2017年10月30日月曜日

戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-

伊達政宗の側室のひとり、飯坂の局を語るうえでひとつ外せないテーマとしてあるのが、政宗の側室になる前の黒川式部との婚約関係だ。

もともと黒川式部との婚約があったのを、年の差を理由に離縁され、政宗の側室となった、という筋書きはどれも同じなのだが、書物によって微妙にニュアンス、ディテールが異なる。

この話が登場する資料として『飯坂盛衰記』『成実記』『政宗記』『伊達秘鑑』の4つを用いたのだが、そのあたりを読み比べながら細かく検証してみたい(他にも出典となりうる資料を御存知の方がいらしたら、是非ともご一報ください)

史料の原文はどれも【史料集】飯坂宗康の記事に収録したが、必要だと思われる個所は改めて引用する。


検証① 黒川式部とは?

伊達政宗の詳細はさておき、ここでのメインの登場人物となる黒川式部なる人物についてまず触れる。この人の割と素性ははっきりしており、黒川晴氏の叔父であるということが『飯坂盛衰記』を除く3冊と、黒川氏の系図で確認できる。また、「源姓黒川氏大衡家族譜」なる系図では氏定という諱も伝わっている。

黒川晴氏の叔父ということは、黒川氏の当主・稙国の弟、景氏の息子ということになる。黒川式部の父・黒川景氏は「源家足利黒川系図」(『大和町史 上巻』p356)に「実飯坂弾正清宗長子」とあり、飯坂氏から黒川に入嗣した人物である。

『飯坂盛衰記』巻末の「伊達分流飯坂氏系図」と
「源家足利黒川系図」(『大和町史 上巻』)を参考に作成。

この飯坂清宗なる人物は飯坂氏側の当主系図には名前がないので、誰に比定するべきか、あるいは分家の人物なのかは不明だ。しかし、飯坂氏の血を引いていることは確かで、黒川式部と飯坂の局の婚姻は、そもそも同族婚であったことになる。


検証② 黒川式部が伊達に仕えたのは?

どの資料も、黒川式部が輝宗の代から伊達に仕えだしたことは共通している。しかし『飯坂盛衰記』のみが「恨る事有て伊達へ來り」と、もともと黒川の実家には居づらい事情があったことをほのめかしている。

『飯坂盛衰記』は飯坂氏の視点に立った書物なので、邪推するならば、少しでも黒川式部の人間性を貶めることで飯坂宗康の罪を相対化しようとする意図を感じることもできる。


検証③ 縁組を命令したのは?

どの資料も、黒川式部が飯坂の局と婚約することは、式部が飯坂宗康の

  • 名代:『飯坂盛衰記』『成実紀』『政宗記』『伊達秘鑑』
  • 家督:『飯坂盛衰記』

つまり婿養子=後継者となることとセットであったことは一致している。問題は、それが誰の命によっての縁組だったかということだ。

『飯坂盛衰記』にははっきりと「政宗公の仰には」と書かれている。『成実記』『政宗記』には特に記述はなく、『伊達秘鑑』では主語が誰なのか文脈上はっきりしないのだが「命セラル」とは書かれており、上からの命令であったことは示唆されている。命令によるものであるとすれば、当時の当主・輝宗だろう。

飯坂氏は伊達の支族であるし、家臣の婚姻に主君が介入するのは当時としては何の不自然さもない。命令の主体が当時幼年だった政宗の意思だったとしても、当主・輝宗の同意は当然あっただろうし、逆も然りだ。

結論としてはあいまいだが、ある程度は当家どうしの合意が成立したうえで、伊達家当主のお墨付きを得て行われた婚姻だっただろう。

検証④ いつの事件なのか?

この事件当時、各資料にはそれぞれ飯坂の局の年齢を

  • 『飯坂盛衰記』:いまだ十歳に足らず幼年
  • 『成実記』:十計
  • 『政宗記』:ようやく十歳計り
  • 『伊達秘鑑』:十歳ハカリ幼少

としている。10歳未満とする『飯坂盛衰記』と、約10歳であったとする他3冊でニュアンスが異なるが、おおむね一致している。間をとって、事件当時の飯坂の局の年齢は8~12歳の頃だったと仮定してみよう。

検証④-a.飯坂の局の年齢
『飯坂盛衰記』には飯坂の局の没年齢が記されているので、そこから彼女の生年と事件がいつだったのか、ある程度割り出せそうだ。飯坂の局は寛永11年(1634)に66歳で亡くなっているので、逆算すると永禄12年(1569年)の生まれになる。事件当時8~12歳の頃だとするなら、天正4年(1576)~天正8年(1580)のできごとという計算になる。

飯坂の局の没年齢から逆算した事件のタイミング考察

ちなみに当時の式部の年齢だが、彼の生没年が伝わっていないので飯坂の局の様に逆算はできない。だが、ふたりの間にかなりの年の差があったことは事実のようだ。『飯坂盛衰記』は「三十の餘り」、『政宗記』は「三十に及」としており、30代であると記述、『成実記』は「年入候」、『伊達秘鑑』は「壮年」としている。


検証④‐b.「側室」ということは...
離縁のあと、飯坂の局は伊達政宗の側室となった。「側室」とは「正室」に対する言葉なので、飯坂の局が政宗の側室となったのは、すでに正室・愛姫との婚約が終わった天正7年(1579)以降のことだろう。


検証④-c.黒川氏側の記録では...
黒川式部についていろいろ調べてみたら、手掛かりになりそうな情報があった。「源姓黒川氏大衡家族譜」なる系図がそれで、『大和町史 上巻』(pp.357-360)に収められている。大衡氏は黒川の支族で、当時の当主・大衡宗氏は黒川式部の同母弟でもある。

黒川式部について詳しく載っているのでそのまま引用してみよう。

氏定 黒川源四郎式部
弘治元年春 伊達家族 飯坂右近宗信 配長女 為継嗣 居於奥州伊達郡飯坂邑 永禄六年 有故与宗信不和親 同年十月 出飯坂 赴越後州 為上杉家幕下 賜采地
元亀二年八月四日 卒於越州宮川荘 年五十一 母同宗氏

