2015年3月31日火曜日

戦国時代 大崎家臣団

大崎宗家

大崎 義兼(左京太夫)
大崎家第9代当主。明応8年(1499年)春、雪解けをまって数百騎の家来とともに上洛。将軍・足利義澄に謁見し、左京太夫・奥州探題に就任する。原因不明のまま47歳にして没。

大崎 高兼(たかかね、彦三郎 ~永正7年(1510)28歳卒)
大崎家10代当主。大崎義兼とその正室・北の方との間に生まれる。父・義兼の後を追うように若くして没する。


大崎 義直(左京太夫 永正元年(1504)秋 ~天正5年(1577年))
大崎家第11代当主。大崎義兼とその側室・内崎の方との間に生まれる。大崎高兼の弟。永正16年(1519年)、14歳にして将軍足利義稙から「義」の字を拝領して義直と名乗る。天文2年(1533年)、境界争いが原因で葛西晴重と佐沼で戦うが、攻略しきれず、伊達稙宗の仲介で和睦し、葛西の主張どおりの境界線を引く。
1534年、新田頼遠の反乱をきっかけに大崎天文の乱が勃発。伊達稙宗に援軍を頼んでこれを鎮圧するも、以降伊達の干渉をまねいて義宜を養子に迎える。伊達天文の乱においては晴宗派についた。天文14年(1545)、奥州探題に任じられる。

大崎 義宜(伊達小僧丸 ~天文19年(1550)5月)
伊達稙宗の次男。義直の娘、梅香姫をめとって大崎家に入嗣する。天文の乱においては稙宗派として活躍するが、戦後に晴宗派の義直に家督をうばわれる。実弟の葛西晴胤を頼って逃げる途中、義直の追手に討たれ暗殺されたとされている。

梅香姫
大崎義直の長女。義兼の末子との説もある。伊達稙宗の息子・義宜を夫に迎える。


大崎 義隆(享禄3年(1530)~)
大崎家第12代当主。天正9年(1581年)5月には上洛しているが、信長との謁見の記録はない。衆道関係のもつれから内乱を引き起こし、伊達家の介入を招いて大崎合戦の引き金となる。奥羽仕置で改易に。

園野の方(北の方)
大崎義隆の正室。葛西常時(隼人正)の娘と伝わる。名生城内の北館に住み、北の方とも呼ばれた。

大崎義興(庄三郎)
大崎義隆の子。葛西・大崎一揆、宮崎城の戦いでは大崎旧臣の旗頭となる。母は笠原一族・谷地盛直景の娘。

大崎 義康
→黒川義康。大崎義直の3男で、黒川晴氏の養子となる。

大崎氏系図




あ行

青塚 隆持(摂津)
古川持熈の遺児。1583年、兄の古川忠隆に攻められて戦死。

有壁 摂津守
不動堂城主。松山城の遠藤高康(伊達家)から攻撃を受け、滅亡。

伊場野 外記
伊場野惣八郎の父親。宮崎城の戦い(葛西・大崎一揆)の伊達方戦死者の中に名前が見える。

伊場野 惣八郎
伊場野外記の息子。大崎義隆の小姓となるも新井田隆景の恨みをかい、氏家吉継を頼る。このことが大崎家内乱、大崎合戦へとつながる。

一栗 高春(豊後守、兵部)
一栗放牛の孫。一栗城主(岩出山町一栗宿)。氏家党随一の猛将。氏家派の挙兵に参集。大崎合戦においては、氏家党のほとんどが動けない中、手勢200騎を率いて中新田勢への突撃を行う。
葛西・大崎一揆においては佐沼城にこもって戦う。戦後、最上家に仕えて鶴岡城番となる。義光の死後、清水義親を擁して反乱を起こしたため、新関久正によって謀殺される。

