さとう ためのぶ
佐藤 為信 | |
信長の野望・創造より
| |
別名
| 宮内、紀伊 |
生誕
| 1532年(天文元年)? (詳しくは本文参照) |
死没
| 1591年(天正19年)6月 享年60歳 |
死因
| 戦死:葛西・大崎一揆鎮圧戦 佐沼の戦い |
君主
| 相馬顕胤 → 伊達輝宗、伊達政宗 |
藩
| 相馬中村藩 → 仙台藩 |
家格
| 一族 |
所領
| 宇陀郡 磯部城 以下6ヶ村 700石(の約半分、詳細本文) 小斎城 1000石 |
氏族
| 佐藤氏 |
在位
| 不明 - 1591年 |
父
| 佐藤好信 |
母
| 不明 |
兄弟
| 為信、良信 |
妻
| 不明 |
子
| 佐藤勝信 |
先祖
| 藤原鎌足? 佐藤忠信・継信? |
子孫
| 佐藤恒信(幕末期) |
墓所
| 佐沼(詳細位置不明) |
歳の近い人物として仙台藩から人名をあげるなら、遠藤基信、亘理元宗、泉田重光、さらには虎哉の和尚さまあたりが同世代である。こう考えてみると、政宗世代からすればかなりの古豪である。
思春期が伊達天文の乱の時期にオーバーラップするが、当時相馬家中にあった為信にこの内乱がどう映っていたかはわからない。君主、相馬氏と同じく、稙宗方を応援する心境であっただろうか。
出自、父・佐藤好信の遺恨
佐藤家の祖先は藤原鎌足だという。先祖が佐渡守をつとめていたころから「佐藤」を名乗った。33代、為信の祖父にあたる佐藤摂津が磐城の出身であることはわかっているがそれ以前の出自には不明なことが多い一族である。
摂津の子、為信の父にあたる好信(通称伊勢)は浪人であったが、相馬盛胤に召し抱えられ、たびたびの軍功により軍奉行まで命ぜられ、宇多郡磯部城、6ヶ村700石を任されるまでに出世した。しかし、よそ者の出世が同僚の嫉妬を買うのは世の常。相馬家臣・桑折こおり左馬助(郡とも)は彼を憎むこと甚だしく、たびたび君主・盛胤に讒言を行ったらしい。
やはり主人もよそ者よりは代々の家臣を信じたかったのか、あるいは好信の潔白を知りつつも家中の不満を抑えるためにやむなくこれに応じたのかは不明だが、好信は軍奉行を罷免され、さらに与えられた所領の半分にあたる3ヶ村を没収されてしまう。没収だけならともかく、あろうことかその3ヶ村は桑折左馬助に与えられてしまったのだ。
その後も桑折からの嫌がらせは続き、好信の居城に押し入って狼藉を働くなどの直接的な被害もあったようだ。居城での狼藉ということは、若い頃の為信もこの直接的被害を被った可能性がある。
老年にして病に伏せていた好信にもはやこれにあらがう力はなく、息子の為信に
小斎城主、そして伊達家へ
そんな遺言を心に秘めて育った為信、父の復習を果たす機会を常にうかがっていたらしい。
一方で、父の才覚を継いだのか、佐藤家としては左遷されても実力で重職を再び勝ち取る器量はあったようだ。
「桑折左馬助への復讐を遂げられずに死んでいくのは無念である!父に代わって絶対に左馬助を討てよゴルァ‼︎」...とまで言ったかどうかは定かではないが、上記の内容を遺言して果てた。
小斎城主、そして伊達家へ
そんな遺言を心に秘めて育った為信、父の復習を果たす機会を常にうかがっていたらしい。
一方で、父の才覚を継いだのか、佐藤家としては左遷されても実力で重職を再び勝ち取る器量はあったようだ。
1570年(元亀元年)には伊達・相馬戦争における重要拠点・小斎城の防衛を任じられ、さらに1576年(天正4年)4月には相馬家中において家老に列せられた。
このように、忠実に相馬家から与えられた任務をこなしていた為信であるが、プライオリティーはあくまで相馬家よりも親の仇討ちであったらしい。この時代、父親の遺言は何よりも重い。遺言に背いちゃダメ、絶対。
そんな折、たまたま父親の仇である桑折左馬助が足軽100人を率いて小斎城に援軍にきていたことがあったらしい。父親の遺恨を果たす絶交のチャンスを前に、為信は伊達への内通の手筈を整えたうえで左馬助および彼の配下の兵を打ち取ってしまった。ここに及んではもはや相馬家中にいられないことも明白。為信は伊達勢に小斎城を明け渡した。
伊達からはそのまま小斎城主に任命され、1000石を賜った。さらなる加増の出もあったというが「利を求めての裏切りではなく、あくまで父親の遺恨を晴らしたまで」としてこれを断った。
小斎城は画像中央やや右側、色が薄い緑の吹出マーク。この時期、丸森地区の一帯は相馬が実行支配 しており、同じく相馬家臣 門間大和が丸森城、藤橋紀伊が金山城に配属され伊達への前線を形成した。 前所領の磯部城以下6ヶ村についての場所は不明だが、地図右下松川浦の南岸には今でも「磯部」という地名がある。 |
このように、忠実に相馬家から与えられた任務をこなしていた為信であるが、プライオリティーはあくまで相馬家よりも親の仇討ちであったらしい。この時代、父親の遺言は何よりも重い。遺言に背いちゃダメ、絶対。