「宗信」とあるが、宗康のことで間違いないだろう。要約してみると
  1. 弘治元年(1555)春、飯坂の局と婚約
  2. 永禄6年(1563)に宗康との関係悪化(=婚約破棄か)
  3. 永禄6年(1563)に越後へ出奔
  4. 元亀二年(1571)に死去
となる。うーん、困った。というのも、飯坂の局の誕生が永禄12年(1569年)なので、1~3はタイムライン的に矛盾してしまうのだ。「わしに娘が生まれたらそなたの嫁にくれてやろう」的な口約束があった可能性もあるが、生まれる前の娘と婚約し、それを反故にされたから他国へ出奔というのはちょっと考えにくい。当の飯坂の局が生まれる前のできごとだとしたら、ここまでの大ごとにはなりようがない。

しかも、この資料を注意深く読んでみると「長女を配す」とあるのだが、飯坂の局は飯坂宗康の次女である。「上杉家の幕下と為る」という他の資料には出てこない情報といい、宗康を宗信と誤表記するなど、どうもこの系図、細かい間違いが多そうだ。

上記の推論と整合性を持たせるならば、永禄6年が天正6年の誤りだとすると、つじつまが合いそうだ。すなわち

天正6年:飯坂の局10歳、式部と離縁

である。10歳に達しているので「十歳に足らず」とする『飯坂盛衰記』と矛盾するが、「然るに宗康兼々の所存に。式部は已に三十の餘り。娘はいまだ十歳に足らず。不都合なる故。此人に世を譲る共久しき契にも有まじ。殊に我身の榮花も久しからし。所詮式部と父子ノ緣を切。」なので、文脈の順序として宗康が二人の婚姻を「不都合」に思ったのが10歳未満のとき、実際の離縁は10歳になってからと考えると無理やりではあるがつじつまがあう。


検証④の結論
以上の考察を総合して、本考察では

  1. 天正5年(1577)より前:飯坂の局と黒川式部との婚約
  2. 天正5年(1577)より前:舅の飯坂宗康、黒川式部をうとましく思う様になる
  3. 天正6年(1578):離縁
  4. 天正6年(1578)以降、黒川式部、越後へ出奔
  5. 天正7年(1579)以降、飯坂の局、政宗の側室となる
という時系列を結論としたい。


検証⑤ 離縁の理由は?

これについてはほとんど一致している。

  • 飯坂の局と黒川式部に年の差がありすぎたこと
  • 宗康が、黒川式部に飯坂の家を継がせることが嫌になったこと
  • どうせ美人な娘なら、政宗に嫁がせようと目論んだこと

である。飯坂氏視点の『飯坂盛衰記』ですらこれを認めているので、信憑性はあるだろう。

『伊達秘鑑』には「(宗康が)輝宗ヘハ作惡ヲ訴ヘテ。名代ノ緣ヲタツ」という一文があり、飯坂宗康が黒川式部との縁を絶つにあたって輝宗に対し「作惡」、つまりあることないことを吹き込んで離縁の口実にしたと書かれている。他の資料には登場しない話であり、脚色の可能性も高いが、ありえない話ではない。


検証⑥ その後の黒川式部は?

これも一致している。実家である黒川には戻らず、越後へ去ったという。

なお、『飯坂盛衰記』意外の3冊は、この事件がのちに黒川晴氏が大崎合戦の際、伊達に背いて大崎方へついた理由の一つであるとしている。そもそも文脈上、この話が出てくるのは大崎合戦の際になぜ黒川晴氏が裏切ったのか? というエピソードとして登場する。

このエピソードはNHK大河『独眼竜政宗』でも登場する。
政宗「黒川月舟(晴氏)の寝返りは猫のせいだぞ。月舟は身内の許嫁を俺に取られて恨んでおるのだ」
猫御前「うれしゅうございます。殿は猫一匹と黒川の所領をお取替えになりました」

黒川晴氏は式部から見て甥にあたる。彼の目から見れば、叔父の婚約者を伊達政宗が略奪したように見えたのだろう。略奪婚は晴宗の代から伊達の伝統といえば伝統である。面子を失った叔父は、あわれ越後の国へ去った。

黒川晴氏はそこまで単純な動機で伊達に背く人物とは思えないが、心のしこりがあったことは確かだろう。

なお、「源姓黒川氏大衡家族譜」のみが越後に去った式部は上杉家に仕えたとしているが、その信憑性についてはここではあまり深入りしないでおく。


結論

以上の検証を総合すると、以下の様になる。

  • 天正5年より前:伊達家当主・輝宗のお墨付きを以って飯坂の局と黒川式部との婚約。黒川式部は飯坂氏の次期当主となる予定であった。
  • 天正5年より前:舅の飯坂宗康、黒川式部をうとましく思う様になる。理由は娘との年の差や、娘を式部よりも政宗の側室とした方が家の繁栄につながると考えたから。
  • 天正6年:実際に離縁
  • 天正6年以降、黒川式部、越後へ出奔
  • 天正7年(1579)以降、飯坂の局、政宗の側室となる
  • 天正16年(1588)、黒川式部の甥・黒川晴氏、大崎合戦にて伊達に背いて大崎方として参戦

最後に、この一連のできごとがそれぞれにとってどういう意味を持ったのか考察してみたい。

まず、黒川式部だが、許嫁との婚約を反故にされ、メンツを失い実家にも帰れず、異国の越後で再スタートを切ることになったのだから、損失しかないうえにダメージは大きい。

飯坂氏にとっては、一見プラスが大きい様に見える。飯坂の局は政宗の側室となり、飯坂宗康も(側室とはいえ)伊達家当主・政宗の岳父の地位を手に入れ、地位は向上している。しかし、政宗と飯坂の局の間に子は生まれず、念願の飯坂氏の跡取りは宗清の入嗣(慶長9年(1604))を待つことになる。

筆者は、この一連のできごとによって一番のダメージを負ったのは、実は伊達政宗ではないかと思う。

『飯坂盛衰記』によれば、政宗は「其容色世に勝れ」た飯坂の局を側室に迎え「御喜悦淺からず」という喜び具合だったという。一時は正室・愛姫との不仲もあったから、側室・飯坂の局の存在が政宗の心の支えになったこともあっただろう。

その見返りとして政宗は、黒川晴氏の恨みを買い、これが約10年後に大崎合戦の大敗に結びついてしまう。前述のとおり、黒川晴氏の離反については彼の婚姻関係など他の要素も見逃せないし、筆者は黒川晴氏が私情だけ伊達への事切れに及ぶような単純な人物であったとも思わない。だが、このできごとがなければ、黒川晴氏は伊達に背くという選択に走らなかったかもしれない。

