お久しぶりです。相変わらずの不定期更新で申し訳ありません。
いきなりですが、YouTube用に動画を作ってみました。
で、本日はこの動画作成に至った経緯やらを少し書き連ねたいと思います。
■正規購入したバイクで走りだす
今まで「みちのくトリッパー」を名乗りつつも移動手段は原付だったのですが、今年の春、ようやく念願の単車を購入しました。はじめは原付のスピードやら二段階右折などの規制がめんどくさくて、単純にもう少し速く移動できる手段としてのバイクに興味があったのですが、いろいろ調べているうちにバイクそのものに興味が移ってきてしまいました。
いろいろ考えた結果、長距離ツーリングも可能、かつ史跡がらみでは未舗装道に入ることも多いことを踏まえ、購入したのがこちら。
YAMAHAのSEROW(セロー)です。
実際に納車されて以降は、運転そのものが楽しくなってきてしまいまして、本来史跡巡りの手段である「移動」そのものが「ツーリング」という名の目的と化してしまうという、倒錯現象が起きてしまいました。こういうのを手段の目的化というのだろうなぁ。
今年の5月に中目重定の記事をアップしたころはまだ自制がきいていたので、続けて大崎家臣関係の記事を連投するつもりだったのですが、ツーリングシーズンである夏が近づくにつれて、バイク趣味にのめり込むようになってしまいました。
あげく、本格的なものではありませんが一応オフロードモデルではあるので、林道なんか探索し出すようになってしまったらもう抜け出せません。
■歴史趣味×バイク=...
一方で、郷土史研究も相変わらず捨てがたい趣味ではありまして、ブログ執筆からは遠ざかっていたものの、いろいろ読んだり訪れたりは続けていたわけです。郷土史好きな仲間とも交流は続いていたわけで、どうにか両者の両立を図れないかと思案していた結果が、上記の様な動画ができました。
もともと「街道」だとか「峠」っていうのは好きなテーマでしたし、近頃バイクの走行動画をアップする、いわゆる「モトブログ」も流行っていますので、いっちょ歴史要素を絡ませたバイク動画をやってみようかなー、という発想になりました。
とはいえ、東北はこれから積雪のシーズン。各地の峠道も冬季閉鎖が始まりつつありますので、バイク趣味も下火になるかもしれません。しばらくは、秋のうちに撮りためた動画の編集をしつつ過ごしたいと思います。
というわけで、今後は当ブログに加え、YouTubeのチャンネルもご贔屓にしていただけるとありがたい限りです。今後ともみちのくトリッパーを、よろしくお願いいたします。
追伸:こちらは少しバイク趣味に寄せた動画ですが、よろしければ御覧ください。
2019年12月5日木曜日
2019年5月28日火曜日
中目城 / 兵庫館 -大崎平野に浮かぶ小居館-
なかのめじょう / ひょうごかん 中目城 / 兵庫館 | |
中目城。西方向からの眺め。2019年。 | |
別称 | 中之目城、下中目在所 |
城の格 | 伊達仙台藩「在所」 |
城郭構造 | 平城 |
天守構造 | なし |
比高 | 約5m (ふもとの標高:12約m、本丸約17m) |
残存遺構 | 曲輪跡、水堀? |
指定 | 宮城県遺跡番号:27074 |
築城 | |
築城年 | 不明(室町時代以降の築城か?) |
築城者 | 不明(中目氏?) |
城主 | |
中目氏 | ...中目重定、重種(- 1590) |
木村領 | 城主詳細不明。1590年、中目相模が 葛西・大崎一揆の際に籠城。11月陥落。 |
遠藤氏 | 遠藤定弘、定良(1611-16??) |
氏家氏 | 氏家清寿、清也、清寿、清継、 清主、清成、清氏、清庸(16??-幕末) |
廃城 | |
廃城年 | 不明(江戸時代は在所として存続) |
理由 | 不明 |
位置 | |
住所 | 宮城県 大崎市 古川 下中目 舘 |
現状 | 田園、稲荷神社 |
中目城は大崎市配下・中目氏の居館である。この築城の年代について伝えるものはないが、平成版『古川市史』第1巻では中目氏の苗字の由来として
中目氏については、大崎市が小野に居館を構えた頃、おそらく旧田尻町の中目に所領を宛行なわれ、後に旧古川市の敷玉に本拠を移したと考えられる。(p474)としている。であれば、中目氏がこの中目城を築城したのは室町時代中期以降ということになるだろう。
また、現在の中目城は下中目、もしくは敷玉と呼ばれる地域に位置している。筆者はその近辺に「上」中目、あるいは「本」中目といった地名はなく、なぜ「下」中目なのか疑問に思っていたのだが、もともと田尻の中目に対して「下」中目であるならば合点がいく。
なお、中目氏は信憑性にクエスチョンマークはつくものの、『葛西大崎盛衰記』によれば大崎四家老の一家であるという。
■その位置と城主・中目兵庫
その城主については、江戸時代に編纂された地誌である『封内風土記』『風土記御用書出』共に中目兵庫であるとしている。中目兵庫重定は戦国末期の大崎家臣で、晩年には大崎氏を離れ伊達政宗の庇護を受けている。
中目城は、鳴瀬川に多田川が合流するポイントで、一体は水田地帯となっている。現在は新江合川(昭和32年(1957)開削)も合流する河川のジャンクションだ。
大崎氏の領土としては最南端に属し、南には黒川氏や、東南に伊達配下の松山城・遠藤氏や大松沢城・宮沢氏が控えている。中目兵庫が戦国時代末期に伊達よりの行動をとるのにも、こういった地政学的要因があったことだろう。
■中目城の反乱
中目城は、天正18年(1590)の葛西・大崎一揆に際して戦場となっている。伊達家の公式記録『貞山公治家記録』巻之十五 11月20日の条では
〇中目・師山両城ハ 公(※伊達政宗)終ニ御手ニ属セラル。中目城主ハ大崎殿旧臣 中目相模ナリ。松山城主 遠藤出羽高康父心休斎押寄セ、攻落ス。相模ハ討死歟、逃亡歟、不レ知。〇中目城 遠田郡ニモアリ。今度心休斎攻落スハ、信太郡下中目城ナリ。(強調引用者)と記され、近隣の師山城とともに一揆の拠点となったこと、伊達方の遠藤心休斎高宗によって攻略されたことがわかる。また、このときの城主を中目相模としている。これは中目兵庫重定の親族の誰かであろう。当主・兵庫重定はすでに伊達の傘下となっていたが、伊達に従うこと、あるいは中央から下向した木村氏による統治を良しとしない中目一族もいたようだ。
また、上記引用文の前には鎮圧軍として下向した蒲生氏郷が浅野六右衛門正勝に宛てた書状も紹介されており、文中で氏郷は
一 先刻從是申入候中之目近邊、早速一刻モ早、ハカ行候ヤウニ御才覺、貴所御分別ニテ候、ハヤク隙明候事ニ久カヽリ申候者、ヘタカタキニテ候、カシコ、(強調引用者)と述べている。文意がとりにくいが、『古川市史』によると「中目城ごときに手こずっていては、時間の無駄なので、計略をもって早々に済ませるように」との意らしい。実際に計略による落城だったかどうかは不明だが、後述するように、中目城は本格的な籠城に耐える規模の施設には見えない。「心休斎押寄セ」ともある様に、力攻めによる攻略だったとしても、それほど手こずりはしなかっただろう。
■遠藤氏統治下の中目
葛西・大崎一揆の終結後、中目城がどうなったのかはしばらく不明である。確実なのは、大崎領から木村氏の統治を経て伊達氏の領土となったことだ。江戸時代に入った慶長11年(1611)、中目城のある下中目は伊達家臣の遠藤定弘に与えられた。
この遠藤定弘は葛西・大崎一揆の際に中目城を攻略した遠藤宗高のひ孫にあたる人物で、この地ともゆかりのある氏族だ。定弘は幼少により、叔父である高信が陣代をつとめたが早世。弟の定良が家を継ぐも、遠田郡 大田に移封となる。
| 萬年寺。中目城のすぐ西隣に位置する。 |
遠藤氏による統治がいつまでだったかは調査が及ばなかったが、それほど長くはなかった様だ。遠藤氏時代の事跡としては、中目城のすぐ西隣にある萬年寺の移転がある。これはもととも遠藤氏の中世の領地・松山で開かれた寺で、遠藤氏の移封とともにこの地に移ったという。遠藤氏は遠田郡に移封となるが、万年寺はこの地に留まり、次に入封する氏家氏の菩提寺となった。
■氏家氏の入封
次いで下中目を知行したのは、仙台藩 着座第21席、氏家氏である。氏家氏も中目氏と同じく旧大崎家臣の家柄で、戦国時代末期に中目城主だった中目兵庫重定の妻は氏家氏の出身であるため、遠藤氏に次いで氏家氏もこの中目の地にゆかりのある一族となる。
入封の詳細な時期は不明だが、清寿の時代であり、彼が家を継いだ寛文9年(1669)12月以降のことだろうかと思われる。氏家氏の統治は清寿に続いて清也・清寿・清継・清主・清成・清氏・清庸と、幕末まで約200年間続いた。
また、下中目は仙台藩の城郭ランク「在所」にカテゴライズされた。これは要害・所に次ぐ地方統治の拠点で、屋敷は藩からの拝領となる。
遠藤氏、氏家氏時代の屋敷跡がどこなのかははっきりとはわからなかったのだが、宮城県遺跡地図では兵庫館(中目城)が「中世・近世城館」に分類されており、あるいは中目城の一角がそのまま在所の屋敷用地として利用されたのかもしれない。
■中目城の構造
中目城の歴史を語ったところで、次に城館としての構造を見ていこうと思う。中目城の規模については『風土記御用書出』に「竪 四拾五間 横 二拾五間」とあり、縦(南北)81.8m、横(東西)45.4mの換算となる。
『風土記御用書出』では横(東西)よりも縦(南北)に長いサイズに記録されているが、Google Mapの衛星写真では、東西方向に長い長方形に見える。城館跡の東側に若干盛り上がった部分があり、この大きさが『風土記御用書出』に記録されたサイズとほぼ一致するため、ここが中目城の主郭部だったのだろう。
| 衛星写真に『風土記御用書出』記載のサイズを当てはめてみた。 実際に周囲から盛り上がっている丘の規模は東西120m近くになる。 |
一方、1975年の衛星写真では、城館の輪郭らしきものが現代のそれと比べて若干大きく見える。
| 国土地理院航空地図より。1975年撮影。 上掲のGoogle Map衛星写真とほぼ同じ縮尺で切り出した。 |
周囲は標高約12mの水田地帯で、城館一帯は17~18m、比高約5m程度の丘となっている。段彩陰影図で地形の高低差をクリアに表示してみると、この一帯だけ綺麗に浮き上がっている。中目城の西側にある高台は萬年寺で、あるいはここも城郭施設として利用があった可能性もあるのではないか。
前述したとおり、ここは鳴瀬川と多田川の合流地点であり、治水の進んでいなかった中世には河川の氾濫も頻繁に起こったであろうから、季節によっては周囲に水を引き込んで水城のような防御戦術がとれたかもしれない。
事実、山城が圧倒的多数を占める東北において、平城が目立つのが大崎地方の特徴で、佐沼城や宮沢城など、水の流れを防衛に組み込んだ城も多い。
中目城一帯は水田に囲まれた私有地の感が強かったので、今回筆者は遠目から眺めるにとどめ、丘の中には立ち入らなかったが、紫桃正隆『仙台領内古城・館』第3巻によれば頂上部に稲荷神社がまつられ、西側には水堀跡もみられるという。
調べてみる限り、中目城について発掘調査が行われたことは無いようだ。もし調査が行われれば、葛西・大崎一揆の際の戦いの跡や、近世居館の生活にちなんだものが何かしら出土するだろうか。
■参考文献
- 紫桃正隆『仙台領内古城・館』第3巻、宝文堂、1973年
- 『古川市史1』第1巻 通史Ⅰ、2008年

2019年5月22日水曜日
中目重定 -伊達に寝返った大崎宿老-
なかのめ しげさだ
中目 重定 | |
別名
| 兵庫助、兵庫頭、隆政? |
生誕
| 不明 |
死没
| 不明 |
君主
| 大崎義直 → 義隆 → 伊達政宗 |
勢力
| 大崎家 → 仙台伊達藩 |
家格
| 四家老? → 不明 |
所領
| -1590 下中目 兵庫館(および下伊場野古城?) 1590- 不明。浪人? 1593- 青生・彫堂 |
氏族
| 中目氏(渋谷氏系統か) |
父母
| 不明 |
兄弟
| 不明 |
妻
| 氏家直俊の娘 |
子
| 中目弥五郎重種 |
子孫
| 中目太郎左衛門 |
親戚
| 中目相模? 中目大学? 氏家隆継(義理の甥)、氏家吉継(義理の大甥) |
墓所
| 不明 |
『葛西・大崎盛衰記』によれば中目家は大崎の「四天王の御家臣」であり、四家老と呼ばれたりするのだが、これは近世の著作であり、大崎氏の初期~全盛期においてはともかく、重定の時代にこの四家老なるタイトルが実情に即していたかどうかは疑わしい。
