2017年11月20日月曜日

飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家- 【悲運の一族・飯坂氏シリーズ①】

■はじめに

これから数回にわけて伊達氏の庶流である飯坂氏について触れたいと思う。

飯坂氏と言えば伊達政宗の側室となった飯坂御前(飯坂の局、松森御前、吉岡御前とも)や政宗の第3子で飯坂家を継いだ飯坂宗清(伊達宗清とも)あたりが有名と言えば有名になるのだろうが、あまりメジャーな一族であるとは言えない。

飯坂氏の中でも、筆者が一番興味を持った飯坂宗康という戦国時代の武将についてTwitter上で知名度調査をしたことがあるのだが


という結果に終わった。母数は99票(おしい!)。筆者のこのTweetに反応してくれている時点で、仙台や伊達家の歴史に興味をもっている方が相当数のはずである。それでも、半数以上が知らない。飯坂の局の父親、と言えば多少なりピンとくる方が約3割。ストレートな認知度は約2割である。

なぜそんなマイナー一族にスポットを当てようかと思ったかと言えば、まず筆者が飯坂(福島県 福島市 飯坂町)の生まれであり、どことなく「地元の殿様」感があって親しみを覚えることが大きい。

とはいっても、地元の飯坂ですら、飯坂氏なる一族がいたことはあまり知られていないように思う。

飯坂の有名人と言えば、義経主従として知られる佐藤継信・忠信兄弟、『奥の細道』の道中飯坂温泉にも滞在した松尾芭蕉、そして俳優・佐藤B作である。ちなみに筆者の祖母も母も、飯坂氏という地元豪族の存在は知らなかった。

猫御前@秋吉久美子 NHK大河『独眼竜政宗』より
詳細は別項で述べるが、飯坂の局と新造の方をあわせた
空気読めない設定の架空のキャラクターである。
地元でもあまり知られていない飯坂氏だが、その知名度に反比例して、不明点が多い。わからないことや、事実が混同されていることが実に多く、飯坂御前と新造の方を同一人物として扱い、飯坂御前=宇和島藩祖・伊達秀宗の生母とするような言説はその最たるものだろう。

詳しくは別記事で触れるが、本シリーズでは飯坂御前は伊達秀宗の生母とは別人である、と断定するに至った。

さらに後述するように、飯坂氏は仙台藩主・伊達家の庶流でありながら江戸時代初期に断絶したこともあってか、後世に伝わりきっていない情報も多い。

このシリーズでは、飯坂氏について何がわかって、何がわかっていないのかの整理をしつつ、わかっていない点については自分なりの推論を交えた上で、一族の発祥からその断絶までを通史的に描いてみることを目的に筆を進めていこうと思う。


■その起源

伊達氏の庶流・派生支族
宮城が誇るサンドウィッチマン
伊達みきおが大條氏(明治時代に
伊達に復姓)の末裔なのは有名な話。
飯坂氏の祖が誰なのかについては、はっきりしている。伊達為家なる人物がそれである。

これについては飯坂氏の旧臣が書いたと言われる『飯坂盛衰記』及び仙台藩の家臣録である『伊達世臣家譜略記』共に記録が一致している。飯坂氏の分家である、下飯坂家に伝わる系図でも同様だ。

伊達為家は、伊達氏初代・伊達朝宗の第4子である。伊達氏には政宗以前に枝分かれした支族として桑折氏、瀬上氏、大條氏、小梁川氏などがあるが、伊達氏初代の息子を祖とする一族ということで、飯坂氏は伊達支族の中でも最古の部類に入ることになる。

そもそも伊達氏初代・伊達朝宗ともむねといえば、源頼朝の挙兵に参加した関東の豪族である。源頼朝が鎌倉幕府をひらいたのち、鎌倉=源氏政権と平泉=奥州藤原政権が激突した奥州合戦で活躍し、その緒戦である石那坂の戦いでは、平泉方の武将である佐藤基治を破った。

その功績から戦後朝宗は伊達郡を与えられ、以後伊達氏を名乗るようになる。

石那坂の位置ははっきりしないが
候補地のひとつに碑文が残る
もっとも、伊達氏の発祥については、石那坂の戦いでの活躍が伝わる常陸入道念西を伊達朝宗に比定し、同一人物とする説が一般的であるが異説もある。佐藤一族についてもいろいろ検討は必要なのだが、この時代については筆者の勉強が追い付いていないため、あまり深く突っ込まずにスルーさせていただくのを容赦いただきたい。

そのうち興味がわいたら詳しく調べて加筆したいと思う。


■ 飯坂氏初代・為家

飯坂氏の祖である為家も、父である朝宗や兄弟たちとともに奥州合戦を戦い抜き、戦後この地にやってきた様だ。『大鳥城記』によればはじめ伊達郡の半田に住み(※)、のちに古館の地に移ったとされる。
※『大鳥城記』(菅野円蔵、1970)に「四番目の伊達四郎蔵人右衛門尉為家は、最初伊達郡半田に住んだが、後信夫郡飯坂の古館に居住し飯坂氏の元祖となった」とある。他の資料で為家が半田に住んだという記述を今のところ筆者は発見に至っておらず、出典は不明。要追加調査。


