2019年5月28日火曜日

中目城 / 兵庫館 -大崎平野に浮かぶ小居館-

なかのめじょう / ひょうごかん
中目城 / 兵庫館
中目城。西方向からの眺め。2019年。
別称
中之目城、下中目在所
城の格
伊達仙台藩「在所
城郭構造
平城
天守構造
なし
比高
約5m (ふもとの標高:12約m、本丸約17m)
残存遺構
曲輪跡、水堀?
指定
宮城県遺跡番号:27074
築城
築城年
不明(室町時代以降の築城か?)
築城者
不明(中目氏?)
城主
中目氏
...中目重定、重種(- 1590)
木村領
城主詳細不明。1590年、中目相模が
葛西・大崎一揆の際に籠城。11月陥落。
遠藤氏
遠藤定弘、定良(1611-16??)
氏家氏
氏家清寿、清也、清寿、清継、
清主、清成、清氏、清庸(16??-幕末)
廃城
廃城年
不明(江戸時代は在所として存続)
理由
不明
位置
住所
宮城県 大崎市 古川 下中目 舘
現状
田園、稲荷神社
■中目氏と中目城

中目城は大崎市配下・中目氏の居館である。この築城の年代について伝えるものはないが、平成版『古川市史』第1巻では中目氏の苗字の由来として
中目氏については、大崎市が小野に居館を構えた頃、おそらく旧田尻町の中目に所領を宛行なわれ、後に旧古川市の敷玉に本拠を移したと考えられる。(p474)
としている。であれば、中目氏がこの中目城を築城したのは室町時代中期以降ということになるだろう。

また、現在の中目城は下中目、もしくは敷玉と呼ばれる地域に位置している。筆者はその近辺に「上」中目、あるいは「本」中目といった地名はなく、なぜ「下」中目なのか疑問に思っていたのだが、もともと田尻の中目に対して「下」中目であるならば合点がいく。

なお、中目氏は信憑性にクエスチョンマークはつくものの、『葛西大崎盛衰記』によれば大崎四家老の一家であるという。


■その位置と城主・中目兵庫

その城主については、江戸時代に編纂された地誌である『封内風土記』『風土記御用書出』共に中目兵庫であるとしている。中目兵庫重定は戦国末期の大崎家臣で、晩年には大崎氏を離れ伊達政宗の庇護を受けている。

中目城は、鳴瀬川に多田川が合流するポイントで、一体は水田地帯となっている。現在は新江合川(昭和32年(1957)開削)も合流する河川のジャンクションだ。

大崎氏の領土としては最南端に属し、南には黒川氏や、東南に伊達配下の松山城・遠藤氏や大松沢城・宮沢氏が控えている。中目兵庫が戦国時代末期に伊達よりの行動をとるのにも、こういった地政学的要因があったことだろう。

■中目城の反乱

中目城は、天正18年(1590)の葛西・大崎一揆に際して戦場となっている。伊達家の公式記録『貞山公治家記録』巻之十五 11月20日の条では
中目・師山両城ハ 公(※伊達政宗)終ニ御手ニ属セラル。中目城主ハ大崎殿旧臣 中目相模ナリ。松山城主 遠藤出羽高康父心休斎押寄セ、攻落ス。相模ハ討死歟、逃亡歟、不知。〇中目城 遠田郡ニモアリ。今度心休斎攻落スハ、信太郡下中目城ナリ。(強調引用者)
と記され、近隣の師山城とともに一揆の拠点となったこと、伊達方の遠藤心休斎高宗によって攻略されたことがわかる。また、このときの城主を中目相模としている。これは中目兵庫重定の親族の誰かであろう。当主・兵庫重定はすでに伊達の傘下となっていたが、伊達に従うこと、あるいは中央から下向した木村氏による統治を良しとしない中目一族もいたようだ。

また、上記引用文の前には鎮圧軍として下向した蒲生氏郷が浅野六右衛門正勝に宛てた書状も紹介されており、文中で氏郷は
一 先刻從是申入候中之目近邊、早速一刻モ早、ハカ行候ヤウニ御才覺、貴所御分別ニテ候、ハヤク隙明候事ニ久カヽリ申候者、ヘタカタキニテ候、カシコ、(強調引用者)
と述べている。文意がとりにくいが、『古川市史』によると「中目城ごときに手こずっていては、時間の無駄なので、計略をもって早々に済ませるように」との意らしい。実際に計略による落城だったかどうかは不明だが、後述するように、中目城は本格的な籠城に耐える規模の施設には見えない。「心休斎押寄セ」ともある様に、力攻めによる攻略だったとしても、それほど手こずりはしなかっただろう。


