。

その見返りとして政宗は、黒川晴氏の恨みを買い、これが約10年後に大崎合戦の大敗に結びついてしまう。前述のとおり、黒川晴氏の離反については彼の婚姻関係など他の要素も見逃せないし、筆者は黒川晴氏が私情だけ伊達への事切れに及ぶような単純な人物であったとも思わない。だが、このできごとがなければ、黒川晴氏は伊達に背くという選択に走らなかったかもしれない。

大崎合戦の敗北がなければ、それに連動した最上との戦や、佐竹・蘆名の侵攻(郡山合戦)も起こらなかっただろう。大崎合戦の敗北を機に、政宗にとっての天正16年(1588)が四面楚歌の苦境となってしまったのは事実で、それがなければ政宗の仙道制覇はもう少し早まっていたかもしれない。

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