■ 仙台城下町の"へそ"
そもそも芭蕉の辻とは、奥州街道と、仙台青葉城の大手門通り(大町通り)が交差する地点のこと。東北を縦断する奥州街道と、青葉城の大手通の交差点ということで、江戸城下町の日本橋に相当する、まさに仙台のへそだった場所である。
なお、当時の奥州街道は現在の国道4号(東二番町通り)ではなく、国分町通り、青葉神社通りに相当する。
■ 四隅の建物
辻の四隅の城郭風の建物(仙台市博物館の配布物によれば「重層・入母屋造りの建物」)には龍、兎、唐獅子をかたどった瓦がのっており、「奥州仙台名所尽集 芭蕉の辻」「慶応元年仙台城下図屏風」など数々の絵図、資料に記載されていることから、仙台城下のシンボルであったことがうかがえる。
建物の一階部分は地元の商人に貸し出され、店として利用されていたという。このド一等地に店を構えるのは、仙台の商人にとってすさまじいステータスだったことだろう。
「芭蕉の辻 錦絵」 文化遺産オンライン より |
建物は何度か火災で焼失したが、そのたびに仙台藩の費用で立て直されたという。維新のあとも存続したが、明治時代に火事で三棟が焼失。残った西北の棟も、1945年7月の仙台空襲によって失われてしまった。
明治時代中期の様子 |
再建の計画については聞いたことがないが、もはや仙台駅前や国分町に移ってしまった町の中心からは外れた位置にあり、ここがかつての仙台の中心だった、と言われてもピンとこないかもしれない。
道のワンブロック、100メートル手前まではアーケード街が伸びているのだが、そこから先は急に人通りが少なくなる、というのがなんともさみしい。
下は現在の様子。仙台で一番メジャーな地銀、四十七銀行の芭蕉の辻支店が建つ。
北西の角には、記念碑が。
■ 名称について
西側の道の中央に高札が掲げた札場があったことから、正式名称は「札の辻」という。
なぜ「芭蕉の辻」と呼ばれるようになったかについては諸説あり、伊達政宗から辻の四隅の建物を賜った僧の名にちなんだ、という有力説の他、芭蕉の木が植えてあったから、という説もある。
ネーミングに松尾芭蕉との関係はないのは確かだが、彼は「奥の細道」の道程、国分町で数泊し、知人を訪ねたり仙台の名所めぐりをしている。その際におそらくこの芭蕉の辻も通っていると思われ、同じ名前のこの交差点に、何らかの思いをはせたのではないだろうか。
■参考文献
・仙台市史編さん委員会『仙台市史 通史編3 近世Ⅰ』
・現地案内版
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