一迫 隆真(たかまさ、たかざねとも、伊豆)
一門一家。真坂城主(一迫町真坂、竜雲寺裏山)。氏家派の挙兵に参集。

氏家 直継(又十郎)
氏家党首領。母は葛西家臣・堅山平三郎の息女。新田頼遠の反乱に同調し、大崎天文の乱を拡大させる。

氏家 清継(太郎左衛門、三河守)
直継の庶兄。大崎天文の乱においては義直派につく。

氏家 隆継(三河)
氏家吉継の父。氏家派の挙兵に参集。

氏家 吉継(弾正)
氏家第8代当主。氏家隆継の子。岩手沢城主。大崎義隆拉致後の新井田隆景による反氏家派挙兵後、片倉河内と真山式部を米沢城に派遣して伊達の援軍を要請。大崎義隆の拉致後、空城になった名生城に入城し、正室・園野の方、愛妾・東の方とその妾腹・荘三郎を保護、これを中新田城に移す。


か行

北郷 右馬之允
鳥島城主(加美郡宮崎町)。新沼城にこもる伊達勢の大谷某、賀沢某と交渉。葛西・大崎一揆においては佐沼城にこもって伊達軍に抗戦。後に須江山で殺された。

葛岡 太郎左衛門
葛岡城主(岩出山町葛岡梅林寺浦山)。石川越前の弟。大崎義隆拉致後の新井田隆景による反氏家派挙兵に参集。大崎合戦にて師山城にこもる。

黒沢 広継(治部)
氏家一門。直継の弟か? 娘・澄姫は大崎義隆に嫁ぎ、嫡子義興を生んだ。

黒沢 隆澄
広継の嫡男。妹に大崎義隆に嫁いだ澄姫。その関係か、氏家党にありながら義隆派となる。


さ行

里見 義成(紀伊)
加美郡中新田町・狼の塚(おいのつか)城主。大崎四家老のひとり。義直に仕える。

里見 隆成(たかしげ、紀伊)
義成の嫡男。義成の跡を継いで大崎四家老をつとめる。新井田隆景の父。大崎義隆拉致後の新井田隆景による反氏家派挙兵に参集。

里見 隆元
里見隆成の長男。新井田隆景の兄。大崎義隆拉致後の新井田隆景による反氏家派挙兵に参集。

四釜 惣次郎
大崎合戦において小山田定頼を打ち取る。実際には相打ちだが、死してなお小山田を離さなかったため、その武功は語り草となる。

四釜 隆秀(尾張)
一門一家。四竈城主(加美郡色麻村四釜公民館付近)城主。大崎・葛西一揆では早々と政宗に降参し、先導をつとめて宮崎城の戦いに参加した。

渋谷 備前
遠朽館城主。大崎四家老のひとり。義直に仕える。

渋谷 隆時(備前守)
渋谷 備前の嫡男。跡を継いで大崎四家老をつとめ、義隆に仕える。

鈴木 伊賀
百々城の家中の者と伝わる。北郷右馬之允とともに新沼城の伊達軍と交渉。


た行

高泉 直堅(たかしみず、高清水とも、木工権頭)
大崎義直の弟。大崎天文の乱にて反乱。天文年間(1532-1555)に高清水城を築き、整備した。

百々 直孝(如休、弾正少弼)
大崎義直の弟。百々家の養子となってこれを継ぐ。後に「直隆」と改める。

百々 隆基(左京亮)
一門一家。百々城主。大崎義隆拉致後の新井田隆景による反氏家派挙兵に参集。古川忠隆の息女・隆姫が嫁ぐ。

富沢 貞連(さだつら、日向)
三迫城(岩ケ崎城)主。(栗駒町岩ケ崎、岩ケ崎小学校西)葛西家臣でありながら、大崎・伊達方と独自の交渉ルートを持つなど、独自行動が目立つ。大崎合戦の際も氏家派として参戦。


な行

中目 重定(兵庫)
中目城主。一説には四家老のひとりとも。大崎義直・義隆に仕えるも、大崎合戦後に伊達政宗に通じ、反大崎派となる。

中目 重種(弥五郎)
重定の嫡子。葛西・大崎一揆の際、伊達政宗から忠節を賞されていることから、一揆側ではなく鎮圧軍に参加していたと思われる。伊達方の武将として慶長出羽合戦にも参加。