大崎合戦の敗北がなければ、それに連動した最上との戦や、佐竹・蘆名の侵攻(郡山合戦)も起こらなかっただろう。大崎合戦の敗北を機に、政宗にとっての天正16年(1588)が四面楚歌の苦境となってしまったのは事実で、それがなければ政宗の仙道制覇はもう少し早まっていたかもしれない。

2017年10月24日火曜日

【資料集】飯坂宗康

伊達家の武将・飯坂宗康についての史料・資料の抜き出し。飯坂宗康は伊達の支族にして飯坂城主。娘の飯坂の局は伊達政宗の側室となった人物である。各資料を編年の順で抜き出した。

飯坂氏に触れた資料の代表格『飯坂盛衰記』
『仙台叢書』第6巻より


01.飯坂氏、宗康の出自
01-1.『飯坂盛衰記』
...爲家より四代の孫 伊賀守 政信。初めて伊達を改め飯坂氏と號す。是より代々相續し。十四代の孫 飯坂 右近大夫 宗康に至り。世嗣の子なく息女二人もち給う。一女は桑折摂津守政長に嫁し。次女はいまだ幼年にて家に有。宗康元より伊達の一家なれば。政宗公まで代々伊達へ仕へければ。
爲家:伊達為家。伊達家の初代・伊達朝宗の4男。飯坂家はこの伊達為家を祖とする。
伊達の一家:当時の伊達家家臣団の家格は藩政時代と比べてかなりおおざっぱで、せいぜい一門・一家・一族くらいの序列であったという。飯坂氏の家格が「一家」であったというのは01-3.の『伊達世臣家譜略記』とも一致する。


01-2.『伊達分流飯坂氏系圖』
宗定
同但馬守。或和泉守。或重定 或持康。童名 孫四朗。妻 桑折長門宗保女。伊勢宗季之姉也。 
宗康
童名小太郎。右近大夫 或宗泰。晴宗公ヨリ輝宗・政宗マデ伊達ニ仕ヘ。一家也。天正十七年己丑九月二日卒。法名雲岩起公ト號ス。飯坂天王寺ニ葬。妻ハ桑折播磨守宗茂女。點了斎宗長等姉。慶長十七年壬子四月廿二日歿。法名心月妙圓ト號。飯坂天王寺ニ葬ル。 
女子
飯田紀伊宗親妻。宗康妹也。
宗康の父・宗定から抜き出した。実際には前後にも飯坂家歴代当主・親族の名が並ぶ。縁者として桑折氏の名前が多く出てきて混乱するが、飯坂氏と桑折氏の血縁関係についてはこちらの別記事(作成中)を参照。宗康の妹の夫である飯田宗親も桑折支族である。


01-3.『伊達世臣家譜略記』
飯坂者當家一家之臣也。其先世住于伊達郡飯坂城。以爲稱號。先祖右京宗康。(十六世輝宗君十七世政宗君両世間人)以前家系不傳。故其姓及出自。列一家之由。共不詳也。宗康有女無嗣。其女甞爲十七世政宗君侍妾。號飯坂局。養君第三男河内宗淸。為宗康後。
・家系不傳:「伝わらず」とはあるが、実際には上記01-1.と01-2.によりある程度は伝わっている。藩の修史事業の産物である『伊達世臣家譜略記』には採録がならなかったようだ。


02.天正4年 対相馬の陣
元亀の変(中野宗時の乱)の後に権力を集中させた伊達輝宗がかけた相馬に対する大動員。伊具郡を奪回するための軍事行動である。福島盆地から宮城県南部にかけて阿武隈川流域の武将たちがほぼ動員されている。

02-1.『性山公治家記録』巻之三 天正四年 八月二日の条
〇八月丁酉大二日壬戌。備頭ノ輩ニ命シ、連判誓詞ヲ奉ラシム。今度相馬ト御戰ニ就テ、御陣ヲ伊具郡ヘ移サル。諸陣一致ノタメ此義ニ及フ。 道祐君(晴宗)モ 公ト同ク伊具表へ御出陣ナリ。誓紙左ニ載ス。
(略)
十三番 飯坂 右近大輔(伊達郡飯坂城主、飯坂宗康)
十三番 瀬上 三郎  (信夫郡大笹生城主、瀬上景康)
十三番 大波 平次郎 (大波長成カ)
十三番 須田 左馬之助
十三番 同 太郎右衛門
十三番 同 新左衛門
(略)
相國之人數一戰此旁々任異見申御下知ニ候
元安齋 (亘理元宗) 飯坂  桑折
中嶋伊勢(中島宗忠) 小梁川 小原丹後(小原元繼)
大枝三河(大條宗家) 泉田  中目
和田利安房
敬白起請文
:『性山公治家記録』なので、ここでは当時の当主・伊達輝宗を指す。
相國:相馬のこと
旁々任異見申御下知ニ候:一戦交えるにあたり、異見(意見)を聞いて命令を下した、の意

実際には1~17番備まで、伊達家の錚々たる名が並んでいるのだが、長くなるので飯坂宗康が登場する13番備と、起請文の前後だけ抜粋した。フルメンバーが気になる方はこちらの記事を参照のこと。宗康は13番備の筆頭であり、起請文の文末にも名が登場することから、ある程度軍議で発言できるポジションにいたのではないかと推測できる。


03.飯坂宗康とふたりの婿
それぞれ、宗康の娘(飯坂の局)は黒川式部と結ばれる予定であったのが反故にされ、政宗の側室になった事件について述べられているが、ディテール、ニュアンスにそれぞれ差異がある。このできごとについてはこちらの検証記事を参照のこと。

03-1.『飯坂盛衰記』
其此黒川式部と云者有。元來黒川の一家なれ共。恨る事有て伊達へ來り。輝宗公より政宗公まで御奉公申ける。依之政宗公の仰には。式部を宗康の家督となし。名代に相立可然旨仰付られけれ共。娘幼年なれば申合斗にて。いまだ婚禮はなかりけり。然るに宗康兼々の所存に。式部は已に三十の餘り。娘はいまだ十歳に足らず。不都合なる故。此人に世を譲る共久しき契にも有まじ。殊に我身の榮花も久しからし。所詮式部と父子ノ緣を切。 
娘をば政宗公へさし上側室ともなし。御子もあらば申受。飯坂の家を嗣せ奉らば。家の繁榮身の榮花。武運も長久なるべし。殊に政宗公は御年も相應にて。御心も賢勇におはしませば。彼是以然るべしと思ひ立。式部とさしたる事もなきに。兎や角と節を付終に親子の緣を切る。式部は是を無念に思ひつゝ。伊達を引切り黒川へも歸らず。越後の國へ立去たり。