そんな折、たまたま父親の仇である桑折左馬助が足軽100人を率いて小斎城に援軍にきていたことがあったらしい。父親の遺恨を果たす絶交のチャンスを前に、為信は伊達への内通の手筈を整えたうえで左馬助および彼の配下の兵を打ち取ってしまった。ここに及んではもはや相馬家中にいられないことも明白。為信は伊達勢に小斎城を明け渡した。
伊達からはそのまま小斎城主に任命され、1000石を賜った。さらなる加増の出もあったというが「利を求めての裏切りではなく、あくまで父親の遺恨を晴らしたまで」としてこれを断った。
利害によって伊達家に翻っても周囲から信頼されず、仕事がしにくいというのは、伊達家においては大内定綱という好例がある(※)。
※但し、政宗は周囲からは節操がないと嫌われた大内定綱も重用してはいる。
為信が小斎城主となってからどれほどの知行を受けていたのかはわからない。単純に父の俸禄を相続したのであれば、6ヶ村700石から没収された3ヶ村分を差し引いて300〜400石程度ということになるが、これでは家老としてあまりにひどい待遇である。家老昇進時にいくらかの加増があったと考えても不自然ではないだろう。
これが伊達家に転身して1000石の拝領。大幅な加増はなかった、あるいは相馬家家老時代よりも減俸になっているかもしれない。輝宗、政宗親子もさすがに申し訳ないと思ったのか伊達家家臣団の「一族」に格付けされる名誉を与えた。
謀反の理由は怨恨だけか?
この小斎城・佐藤為信の寝返りについてはこの怨恨説が必ずと言っていいほど併せて語られるが、父親の左遷というハンディを負いながらも実力で相馬家老の座をもぎとった男である。冷静な計算はあったと考えても不自然はない。
素直に解釈するならば
謀反の理由は怨恨だけか?
この小斎城・佐藤為信の寝返りについてはこの怨恨説が必ずと言っていいほど併せて語られるが、父親の左遷というハンディを負いながらも実力で相馬家老の座をもぎとった男である。冷静な計算はあったと考えても不自然はない。
素直に解釈するならば
1.たまたま親の仇である桑折左馬助がという「偶然」がこれでもかというくらい都合よく重なったうえで及んだ「犯行」である。
2.たまたま復讐を遂げるためには絶好の地の利がある小斎城に
3.たまたま援軍として、つまり、ある程度自分の命令の下に動かせるであろう立場で 4. たまたま「敵兵に備えるため」という名目で兵を動員してもなんら不自然ではない「戦時下」というタイミングにやってきた
…。
1~3の条件にかけては、偶然であろうがなかろうが、仇討ちを実行に移す絶好の理由になるだろう。むしろ、これだけの好条件下で本懐を遂げないようでは武士としての沽券にかかわる。それよりも問題は4の「タイミング」である。
この謀反は1581年(天正9年)4月のことであったのだが、ブログ主が単純な怨恨説を素直に信じられないのも、この絶妙なタイミングが原因である。これについて少し考察してみたい。
1~3の条件にかけては、偶然であろうがなかろうが、仇討ちを実行に移す絶好の理由になるだろう。むしろ、これだけの好条件下で本懐を遂げないようでは武士としての沽券にかかわる。それよりも問題は4の「タイミング」である。
この謀反は1581年(天正9年)4月のことであったのだが、ブログ主が単純な怨恨説を素直に信じられないのも、この絶妙なタイミングが原因である。これについて少し考察してみたい。
為信が相馬から伊達家に転身したこの時期、一体なにがあったのか。
実は、これとほとんど同じ時期に伊達政宗の初陣、という奥州戦国史における一大イベントが重なっているのだ。
実は、これとほとんど同じ時期に伊達政宗の初陣、という奥州戦国史における一大イベントが重なっているのだ。
元服の際に伊達家中興の祖と同じ名前を継いだ政宗に対して、未だにその実力は未知数ながら周囲の期待はことのほか大きく、政宗が従軍したこの戦いにおいて伊達勢の士気は相当に高かったらしい。
親の仇討ちを優先し、もはや相馬家にはいられない、というドラスティックな事情はもちろんあったであろう。しかし、その後伊達家に寝返るにあたってはその評判を損なわないように加増を断るだけの機転が利く男である。日の出の勢いの伊達政宗のもとに馳せ参じて、さらなる栄誉を求めようとした現実的判断、あるいは野心があったと考えても不自然ではないと当ブログは推察する。
親の仇討ちを優先し、もはや相馬家にはいられない、というドラスティックな事情はもちろんあったであろう。しかし、その後伊達家に寝返るにあたってはその評判を損なわないように加増を断るだけの機転が利く男である。日の出の勢いの伊達政宗のもとに馳せ参じて、さらなる栄誉を求めようとした現実的判断、あるいは野心があったと考えても不自然ではないと当ブログは推察する。
あるいは、直接の仇である桑折左馬助だけでなく、その恨みの対象は間接的に父を無念の死に追いやった相馬当主、および相馬家そのものに向けられていた可能性も否めない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、である。
あの男のモデルは為信だった!
