去年もそうだったのだが、どうしても冬はモチベーションが下がってしまう。寒さ&路面の凍結で、移動手段が原付の自分としてはどこにも行く気がしなくなってしまうのだ...。どこにも行けないとはいえ、歴史の研究なんて部屋の中でできることはいくらでもあるわけで、そっちも活動が鈍ってしまうのはザ・怠惰が原因。言い訳無用。
そろそろ少しずつ暖かくなりだしてきたので、3月末くらいからまた活動を再開するのではないかと思っていたところ、その3月末にどうやら信長の野望の新作が出てしまう! ...ということで、もう少し冬ごもりが続くかもしれないのだけど...。
さて、「東北の中世史」なる面白いシリーズが吉川弘文館より出ている。「古代史」シリーズ5巻の刊行が終わったのち、「中世史」が4巻目にしてついに戦国時代まで到達したので読んでみたのだけど、これがなかなか、最新の学説を含んだ面白いものだったので、紹介してみようかと思う。
この書評を書こうとしているまさにその日、第5巻にしてシリーズ完結編にあたる『東北近世の胎動』も書店に並んでいるのを見たので、面白かったらそちらも紹介するかも。これ、「中世史」シリーズの次は「東北の近世史」シリーズもでるのだろうか...?
東北の中世史シリーズ第4巻にあたる『伊達氏と戦国騒乱』では、東北の戦国時代について、出羽国に相当する山形・秋田や陸奥国北部、青森・岩手県の戦国時代についても網羅しており、これ1冊で東北の戦国史はだいたいわかるうえに、第一線の研究者たちによる執筆なので読み応えがある。
とはいえ、南奥州以外の研究状況については何が新しい指摘で、なにが従来通りなのかよくわからないので割愛。今回は第1章の「伊達氏、戦国大名へ」の部分で面白いなと思ったところだけを紹介する。ちなみに、この章を執筆しているのは仙台博物館の菅野正道先生。
■ なぜか増えない伊達家の領土
以前から疑問に思っていたのだが、戦国時代における伊達氏の領土は、増えない。いや、もちろん政宗の時代には南奥州(ほぼ)制覇を成し遂げるわけで、領土は大幅に増えているのだが、それ以前の稙宗・晴宗・輝宗の時代には度重なる戦の割に、領土が増えていないのだ。
もっとも、時代により最上氏・大崎氏や、仙道の諸大名を従属下においていたりはするのだが、それも伊達氏の領土として編入するのではなく、あくまで諸大名の当該地域支配を認めたうえで、それを勢力下においているに過ぎない。直接の支配地と従属地域は違う。
特に不自然なのが伊達稙宗で、この人は政宗以前の伊達家当主としては、確実に全盛期を築いた人のはずだ。各地の戦に介入したり、自分の息子・娘を周辺大名に養子に入れ、嫁に出し、縁戚ネットワークを構築し、陸奥国守護の地位まで手に入れたのに、その実績と権威の上昇に、領土の拡張が伴っていないのだ。
このあたり、戦国伊達ファンとしてはとてもはがゆいところで、政宗の先代からもう少し領土の拡張に成功していれば、政宗の躍進がもっと楽だったろうに...との思いを禁じ得ない。信長の野望なんかやってるとそれが露骨にでてくるのだが、政宗以前の伊達氏は、まわりに同盟国やら従属国ばかりで、攻め込めないのがむしろ不自由ですらある。
信長の野望・創造PK 1534年スタートのシナリオ。当主・伊達稙宗。伊達家は周囲に大崎(従属)、最上(従属)、蘆名(同盟)、二階堂(同盟)、田村(同盟)、相馬(同盟)の諸大名を抱えている。これがすべて伊達の領地だったならば... |
本書の中で、この点を菅野先生も指摘されている。
もう一つの稙宗の外征で特徴的なこととして、稙宗が度重なる軍事行動を起こし、相応の勝利を得ながらも、この外征による伊達氏の領土拡大がほとんどなかった点を指摘できる。
伊達稙宗の外征は領土拡大や周辺の領主に従属を強いることを第一義としたものではないことが想定される。外征を契機に、稙宗の攻撃を受けた領主が伊達氏と縁組を行う例がいくつか見られる。
(略)これらの縁組は、伊達氏の勢力拡大を目的とした政略的な縁組であると認識されがちである。しかし、稙宗の外征が勝利を得た場合でも領国拡大につながらなかったことや、稙宗の子女が縁づいた家が後に伊達氏と対立関係に入ることが少なくないことを考えると、この縁組を単純に勢力拡大を目的とした政略的な縁組とする解釈には疑問を感じざるを得ない。