03-2.『成実記』
黒川月舟逆意の底意は。月舟に叔父に候黒川式部と申候者。輝宗公御代に御奉公被申上候。飯坂城主右近太輔と申者之息女。契約候而。名代を被相渡候由被申合候得共。息女十計之時分は式部年入候而。其外之隠居も早可之候。政宗公御めかけにも上候而。腹に御子も出来名代に相立候様に。申上候はゞ家中の爲に能可之由。致思案違戀被申候に付。黒川式部迷惑に存候。月舟所へも不参越後引切申候。此御恨又月舟は大崎義隆御爲繼父に候。義隆御舎弟に義康を月舟の名代續にと被申。伊達元安の聟に被致候間。月舟手前に被差置候間。義隆滅亡に候はゞ以来は。其身の身上を大事に存し。企逆心由相見得候。
伊達元安:亘理元宗(元安斉)のこと。大崎義隆の弟にして黒川晴氏の養子となった義康は、亘理元宗の娘を妻とした。


03-3.『政宗記』
黒川月舟晴氏逆心彈正氣遣
されば伊達へ晴氏。逆心の子細をいかにと申すに。其昔月舟伯父に黒川式部と云けん者を。輝宗代々月舟方より奉公に差上けり。爾るを信夫郡飯坂城主右近。右の式部を聟にして名代を譲らんと云契約也。爾りと雖ども娘漸十歳計りなるに。式部は其年三十に及ければ。約束迄にて未だ祝言もなし。其内右近思ひけるは。式部は娘に年も似合ず。又我身の隠居も程あるまじきに。彼娘を政宗へ差上。若も此の腹に御子出なば申し請。名代になす程ならば。家中の為にもよかるべきと思ひ。右の契約違變なり。故に式部面目を失ひ。月舟方へも行ずして。直に越後へ引切けり。此恨亦月舟は義隆へ繼父なりしが。義隆弟の義康を名代に定め。伊達元安息女を彼義康へ取合。月舟手前に置ける故。義隆滅亡ならば末の身の上大事に思ひ。今度の逆心理りなり。

03-4.『伊達秘鑑』
偖又黒川月舟逆心ノ濫觴ハ。月舟カ叔父黒川式部ト云者。輝宗君ノ時伊達ヘ奉公ニ参リシヲ。飯坂ノ城主飯坂右近ト云者の壻養子トシテ。右近名代ニ相立ヘキ旨命セラル。其頃右近娘ハ 十歳ハカリニテ。式部ハ 三十餘ナレハ。娘幼少タルニ依テ。婚姻ハナク言號ハカリナリ。右近所存ハ式部コトハ。年モ抜群相違ナレハ。渠ニ家ヲユツリテモ。當時壮年ノコトナレハ。隠居モ程アルマシ。然レハ身ノ榮花僅ノ内ニテ。ハカナキ親子ノ契リナルヘシ。此緣ヲ變替シテ娘ヲ政宗ヘ参ラセ。御子アラハ飯坂ノ家ノ後榮タルヘシト思ヒ。サセルコトモナキニ式部と義絶シ。輝宗ヘハ作惡ヲ訴ヘテ。名代ノ緣ヲタツ。此時式部無念ニ思ヒ。伊達ヲ引拂ヒ。黒川ヘモ不歸。越後路へ赴キケル。其後飯坂ノ名代ヲ不定シテ事ヲノハシ。娘ヲハ政宗ヘ宮仕ニ差出ス。此恨ヲ含ンテ月舟伊達ヘ敵トナル。
濫觴:らんしょう。事の始まり。起源。


04.郡山合戦、窪田の戦い
伊達政宗にとっての正念場・郡山合戦に飯坂宗康が出陣していたことがわかる史料。当時(天正16年(1588))、伊達は北に大崎・最上、東に相馬および田村家中相馬派、南に佐竹・蘆名・二階堂と四面楚歌の状況だった。飯坂宗康は戦の焦点のひとつ、窪田砦の守備を任された様だ。

04-1.『飯坂盛衰記』
かくて宗康は政宗公に随ひ。佐竹 會津 仙道等の合戦に。數度の軍功有。殊に天正十六年 六月十日。佐竹義重 會津義廣・岩城常隆。須賀川輝隆。何れも申合され。政宗公を打滅さんと。安積表へ會陣ある。其外加勢の面々 雲霞の如くなり。 
政宗公兼て聞及給ひ。既に用意の事なれば。宮森を御出陣なされ。郡山へ御對陣なされける。此時窪田の城を心もとなく思召。飯坂右近大夫宗康を大蔣として。大嶺式部を相添小勢にて。籠城せさせけるに。 
宗康鐵石の如く堅固に守りければ。寄手の大勢 如何とも成がたく。遂に軍を班しけり、宗康は城の上より見渡し。すはや敵の足並亂しぞ。切て出よと下知すれば。早雄の若者共一度にどつと切て出て。追討に切ければ。敵大勢とは申せども。返し合する者もなく散々に亂れ立ち。右往左往に走り行く。小勢を以大敵を欺く事。比類なき事なりとて。政宗公御感心淺からず。
會津義廣:会津領主 蘆名義広。佐竹義重の子にして、会津 蘆名家の養子となった。
須賀川輝隆:須賀川領主・二階堂家の誰かを指していると思われるが、詳細不明。この時期の二階堂家は当主・盛義が既になく、未亡人である阿南姫(伊達政宗の叔母)が当主代行、家臣・須田盛秀が城代として統治を行っている。
飯坂右近大夫宗康を大蔣として:同じ窪田の合戦に触れた『貞山公治家記録』(04-2.)には飯坂宗康=大将、という記述はないが、筆頭ではある。
大嶺式部:大嶺信祐。『治家記録』には政宗の使者として度々登場する人物だが、仙台藩には大嶺を称す家は残っておらず、詳細は不明。
早雄:はやりお。逸り雄とも。血気盛んな者。