南条 隆信(下総守)
大崎合戦において中新田城の「城代」をつとめ伊達勢を撃退するが、それ以外に記録が残っていない謎の武将。

仁木 高家(遠江守)
高根城主。一説には大崎四家老のひとり。9代義兼、10代高兼に続き11代義直に仕える。「高」は高兼からの偏諱かと思われる。

仁木 隆家(遠江守)
高家の嫡男。跡を継いで大崎四家老をつとめ義隆に仕えた。父親と名前の読みが一緒だが、「隆」は義隆からの偏諱。

西野 秀隆(民部少輔)
大崎義兼の五男。妾腹の子。元亀2年(1571年)の葛西との戦いで奪還した西野城(登米郡米山町)の城主となる。

新井田 隆景(刑部)
里見隆成の次男。大崎義隆の小姓となるも、伊場野惣八郎の台頭により主君の寵愛を失う。伊達に救援を要請するも義隆から詰問をうけ、そのまま義隆を新井田城に拉致。反氏家を掲げ挙兵。

新田 頼遠(安芸)
泉沢城主(岩出山町下野目)。天文3年(1534)年、主君・大崎義直に反旗を翻し、ここから大崎天文の乱がはじまる。泉沢城の落城後、弟の古川城へのがれる。反乱後は最上義守のお預かりとなり、羽州へ移る。


は行

古川 持熈(刑部少輔)
新田頼遠の弟。大崎天文の乱にて大崎義直に反乱。

古川 忠隆(九郎、弾正)
古川持熈の遺児。息女・隆姫は百々隆基に嫁ぐ。1583年、弟の青塚隆持を攻めて打ち取る。

古川 隆継(弾正)
一門一家。古川城主。大崎義隆拉致後の新井田隆景による反氏家派挙兵に参集。


ま行

米谷 熈正
古川城宿老。古川持熈の反乱に際して義直派として主君をいさめる。

米谷 越前入道
李曾根館主。米谷熈正の一門で、義直派。嫡子に治部。

宮崎 隆親(姓は笠原、民部)
笠原仲沖の嫡男。宮崎城主(加美郡加美町)。大崎義隆の嫡子・庄三郎(義興)をたてて大崎再興のための兵を起こし、葛西・大崎一揆にて伊達軍に抗戦。宮崎城の戦いでは、伊達の浜田景隆が討ち死にするほどの激戦となる。落城後、子の隆元とともに脱出し、出羽楯岡に落ち延びたとも、由利に落ち延びたともいわれる。

宮崎 隆元
宮崎隆親の子。

室田 隆親(小斎)
遠藤高康によって有壁摂津守が滅ぼされた後、不動堂城主となる。大崎合戦にて師山城にこもる。


や行

谷地森 直景(民部太夫)
笠原仲沖の五男。娘は大崎義隆の側室となる。

八森 相模(渋谷相模とも)
黒川晴氏の叔父。大崎四家老の一家・渋谷氏となんらかの婚姻関係があったと思われる。桑折城主。

柳沢 直広(紀伊)
笠原仲沖の次男。大崎義兼に仕える。

柳沢 隆綱(屋木沢とも、備前)
直広の子。加美郡宮崎町柳沢・琵琶城主。侍大将。大崎義隆拉致後の新井田隆景による反氏家派挙兵に参集。


わ行

涌谷 繁直(又三郎、1507~)
大崎義兼の3男。側室・内崎の方との間の子。養子となり、涌谷家を継ぐ。

涌谷 隆連(伊豆守)
百々直隆の子。百々隆基の弟。叔父にあたる涌谷繁直の養子となり、涌谷家を継ぐ。

■ 参考文献
・伊藤卓二『豊饒平野 -戦国時代の大崎一族-』豊饒平野刊行会
・紫桃正隆『政宗に睨まれた二人の老将』宝文堂
・紫桃正隆『仙台領の戦国誌』宝文堂
・各該当地域の自治体史、『中新田町史』『宮崎町史』『古川市史』等


2014年12月2日火曜日

芭蕉の辻 -仙台城下町のへそ-

仙台には「芭蕉の辻」なる交差点がある。現在はただの一般的な交差点で、交通量もそう多いわけではないし、なにがあるわけでもないのだが、昔は仙台城下町の中心部だったのだ。