■その支配地
大崎地方に下中目(現在の宮城県 大崎市 古川 下中目)という集落があり、そこを治めていた様だ。下中目は現在、低地の田園地帯となっているが、そこにぽっかり島の様に浮かんだ丘がある。「中目城」あるいは「兵庫館」とよばれていた城館跡があり、『風土記書出』では城主を中目兵庫と伝える(以下、出典史料については【史料集】中目重定を参照)。
ここは鳴瀬川に多田川が合流するポイントで、昭和32年(1957)以降は新江合川もそそぐ結節点となった。いずれにせよ、治水がそれほど進んでいなかった戦国時代当時は、それなりの湿地帯であっただろう。河川の氾濫がおこれば、中目城はあるいは水の浮城のような城塞となったのかもしれない。ただし、
①現在の様子を見ても、小規模な居館といった印象
②大崎合戦においても対伊達の防衛ラインとして用いられていない
③葛西・大崎一揆においても簡単に陥落している
ことから考えて、本格的な籠城に耐える城ではなかった様だ。
また、『風土記書出』では下伊場野村の古城(伊場野古城)についても城主を中目兵庫とし、隣接する下伊場野城については中目大学を城主と伝える。中目大学は兵庫重定の親戚だろう。
どちらにせよ、中目一族としては鳴瀬川をはさんで南北にその領地をもっていたこととなる。伊場野は伊達領の大松沢(大松沢氏)や松山(遠藤氏)と接する場所であり、のちに大崎を見限って伊達に接近するのも、こういった地理的要因があったかもしれない(上記 兵庫館・伊場野古城の位置については下記Google Map参照)。
■活動の初見 - 黒川への使者
中目兵庫重定の名が初めてみえる史料に、「黒川氏宛 大崎義直黒印状」がある。弘治3年(1557)のものと推定されており、大崎家の第11代当主・義直が黒川景氏・稙国親子に宛てたものである。
内容は、近隣の大名である留守氏の当主・顕宗に対して家臣・村岡氏がおこした反乱に関するもので、この留守氏内紛を調停しようと動いていた黒川親子へのねぎらいと、協力の約束である。最後に「委曲 中目兵庫助 理申すべく候」とあるので、大崎義直の使者として、中目重定が黒川へ派遣され、詳細を伝えるメッセンジャーの役割を任せられたのだろう。
以上から、中目重定が大崎義直の代から現役だったことがわかる。一方で、続く第12代・大崎義隆の時代末期まで、しばらくその活動の詳細は不明である。
■大崎合戦
天正末期、大崎家がふたつに割れた天正大崎の内乱においては、中目兵庫重定は大崎義隆・新井田刑部の側についたと『成実記』にみえる。
ただし、その内乱が発展し伊達政宗の介入を招いた天正16年(1588-)からの大崎合戦においては、伊達勢を迎え撃った大崎家臣団の中に中目重定の名前が見えなくなる。あるいはこのとき既に伊達によしみを通じていた、もしくは中立的な態度をとっていたのかもしれない。
『葛西・大崎盛衰記』では桑折城に中野目兵庫が加勢したと見えるが、『葛西・大崎盛衰記』は近世成立の軍記物であり、『成実記』と比べても大崎方の陣容にかなりの誇張があると思われ、信頼するには怪しい。
このとき大崎氏は対伊達戦線として、本拠地・中新田を守備するべく下新田城・師山城・桑折城を防衛ラインに設定していたが、それよりも前線側にある中目城は無視されている。
それだけでなく、おなじく中目兵庫が城主だったとされる伊場野古城、親族だと思われる中目大学が城主だった伊場野館も防衛ラインとしては外され、一段下がった師山城 = 桑折城が防衛ラインとして設定されている。
| クリックで拡大。大崎合戦開始前(1588.01)の戦闘配置。『成実記』より。 南東の白いアイコンが中目氏関連の中目城(兵庫館)・伊場野館・伊場野古城。 これら3城は利用されず、大崎方の防衛線は一歩下がった師山=桑折城ラインに設定されている。 |
先述のとおり、城の脆弱性が原因かもしれないが、あるいはやはり、中目氏はこの頃すでに大崎防衛部隊からは戦線離脱していたのかもしれない。いずれにせよ、中目重定がこの戦いで目立った動きをしなかったことは確かだ。
■大崎への手切れと伊達への接近
大崎合戦において大崎方は、戦術的には中新田で伊達軍を打ち破りながらも、政宗による大崎家臣団の切り崩しや粘り強い講和条件交渉により、大局的には大崎方の劣勢に推移していった。
上記のように、もともと大崎合戦においては行動がはっきりとしない中目重定であったが、天正17年(1589)3月初頭、同じ大崎家臣の古川氏の配下を攻撃し、明確に反大崎の姿勢を明らかにする。これは『貞山公治家記録』(3月7日の条)およびその史料集ともいうべき『政宗君記録引証記』に紹介されている。
この中目重定の行動のタイミングを考察するに、少しさかのぼる2月上旬に大崎氏における最大の抵抗勢力・氏家吉継をはじめとする氏家党のメンバーたちが政宗の米沢にいる参上したことと関係があると考えられる。『古川市史』では中目の行動をもっと厳密に、氏家吉継が米沢から岩出山に帰還した直後の3月2日のこととしている。
氏家党メンバーの米沢参上は、彼らが大崎家を離れて伊達に出仕することを意味する。実は中目重定の妻は氏家氏出身で、吉継は親戚にあたる。氏家吉継は伊達出仕への手土産として、中目の大崎離反を工作したのかもしれない。あるいは逆に、中目重定が自ら流れに乗り遅れまいとして、反大崎の行動をとったのかもしれない。
また、同じく天正17年(1589)の12月24日には政宗からの書状(政宗文書579)で大崎の合戦が勝利した暁には、四日市場の領土を加増する旨を約束されている。この四日市場は、大崎の本拠地・中新田の近辺で、おそらく大崎方に属する地である(『古川市史』は下新田氏の領地と推測。下記に地図あり)。中目重定はこの時点で、完全に大崎に反し伊達方の武将として行動している。
■葛西・大崎一揆
その後、大崎氏は小田原参陣を果たせなかったことから、改易となり大名としては滅亡した。大崎と、同じく取りつぶしとなった葛西の旧領には木村吉清が入封するが、これに対して旧葛西・大崎家臣や農民たちの一揆がおこる。
伊達政宗や、蒲生氏郷はこの一揆の鎮圧に乗り出すが、途中、政宗は一揆を扇動していることを疑われ、弁明のために上洛。有名なセキレイの花押のエピソードで秀吉の疑いを解いた政宗は、一揆の第2次鎮圧を開始する。
この第2次鎮圧の開始直前(天正19年(1591)6月8日)、政宗は中目重定に宛てて書状を書いている(政宗文書837)。「これから出陣するので、(現地で)直接いろいろ申し付ける」といった内容で、このとき中目重定が一揆には加わらず、むしろ鎮圧側として政宗に協力していたことがわかる。
一方、『伊達治家記録』天正18年(1590)11月20日の条には中目相模なる人物が中目城に籠って一揆に参加していたことが書かれている。伊達方の武将・遠藤心休斎によって簡単に攻略されているが、この中目相模はおそらく重定の親族の誰かであろう。中目一族も一枚岩ではなかった様だ。
| 中目城(兵庫館)。中目兵庫重定の居館と伝わる。 葛西・大崎一揆(1590)では中目相模が籠城するも、 伊達方の遠藤心休斎により陥落される。宮城県 大崎市 古川 下中目。 |
少しさかのぼる11月11日には、政宗から中目弥五郎(『治家記録』では重定の嫡子・重種としている)宛に判物が下され、その忠節を賞されている。あるいは一族の中目相模の反乱に対して、重定・重種親子もなんらかの鎮圧行動に加わっていたのかもしれない。
■大崎耕土の開墾
その後の中目重定の活動は明確ではないが、1593年3月23日の段階で、伊達氏から中目兵庫(重定)宛てに朱印制札が出され、青生・彫堂の地の開墾を指示されている。青生・彫堂はいずれも下中目のすぐ東側の土地であり、制札では「あれ地」と表現され、葛西・大崎一揆で荒廃したことが示唆されている。あるいは中目相模が中目城に籠ったことと関係しているのかもしれない。
政宗は葛西・大崎一揆をきっかけに本拠地の置賜や現在の福島県域に獲得した領地を没収され、かわりに葛西・大崎の旧領を与えられた。これは石高としては大幅にダウンで、伊達家としては中目たちの様に、諸家から伊達に鞍替えして増えた家臣を、減少した収入で養わなければならなかった。
その解決策として行われたのが、このように給与の直接支給ではなく土地を与えて家臣たちの開墾を推奨する方法で、近世には地方じかた知行制と呼ばれた。これがのちに「実質200万石」ともいわれる穀倉地帯・仙台藩の姿につながる。中目重定に指示されたこの青生・彫堂の開墾は、その典型のように思える。
■その子孫
...以上のように、大崎家から伊達の配下となったことは確かな中目重定なのだが、その後の動向は子孫も含めてよくわからない。
彼の嫡子とされる中目弥五郎は、「伊達政宗最上陣覚書」と呼ばれる史料にその名前が見えることから、東北の関ケ原・長谷堂城の戦いへ派遣された伊達の援軍に参加していたことがわかる。つまりこのとき、すでに重定は第一線を退き、嫡子・弥五郎重種に家を継がせていたのではないかと思われる。既に活動の初見(1557年)から40年以上が経過している。妥当なところだろう。
仙台藩の家臣録である『伊達世臣家譜』には「大崎の旧臣」を称する中目家が載っているのだが、元寺尾姓、隆継・一慶を経て定継の代の慶長19年(1614)に伊達家に仕えた、とするなど、どうもここに紹介した中目重定の家とは一致しないように思える。あるいは、中目相模や中目大学の家系だろうか。
上記で紹介した政宗文書などは「中目家文書」として伝わっているものなのだが、文書について『政宗君引記録証記』では「右、津田民部預給主中目太郎左衛門所持」と解説している。中目重定が政宗から与えられた文書を所持していた中目太郎左衛門は、重定の子孫であることに間違いはないだろう。「津田民部 預給主」とあるので、兵庫重定の子孫たちは、佐沼要害を拝領した津田氏配下の伊達家臣として近世を生きた様である。
■参考文献
直接の出典となった史料についてはこちらを参照 ⇒ 【資料集】中目重定
- 佐々木慶市『奥州探題大崎十二代史』1999年、今野出版企画
- 遠藤ゆり子「大崎氏の権力構造」(『戦国時代の南奥羽社会』2016年、吉川弘文館 所収。初出は『立教 日本史論集』第8号に掲載の「戦国大崎氏の基礎的研究」2001年)
- 『古川市史1』第1巻 通史Ⅰ、2008年

2019年5月21日火曜日
【資料集】中目重定
戦国時代末期に大崎家に仕えつつも、のちに伊達の被官となった中目兵庫重定に関する史料・資料の抜き出し。各資料を編年の順で抜き出した。
大崎義隆が黒川景氏・種国親子に宛てた書状。佐々木慶市『奥州探題大崎十二代史』および『仙台市史 資料編1』では弘治3年(1557)のものと比定している。留守氏に対する家臣・村岡氏の反乱に際して、その調停につとめる黒川親子への協力の約束、葛西からの協力はあてにならないこと、詳細は中目兵庫が伝えること等が書かれている。
出典は『仙台市史 資料編1 古代中世』文書番号324に拠った。『古川市史 第7巻 資料Ⅱ 古代・中世・近代1』文書番号341にも収録。中目家文書より。
03.天正大崎の乱
⇒ 【資料集】大崎合戦 を参照のこと
04.大崎合戦以後
04-1.『政宗君記録引証記』八
04-2.『貞山公治家記録』巻之八 天正17年(1589)3月7日の条
伊達家の公式記録である『伊達治家記録』より。出典は『仙台藩史料大成 伊達治家記録 一』(平重道 責任編集、昭和47年(1972)、宝文堂)に拠った。表記や言い回しに若干の変更はあるが、04-1.を書き下しつつ引用し、中目兵庫と古川弾正についての解説を加えている。
04-3.天正17年12月24日「中目兵庫頭宛 知行宛行朱印状」
・四日市場:現在の宮城県 加美郡 加美町 四日市場。中新田の街並みのすぐ南東に位置する。
出典は『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』文書番号579に拠った。『古川市史 第7巻 資料Ⅱ 古代・中世・近代1』文書番号475にも収録。翻刻は同じ。中目家文書より。
また、政宗はこの文書と同日に、同じく伊達寄りの大崎家臣である鮎田大隅守に米泉・清水、磯田典膳正に「似合之知行」を宛がう文書も発行している。政宗の大崎切り崩し工作の一環。