04-2.『貞山公治家記録』巻之五 天正十六年 六月十五日の条
此時窪田城へ飯坂右近宗康・大嶺式部信祐、福原城へ瀬上中務景康、高倉城へ大條尾張宗直 右三箇所ノ本丸ヲ請取ルヘキ旨仰付ラレ差遣サル。
本丸ヲ請取ルヘキ旨:現地の城主に代わって、伊達の派遣司令官としてそれぞれが指揮を任された、という意味だろう。


04-3.『奥羽永慶軍記』巻十五 佐竹、伊達と安積合戦岩城・石川扱の事
 伊達左京大夫政宗、此の注進を聞くよりも安積表に馳向ふ。今度も相馬境・最上境に勢を配り、番手を差置き給へば、旗本に残る人数八百騎の外はなし。陣触に付て集まる勢には、桑折入道黙(点)了・小梁川泥蟠斎・原田休雪斎・同左馬介・白石若狭守・浜田伊豆守・富塚近江守・遠藤文七郎・伊藤肥前守・飯坂右近・大嶺式部・瀬上中務・大条尾張守等なり。外に大森に片倉小十郎、二本松に伊達安房(阿波イ下同)守、郡山には兼て鉄砲二百挺・与力三拾騎を籠置きぬ。奉行には大町宮内・中村主馬・森六郎左衛門・小島右衛門尉等なり。並びに八町の目・信夫・郡山・福原・窪田の軍勢馳参る。
此の注進:佐竹・蘆名連合が北上してきた、との知らせ。


05.政宗に肴を献上
05-1.『貞山公治家記録』巻之七 天正十六年 十月十九日の条
〇十九日己亥。飯坂右近宗康ヨリ使者ヲ以テ御肴獻上セラル。

この日の記録はこの一行のみだが、前後して他の家臣からも献上物があった記述が目立つ時期ではある。


06.対岩城 田村領防衛戦
前年までは伊達との関係が良好であった岩城氏が、伊達の同盟国(実質的には保護国)である田村領に侵攻してきた事件。天正17年(1589)春のできごと。

06-1.『飯坂盛衰記』
同十七年三月廿四日。磐城常隆 田村城主淸顯 卒去の後。政宗國を預り給ふといえ共。主君なき故に家中の面面心々に成ければ。此虚に乗じ國を攻とらんと用意の由。米沢に聞えけれ共。政宗公は去冬の落馬にて足を痛めさせ給ひ。今に全快ならざれば御出陣なく。 
田村の加勢には。飯坂右近宗康を大蔣として。瀬上中務・桑折治部を相添られ。其外大勢引具し田村へ發向す。常隆 此由をつたへ聞。田村境迄出陣有けるが。叶難くや思はれけん。遂に軍を返し給ひけり。
同十七年三月廿四日:天正17年(1589)。この日付は文脈直後の田村清顕の死去の日(天正14年(1586)10月9日)ではなく、磐城常隆の出陣(天正17年(1589)4月15日)でも、政宗の落馬(同2月26日)でもない。同じできごとに触れた下記06-2.の『貞山公治家記録』の日付とも約1か月の誤差がある。『貞山公治家記録』の3月24日の条には、岩城との合戦についての記述はなく、何の日付なのかは不明。
政宗國を預り給ふ:田村清顕の死後、彼の遺言に従って伊達に従うべきという田村の基本方針を指している。事実上、この時期の田村氏は伊達の保護国化しているが、それに反発する田村家中の親相馬・岩城派と伊達派の間で内紛状態となっていた。
瀬上中務:瀬上景康。信夫郡 大笹生城主。飯坂宗康にとっては最も近隣の城主である。
桑折治部:桑折宗長。飯坂宗康にとっては義弟(妻の弟)にあたる。
遂に軍を返し給ひけり:磐城勢が何もせず帰陣したかの様な書き方だが、実際には飯坂宗康らの増援が到着する前に、鹿股城が落とされている(05-2.参照)。


06-2.『貞山公治家記録』巻之八 天正十七年 四月廿一日の条
此日比、鹿股落城スト云云。此城ハ小野・大越ノ間ニシテ田村ニ奉公ノ地ナリ。今度磐城殿常隆近陣セラル。小野・大越ヘハ程近ク、田村ヨリハ手遠ニシテ助援モ叶ワサル地ナリ。故ニ 六七日城ヲ持ツトイヘトモ不叶シテ、城主鹿股久四朗・加勢 福原孤月斎等磐城ニ侘言シ、城ヲ明渡シテ田村ニ引退ク。此由 公聞召シ、桑折播磨宗長・飯坂右近宗康・瀬上中務景康ヲ田村ヘ遣サル日不知
・田村ヘ遣サル:「日知れず」とはあるが、前後の文脈からみて援軍派遣は4月21日以降のことであろう。増強の援軍として派遣された後、実際の戦闘はなかった様だ。また、上記06-1.では「飯坂右近宗康を大蔣として」とあるが、こちらの『治家記録』では桑折宗長が筆頭である。


07.政宗、飯坂の湯で療治
直接飯坂宗康の名前が登場するわけではないが、飯坂温泉の湯で政宗が療治したことが記されている。であれば、その手配や湯治の勧めをしたのは、飯坂の領主・宗康であった可能性が高い。

07-1.『伊達天正日記 九』
ミ 廿八日
天気よし。従飯坂小湯参候。則ゆてさせられ候。重実かへり被成候。いつミた殿御参候。あハの方も被参候。くりでへひつけまいるヲからめ、白石殿上御申候。
・ゆてさせられ:茹でさせられ、煠でさせられ
・重実:伊達成実
・いつミた殿泉田重光。岩沼城主。
・あハの方粟野宗国。北目城主。
・くりでへひつけまいるヲからめ:最初意味不明だったが、07-2.『治家記録』と読み比べると「栗出に放火した敵兵を捕まえた」という意味だとわかる。栗出とは現在の福島県 田村市 大越町 栗出のことだろう。06-2.でも触れられている通り、大越は係争地である。


07-2.『貞山公治家記録』巻之八 天正十七年 四月廿八日の条
〇御痛御療治トシテ、飯塚より溫湯ヲ汲寄セ浴セラル。〇藤五郎殿、片平大和、各在所ニ還ラル。〇泉田安藝・粟野大膳國顯着陣セラル。〇白石右衛門ヨリ敵兵ヲ生捕リ贈獻セラル。栗出へ放火ノタメ忍ヒ來シヲ搦捕ルト云云。
・御痛御療治:政宗は天正17年(1587)2月26日に落馬で骨折しており、その療治かと思われる。
・飯塚:飯坂のこと。飯坂は温泉地として有名。