■ 仙台城下町の"へそ"

そもそも芭蕉の辻とは、奥州街道と、仙台青葉城の大手門通り(大町通り)が交差する地点のこと。東北を縦断する奥州街道と、青葉城の大手通の交差点ということで、江戸城下町の日本橋に相当する、まさに仙台のへそだった場所である。

なお、当時の奥州街道は現在の国道4号(東二番町通り)ではなく、国分町通り、青葉神社通りに相当する。




■ 四隅の建物

辻の四隅の城郭風の建物(仙台市博物館の配布物によれば「重層・入母屋造りの建物」)には龍、兎、唐獅子をかたどった瓦がのっており、「奥州仙台名所尽集 芭蕉の辻」「慶応元年仙台城下図屏風」など数々の絵図、資料に記載されていることから、仙台城下のシンボルであったことがうかがえる。

建物の一階部分は地元の商人に貸し出され、店として利用されていたという。このド一等地に店を構えるのは、仙台の商人にとってすさまじいステータスだったことだろう。

「芭蕉の辻 錦絵」 文化遺産オンライン より

建物は何度か火災で焼失したが、そのたびに仙台藩の費用で立て直されたという。維新のあとも存続したが、明治時代に火事で三棟が焼失。残った西北の棟も、1945年7月の仙台空襲によって失われてしまった。

明治時代中期の様子

再建の計画については聞いたことがないが、もはや仙台駅前や国分町に移ってしまった町の中心からは外れた位置にあり、ここがかつての仙台の中心だった、と言われてもピンとこないかもしれない。

道のワンブロック、100メートル手前まではアーケード街が伸びているのだが、そこから先は急に人通りが少なくなる、というのがなんともさみしい。

下は現在の様子。仙台で一番メジャーな地銀、四十七銀行の芭蕉の辻支店が建つ。


北西の角には、記念碑が。



■ 名称について

西側の道の中央に高札が掲げた札場があったことから、正式名称は「札の辻」という。

なぜ「芭蕉の辻」と呼ばれるようになったかについては諸説あり、伊達政宗から辻の四隅の建物を賜った僧の名にちなんだ、という有力説の他、芭蕉の木が植えてあったから、という説もある。

ネーミングに松尾芭蕉との関係はないのは確かだが、彼は「奥の細道」の道程、国分町で数泊し、知人を訪ねたり仙台の名所めぐりをしている。その際におそらくこの芭蕉の辻も通っていると思われ、同じ名前のこの交差点に、何らかの思いをはせたのではないだろうか。

■参考文献
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 通史編3 近世Ⅰ
・現地案内版

仙台・南部藩 藩境 相去番所 / 藩境塚 / 鬼柳番所跡 -現在に残る旧"国境"あと-

岩手は盛岡までいってきた。高速は使わずに、下道(国道4号、奥州街道)をひたすら北上。途中、何度か寄り道をしていたのだけれども、そのうちの一つ、旧伊達・仙台藩と南部藩の藩境が目に見えてわかる面白い場所があったのでご紹介。

なお、以下現地の表記に従って「番所」「御番所」という表現を用いているが、要は関所のことである。

■ 相去御番所跡

跡地には当時を偲ばせるもの
はなく、案内板のみが残る。
相去は「あいさり」と読む。1658年(明暦2年)、2代藩主伊達忠宗のころに設置。関ヶ原の戦があってから60年もたってからの設置は遅いように感じるが、実は仙台・南部藩の藩境が確定したのは1641年(寛永18年)になってからのことだった*1

番所にはこがらみ、ちくも、さすまた、十手といった捕手道具の他、鉄砲十丁、弓十張、槍十本が備え置かれた。なかなかに物騒であるが、これはまだ戦国の熱気冷めやらぬ江戸時代前期のことであり、番所の役目は次第に国境の警備から物資や人の流れの監視に移っていく。