この華麗なる復讐劇、ブログ主にはとある人物の存在を連想させてならない。
・親の仇である相馬家での仕事は粛々とこなしながら家老に取り立てられるほどの功労をあげる実力
・一方でその燃えたぎる復讐心を隠しながら確実に敵討ちを遂げられるチャンスを待ち続ける強靭な精神力
・謀反を起こして相馬家にいられなくなってもその先に受け入れてくれる存在(伊達家)を想定した上での計画力
これらを、
・父ジオン・ダイクンの仇であるザビ家が治めるジオン公国での軍務粛々とこなしてエースパイロット、少佐にまで昇進する実力
・士官学校時代に親の仇の一族、ガルマ・ザビに出会っておきながら、復讐心を隠しつつ友人としての付き合いを続け、それを確実に討ってくれる存在(ホワイトベース隊)が現れるのを長くに渡って待ち続ける精神力
・それにより、上司のドズルから左遷されても、受け入れてくれるであろう存在(キシリア)を見越した上で犯行に及ぶ計画力
にそれぞれ置き換えてみよう。
お分かりいただけたであろうか?
お分かりいただけたであろうか?
我ながら、偶然とは思えないほど綺麗に符合するではないか!
読者諸氏には以下の妄想、あるいは寸劇に是非とも付き合っていただきたい。
「左馬助、聞こえていたらキミの生まれの不幸を呪うがいい。はっはっはっはっは」
「為信かっ⁉︎ 私の不幸だと⁉︎」
「そうだ。罪深い相馬家の俸禄を食んでいる不幸だ」
「為信...お前は...!!」
「君は良き友人であったが、君の行いがいけないのだよ」
「為信...謀ったな、為信...‼︎ うぉぉおお!私も相馬家の男だ。タダでは死なん‼︎ 部隊180度回頭!伊達勢に突っ込む! 相馬家に、栄光あれええええ‼︎」
あるいは
相馬盛胤「諸君らの愛してくれた私の家臣、桑折左馬助は死んだ!なぜだっ⁉︎」
佐藤為信「坊やだからさ」
...
佐藤為信「伊達家馬廻り集のものだな」
伊達家臣「さすがですな。わかりますか」
佐藤為信「伊達な装束の着こなしでな...」
...うん。脳内再生余裕。おそらく富野監督は佐藤為信をモデルにシャアという名キャラクターを創造したに違いない。
あいにく、為信には怪しい仮面をつけて謎の貴公子ぶっていただの赤い甲冑を身にまとっていただのという記録は見当たらない。しかし、どちらにせよ彼の実力、精神力、計画力については褒められて然るべきだと思う。
並の男であれば、下手なタイミングで復讐を実行して相馬家から追放されるか、逆に相馬家で家老の地位を得た時点で復讐心を忘れ精神的な安住や保身に走るのが関の山だろうからだ。
...ともあれ。
原因が何にせよ、政宗に代替わりしてからは旧態依然とした奥州大名の殻を脱ぎ、新進気鋭な家風を推し進めた伊達家である。この政宗時代、譜代の家臣よりも若い世代や新参者の台頭が目立つ。譜代の家臣であっても、実力のあるものはそのまま重用され、そうでないものはその逆であった。要は実力主義である。
同じく実力で成り上がった為信にとって、新しい君主と新生伊達家の家風は相性が良かったに違いない。
葛西・大崎一揆で戦死
1591年、葛西・大崎一揆における佐沼城攻めで戦死。享年60歳。嫡男の勝信は父の弔い合戦を望んだが政宗により止められている。
1591年、葛西・大崎一揆における佐沼城攻めで戦死。享年60歳。嫡男の勝信は父の弔い合戦を望んだが政宗により止められている。
知行であった小斎村には、その壮絶なる戦死に際し
「まだだ。まだ終わらんよ...」
という華麗なる捨てゼリフを吐いたという伝承が残っているとかいないとか...。
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