08.対相馬 田村領防衛戦
岩城に呼応して田村領を窺う相馬に対する防衛戦。実際には揺動としての動きに近かったようで、相馬の目を田村方面にひきつけた政宗本隊は、相馬北部の駒ヶ嶺城を5月19日に、新地蓑首城を5月21日に落城させている。

08-1.『貞山公治家記録』巻之九 天正十七年 五月十八日の条
抑今日相馬表へ御出馬ノ義ハ今度磐城殿常隆・相馬殿義胤仰合ラレ、常隆ハ小野ニ在馬、義胤ハ田村ノ内岩井澤ヘ出馬セラレ、御相談ヲ以テ田村ヘ相働カルニ就テ、兼日田村警固トシテ大條尾張宗直・瀬上中務景康・桑折摂津政長・飯坂右近宗康を差遣サル。
差遣サル:田村への援軍として派遣された4人の武将のうち、瀬上景康と飯坂宗康は05.対岩城 田村領防衛戦と同じメンツとなる。その間、一か月もないので、実際には引き続き田村領の防衛を継続していたのではないか。


09.死去
09-1.『飯坂盛衰記』
此武勇の譽れ世に聞えたる大蔣なれども。無常の殺鬼は防ぎ得ず。秋の初の比よりも不例の心地とて。病の床に臥し給ひ日を追って頼少く見えにける。 
政宗公は所々の軍に御暇もあらざれば。使を以病を問はせ給ひける。宗康禮義を調へ使者に對面し。御陣中御暇なき時節御心に懸させられ。貴公を是まで勞せらる不棄の恩。又いつの世にか報ずべき。某此度の病治しがたく覺たり。 
口おしや今最中諸方の軍戰に。厚恩を謝し奉らす相果なば。領知は君に奉る。局の方に御子も出生せば。飯坂の名迹を御立下され度由願奉る。宜く萬事頼入とぞ申ける。使者は委細に承知して。我家にぞ歸りける。 
斯て宗康は次第に重り給ひければ。局も打越給ひつゝさまヾヽ心を盡し。諸神諸佛に祈誓を懸。醫術を盡させ給へども。其かひ更になく日々に弱り。夜々に衰へたまひ。天なるかな時なるかな。
天正十七年九月二日。暁天の霜と消え行き給ひけり。妻子眷族の其歎何に譬ん方ぞなき。されども歸らぬ道なれば。一箇の塚とぞなりにける。悲しい哉百年の壽を願ひしも。一場の夢と成ぬるはかなさよ。法名は雲岩起公と號し奉り。飯坂天王寺へ葬り奉る。無常世界ぞ是非もなき。其後局は米澤へ歸らせ給ひ。父の御菩提怠らず。花を献じ香を盛り。明暮問せ給ひける。心の中こそ殊勝なれ。
・秋の初の比より:「秋の初」が具体的にいつ頃を指すのかあいまいだが、9月2日(今の暦に直すと10月初頭)の死去とするなら、急激に容体が悪化したことになる。実際にはこれより前の対岩城・相馬 田村領防衛戦で傷を負ったか、病を押して出陣していたかのどちらかではないか。
不例:貴人の病のこと
飯坂の名迹を御立下され度由:娘・飯坂御前と政宗の間に子はできなかったが、後に他の側室(新造の方)と政宗の間に生まれた宗清を後継として、飯坂家の名跡を継続させる約束が実現した。
飯坂天王寺:後に飯坂御前の移動に伴い、下草を経て吉岡へと移った。現在、吉岡では「天皇寺」と表記するが飯坂にも「天王寺」が残っている。二つの寺の関係については調査中。


10.『信達一統志』の記録 -宗康(宗貞)と天王寺-
10-1.信夫郡之部 巻之五 上飯坂邨の章
神明宮 八王子權現
兩社並びて鎮坐す、是は永禄天正の頃の飯坂右近將監宗貞の産神にて坐すよし六月二十一日祭禮なり
香積山天王寺 濟家宗 福島慈恩寺末山
西山の麓半里計りにあり開山佛心國師なり、相傳説云人皇丗二代用明天皇二年丁未歳厩戸皇子物部守屋を討ち給ひ佛法眞密の道場を四方に置き四天王寺と號し當邨の天王寺も其一の道場なる由、古は天王山天王寺と唱ひしとなむ、さはあれども千載を經て終に頽廢す、後世天正年中飯坂右近將監宗貞と云人再び建立あり濟家宗と改めりと云へり宗貞の墓所は寺の南に在り五輪の上少し遺れり大松の下に甚しく苔のむして哀に見ゆ、位牌は當寺に安置す法名は
天王寺殿雲巖廣起大禪定門 神祇
飯坂右近將監宗貞 天正十八年庚寅三月十四日卒
臺光院殿心月妙圓大禪定尼 宗貞内室
・頽廢:退廃
・濟家宗:臨済宗のこと
・天正十八年庚寅三月十四日卒:09-1.『飯坂盛衰記』の死去日とは年月日いずれも一致しない。菩提寺の記録であれば信憑性は高いかと思うが、要検討。


10-2.信夫郡之部 巻之五 天王寺田邨の章
平田邨の南に在り飯坂村の飛地なり、當邨はむかし天王寺盛りなりしとき寺領なるよし、故に昔は天王寺下と書しを今世田の字に書替たるなり、後世に至りて其寺衰微して卒に諸侯の封邑と成る、愚按ずるに天王寺は飯坂右近將監宗貞と云人再建して濟家宗となす、則功德院とせし事なれば此地百三石を以て寺僧に寄附せしなるべし

10-3.伊達郡之部 小手荘巻之一 在飯坂の章
城倉舘
伊達植宗朝臣の住給ひる舊城なり、後に天正年中飯坂右近將監宗貞居住し給へりとも云ふ、此人後に信夫郡飯坂に移り彼地にて卒去し給へり
※位置なども含めて詳細不明。飯坂氏は代々飯坂城を居館としているため「後に飯坂に移り」は誤りだが、別の館での居住可能性を示す興味深い記述ではある。