05.葛西・大崎一揆以後
05-1.天正19年6月8日「中目兵庫頭宛 伊達政宗書状」
タイミングとしては、政宗が葛西・大崎一揆の扇動疑惑に対する弁明上洛を終え、米沢帰還したのが5月20日。第2次鎮圧のために米沢を出陣するのが6月14日で、その間となる。中目兵庫の説明として当時「浪人」としているが、この時点ではまだ伊達の家臣扱いではなかったのだろうか。
05-3.天正21年3月26日「中目兵庫頭宛 朱印制札」
中目兵庫に対して青生・彫堂の領地を開拓する様、当時岩出山の城代だった屋代景頼の名で指示された制札。青生・彫堂はどちらも下中目からすぐ東隣の集落である。「あれ地」「こうや」とあり、このあたりも葛西・大崎一揆で荒廃したものと思われる。中目城が一揆の際に籠城に使われたことと関係しているのだろうか。
出典は『仙台市史 資料編11 伊達政宗文書2』文書番号938(中目家文書)に拠った。『古川市史 第7巻 資料Ⅱ 古代・中世・近代1』文書番号546にも収録。

01.居館・兵庫館および伊場野古城
01-1.『仙台領古城書上』
仙台藩内にかつて存在した中世の城館について作成された記録。江戸幕府に提出されたもので、成立時期は延宝年間(1673~1681年)のことと言われている。出典は『仙台叢書』第4巻(大正12年(1923))所収の「仙台古城記」に拠った。下伊場野村
山
一 下伊場野城 東西 三十三間
一 下伊場野城 南北 十三間
一 下伊場野城 城主 中目大學。
山
一 古城 東西 十七間
一 古城 南北 廿五間
一 古城 城主 中目兵庫頭。
下伊場野村について、中目大学を城主とする下伊場野城、および中目兵庫を城主とする下伊場野古城にふれ、どちらも山城としている。また、中目城(兵庫館)については記載がない。現代の尺度に直すと、下伊場野城は東西60m、南北23.6m。古城は東西30.9m、南北45.4mの規模となる。
また、下記04-2.『貞山公治家記録』でも中目兵庫の居住地を下伊場野としている。
01-2.『封内風土記』巻之十六
仙台藩の儒学者・田村希文が安永元年(1772)に完成させた地誌。中目城(兵庫館)について触れた部分。志田郡 下中目邑の項目。詳しくはこちらを参照。出典は『仙台叢書 封内風土記』の国会図書館デジタルコレクション版に拠った。下中目邑。(中略)古壘一。傳云。中目兵庫諱レ不傳。所レ居。(後略)
01-3.『風土記御用書出』志田郡 北方 下中目村(敷玉村)の部
一 古館 壱ツ
一 兵庫館 竪 四拾五間
一 兵庫館 横 貳拾五間
一 兵庫館 御城主 中目兵庫様ニ御座候由申傳候共 右年月 相知不申候事
仙台藩の儒学者・田辺希元(希文の子)が『封内風土記』を補うべく編纂した地誌。安永2年(1773)から同9年(1780)にかけて、各村の肝入から提出させた調査書がベースとなっている。詳しくはこちら。兵庫館については『封内風土記』と比べて規模の情報が加筆されている。現在の尺度に直すと、縦(南北)81.8m、横(東西)45.4mとなる。
02.活動の初見
02-1.弘治3年ヵ正月晦日「黒川氏宛 大崎義直黒印状」
02.活動の初見
02-1.弘治3年ヵ正月晦日「黒川氏宛 大崎義直黒印状」
村岡宮城之錯□付而、従其方之助
成、太義存候、就其義、当方へ合力之
義承候、葛西六郎方憑由、被申候
間、彼義無拠候、併年来御懇切
候条、対其方無余義候間、少々扶
佐之義、可申付候、委曲中目兵庫助
可理申候条、令略候、恐々謹言、
□□正月晦日 左京大夫義直(黒印「國」)
□□□□黒川下総守殿
□□□□同 修理大夫殿
- 村岡宮城之錯~:宮城(留守氏)に対して家臣・村岡氏がおこした反乱のこと。
- 葛西六郎:六郎は葛西氏の歴代当主の幼名。当時の当主は親信だろうか?
- 左京大夫義直:大崎義直。第11代当主。
- 黒川下総守・修理大夫:黒川景氏・稙国親子。
大崎義隆が黒川景氏・種国親子に宛てた書状。佐々木慶市『奥州探題大崎十二代史』および『仙台市史 資料編1』では弘治3年(1557)のものと比定している。留守氏に対する家臣・村岡氏の反乱に際して、その調停につとめる黒川親子への協力の約束、葛西からの協力はあてにならないこと、詳細は中目兵庫が伝えること等が書かれている。
出典は『仙台市史 資料編1 古代中世』文書番号324に拠った。『古川市史 第7巻 資料Ⅱ 古代・中世・近代1』文書番号341にも収録。中目家文書より。
03.天正大崎の乱
⇒ 【資料集】大崎合戦 を参照のこと
04.大崎合戦以後
04-1.『政宗君記録引証記』八
一 遠藤出羽ニ被下候と相見得候御書写、但シ前ノ氏家ニ被下候御書、自松山之書札と有之ニ付、此書出羽ニ被下候と相考申候
氏弾其地二無相違打越、自其も途中無異義様ニ相送候哉、簡用迄候、於爰元中ゝゝ無心元候間、兼而自是も飛脚遣候キ、漸可打越候哉、仍中目家中、古河家風之者討候哉、因之、中目所より其元及内儀旨候欤、併世間見合無聊尓刷、千言万句候、其上何辺氏弾へ相談之上、彼口可及取刷、仙道口、最上弥々静謐候、可心安候、尤小成田惣右衛門登之刻、諸事可申越候、恐々謹言、
三月七日 政宗御書判
無御宛所
右ハ二日町土屋彦右衛門所持、御記録江摘載之、藩政時代に編集された伊達家の公式記録である『伊達治家記録』を編集する際に集めた史料・出典を集めた『引証記』から。他の書状との兼ね合いから、遠藤高康宛ての政宗書状だと推測している。出典は『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』文書番号389に拠った。語句解説は下記04-2.で併せて。
04-2.『貞山公治家記録』巻之八 天正17年(1589)3月7日の条
〇遠藤出羽高康へ御書ヲ賜フ。氏家弾正其地へ無ニ相違一打越シ、其許ヨリモ途中異義ナキ様ニ相送ラレタル哉、肝要ナリ、爰許ニ於テモ御心許ナク思サレ、兼日飛脚ヲ遣サル、漸可ニ打越一歟、然レハ中目家中ノ者、古川家風ノ者ヲ討タル哉、因テ中目所ヨリ其元ヘ内議ニ及フ旨アル歟、併ラ世間見合聊爾ナキ刷ヒ肝要ニ思召サル。何篇氏家ニ相談、彼口取刷ヒ然ルヘシ、仙道口、最上口、彌以テ静謐ナリ、心安カルヘシ、尤モ小成田惣右衛門登リノ節、諸事可ニ申越一旨著サル。中目・古川共ニ大崎家臣ナリ。中目兵庫ハ志田郡下伊場野ニ住シ、古川弾正ハ同郡古川ニ住ス。
- 遠藤出羽高康:松山千石城主。対大崎最前線の城主であり、松山城は大崎合戦において伊達方の出撃基地となった。
- 氏家弾正:岩手沢(のちの岩出山)城主・氏家吉継。大崎合戦の一方の当事者にして、昨2月上旬に政宗のいる米沢に参上している。
- 古川家風ノ者:宝文堂版の平重道の解説によれば「家風の者」と「家中の者」との区別は不明で耳慣れない言葉ではあるが、「古川家に所属しているらしい者」という意味ではないかと、伝聞・推定のニュアンスを込めて推測している。
- 聊爾:りょうじ。いいかげんであること。04-1.では「聊尓」と表記。
- 刷ヒ:つくろい。
- 彌:いよいよ。
- 小成田惣右衛門:のちの山岡重長。柴田郡 小成田の領主。大崎合戦に目付として参戦し、その後も対大崎工作を担う。
伊達家の公式記録である『伊達治家記録』より。出典は『仙台藩史料大成 伊達治家記録 一』(平重道 責任編集、昭和47年(1972)、宝文堂)に拠った。表記や言い回しに若干の変更はあるが、04-1.を書き下しつつ引用し、中目兵庫と古川弾正についての解説を加えている。
前半は米沢参上後に岩出山へ帰還する氏家吉継の護衛を促す内容か。後半では中目兵庫と古川弾正の間に衝突があったことと、中目から遠藤に相談があるかもしれないので、その際は世間の評判が悪くならないように、氏家吉継とも相談して対処するように、と指示している。
04-3.天正17年12月24日「中目兵庫頭宛 知行宛行朱印状」
〇太崎弓箭本意ニ執成
〇候者、四日市場可宛行候、
〇永代不可有相違者也、
〇仍証文如件、
天正一七 丑巳年極月廿四日 政宗(朱印)・太崎弓箭~:太(大)崎での弓揃(戦)が上手くいけば、四日市場を宛がう、との意。
中目兵庫頭殿
・四日市場:現在の宮城県 加美郡 加美町 四日市場。中新田の街並みのすぐ南東に位置する。
出典は『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』文書番号579に拠った。『古川市史 第7巻 資料Ⅱ 古代・中世・近代1』文書番号475にも収録。翻刻は同じ。中目家文書より。
また、政宗はこの文書と同日に、同じく伊達寄りの大崎家臣である鮎田大隅守に米泉・清水、磯田典膳正に「似合之知行」を宛がう文書も発行している。政宗の大崎切り崩し工作の一環。
05.葛西・大崎一揆以後
05-1.天正19年6月8日「中目兵庫頭宛 伊達政宗書状」
就下向ニ書状到来、披見候、仍
近日其表出馬之儀ニ候間、
其刻諸事可相理候条、不具候、
謹言、
〇六月八日 政宗(花押)
〇〇中目兵庫頭殿
出典は『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』文書番号837に拠った。『古川市史 第7巻 資料Ⅱ 古代・中世・近代1』文書番号530にも収録。翻刻は同じ。中目家文書より。右筆によるもの。
05-2.『貞山公治家記録』巻之十六 天正19年(1591)6月8日の条
〇八日壬寅。中目兵庫重定ニ御書ヲ賜フ。御下向ニ就キテ、書状到来、披見シ給フ、仍テ近日其表御出馬ノ間、其節諸事仰斷ラルヘキノ旨著サル。兵庫ハ大崎舊臣ナリ。此節浪人タリ。一揆ニ與セスシテ、去年十一月以來御退治ニ與力シ奉ル。
- 其表:大崎方面。
伊達家の公式記録である『伊達治家記録』より。出典は『仙台藩史料大成 伊達治家記録 ニ』(平重道 責任編集、昭和48年(1973)、宝文堂)に拠った。上記05-1.の趣意文。
タイミングとしては、政宗が葛西・大崎一揆の扇動疑惑に対する弁明上洛を終え、米沢帰還したのが5月20日。第2次鎮圧のために米沢を出陣するのが6月14日で、その間となる。中目兵庫の説明として当時「浪人」としているが、この時点ではまだ伊達の家臣扱いではなかったのだろうか。
05-3.天正21年3月26日「中目兵庫頭宛 朱印制札」
(朱印)札
志田郡之内、一あわう、
一ゑりだう二ヶ所のあれ地、
五年くうやニ申付、おこさせ
へく候、聊違乱有間敷候、
仍如件、
屋代勘解油屋代勘解由兵衛
天正廿一年三月廿六日
中目兵庫中目兵庫殿
- あわう:青生。現在の宮城県 遠田郡 美里町 青生。
- ゑりどう:彫堂。現在の宮城県 遠田郡 美里町 北浦彫堂。
- くうや:『古川市史』では「こうや」と翻刻している。荒野。
- 聊:いささか。
- 天正廿一年:西暦では1593年に相当するが、天正は20年12月8日に文禄元年に改元したため、天正21年は存在せず、文禄2年とするのが正しい。『古川市史』では改元情報の伝達遅延によるものか、と推測している。
中目兵庫に対して青生・彫堂の領地を開拓する様、当時岩出山の城代だった屋代景頼の名で指示された制札。青生・彫堂はどちらも下中目からすぐ東隣の集落である。「あれ地」「こうや」とあり、このあたりも葛西・大崎一揆で荒廃したものと思われる。中目城が一揆の際に籠城に使われたことと関係しているのだろうか。
出典は『仙台市史 資料編11 伊達政宗文書2』文書番号938(中目家文書)に拠った。『古川市史 第7巻 資料Ⅱ 古代・中世・近代1』文書番号546にも収録。

2018年2月15日木曜日
飯坂宗康と戦国時代 -男子なき父親の苦悩- 【悲運の一族・飯坂氏シリーズ⑦】
それではいよいよ、飯坂氏シリーズのひとつのクライマックスである、飯坂宗康の生涯について触れる。
さて、ここからしばらく飯坂氏は当主不在の状況となる。男子が途絶えた以上、一時家は断絶したともいえる。この約15年後に飯坂の名跡は復活するのだが、次回はそれまでの間、飯坂の血筋を継いだ政宗の側室・飯坂御前の人生について触れたいと思う。
■ 悲運の一族・飯坂氏シリーズ一覧
①飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家-
②こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学-
③飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【資料集付】
④鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる-
⑤分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族-
・┗【資料集】中世の飯坂氏
⑥飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク-
⑦飯坂宗康と戦国時代 -男子なき父親の苦悩- ← 今ココ
・┗【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
・┗戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
・┗飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
・┗【資料集】飯坂宗清
・┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
・┗【資料集】近世の飯坂氏
⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表

さて、そもそもこの飯坂宗康なる武将、知名度が決して高いとは言えない。ちょっと気になったのでTwitterでアンケートをとってみたところ
#伊達政宗 好きな人に聞きたい。政宗配下の 飯坂宗康 という武将を— 大槻一憨(みちのくトリッパー) (@blumentritt1120) 2017年8月29日
という結果になった。回答総数は99票で、そもそも筆者のTweetに反応してくれている時点である程度歴史、伊達家に詳しいか、興味のある人たちのはずだ。そんな99人でも知らないが半数を超える、なかなかマニアックな武将である。
いいざか むねやす
飯坂 宗康 | |
|
NHK大河『独眼竜政宗』より
| |
別名
| 幼名:小太郎 諱:宗康、宗貞、宗泰 官名:右近大夫、右近将監 |
生誕
| 不明 |
死没
| 天正17年(1589) 9月2日 異説:天正18年(1590) 3月14日 |
死因
| 不明 |
君主
| 伊達晴宗 → 伊達輝宗 → 伊達政宗 |
家格
| 一家 |
所領
| 信夫郡 飯坂城 (石高推定:2500石前後か) |
氏族
| 飯坂氏 |
父
| 飯坂宗定 |
母
| 桑折宗保の娘 |
兄弟
| 妹:飯田宗親の妻 義弟:桑折宗長 |
妻
| 桑折景長の娘 |
子
| 長女(桑折政長の妻)、飯坂御前 系譜上の養子:飯坂宗清 |
子孫
| 飯坂宗長、宗章、輔俊 |
先祖
| 伊達為家、飯坂政信 etc. |
墓所
| 天王寺(福島市 飯坂町 天王寺) |
戒名
| 雲岩起公 |
なお、以下情報の出典についてはあらかじめ【資料集】飯坂宗康にまとめてあるので、興味のある方はそちらを参照してほしい。
■ 宗康の生い立ち
宗康の生まれた正確な年代はわかっていないが、父・飯坂宗定と母(桑折宗保の娘)の間に幼名・小太郎として生まれた。
伊達家への奉公は晴宗の時代からということなので晴宗の治世(1548~1564)には現役世代だったはずだ。諱・宗康の「宗」の字も晴宗からの偏諱(一字拝領)であろう。
この時代の飯坂宗康の活躍を示す資料は残っていないが、前回の記事でも触れた彼の婚姻関係から推測するに、晴宗政権の主要人物のひとりであった桑折景長の一党として活動していたと思われる。
こういった桑折氏の婚姻政策や、分家・下飯坂氏の活躍は、後に宗康が娘を伊達政宗の側室として送り込み、一族の立場浮揚のきっかけとした発想につながったのではないか。
■ 宗康と天王寺の再興
宗康の活躍としてまず目にとまるのが、飯坂氏の菩提寺でもある天王寺の再興である。天王寺は、寺伝によれば聖徳太子の時代までさかのぼる古い由緒のある寺だが、この時代はすでに荒廃していた。
宗康は天正3年(1575)、住職の春翁正堂和尚とともに天王寺の中興をはかり、寺を臨済宗に改め、また寺田として103石を献上している。
寺田として103石という数字はなかなかたいそうな献上であり、江戸時代に表高62万石だった仙台藩が、中堅クラスの領内寺院に与えた寺領が例えば輪王寺147石、陽徳院130石、光明寺127石、資福寺84石である。宗康のような中小クラスの武将が寺院に寄進する石高としては、かなり大きな割合であることが想像できる。
天王寺は今も飯坂に残っており、宗康を中興の祖と位置付けている。また、彼の墓もこの天王寺にある。
■ 宗康の生い立ち
宗康の生まれた正確な年代はわかっていないが、父・飯坂宗定と母(桑折宗保の娘)の間に幼名・小太郎として生まれた。
伊達家への奉公は晴宗の時代からということなので晴宗の治世(1548~1564)には現役世代だったはずだ。諱・宗康の「宗」の字も晴宗からの偏諱(一字拝領)であろう。
この時代の飯坂宗康の活躍を示す資料は残っていないが、前回の記事でも触れた彼の婚姻関係から推測するに、晴宗政権の主要人物のひとりであった桑折景長の一党として活動していたと思われる。
こういった桑折氏の婚姻政策や、分家・下飯坂氏の活躍は、後に宗康が娘を伊達政宗の側室として送り込み、一族の立場浮揚のきっかけとした発想につながったのではないか。
■ 宗康と天王寺の再興
宗康の活躍としてまず目にとまるのが、飯坂氏の菩提寺でもある天王寺の再興である。天王寺は、寺伝によれば聖徳太子の時代までさかのぼる古い由緒のある寺だが、この時代はすでに荒廃していた。
宗康は天正3年(1575)、住職の春翁正堂和尚とともに天王寺の中興をはかり、寺を臨済宗に改め、また寺田として103石を献上している。
寺田として103石という数字はなかなかたいそうな献上であり、江戸時代に表高62万石だった仙台藩が、中堅クラスの領内寺院に与えた寺領が例えば輪王寺147石、陽徳院130石、光明寺127石、資福寺84石である。宗康のような中小クラスの武将が寺院に寄進する石高としては、かなり大きな割合であることが想像できる。
天王寺は今も飯坂に残っており、宗康を中興の祖と位置付けている。また、彼の墓もこの天王寺にある。
■ 天正4年 対相馬戦
戦国武将としての宗康の名が初めて記録に見えるようになるのが天正4年(1576)の対相馬戦である。この戦は伊具郡の奪還を目指して伊達輝宗が福島~宮城県南部にかけての侍たちを動員しておこしたかなり大規模なもので、飯坂宗康の名が13番備筆頭として記載されている。この時共に13番備を形成しているメンツをみてみると
十三番 飯坂右近大輔(伊達郡飯坂城主、飯坂宗康)
十三番 瀬上三郎 (信夫郡大笹生城主、瀬上景康)
十三番 大波平次郎 (大波長成カ)
十三番 須田佐馬之助
十三番 同 太郎右衛門
十三番 同 新左衛門
となっている。須田一族に関してはわからないのだが、瀬上氏、大波氏ともに現在の福島市、信夫郡を拠点とする勢力で、特に瀬上景康と飯坂宗康はこの後も行動を共にすることが多かった。
一つの備を構成するのに約800名、1万石クラスの経済基盤が必要だったとされている。13番備を飯坂家、瀬上家、大波家、須田家の4族で構成しているのであれば、単純に4で割って飯坂氏の動員兵力は200名、2500石くらいの所領だった計算になる。
| 対相馬戦争の焦点のひとつ・小斎城と伊具盆地。 この年の戦いでは決着がつかず、その後も戦いは続いた。 |
また、出陣した武将として約50名程列挙されている中で、末尾の起請文には13名の署名がある。その中にも「飯坂」の名がみえることから、この時期すでに、ある程度軍議において発言権を持ったポジションにいたのかもしれない。
これは興味深いところで、筆者は今まで宗康の娘・飯坂御前が政宗の側室に → 飯坂家の立場向上、という順序だと思っていたのだが、飯坂御前の側室入りはこの天正4年よりも後のできごとであるため、それよりも前からある程度飯坂家の地位は向上していたのかもしれない。
これは興味深いところで、筆者は今まで宗康の娘・飯坂御前が政宗の側室に → 飯坂家の立場向上、という順序だと思っていたのだが、飯坂御前の側室入りはこの天正4年よりも後のできごとであるため、それよりも前からある程度飯坂家の地位は向上していたのかもしれない。
■ 娘・飯坂御前を伊達政宗の側室に
宗康には男子がおらず、二人の娘がいた。長女は親戚である桑折政長の妻となっている。一方妹の飯坂御前だが、彼女は伊達政宗の側室となったことで有名だ。その詳しいいきさつはこちら(戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-)にまとめたが、簡単に触れると以下の通り。
飯坂宗康には二人の娘がおり、妹は黒川式部の許嫁となっていた。黒川式部は、伊達の傘下でもあり黒川郡を治める黒川氏の一族で、黒川晴氏の叔父にあたる人物だ。式部の父である黒川景氏は飯坂氏の出身でもあるため、黒川氏と飯坂氏にはもともとつながりがある。
宗康には男子がなかったことから、娘の許嫁である式部が飯坂の名代として活動し、事実上の後継者扱いとなっていたらしい。しかし、娘が美女として評判だったにも関わらず式部との年の差が大きいかったこと、次第に式部を疎ましく感じるようになってきたことから、式部と娘を離縁させ、娘を伊達政宗の側室として差し出すことを選んだ。
政宗も美女と名高い宗康の娘を気に入り寵愛したが、一方で婚約を破棄されて男としての面子をボロボロにされた黒川式部は失意のうちに越後へと去っていったという。
経緯はともかく、こうして飯坂宗康は、側室とはいえ伊達家当主である政宗の岳父の立場を手に入れた。また、将来飯坂御前と政宗の間に子が生まれれば、その子を飯坂家の跡取りとする約束であったため、飯坂家の立場は安泰である。
この飯坂御前の側室入りと、正室である田村家の愛姫と伊達家の婚姻は、どちらも後継男子がいなかった家が、将来生まれるであろう政宗の子を跡取りとする、という約束のもとで行われた点で共通しているのが面白い。
| 天真爛漫な飯坂の局(ドラマでは「猫御前」として登場)と、 うしろにぼんやり写っているのが飯坂宗康(NHK大河『独眼竜政宗』より) |
経緯はともかく、こうして飯坂宗康は、側室とはいえ伊達家当主である政宗の岳父の立場を手に入れた。また、将来飯坂御前と政宗の間に子が生まれれば、その子を飯坂家の跡取りとする約束であったため、飯坂家の立場は安泰である。
この飯坂御前の側室入りと、正室である田村家の愛姫と伊達家の婚姻は、どちらも後継男子がいなかった家が、将来生まれるであろう政宗の子を跡取りとする、という約束のもとで行われた点で共通しているのが面白い。
■ 郡山合戦
次に宗康の名が記録に登場するのが、天正16年(1588年)の郡山合戦である。おそらく、それ以前の大内領塩松攻略戦や人取橋の戦いにも参戦してたのではないかと思われるが、記録は確認できない。
郡山合戦は、伊達にとっての正念場であった。同じ年の初頭、北方における大崎合戦に事実上敗北し、大崎氏と同盟を組む最上氏とも先端が開く中、南方でも佐竹・蘆名連合軍が伊達領への侵攻を開始したまさに四面楚歌の状況である。
伊達側は少ない兵力で必死の防衛戦を展開するが、その際に飯坂宗康も戦いに参加し、窪田城の防衛を任されている。『貞山公治家記録』には大嶺信祐とともに窪田の防衛に派遣されたことしか書かれていないが、『飯坂盛衰記』には戦闘の様子が詳細に記載されているので引用してみる。
次に宗康の名が記録に登場するのが、天正16年(1588年)の郡山合戦である。おそらく、それ以前の大内領塩松攻略戦や人取橋の戦いにも参戦してたのではないかと思われるが、記録は確認できない。
郡山合戦は、伊達にとっての正念場であった。同じ年の初頭、北方における大崎合戦に事実上敗北し、大崎氏と同盟を組む最上氏とも先端が開く中、南方でも佐竹・蘆名連合軍が伊達領への侵攻を開始したまさに四面楚歌の状況である。
| 郡山合戦(1588)。郡山城を囲む蘆名・佐竹勢と、その救援をすべく 山王山・窪田城・福原城の近辺に後詰する伊達勢。ほぼ現在の郡山市街地が戦場。 宗康が参戦した窪田城の正確な位置は不明だが、おそらく地図上の位置と推定。 |