これは、国取り合戦に明け暮れるという、一般的な戦国大名のロジック、イメージからは大きくかけ離れていると言えるだろう。領土拡大や周辺国の従属化に興味がない戦国大名なんていたのだろうか? かといって稙宗は局外中立の平和主義者でもなく、戦そのものは何度も行っているのだ。なのに、領土は増えない。いや、増やさない。
となればどこかに、伊達稙宗が目指していた目標なり、彼なりの行動原理があるわけで、その答えを菅野先生は「陸奥国守護」という彼の公的なポジション・ステータスに求めておられる。
こうした行動を、稙宗の領土拡張を目的としてた外征・外交と評価するのは難しく、彼が補任された陸奥国守護職に由来する公権を発動させ、南奥羽の秩序を保とうとした行為のようにも考えられる。その意味で、稙宗はかつての奥州探題大崎氏の立場を継承し、南奥羽の諸領主よりも一ステージ高い場所に自らを置こうとしたと考えられないだろうか。
稙宗は自分を一般的な戦国大名よりも上の存在として、南奥羽全域の秩序の守護者であると捉えていた。スポーツにたとえるならば、稙宗はいちプレーヤーではなく、レフェリー(審判)になろうとした、と考えればわかりやすいだろうか。
■ 稙宗レフェリー説
伊達稙宗。政宗のひい爺さまにあたる。 |
とはいえ、実情としては審判兼プレーヤー、あるいは審判を目指しているプレーヤーといったところだったろうか。稙宗の鶴の一声ですべての大名がそれに従ったわけでもなく、だからこそ稙宗は外征というイエローカードを連発して、自分こそが審判であるというアピールを常にする必要があったし、婚姻政策により自身の影響力の強化もしなければならなかった。陸奥国守護職よりも一段高い地位とされた、奥州探題のステータスを欲したのもその一環であろう。
この菅野先生の推論を、稙宗レフェリー説、とでも名付けようか。このレフェリー説なのだが、自分にはかなりストンと納得できた。というのも、稙宗の行動原理が一般的な大名よりも一段上にあったのだとしたら、そののちに起きた天文の乱の構造も、スムーズに理解できるのだ。
手元に当該資料が見つからないので正確な引用ができないのが申し訳ないのだが、小林清治先生(だったと思う)が天文の乱の本質的な原因について
陸奥国守護としての南奥羽の秩序を優先する稙宗の論理と、戦国大名として伊達家を優先する晴宗の論理の対立(出典不明、引用不正確)
と指摘されていたのをどこかで読んだ。乱の原因については、時宗丸(伊達実元)の上杉入嗣問題だとか、「塵芥集」制定による家中統制強化への反発だとか、いろいろ指摘はされている。しかし、より深層にある本質的な原因としては、この稙宗のレフェリー志向に対して晴宗、およびそれを支える伊達家臣団からの反発があったのだ。「オヤジ、レフェリー目指すのもいいけど、伊達家がプレーヤーとして弱っちまったら意味ねぇじゃねぇかよ」という。
というわけで、稙宗はその存在感の割になぜ彼の時代に領土が増えなかったのか、という疑問についてはほぼ自分の中で納得できたのだが、その稙宗の目指した野望の結末、つまり天文の乱による野望の瓦解と、続く伊達家の弱体化を知っている後世の伊達ファンとしては、このとき稙宗が素直な領土欲求に従って伊達家を巨大化させていたら...、という思いも禁じ得ない。
歴史にIf は禁物だが、稙宗が純粋な戦国プレーヤーとして領土の拡大に励んでいたなら、おそらくその意思をストレートに理解して継承したであろう晴宗との衝突(天文の乱)も起きなかったであろうし、その分伊達家の領土はかなり増えていたはずである。なれば、政宗の奥州統一戦争も、もっとスムーズにスタートしていた可能性もある。
伊達稙宗は、戦国時代というシステムの中でゼロサムゲームを繰り返すプレーヤーではなく、システムそのものの構築者になろうとした。いわば、南奥州にミニ幕府を打ち立てたかったのだろう。彼の野望は、時代を少しばかり先取りしすぎていたのかもしれない。
その2へ続く。
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