10-4.人物類 巻之一 天正年間之豪傑の巻
飯坂右近將監
 諱宗貞信夫郡飯坂村の人なり、今の土城町と云處の東に宗貞の住み給へると云古壘あり、此人嗣子なく伊達政宗の四男を以て養子とせしか此人も早世して終に其家斷絶す、唯存するものは宗貞の再建ありし天王寺のみなり、其寺の南山の麓に宗貞の墳墓と覚しきもの今に遺れり、法名位牌等は寺中に安置すと云
・伊達政宗の四男:飯坂宗清のこと。男子としては3男だが、長女、五郎八姫を含めてカウントすると4男。さらに正確にいえば、宗清の没後も飯坂家そのものはしばらく続いている。


11.未発見の政宗文書
飯坂宗康について調べてて不思議に思うのが、あれだけ筆まめとして知られる伊達政宗でありながら、側室・飯坂の局とその父・宗康に宛てた手紙が残っていないということだ。『仙台市史 資料編 伊達政宗文書』1~4を当たってみたが、発見には至らなかった。宗康も側室の父とはいえ、いちおう岳父にあたる。やはりない方が不自然である。

だとすれば、飯坂家断絶に際して史料が散逸したのだろうか。政宗の手紙は今日も次々と発見が続いているので、今後の発見に期待したい。また、『伊達政宗文書』の内容すべてをチェックしたわけでもないので、別の人物宛の手紙に飯坂氏の名前が登場している可能性もある。引き続き調査を続けたい。


■各資料の解説

『飯坂盛衰記』
飯坂氏をテーマに扱ったおそらく唯一の書である。文章は『仙台叢書』第6巻(仙台叢書刊行会、大正13年(1924))に拠った。『仙台叢書』の解題によれば「但し何人の手に成りしものなるや。明かならざれども。其筆法より考察するに。絶家後に於て。其遺臣などの記述したるものならん乎」とあり、いつごろの成立で誰が書いたものかは不明だが、飯坂氏の旧臣の手によるものではないかとされる。

飯坂氏については一番詳しく書かれた書であることは確かだが、飯坂氏の視点に立ったものであり、こうして他の記録と照合してみると細かな間違いも目立つため、その点には注意が必要。文学的な表現も多く見受けられ、多少の脚色・誇張も含まれていると思われる。

なお、この巻末に飯坂氏の系図である『伊達分流飯坂氏系圖』が収録されている。また、実際には連続した文章だが、引用にあたっては可読性向上のため適宜改行、スペースを挿入した。


『伊達治家記録』
仙台藩で編集された仙台藩、および伊達家の正史。現代の研究においては誤りも指摘されている箇所はあるものの、比較的信頼性は高い。ここでは輝宗の代の『性山公治家記録』と政宗の代の『貞山公治家記録』を用いた。どちらも4代藩主・伊達綱村田辺希賢、遊佐木斎ら仙台藩の儒学者を用いて1703年(元禄16年)に完成させたもの。

文章は『仙台藩史料大成 伊達治家記録 一』(宝文堂、昭和47年(1972))に拠った。


『伊達天正日記』
天正15年(1587)1月1日~天正18年(1590)4月20日まで、飛び飛びではあるものの伊達家の公式記録として書かれた日記を集めたもので、信憑性は高い。『伊達治家記録』の下敷きにもなった史料。

文章は『第二期 戦国史料叢書11 伊達史料集(下)』(小林清治校注、人物往来社、1967)に拠った。


『成実記』『政宗記』
伊達政宗の従兄弟にあたる伊達成実が著した軍記。タイトル、内容の異なるいくつかのバリエーションがあるが、ここでは『成実記』『政宗記』を用いた。晩年の寛永年間(1624~1644)に記したとされる。

今回引用した部分はどちらも大崎合戦に関する記述であるため、飯坂氏については本論ではない。しかし、今回用いた史料のなかでは唯一同時代人によるものであり、政宗の側室に関するデリケートな部分ではあるが、それを知りうる成実の立場を考えても、信頼性は高いと言える。

それぞれ文章は『成実記』は『仙台叢書』第3巻、『政宗記』は『仙台叢書』第11巻に拠った。


『伊達秘鑑』
明和7年(1770)に半田道時なる人物が書いたとされる伊達政宗を中心とした軍記物。実在性の疑われる忍者集団・黒脛巾組が登場するなど、脚色が多いとされるが、今回引用した部分に限って言えば上記の『成実記』『政宗記』を下敷きにして書いたのではないかと思われる。

文章は『仙台叢書 復刻版 第十七巻 伊達秘鑑 上』(宝文堂、昭和47年(1972))に拠った。


『奥羽永慶軍記』
出羽の国 雄勝郡の戸部正直(一憨斎、一閑斎とも)が諸国を旅しながら古老へのインタビュー、史跡訪問を続けて元禄11年(1696年)にまとめあげた書物。軍記物語として「文学」に分類されることも多く、明らかな史実上の誤りや混同も散見されるが、今回取り上げた資料の中では『伊達天正日記』『成実記』『政宗記』に次いで古い。

文章は『奥羽永慶軍記 復刻版』( 無明舎出版、今村義孝校注、2005)に拠った。


『伊達世臣家譜略記』
詳細は調査中。伊達家の公式家臣録である『伊達世臣家譜』に先駆けて編集されたものか。『世臣家譜』では収録されていない、断絶した家である飯坂家についても記載があるのは貴重である。文章は国立国会図書館デジタルコレクション版(47コマ)に拠った。


『信達一統志』
志田正徳が天保12年(1841)に信夫・伊達両郡を歴訪して著述した風土記。飯坂宗康については一貫して「宗貞」と記されているが、内容から宗康とは同一人物と判断して間違いなさそうだ。筆者は福島地域の地誌に触れたのはこれが初めてなのだが、引用書として「信達風土記」「信達案内記」などのさらに古そうな地誌が挙げられているので、いずれこれらにもあたってみたい。

文章は『福島縣史料集成』第一輯(福島縣史料集成刊行會、昭和27年(1952))に拠った。

2017年10月8日日曜日

血統書診断 -伊達政宗の場合-

当たり前のことだが、人間は父親と母親から生まれる。仮に父親を田中家、母親を山田家の人間だとすると、子供には田中・山田両家、2つの家系の血が混じっていることになる。