伊達側は少ない兵力で必死の防衛戦を展開するが、その際に飯坂宗康も戦いに参加し、窪田城の防衛を任されている。『貞山公治家記録』には大嶺信祐とともに窪田の防衛に派遣されたことしか書かれていないが、『飯坂盛衰記』には戦闘の様子が詳細に記載されているので引用してみる。
宗康鐵石の如く堅固に守りければ。寄手の大勢 如何とも成がたく。遂に軍を班しけり、宗康は城の上より見渡し。すはや敵の足並亂しぞ。切て出よと下知すれば。早雄の若者共一度にどつと切て出て。追討に切ければ。敵大勢とは申せども。返し合する者もなく散々に亂れ立ち。右往左往に走り行く。小勢を以大敵を欺く事。比類なき事なりとて。政宗公御感心淺からず。
曰く、鉄壁の守りに敵の足並みが乱れたところに追い打ちをかけ、うまく窪田城を防衛しきった様だ。この働きもあってか、伊達側は郡山地域の防衛に成功し、ほぼ同時期に北方の最上・大崎との講和も成立、窮地を脱することになる。
またこの年の10月19日、使者をもって政宗に肴を献上したことが『貞山公治家記録』に記録されている。
またこの年の10月19日、使者をもって政宗に肴を献上したことが『貞山公治家記録』に記録されている。
■ 対岩城 田村領防衛戦
続いて宗康の戦闘行動が記録されているのが、翌天正17年(1589)4月である。これまで伊達氏と岩城氏は比較的良好な関係で、前年の郡山合戦も岩城氏の仲介によって蘆名・佐竹連合との講和が成立している。
しかし、当時ほぼ伊達の保護国と化している三春・田村氏内部の反伊達派が岩城氏の保護を受けたことや、岩城家中にも反伊達急先鋒・佐竹氏の影響力が強かったことから関係が悪化し、岩城氏が田村領へ侵攻する事件が起こる。
このとき、岩城軍によって田村方の鹿股城が落城するなどの被害が発生するが、その後の田村への援軍として飯坂宗康らが派遣されている。
実はこのとき、伊達家当主の政宗は落馬により足を骨折し、自ら出陣ができない状態であった。そんな政宗を気遣ってか、4月28日には政宗の元へ飯坂温泉の湯が届けられ、湯治を行っている様子が記録に残っている。おそらく、飯坂領主・宗康か、娘で政宗側室の飯坂御前の手配によるものだろう。
5月18日には、引き続き田村領に、今度は対相馬への備えとして宗康が派遣されている記録が残る。宗康の、武将としての戦闘に関する記録はこれが最後となる。
■ 死去
『飯坂盛衰記』によればこの年(1589)の9月2日に飯坂宗康は死去している。彼にとって心残りは、飯坂氏としての跡取りがまだ生まれていないことであった。
彼には男子がいなかったし、当初養子に迎えるはずだった黒川式部は既に離縁してしまっている。政宗の側室となった飯坂御前に子が生まれれば、その子を跡取りとする約束であったが、二人の間に子は生まれていない。
彼を見舞いに政宗の使者が訪れるが、宗康が政宗に遺言としての残したのは
続いて宗康の戦闘行動が記録されているのが、翌天正17年(1589)4月である。これまで伊達氏と岩城氏は比較的良好な関係で、前年の郡山合戦も岩城氏の仲介によって蘆名・佐竹連合との講和が成立している。
しかし、当時ほぼ伊達の保護国と化している三春・田村氏内部の反伊達派が岩城氏の保護を受けたことや、岩城家中にも反伊達急先鋒・佐竹氏の影響力が強かったことから関係が悪化し、岩城氏が田村領へ侵攻する事件が起こる。
![]() |
| 1588~1589年の仙道方面情勢。基本的には伊達 VS 佐竹だが、1589年には岩城氏も反伊達勢力に加勢する。 |
このとき、岩城軍によって田村方の鹿股城が落城するなどの被害が発生するが、その後の田村への援軍として飯坂宗康らが派遣されている。
実はこのとき、伊達家当主の政宗は落馬により足を骨折し、自ら出陣ができない状態であった。そんな政宗を気遣ってか、4月28日には政宗の元へ飯坂温泉の湯が届けられ、湯治を行っている様子が記録に残っている。おそらく、飯坂領主・宗康か、娘で政宗側室の飯坂御前の手配によるものだろう。
5月18日には、引き続き田村領に、今度は対相馬への備えとして宗康が派遣されている記録が残る。宗康の、武将としての戦闘に関する記録はこれが最後となる。
■ 死去
『飯坂盛衰記』によればこの年(1589)の9月2日に飯坂宗康は死去している。彼にとって心残りは、飯坂氏としての跡取りがまだ生まれていないことであった。
彼には男子がいなかったし、当初養子に迎えるはずだった黒川式部は既に離縁してしまっている。政宗の側室となった飯坂御前に子が生まれれば、その子を跡取りとする約束であったが、二人の間に子は生まれていない。
彼を見舞いに政宗の使者が訪れるが、宗康が政宗に遺言としての残したのは
- 領地はすべて政宗に差し出す
- 将来、飯坂の局と政宗の間に子が生まれたら、その子に飯坂の名跡を継がせてほしい
さて、ここからしばらく飯坂氏は当主不在の状況となる。男子が途絶えた以上、一時家は断絶したともいえる。この約15年後に飯坂の名跡は復活するのだが、次回はそれまでの間、飯坂の血筋を継いだ政宗の側室・飯坂御前の人生について触れたいと思う。
■ 悲運の一族・飯坂氏シリーズ一覧
①飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家-
②こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学-
③飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【資料集付】
④鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる-
⑤分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族-
・┗【資料集】中世の飯坂氏
⑥飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク-
⑦飯坂宗康と戦国時代 -男子なき父親の苦悩- ← 今ココ
・┗【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
・┗戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
・┗飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
・┗【資料集】飯坂宗清
・┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
・┗【資料集】近世の飯坂氏
⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表

2018年1月27日土曜日
仙台領の城館調査に使える新旧文献ガイド -江戸時代の史料から現代の書籍まで-
城がアツい。一般に歴史に興味がない人でも、国内観光の目玉といえばやはり旧城下町の「城」を目指すことが多い。
近年では天守閣や石垣がなくても、土塁や曲輪などの遺構だけでも楽しめる、いわゆる「土の城」愛好家も増えている様で、筆者の様な歴史趣味者のTwitterには、日々全国の城の写真がタイムラインを埋め尽くしている。
城について調べるならば、やはり現地を訪れてみるのが一番だろう。だが、やはり文献資料を用いての予習・復習も欠かせない。というわけで、旧仙台藩領域に存在する城について調べるための文献ガイドを作ってみた。
以下、古いものから並べていくので、現代語で書かれた資料を参考にしたい方は下にスクロールしていただきたい。また、仙台城についてはここに挙げた以外にも多くの史料・書籍が残されているため、記事の対象外とする。
■ 『仙台領古城書上』
旧仙台領の城を網羅した文献としては一番古く、仙台藩として、領内の旧城をリストアップして延宝年間(1673~1681年)に幕府に提出したもの。536もの城が挙げられており、当時としてもかなりの城が廃城となっていたことがわかる。
現在は『仙台叢書』の第4巻、または『宮城県史』の第32巻に収録されているものがアクセスしやすい。多くの写本が残されており、概ね内容は一致しているが、タイトルは「仙台古城記」「仙台領古城書立之覚」「仙台封内古城記」などばらつきがある。
なお、仙台藩の北・南部領にはもっと古い「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上」なる史料が残っており、奥州仕置後に破却された城館のリストとなっている。内容についてはこちらに詳しい。
■ 仙台藩公式地誌シリーズ
仙台藩の学者が編集にかかわった、藩の公式記録としての性格が強い地誌郡。すなわち『奥羽観蹟聞老志』『封内名跡志』『封内風土記』『風土記御用書出』であり、いずれも江戸時代中期の成立。
詳細はこちらを参照 ⇒ 仙台藩の官選地誌まとめ -今読んでも面白い江戸時代の地理書4選-
情報量としては、最も後期の『風土記御用書出』(安永9年、1780成立)が一番充実しているが、地域によっては散逸していまった部分もあるのが難点(『風土記御用書出』以外の3つは全地域完備)。一方、記述が城にとどまらず、村の様子や寺社仏閣についても詳しい記述があるため、地域ガイド本としても機能するので汎用性は高い。
仙台藩にはこういった官選地誌だけでなく、民間の手による地誌も多いが、こちらについては筆者もまだあまり触れたことがないので、そのうちまとめたいと思う。また、仙台藩の南、福島県に相当する地域では『新編会津風土記』『信達一統志』といった地誌、『積達古館弁』などの書が江戸時代に成立しており、参考になる。
■ 当時の絵図
仙台藩の要害クラスの城だと、当時の絵図や城下町の町割り図が残っていることが多い。要害は実質的には城の扱いであり、改修の際は幕府への届け出と許可が必要だった事情も関係しているのだろう。
下記の各自治体史に掲載されていたり、各地の郷土資料館や現地の案内板で掲示されていることが多いが、仙台城以外にこれら近世の絵図についてまとめられた書籍を筆者は知らない。絵図自体は宮城県図書館が所蔵しているケースが多いようだが、これらの資料について体系的に参照する方法については改めてまとめてみたい。
また、城館からは話がそれるが、明治時代に作成された村の絵図については宮城県公文書館がデータをCD-Rに書き出すサービスを行っている。
【追記】「そういう本みたことある」との証言のもと、探してみたら要害絵図がまとまった書籍があったことが判明。
『復刻 仙台領国絵図』
渡辺信夫 監修、株式会社ユーメディア、2000年
である。ただし非売品とのことで、古本としての流通があるのかどうかも不明。かろうじて宮城県内のいくつかの図書館には所蔵を確認できた。
本来はタイトルの通り「仙台領国絵図」を拡大して収録したもので、付録として21要害+一関陣屋の絵図も載っている。やはりどれも宮城県図書館所蔵の絵図で、貞享年間(1684-1688)の絵図で統一されている模様。要害絵図はこの時期以外のものもあるが、一覧性(あと閲覧申請がいらない利便性)という意味では、本書が一番便利だろう。非売品かぁ...。
■ 『伊達諸城の研究』
岩手の城郭研究家・沼館愛三による城館記録。ブログ筆者のカウントが正しければ373の城について触れられている。
沼館氏の元陸軍士官という経歴からか、城館の軍事的・地政学的な考察が加えられている点が特徴と言える。ただし、項目によっては位置を誤認しているのではないかと思われる城や、時代を誤認している部分も目立つ。
奥付によると出版は昭和56年(1981)だが、経歴によると著者は昭和25年(1950)に亡くなっており、実際に調査を行ったのは戦後まもなくの時期だったのではないかと思われる。
また、同じ著者のシリーズ本として『会津・仙道・海道地方諸城の研究』『出羽諸城の研究』『南部諸城の研究』『津軽諸城の研究』があり、東北の城を網羅している。
■ 『仙台領内古城・館』
宮城県の郷土史家・紫桃正隆氏による旧仙台藩領の城館ガイド決定版。特筆すべきは何といってもその圧倒的なボリュームである。構成は
惜しむらくは、もともと需要の少ない地方の郷土史本のため、流通量が非常に限られていることである。すでに絶版であり、なかなか出回らない古本の価格は1冊4万円近くまで高騰している。うへー。素直に図書館で利用しましょう!