■遠藤氏統治下の中目

葛西・大崎一揆の終結後、中目城がどうなったのかはしばらく不明である。確実なのは、大崎領から木村氏の統治を経て伊達氏の領土となったことだ。江戸時代に入った慶長11年(1611)、中目城のある下中目は伊達家臣の遠藤定弘に与えられた。

この遠藤定弘は葛西・大崎一揆の際に中目城を攻略した遠藤宗高のひ孫にあたる人物で、この地ともゆかりのある氏族だ。定弘は幼少により、叔父である高信が陣代をつとめたが早世。弟の定良が家を継ぐも、遠田郡 大田に移封となる。

萬年寺。中目城のすぐ西隣に位置する。

遠藤氏による統治がいつまでだったかは調査が及ばなかったが、それほど長くはなかった様だ。遠藤氏時代の事跡としては、中目城のすぐ西隣にある萬年寺の移転がある。これはもととも遠藤氏の中世の領地・松山で開かれた寺で、遠藤氏の移封とともにこの地に移ったという。遠藤氏は遠田郡に移封となるが、万年寺はこの地に留まり、次に入封する氏家氏の菩提寺となった。


■氏家氏の入封

次いで下中目を知行したのは、仙台藩 着座第21席、氏家氏である。氏家氏も中目氏と同じく旧大崎家臣の家柄で、戦国時代末期に中目城主だった中目兵庫重定の妻は氏家氏の出身であるため、遠藤氏に次いで氏家氏もこの中目の地にゆかりのある一族となる。

入封の詳細な時期は不明だが、清寿の時代であり、彼が家を継いだ寛文9年(1669)12月以降のことだろうかと思われる。氏家氏の統治は清寿に続いて清也・清寿・清継・清主・清成・清氏・清庸と、幕末まで約200年間続いた。

また、下中目は仙台藩の城郭ランク「在所」にカテゴライズされた。これは要害・所に次ぐ地方統治の拠点で、屋敷は藩からの拝領となる。

遠藤氏、氏家氏時代の屋敷跡がどこなのかははっきりとはわからなかったのだが、宮城県遺跡地図では兵庫館(中目城)が「中世・近世城館」に分類されており、あるいは中目城の一角がそのまま在所の屋敷用地として利用されたのかもしれない。


■中目城の構造

中目城の歴史を語ったところで、次に城館としての構造を見ていこうと思う。中目城の規模については『風土記御用書出』に「竪 四拾五間 横 二拾五間」とあり、縦(南北)81.8m、横(東西)45.4mの換算となる。

『風土記御用書出』では横(東西)よりも縦(南北)に長いサイズに記録されているが、Google Mapの衛星写真では、東西方向に長い長方形に見える。城館跡の東側に若干盛り上がった部分があり、この大きさが『風土記御用書出』に記録されたサイズとほぼ一致するため、ここが中目城の主郭部だったのだろう。

衛星写真に『風土記御用書出』記載のサイズを当てはめてみた。
実際に周囲から盛り上がっている丘の規模は東西120m近くになる。

一方、1975年の衛星写真では、城館の輪郭らしきものが現代のそれと比べて若干大きく見える。

国土地理院航空地図より。1975年撮影。
上掲のGoogle Map衛星写真とほぼ同じ縮尺で切り出した。

周囲は標高約12mの水田地帯で、城館一帯は17~18m、比高約5m程度の丘となっている。段彩陰影図で地形の高低差をクリアに表示してみると、この一帯だけ綺麗に浮き上がっている。中目城の西側にある高台は萬年寺で、あるいはここも城郭施設として利用があった可能性もあるのではないか。


前述したとおり、ここは鳴瀬川と多田川の合流地点であり、治水の進んでいなかった中世には河川の氾濫も頻繁に起こったであろうから、季節によっては周囲に水を引き込んで水城のような防御戦術がとれたかもしれない。

事実、山城が圧倒的多数を占める東北において、平城が目立つのが大崎地方の特徴で、佐沼城や宮沢城など、水の流れを防衛に組み込んだ城も多い。

中目城一帯は水田に囲まれた私有地の感が強かったので、今回筆者は遠目から眺めるにとどめ、丘の中には立ち入らなかったが、紫桃正隆『仙台領内古城・館』第3巻によれば頂上部に稲荷神社がまつられ、西側には水堀跡もみられるという。

調べてみる限り、中目城について発掘調査が行われたことは無いようだ。もし調査が行われれば、葛西・大崎一揆の際の戦いの跡や、近世居館の生活にちなんだものが何かしら出土するだろうか。


■参考文献
  • 紫桃正隆『仙台領内古城・館』第3巻、宝文堂、1973年
  • 『古川市史1』第1巻 通史Ⅰ、2008年






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