もうひと世代、祖父・祖母の代までさかのぼれば4家、曾祖父・曾祖母の代になれば8つの家の血が流れている計算になり、代をさかのぼるごとにその数は倍になっていく。

一言で田中家の人間、といっても、その体には多くの家の血が流れており、「田中」というのは父系の苗字を便宜的に名乗っているにすぎないのだ。

■ 伊達政宗の血統

歴史上の人物についてもそれは同じで、伊達政宗も、伊達家の正統な嫡男というイメージが強いが、その体にはいろんな家の血が流れている。というわけで、政宗にはどんな家の血が流れているのか、ちょっと確認してみる。

下の図は一見トーナメント表のようだが、政宗本人の両親、両親の両親…といった具合に血筋をたどった家系図になっている。縦方向に枝分かれしていくおなじみの家系図とはちょっと印象が違うが、ヨーロッパ史ではたまに使うことのある家系図のスタイルで、同世代の横のつながり、つまり兄弟や叔父・叔母の関係を完全にそぎ落としているかわりに、誰の血を継いでいるのかがダイレクトにわかるつくりになっている。

いわば、伊達政宗の血統書である。


とりあえず、政宗から5世代前の先祖までをたどってみた。5世代前となると32の血脈にいきつくことになる。

こうしてみると、意外と政宗の先祖については明確に人物を特定することが難しいことがわかる。この時代はどうしても母系、つまり女性の名前が残りにくいことと、父系の伊達家と比べて、母系の最上・中野家の情報が不足しているのが大きい。

ほとんどが「不明」で埋まってしまったので、もう少し整理してみると


こうなった。32の血脈のうち、判明したのは9つ、約1/3しかわからなかったことになる。

■ 対立した大名家の血をことごとく継いでいる

自分の出自である伊達家はさておき、政宗には大崎氏、上杉氏、蘆名氏、宇都宮氏、岩城氏、最上氏の血が流れていることがわかる。これらの大名は、実はことごとく政宗と(が)敵対した大名であることに気付く。

  • 大崎家:大崎合戦にて対峙し、後に従属させる
  • 上杉氏:関ケ原の戦いに連動した慶長出羽合戦で対決
  • 蘆名氏:摺上原の戦いで滅亡においやる
  • 岩城氏:田村領をめぐる戦いで敵対
  • 最上氏:叔父である最上義光との関係が芳しくなく、大崎合戦で敵対した。

残る宇都宮氏とは直接対戦したことはなかったが、これはその前に秀吉による奥州仕置を迎えてしまったから、と考えると、対立は時間の問題だったようにも思える。蘆名氏を滅亡させたあとの政宗は、北関東へのさらなる南下と、その障害となる佐竹氏との対決を予定していた。宇都宮氏はその佐竹氏と盟友関係にあったから、もし政宗の南下戦争が続いていたら、そのうち敵対関係に陥っていたことが想像される。

ただし、この時代の大名、特に東北の大名の間には血縁ネットワークが張り巡らされているのが常であり、特に政宗において顕著な現象ではないかもしれない。親戚どころか、親兄弟との争いですら珍しいことではなかったのが戦国大名である。

■ 大崎氏・上杉氏の血を2重に継いでいる

政宗の血脈をたどると、大崎教兼の血を2重にひいていることがわかる。もっとも、大崎氏は伊達氏のおとなりさん大名であるし、大崎教兼の時代、大崎氏は奥州探題の職についており、家格は伊達氏よりも上だった。そう考えると、大崎氏との結びつきが大切だったことがわかる。

また、上杉氏の血も2重でひいている。伊達・蘆名ともに隣接する越後の上杉氏との関係を重視したことの表れであろう。

ちなみにこの上杉氏は、上杉謙信とは別系統の上杉氏である。

■ つまりは斯波氏の血が濃いということに

大崎氏の血脈が2重になっているのは母方の最上氏にも大崎氏の血が流れているからであるが、最上氏ももとをたどれば大崎氏にいきつく。

そして、最上氏も大崎氏ももともとは斯波家兼という人間が祖である。右の円グラフは、政宗の血統を家ごとにパーセンテージ化したものであるが、2重に血を引いている大崎氏・上杉氏が共に6.3%ずつ、その他の大名が3.1%ずつ、不明が71.9%となっている。というわけで、大崎氏と最上を併せて斯波氏というくくりを設けるならば、斯波氏の血統が最も強いことになる(もっとも、「不明」の割合が大きすぎるのでなんともいえないところではある)。

ちなみに、それぞれの家系をさかのぼると

伊達藤原氏宇都宮藤原氏
大崎源氏岩城平氏
上杉藤原氏最上源氏
蘆名平氏
となる。

■ まぁ、こんな分析よりも…

と、ここまでいろいろやってみて、あんまこの分析意味ないんじゃねーか? と思えてきた。というのも、政宗の性格・行動を見ている限り、どう考えても母親である義姫の血が濃いのでは? と思うことが多いからだ。

画像は「信長の野望・創造」より
なんとも血の気の多い顔をした母と子である。
それなりに似ている。画家も意識したのだろうか。
義姫は、女性でありながら
  • 父・最上義守と兄・最上義光の争い
  • 兄・最上義光と夫・伊達輝宗の争い
  • 兄・最上義光と子・伊達政宗の争い
を仲裁、というよりも無理やり止めさせたという武勇伝をもつ。対峙する両軍の陣中を駕籠でつっきっただの、間に輿でのりこんで停戦させただの、あるいは政宗毒殺未遂事件をおこしたりなど、その男勝りのエピソードには枚挙に暇がない。

政宗について一言で説明しろ、と言われた場合「東北の覇者」だとか「10年生まれてくるのが遅かった戦国大名」だとか、いろいろ言い方はあるだろうが、自分だったら一言こう言う。

「あの義姫の息子だよ」

と。実際、政宗が女だったら上記のようなエピソードを残していたであろうし、逆に義姫が男に生まれていたら、関ケ原の戦いが終わって徳川の時代になっても天下をあきらめなかっただろうし、占領した城で撫で斬り(皆殺し)みたいなことをやっていたと思う。

親子で対立することもあったみたいだが、どうも同族嫌悪だったのではないだろうかという気がしてならない。


今回、政宗の血統をたどってみてはじめて気づいたこともあったのだが、結局は母親である義姫の血が濃いんだろうなぁ、という結論になってしまった。

ちなみに、政宗の血液型はB型だったそうだ。これは、政宗の墓所である瑞宝殿を発掘調査した際、遺骸の毛髪から鑑定された結果である。