■『日本城郭大系』
The 城郭研究の定番。全20巻+別巻2巻で、全国の城を網羅している。旧仙台藩領としては「第2巻 青森・岩手・秋田」と「第3巻 山形・宮城・福島」が相当。宮城県でいえば151(ポケモンかっ!)の城が詳細解説付き、925の城が名前、住所、数行の解説で紹介されている。
昭和56年(1981)に刊行されたもので、当時の第一人者たちによる執筆だが、約40年を経た現在となっては若干古い情報が目立つことも。現在は絶版だが、古本は比較的多く流通している模様。巻によっては価格が高騰している場合もあるが、東北の2巻・3巻については3000~5000円程度が相場の様だ。...あれ、Amazon出品の古本、ちょっと値段上がってないかコレ。
■『仙台城と仙台領の城・要害』
日本城郭史研究叢書の第2巻。1982年出版。南奥州歴史研究の大家・小林清治氏の編で、仙台城と白石城、21要害について各論がまとめられた一冊。その性格上、対象の城は要害クラス以上に限られるが、専門の研究者たちによって書かれた内容は非常に信憑性が高い。
どちらかといえば城の構造よりも、歴史や支配者の変遷についての記述が豊富な傾向があり、それらの情報量でいえば今回紹介した本の中で一番充実している。とても参考になるが、やはり絶版であり流通も限られ値段が高騰している模様。
■ 各市町村史
各自治体が発行している書籍。内容とボリュームについては自治体によって差が激しく、中には明治以降の議会史・行政史しか記載がないものも。ただし、古代からの通史が整っているものであれば、中世・近世編あたりに自治体内の城館について触れた章があることが多い。
一般的には昭和時代に刊行されたものが多く、高度経済成長期の開発ラッシュにのまれる前の貴重な姿が写真として掲載されていることも。
考古学的な調査結果もさることながら、城館にまつわる歴史や統治した支族についての情報が充実していることが多く、参考になる。各地の資料館や役所で販売していることが多いが、図書館での利用が現実的か。
余談だが、平成版『仙台市史』は「特別編7 城館」だけで1冊刊行となっており、仙台市域の城館についてはマイナーなものであっても城の構造・歴史共にかなりの情報がまとまっている。100万都市・仙台の威厳を見せつけるかの如き一冊。欲を言えばこのレベルの書籍が各自治体にあればとも思うが、仙台市民のおごりと非難を受けくぁwせdrftgyふじこ。
■ 発掘調査報告書
主に各自治体の教育委員会や大学・博物館などの学術団体が発行している冊子で、発掘調査の成果をまとめたもの。あくまで考古学的観点からの報告書なので、城館にまつわる歴史についての記述は薄い傾向にあるが、遺構や発掘物についての情報量とその精度、図の緻密さは圧倒的である。
各自治体の図書館で利用するか、こちらのサイト(全国遺跡報告総覧)に登録されているものであればPDFで読むこともできる。
余談だが、筆者は学生時代にこういった発掘調査書用の製図を行う会社のバイト面接を受けたことがある。Adobe Illustrator を使えない筆者が採用されなかったのは言うまでもない。
■『東北の名城を歩く』
2017年に出版されたばかりの新刊で、本屋に平積みされているのを目撃された方も多いと思う。旧仙台領領に限らず、東北で有名だったり特筆すべき城についてはほぼ網羅されており、入門編としても最適。かつ、研究の最前線にいる方々による最新の研究結果が反映された内容なので、信憑性も高い。
旧仙台藩領は宮城県(と福島)と岩手県にまたがっているため、南東北編・北東北編 両方が必要になるが、他県のことも勉強になるので得した気分になれる。この商売上手め!
このシリーズ、地域ごとじゃなくて県ごとに細分化して出してくれないかなぁ...。
■ 城跡の位置について
さて、こういった書籍・資料を携えて実際に城を訪れる際なのだが、有名どころはともかくマイナーな城である場合に大変なのは、その位置の特定だろう。古い書籍になると、掲載されている地図があまり役に立たなかったり、昭和・平成の大合併を経た今となっては、現在は使われていない住所が掲載されていたりすることが多い。
正確な位置については、このネット時代の現代、城郭訪問サイトがたくさんあるので、それらを参考にされた方が早いと思う。サイトによっては駐車場の情報やカラー写真をたくさん掲載したものも多く、筆者も参考にさせていただいている。
また、仙台領については朗報がある。
知人の@ken©さんが『仙台領内古城・館』に掲載されている城館については、Google Mapにその位置を落とし込み、Googleに申請する作業をされているのである! 4巻から進められているとのことなので、現在申請が通った城については宮城県南部に集中しているが、旧仙台藩領の古城がすべてGoogle Mapの検索にひっかかる様になる日も遠くはない。
上記の通り、マイナーな城跡の位置特定はなかなか骨の折れる作業ではある。ken©さんの地道な作業に感謝である。

近年では天守閣や石垣がなくても、土塁や曲輪などの遺構だけでも楽しめる、いわゆる「土の城」愛好家も増えている様で、筆者の様な歴史趣味者のTwitterには、日々全国の城の写真がタイムラインを埋め尽くしている。
城について調べるならば、やはり現地を訪れてみるのが一番だろう。だが、やはり文献資料を用いての予習・復習も欠かせない。というわけで、旧仙台藩領域に存在する城について調べるための文献ガイドを作ってみた。
以下、古いものから並べていくので、現代語で書かれた資料を参考にしたい方は下にスクロールしていただきたい。また、仙台城についてはここに挙げた以外にも多くの史料・書籍が残されているため、記事の対象外とする。
■ 『仙台領古城書上』
旧仙台領の城を網羅した文献としては一番古く、仙台藩として、領内の旧城をリストアップして延宝年間(1673~1681年)に幕府に提出したもの。536もの城が挙げられており、当時としてもかなりの城が廃城となっていたことがわかる。
※いや、一国一城令下の江戸時代、仙台城以外は廃城で当たり前でしょ、と思った方には、こちらをお読みいただきたい ⇒ 仙台藩の城・要害・所・在所 -伊達四十八舘-。仙台藩には一国一城令の例外要素がそれなりにあったのだ。あくまでリストとしての性格が強いため、情報量としては城の規模、種類(平城、平山城、山城の区別)、旧城主などに限られるが、仙台藩として領内の古城について網羅的に触れたものとしては最も古く、基本資料となっている。
現在は『仙台叢書』の第4巻、または『宮城県史』の第32巻に収録されているものがアクセスしやすい。多くの写本が残されており、概ね内容は一致しているが、タイトルは「仙台古城記」「仙台領古城書立之覚」「仙台封内古城記」などばらつきがある。
なお、仙台藩の北・南部領にはもっと古い「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上」なる史料が残っており、奥州仕置後に破却された城館のリストとなっている。内容についてはこちらに詳しい。
■ 仙台藩公式地誌シリーズ
仙台藩の学者が編集にかかわった、藩の公式記録としての性格が強い地誌郡。すなわち『奥羽観蹟聞老志』『封内名跡志』『封内風土記』『風土記御用書出』であり、いずれも江戸時代中期の成立。
詳細はこちらを参照 ⇒ 仙台藩の官選地誌まとめ -今読んでも面白い江戸時代の地理書4選-
情報量としては、最も後期の『風土記御用書出』(安永9年、1780成立)が一番充実しているが、地域によっては散逸していまった部分もあるのが難点(『風土記御用書出』以外の3つは全地域完備)。一方、記述が城にとどまらず、村の様子や寺社仏閣についても詳しい記述があるため、地域ガイド本としても機能するので汎用性は高い。
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| 『風土記御用書出』いまはきちんと翻刻されたものが読める。 |
仙台藩にはこういった官選地誌だけでなく、民間の手による地誌も多いが、こちらについては筆者もまだあまり触れたことがないので、そのうちまとめたいと思う。また、仙台藩の南、福島県に相当する地域では『新編会津風土記』『信達一統志』といった地誌、『積達古館弁』などの書が江戸時代に成立しており、参考になる。
■ 当時の絵図
仙台藩の要害クラスの城だと、当時の絵図や城下町の町割り図が残っていることが多い。要害は実質的には城の扱いであり、改修の際は幕府への届け出と許可が必要だった事情も関係しているのだろう。
| 金ヶ崎要害の案内板。江戸時代の絵図も掲載。 |
また、城館からは話がそれるが、明治時代に作成された村の絵図については宮城県公文書館がデータをCD-Rに書き出すサービスを行っている。
【追記】「そういう本みたことある」との証言のもと、探してみたら要害絵図がまとまった書籍があったことが判明。
『復刻 仙台領国絵図』
渡辺信夫 監修、株式会社ユーメディア、2000年
である。ただし非売品とのことで、古本としての流通があるのかどうかも不明。かろうじて宮城県内のいくつかの図書館には所蔵を確認できた。
本来はタイトルの通り「仙台領国絵図」を拡大して収録したもので、付録として21要害+一関陣屋の絵図も載っている。やはりどれも宮城県図書館所蔵の絵図で、貞享年間(1684-1688)の絵図で統一されている模様。要害絵図はこの時期以外のものもあるが、一覧性(あと閲覧申請がいらない利便性)という意味では、本書が一番便利だろう。非売品かぁ...。
■ 『伊達諸城の研究』
岩手の城郭研究家・沼館愛三による城館記録。ブログ筆者のカウントが正しければ373の城について触れられている。
沼館氏の元陸軍士官という経歴からか、城館の軍事的・地政学的な考察が加えられている点が特徴と言える。ただし、項目によっては位置を誤認しているのではないかと思われる城や、時代を誤認している部分も目立つ。
奥付によると出版は昭和56年(1981)だが、経歴によると著者は昭和25年(1950)に亡くなっており、実際に調査を行ったのは戦後まもなくの時期だったのではないかと思われる。
また、同じ著者のシリーズ本として『会津・仙道・海道地方諸城の研究』『出羽諸城の研究』『南部諸城の研究』『津軽諸城の研究』があり、東北の城を網羅している。
■ 『仙台領内古城・館』
宮城県の郷土史家・紫桃正隆氏による旧仙台藩領の城館ガイド決定版。特筆すべきは何といってもその圧倒的なボリュームである。構成は
- 第1巻 岩手県 南部(旧葛西領北部)407城(1972年)
- 第2巻 宮城県 東北部(旧葛西領南部)397城(1973年)
- 第3巻 宮城県 西部及び中央部 301城(1973年)
- 第4巻 宮城県 南部 246城(1974年)
となっており、藩が幕府に提出した『仙台領古城書上』が完全ではなかったことを示しつつ、その数(536)を優に超える1351か所もの城について記述されている。仙台藩の面目丸つぶれである。これを高校教師である民間の郷土史家がやってしまったのだから、恐ろしい。
位置・構造・歴史について触れつつ、特筆すべきは地元の古老による伝承を積極的に採録している点であろう。文献的な裏付けができない話も多いが、興味深い。
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| 記述の一部。図や写真も満載。 |
筆者は1巻のあとがきにて、本書執筆のモチベーションとして、急激に進む開発で城の元の姿が失われつつあることに危機感を覚えたと述べている。発掘調査を伴っていないこともあり、現代の最新の研究と比べると内容が古く感じることもあるが、1巻が出版された1972年といえば田中角栄内閣の時代である。「列島改造」の波にのまれる前の城館の姿を記録してくれた功績には素直に頭が下がる。