設置の際には102名の足軽が詰めたというが、その後も常時それだけの兵力を抱えてたとは思えない。案内板には
武頭ぶがしら1名(250石、出入司支配扱い、百日交替で仙台より出張)、組頭2名、床頭とこがしら1名、足軽4名が常時勤務した
とあるので、やはり国境の緊張緩和とともに常駐兵力は削減されていったのだろう。設置時の102名の足軽、というのは南部藩に対するデモンストレーションの意味もあったのではないか。その後は「足軽4名」で足りたのだから...。

■ 藩境塚

仙台藩の相去番所と南部藩の鬼首番所のちょうど中間地点に位置している。

実際にはこの一基のみではなく、東西に渡って藩境沿いに数百基が並んでおり、奥羽山脈から太平洋まで130キロ以上にもわたる。これだけヴィジュアル的に一目瞭然な「藩境」は(海や河川を除けば)全国にも類がない。

...よくぞここまでやったもんだと言いたくなるが、東北でも大きな(それもあまり仲のよろしくない)2つの藩が260年にわたって国境を接し続けた結果がこれであろう。

厳密には、基準となる大塚と、その間で補助的におかれた小塚からなっており、明治時代まで補修と増築を繰り返しながら維持された。

■ 鬼柳関所跡

1658年設置の仙台藩・相去番所に先立つこと1631年(寛永8年)の設置。このころはまだ両藩の藩境が確定していない時期なのだが、南部藩はこの地の関所をおくことで実効支配を進めたかったのだろうか。

関所には二人の役人と数名の足軽が常駐しており、藩主・公儀の宿泊所や休憩施設である御仮屋、馬を乗り継ぐ伝馬所などがおかれた。ということは、参勤交代のときに藩主がここで宿泊することもあったのかもしれない。

道をはさんで写真の反対側には、もうひとつ看板が掲げてあったのだが、いかんせんインクがハゲていてほとんど判読不能だった。文字というよりは絵のように見えたので、おそらく昔の街道沿いの様子が絵図にして載っていたのだろう。惜しまれる限りである。

なお、まぎらわしいのだが仙北街道沿いには仙台藩の鬼おにこうべ番所がある。今回紹介したのは南部藩の鬼おにやなぎ番所である。

■ 場所について

面白いのは、この3つの旧跡が奥州街道沿いに一直線に並んでいること。もっとも、藩境塚に関しては東西に渡って数百基も並んでいるので、そのうちの一つが二つの番所跡に位置しているにすぎない。

奥州街道とはいえ、旧道なので現在の国道4号とは道筋を異にする。道は現在の岩手県道254号線沿いで、和賀川の南、東北新幹線と並走するあたりである。

実は筆者、この旧跡の存在は知っていたのだが、正確な場所を調べるのにはかなり苦労した。どのサイトをみても、詳細な場所がのっていないのである! 不幸中の幸いは、写真を掲載しているサイトが多かったことと、このあたりでGoogleストリートビューの利用が可能だったこと。

写真を手掛かりに、新幹線らしき高架線の付近であることを手掛かりにストリートビューをさまようこと約1時間。やっとの思いで場所が特定できた。もっとも、旧奥州街道が岩手県道254号に相当することさえ知っていれば、もっと早く特定できたのだが...。

というわけで、これから訪れる人のために、当ブログではきちんと場所を示した地図を掲載しておこうと思う。



■ 三日月の丸くなるまで

この日は、ここ以外にもぶらぶらと立ち寄りながら盛岡まで向かった。ほぼ一日、岩手県で過ごしていたことになる。

三日月の 丸くなるまで 南部領」という句? がある。

奥州街道を北上する際、南部領は広大であるため、この鬼柳番所から南部藩に入ったときは三日月でも、南部領を抜けるころにはもう満月になっている、それだけ通過に時間がかかるという意味だ。

実はこの日、満月にして月食の日だったのである。帰りは高速で仙台まで帰ったのだが、空を見上げるとちょうど月食のタイミングだった。

ちょっと欠けてます

一日にして三日月から満月の復帰、「三日月の 丸くなるまで 南部領」を味わいつくした一日であった。

うーん。粋。

*1: 平成版『仙台市史』通史編3 近世1