■『日本城郭大系』
The 城郭研究の定番。全20巻+別巻2巻で、全国の城を網羅している。旧仙台藩領としては「第2巻 青森・岩手・秋田」と「第3巻 山形・宮城・福島」が相当。宮城県でいえば151(ポケモンかっ!)の城が詳細解説付き、925の城が名前、住所、数行の解説で紹介されている。
昭和56年(1981)に刊行されたもので、当時の第一人者たちによる執筆だが、約40年を経た現在となっては若干古い情報が目立つことも。現在は絶版だが、古本は比較的多く流通している模様。巻によっては価格が高騰している場合もあるが、東北の2巻・3巻については3000~5000円程度が相場の様だ。...あれ、Amazon出品の古本、ちょっと値段上がってないかコレ。
■『仙台城と仙台領の城・要害』
日本城郭史研究叢書の第2巻。1982年出版。南奥州歴史研究の大家・小林清治氏の編で、仙台城と白石城、21要害について各論がまとめられた一冊。その性格上、対象の城は要害クラス以上に限られるが、専門の研究者たちによって書かれた内容は非常に信憑性が高い。
どちらかといえば城の構造よりも、歴史や支配者の変遷についての記述が豊富な傾向があり、それらの情報量でいえば今回紹介した本の中で一番充実している。とても参考になるが、やはり絶版であり流通も限られ値段が高騰している模様。
■ 各市町村史
各自治体が発行している書籍。内容とボリュームについては自治体によって差が激しく、中には明治以降の議会史・行政史しか記載がないものも。ただし、古代からの通史が整っているものであれば、中世・近世編あたりに自治体内の城館について触れた章があることが多い。
一般的には昭和時代に刊行されたものが多く、高度経済成長期の開発ラッシュにのまれる前の貴重な姿が写真として掲載されていることも。
考古学的な調査結果もさることながら、城館にまつわる歴史や統治した支族についての情報が充実していることが多く、参考になる。各地の資料館や役所で販売していることが多いが、図書館での利用が現実的か。
余談だが、平成版『仙台市史』は「特別編7 城館」だけで1冊刊行となっており、仙台市域の城館についてはマイナーなものであっても城の構造・歴史共にかなりの情報がまとまっている。100万都市・仙台の威厳を見せつけるかの如き一冊。欲を言えばこのレベルの書籍が各自治体にあればとも思うが、仙台市民のおごりと非難を受けくぁwせdrftgyふじこ。
■ 発掘調査報告書
主に各自治体の教育委員会や大学・博物館などの学術団体が発行している冊子で、発掘調査の成果をまとめたもの。あくまで考古学的観点からの報告書なので、城館にまつわる歴史についての記述は薄い傾向にあるが、遺構や発掘物についての情報量とその精度、図の緻密さは圧倒的である。
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| 運が良ければ、資料館などで無料配布していることも |
各自治体の図書館で利用するか、こちらのサイト(全国遺跡報告総覧)に登録されているものであればPDFで読むこともできる。
余談だが、筆者は学生時代にこういった発掘調査書用の製図を行う会社のバイト面接を受けたことがある。Adobe Illustrator を使えない筆者が採用されなかったのは言うまでもない。
■『東北の名城を歩く』
2017年に出版されたばかりの新刊で、本屋に平積みされているのを目撃された方も多いと思う。旧仙台領領に限らず、東北で有名だったり特筆すべき城についてはほぼ網羅されており、入門編としても最適。かつ、研究の最前線にいる方々による最新の研究結果が反映された内容なので、信憑性も高い。
旧仙台藩領は宮城県(と福島)と岩手県にまたがっているため、南東北編・北東北編 両方が必要になるが、他県のことも勉強になるので得した気分になれる。この商売上手め!
このシリーズ、地域ごとじゃなくて県ごとに細分化して出してくれないかなぁ...。
■ 城跡の位置について
さて、こういった書籍・資料を携えて実際に城を訪れる際なのだが、有名どころはともかくマイナーな城である場合に大変なのは、その位置の特定だろう。古い書籍になると、掲載されている地図があまり役に立たなかったり、昭和・平成の大合併を経た今となっては、現在は使われていない住所が掲載されていたりすることが多い。
正確な位置については、このネット時代の現代、城郭訪問サイトがたくさんあるので、それらを参考にされた方が早いと思う。サイトによっては駐車場の情報やカラー写真をたくさん掲載したものも多く、筆者も参考にさせていただいている。
また、仙台領については朗報がある。
知人の@ken©さんが『仙台領内古城・館』に掲載されている城館については、Google Mapにその位置を落とし込み、Googleに申請する作業をされているのである! 4巻から進められているとのことなので、現在申請が通った城については宮城県南部に集中しているが、旧仙台藩領の古城がすべてGoogle Mapの検索にひっかかる様になる日も遠くはない。
上記の通り、マイナーな城跡の位置特定はなかなか骨の折れる作業ではある。ken©さんの地道な作業に感謝である。

2018年1月9日火曜日
飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク-【悲運の一族・飯坂氏シリーズ⑥】
さて、どうにかこうにか息切れせずに(?)更新を続けることができている飯坂氏シリーズ、今回からようやく華の戦国、そして飯坂ピープルたちの細かなプロフィールや事象にも触れられる時代までやってまいりました。うぇーい。
前回、室町時代の後期には飯坂本家よりも、分家・下飯坂氏の方が重用されていたのでは? という記事を書いたのだけれども、今回はそんな飯坂氏の立場浮揚につながった背景について触れたいと思う。ここでいよいよ、戦国時代の当主・飯坂宗康にご登場願おう。
飯坂宗康の閨閥関係、婚姻戦略をみてみると、今後飯坂氏がたどる運命についてストンと腑に落ちる。そして、ここを押さえておかないと、なぜこの人が飯坂家の養子に? という理解が難しい。ということで、飯坂宗康の具体的なプロフィールよりも先に、婚姻関係から見ていこうと思う。
やたら前置きばかりで本題に入らないのはこのシリーズのご愛敬。しばしお付き合いください。
■ 桑折氏との閨閥関係
飯坂宗康の妻は桑折宗茂(播磨、景長)の娘で、桑折点了斎宗長の姉である。宗康には妹がおり、彼女の夫も桑折氏出身の飯田宗親である。さらに宗康は、後に生まれる娘も桑折政長に嫁がせている。
母も妻も桑折氏の出身、妹も娘も桑折氏出身者に嫁ぐ。飯坂氏と桑折氏の間には4重の婚姻関係が存在しているのだが、ややこしくなってきたのでまとめてみると、飯坂宗康からみたときに
・父:飯坂宗定
・岳父:桑折宗茂(景長、貞長)
・母:桑折保宗の娘
・妹婿:飯田宗親(桑折宗茂の子)
・妻:桑折宗茂の娘
・義弟:桑折宗長
・娘婿:桑折政長
となっており、四方八方 桑折一族である! これだけ桑折桑折と言われると冒頭からゲシュタルト崩壊必至なので、まずは下に掲げる系図をゆっくり眺めて落ち着いていただきたい。
さて、注目すべきは宗康にとっての岳父・桑折宗茂である。この人は桑折播磨守、伊勢守、貞長、景長といった名前で呼ばれることもある人物なのだが、天文の乱(一言でいうと伊達稙宗、晴宗による南奥州全土を巻き込んだ壮絶な親子喧嘩)の際から晴宗党の主力として活躍し、戦後は晴宗の奥州探題職 補任にあわせて守護代に任命された実力者である。
さらに嫡男の点了斎 宗長、孫にあたる政長も政宗時代に重用された家柄であり、桑折氏とこれだけ太いパイプをもっていたことは、飯坂宗康にとって伊達家内部におけるおおきなバックボーンとなっていたに違いない。
桑折氏も、飯坂氏と同じく伊達の庶流である。伊達氏3代・義広の庶長子・伊達 左衛門蔵人 親長(4代・政依の庶兄か?)がその家祖であると伝わり、飯坂氏と同じく伊達傍流としての歴史は長い。
桑折氏にとって飯坂氏との婚姻関係は、同じ伊達庶流同氏の結束を固めるうえでメリットがあり、飯坂氏にとって桑折氏との結びつきは、伊達家内部における立場浮揚のおおきな助けとなる、Win-Winの関係だったはずだ。
■ 桑折党としての飯坂氏
さて、飯坂氏との関係以外にも、桑折氏を注進にその家系図を眺めてみると、なかなか派手な婚姻政策を展開していることがわかる。息子や娘を伊達家臣の有力家臣(ほとんどが城主クラス)に送り込んでおり、さながら奥州のハプスブルク・伊達稙宗を彷彿とさせる。というか、南奥州全域に渡った稙宗の婚姻政策をそのままスケールダウンして、伊達家内部で行ったのだろう。
桑折氏の系図を掲げてみる。以下は「海田桑折文書」の「桑折家系図」を元に筆者が作成した桑折氏の系図だ。
桑折氏の系図にはいくつかのバリエーションがあり、これが確実に正しい系図とは言い切れないものの、同一の系図内に伊達家内部における重鎮クラスの家が桑折氏の血縁ネットワークに包摂されていることがわかる。
伊達稙宗の子を養子に
残念ながら事故死して家督を継ぐには至らなかったが、奥州の覇王・伊達稙宗の子を養子にもらい受けている。稙宗には20人以上の子女がいたが、その多くが東北の中小大名に養子や姫として嫁いでおり、家臣に養子入りは珍しいパターン。
石母田家
桑折景長と同様、伊達稙宗の有力家臣にして後に晴宗にも仕えた石母田光頼、その子で政宗時代に奉行職も務めた石母田宗頼など。江戸時代の家格は一家第10席。
原田家
同じく譜代の重臣・原田宗政や伊達政宗がその死を嘆いた原田宗時など。甲斐宗輔の時代に寛文事件で断絶するが、間違いなく重臣クラス。
飯坂家
飯坂氏出身の姫が政宗の側室になったことで、間接的に仙台藩初代藩主とも縁戚関係に。また、宇和島藩主・秀宗が飯坂御前の子と誤認されたことも宇和島時代の桑折氏には有利な要素となった可能性がある。
白石家
白石宗実で有名。宗実は伊達の傍流である梁川氏の宗直を養子としたことから、以後この家系は登米伊達氏を名乗り、江戸時代には一門第5席の重臣となる。
奥山家
政宗に奉行として取り立てられた奥山兼清、常良兄弟が有名。以後も奉行職を数名輩出。家格は着座第3席・第4席(奥山家は2系統ある)。
大町家
系図の大町三河は頼隆のことか。一族第2席、新地(蓑首)要害、藤沢所、金ヶ崎要害などの要所の領主を歴任。
中野家
晴宗党の主要人物にして一時期は伊達家当主を凌ぐ権勢を誇った中野宗時の家系。クーデタ失敗で失脚するも、それまでは無視できない婚姻関係だったはずである。
このラインナップがどれだけ錚々たる顔ぶれになるかは、伊達クラスタ諸氏にはお分かりいただけるかと思う。よくわからない方はとりあえず華麗なる一族であることだけご理解いただけるとありがたい。
飯坂氏は、そんな桑折氏の婚姻政策に組み込まれたといえる。のちに飯坂宗康は2人目の娘を伊達政宗の側室に差し出すことになるのだが、そのアイディアの根源は、この桑折氏の婚姻政策にあったのではないか。
■ 桑折系飯坂氏
このページはもともと飯坂宗康ついて書くつもりだったのが、このまま勢いで「飯坂氏と桑折氏」というテーマに方向転換したまま、宗康死後の飯坂氏と桑折氏の関係について書ききってしまおうと思う。
というのも、飯坂宗康以後、飯坂家嫡流の血は一度絶えるのだが、飯坂家そのものは血縁関係にある桑折氏の子息を養子に迎えることでしばらく存続するのである。
飯坂宗康には男子がおらず、娘である飯坂御前と伊達政宗の間に男子が生まれたらその子を飯坂家の跡取りとする約束だった。しかし、二人の間には子ができなかったため、別の側室(新造の方)と政宗の間に生まれた子(権八郎)を養子とし、飯坂宗清として飯坂家を継がせた。
しかし、宗清にも男子は生まれず、飯坂家は一度断絶する。そこで目をつけられたのが縁戚関係にある桑折氏で、飯坂御前の姉が桑折政長に嫁いだことから、その孫である宗長が飯坂氏を継いだ。
宗長にも男子が生まれなかったことで、仙台藩2代藩主・伊達忠宗の子を養子に迎え、飯坂宗章として飯坂家を継ぐが、さらにこの宗章にも子がなかったため、宗長の妻の甥にあたる輔俊を跡取りとして迎えた。
しかし、この輔俊の父が寛文事件(伊達騒動)で有名な原田甲斐宗輔であったことから彼の罪に連座して切腹。ここに飯坂家は途絶えた。
...というように、駆け足で宗康以後の飯坂氏当主について追ってみた。宗康以後、どの当主も男子に恵まれず、飯坂家は養子で家を存続させていったために前後の当主同士に親子関係はないのだが、系図をひも解いてみると、実は桑折氏という地下水脈でつながっているのである。
■ 悲運の一族・飯坂氏シリーズ一覧
①飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家-
②こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学-
③飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【資料集付】
④鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる-
⑤分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族-
・┗【資料集】中世の飯坂氏
⑥飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク- ← 今ココ
⑦飯坂宗康と戦国時代 -その功罪-
・┗【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
・┗戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
・┗飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
・┗【資料集】飯坂宗清
・┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
・┗【資料集】近世の飯坂氏
⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表

前回、室町時代の後期には飯坂本家よりも、分家・下飯坂氏の方が重用されていたのでは? という記事を書いたのだけれども、今回はそんな飯坂氏の立場浮揚につながった背景について触れたいと思う。ここでいよいよ、戦国時代の当主・飯坂宗康にご登場願おう。
飯坂宗康の閨閥関係、婚姻戦略をみてみると、今後飯坂氏がたどる運命についてストンと腑に落ちる。そして、ここを押さえておかないと、なぜこの人が飯坂家の養子に? という理解が難しい。ということで、飯坂宗康の具体的なプロフィールよりも先に、婚姻関係から見ていこうと思う。
やたら前置きばかりで本題に入らないのはこのシリーズのご愛敬。しばしお付き合いください。
■ 桑折氏との閨閥関係
飯坂宗康の妻は桑折宗茂(播磨、景長)の娘で、桑折点了斎宗長の姉である。宗康には妹がおり、彼女の夫も桑折氏出身の飯田宗親である。さらに宗康は、後に生まれる娘も桑折政長に嫁がせている。
母も妻も桑折氏の出身、妹も娘も桑折氏出身者に嫁ぐ。飯坂氏と桑折氏の間には4重の婚姻関係が存在しているのだが、ややこしくなってきたのでまとめてみると、飯坂宗康からみたときに
・父:飯坂宗定
・岳父:桑折宗茂(景長、貞長)
・母:桑折保宗の娘
・妹婿:飯田宗親(桑折宗茂の子)
・妻:桑折宗茂の娘
・義弟:桑折宗長
・娘婿:桑折政長
となっており、四方八方 桑折一族である! これだけ桑折桑折と言われると冒頭からゲシュタルト崩壊必至なので、まずは下に掲げる系図をゆっくり眺めて落ち着いていただきたい。
さて、注目すべきは宗康にとっての岳父・桑折宗茂である。この人は桑折播磨守、伊勢守、貞長、景長といった名前で呼ばれることもある人物なのだが、天文の乱(一言でいうと伊達稙宗、晴宗による南奥州全土を巻き込んだ壮絶な親子喧嘩)の際から晴宗党の主力として活躍し、戦後は晴宗の奥州探題職 補任にあわせて守護代に任命された実力者である。
さらに嫡男の点了斎 宗長、孫にあたる政長も政宗時代に重用された家柄であり、桑折氏とこれだけ太いパイプをもっていたことは、飯坂宗康にとって伊達家内部におけるおおきなバックボーンとなっていたに違いない。
桑折氏も、飯坂氏と同じく伊達の庶流である。伊達氏3代・義広の庶長子・伊達 左衛門蔵人 親長(4代・政依の庶兄か?)がその家祖であると伝わり、飯坂氏と同じく伊達傍流としての歴史は長い。
桑折氏にとって飯坂氏との婚姻関係は、同じ伊達庶流同氏の結束を固めるうえでメリットがあり、飯坂氏にとって桑折氏との結びつきは、伊達家内部における立場浮揚のおおきな助けとなる、Win-Winの関係だったはずだ。
■ 桑折党としての飯坂氏
さて、飯坂氏との関係以外にも、桑折氏を注進にその家系図を眺めてみると、なかなか派手な婚姻政策を展開していることがわかる。息子や娘を伊達家臣の有力家臣(ほとんどが城主クラス)に送り込んでおり、さながら奥州のハプスブルク・伊達稙宗を彷彿とさせる。というか、南奥州全域に渡った稙宗の婚姻政策をそのままスケールダウンして、伊達家内部で行ったのだろう。
桑折氏の系図を掲げてみる。以下は「海田桑折文書」の「桑折家系図」を元に筆者が作成した桑折氏の系図だ。
| クリックで拡大 |
桑折氏の系図にはいくつかのバリエーションがあり、これが確実に正しい系図とは言い切れないものの、同一の系図内に伊達家内部における重鎮クラスの家が桑折氏の血縁ネットワークに包摂されていることがわかる。
伊達稙宗の子を養子に
残念ながら事故死して家督を継ぐには至らなかったが、奥州の覇王・伊達稙宗の子を養子にもらい受けている。稙宗には20人以上の子女がいたが、その多くが東北の中小大名に養子や姫として嫁いでおり、家臣に養子入りは珍しいパターン。
石母田家
桑折景長と同様、伊達稙宗の有力家臣にして後に晴宗にも仕えた石母田光頼、その子で政宗時代に奉行職も務めた石母田宗頼など。江戸時代の家格は一家第10席。
原田家
同じく譜代の重臣・原田宗政や伊達政宗がその死を嘆いた原田宗時など。甲斐宗輔の時代に寛文事件で断絶するが、間違いなく重臣クラス。
飯坂家
飯坂氏出身の姫が政宗の側室になったことで、間接的に仙台藩初代藩主とも縁戚関係に。また、宇和島藩主・秀宗が飯坂御前の子と誤認されたことも宇和島時代の桑折氏には有利な要素となった可能性がある。
白石家
白石宗実で有名。宗実は伊達の傍流である梁川氏の宗直を養子としたことから、以後この家系は登米伊達氏を名乗り、江戸時代には一門第5席の重臣となる。
奥山家
政宗に奉行として取り立てられた奥山兼清、常良兄弟が有名。以後も奉行職を数名輩出。家格は着座第3席・第4席(奥山家は2系統ある)。
大町家
系図の大町三河は頼隆のことか。一族第2席、新地(蓑首)要害、藤沢所、金ヶ崎要害などの要所の領主を歴任。
中野家
晴宗党の主要人物にして一時期は伊達家当主を凌ぐ権勢を誇った中野宗時の家系。クーデタ失敗で失脚するも、それまでは無視できない婚姻関係だったはずである。
このラインナップがどれだけ錚々たる顔ぶれになるかは、伊達クラスタ諸氏にはお分かりいただけるかと思う。よくわからない方はとりあえず華麗なる一族であることだけご理解いただけるとありがたい。
飯坂氏は、そんな桑折氏の婚姻政策に組み込まれたといえる。のちに飯坂宗康は2人目の娘を伊達政宗の側室に差し出すことになるのだが、そのアイディアの根源は、この桑折氏の婚姻政策にあったのではないか。
■ 桑折系飯坂氏
このページはもともと飯坂宗康ついて書くつもりだったのが、このまま勢いで「飯坂氏と桑折氏」というテーマに方向転換したまま、宗康死後の飯坂氏と桑折氏の関係について書ききってしまおうと思う。
というのも、飯坂宗康以後、飯坂家嫡流の血は一度絶えるのだが、飯坂家そのものは血縁関係にある桑折氏の子息を養子に迎えることでしばらく存続するのである。
飯坂宗康には男子がおらず、娘である飯坂御前と伊達政宗の間に男子が生まれたらその子を飯坂家の跡取りとする約束だった。しかし、二人の間には子ができなかったため、別の側室(新造の方)と政宗の間に生まれた子(権八郎)を養子とし、飯坂宗清として飯坂家を継がせた。
しかし、宗清にも男子は生まれず、飯坂家は一度断絶する。そこで目をつけられたのが縁戚関係にある桑折氏で、飯坂御前の姉が桑折政長に嫁いだことから、その孫である宗長が飯坂氏を継いだ。
宗長にも男子が生まれなかったことで、仙台藩2代藩主・伊達忠宗の子を養子に迎え、飯坂宗章として飯坂家を継ぐが、さらにこの宗章にも子がなかったため、宗長の妻の甥にあたる輔俊を跡取りとして迎えた。
しかし、この輔俊の父が寛文事件(伊達騒動)で有名な原田甲斐宗輔であったことから彼の罪に連座して切腹。ここに飯坂家は途絶えた。
| かなりごちゃついている系図で申し訳ないが、黄土色の人物が飯坂家歴代当主。 桑折氏の血脈を媒介に、いちおう血のつながりは確保されていることがわかる。 |
...というように、駆け足で宗康以後の飯坂氏当主について追ってみた。宗康以後、どの当主も男子に恵まれず、飯坂家は養子で家を存続させていったために前後の当主同士に親子関係はないのだが、系図をひも解いてみると、実は桑折氏という地下水脈でつながっているのである。
■ 悲運の一族・飯坂氏シリーズ一覧
①飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家-
②こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学-
③飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【資料集付】
④鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる-
⑤分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族-
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⑥飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク- ← 今ココ
⑦飯坂宗康と戦国時代 -その功罪-
・┗【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
・┗戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
・┗飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
・┗【資料集】飯坂宗清
・┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
・┗【資料集】近世の飯坂氏
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⑫飯坂氏に関する年表

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