古館、とは飯坂に今も残る地名で、飯坂温泉街を見下ろせる小高い丘になっている地点だ。飯坂氏が城館を設けたことから、このような地名が定着したと思われる。また、飯坂氏が本拠地とした城館は飯坂城湯山城の名でも呼ばれる。

為家の人生の詳細についてだが、筆者の勉強不足によりあまり詳しくは触れられず申し訳ない。同時代の資料ではないが『伊達略系』と『仙台人名大辞書』から引用して少しだけ紹介したい。

爲家君
左衛門蔵人。石那坂役被創有
功。建歴二年六月七日。宿直于御所侍所。興荻生右馬允闘争。坐配于佐渡後召還。(『伊達略系』作並清亮、明治27年(1894))

ダテ・タメイエ【伊達爲家】 朝宗公子。常陸四郎と稱す、右衛門尉蔵人に叙す、建久年中源頼朝に使へて随兵となる、建暦二年六月七日御所侍所に宿直し、荻生右馬允と私闘するに坐して佐渡に流さる、後ち召し還さる、承久元年将軍源實朝鶴岡に詣す、為家供奉となる、伊達郡飯坂城を賜はり、同地にて卒す、墓は飯坂天王寺境内大作山頂峰にあり△子伊達彦四郎家政△子小太郎宗政△子伊賀守政信、飯坂を以て稱號となす、之を伊達氏の一家飯坂氏の祖となす。(『仙台人名大辞書』菊田定郷、昭和8年(1933)、p675)

石那坂の戦いで負傷したり、御所の侍所で私闘を演じて佐渡に流されるなど、なかなか荒っぽい人生を送った様だ。後に奥州藤原政権の主戦派である佐藤氏の拠点であった飯坂の統治を任されたのも、こういった彼の武闘派な経歴を買われてのことだったのかもしれない。

『仙台人名大辞書』にもあるとおり、為家はあくまで「伊達」為家で「飯坂」の姓を名乗るようになるのは4代目・政信以降の話なのだが、どの資料もこの伊達為家を飯坂氏の祖とし、初代として数えているのは共通している。

ここから飯坂氏の歴史がはじまる。


■ これから書く予定の項目

さて、おそらく飯坂氏についてまとめようとしたとき、記事量でいうと20本前後の記事が必要になるかと思われる。現状、公開済みの記事3本+用意済みの原稿が3本程度あるのだが、だいたいどんな内容になるのか、自分に対する構想メモの意味も含めてあらかじめ示しておきたい。あくまで予定なので、増えるかもしれないし、統合もあるかもしれない。

①飯坂氏シリーズはじめました ← 今まだココ
こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学-
飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【資料集付】
鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる-
分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族-
┗【資料集】中世の飯坂氏
⑥飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク-
⑦飯坂宗康と戦国時代 -その功罪-
【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
┗【資料集】飯坂宗清
┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
┗【資料集】近世の飯坂氏
⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表

...うーむ。これだけの大風呂敷を広げるのもなんだか不安になってきた。とても全部書ききれる気がしない。とはいえ、ある程度メドはついている⑧飯坂の局の時代までは勢いに乗って書ききってしまいたい。近世の⑨飯坂宗清以降は、まだメドすらついていないので記事ができるとしても1年以上は先の話になるだろう。

連載やるやる詐欺にならないように頑張るので、過剰に期待せずに見守っていただければ幸いである。


2017年11月16日木曜日

飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-

飯坂の局の実態をより分かりにくくしているのが、新造の方との同一人物説や、宇和島藩祖・伊達秀宗の母である、といった様な書かれ方だ。特に近年では、NHK大河『独眼竜政宗』の放送以降、猫御前なる架空のキャラクターとの混同もみられ、非常に紛らわしい。

■ まずは結論から

これから飯坂の局に関する世間の誤認を訂正していくわけだが、まずは正しい情報からお伝えしたい。

  • 飯坂の局と新造の方は別人である
  • 飯坂の局の父は飯坂宗康であり、新造の方の父親は六郷伊賀守である
  • どちらも伊達政宗の側室である
  • 政宗の長男であり宇和島藩主・伊達秀宗の実の母親は新造の方である
  • 政宗の3男である伊達宗清の実の母は新造の方である。が、宗清が幼いころに新造の方がなくなったため、後に飯坂の局が宗清の養母となっている。
  • 猫御前なる名称は史実上存在せず、飯坂の局と新造の方をモデルにした架空のキャラクターである。

以上が飯坂の局と新造の方にまつわる誤認を排した正しい情報である。複数の人物が登場するのでややこしいと思う。すっきりイメージするためにも、正しい関係図を掲載するので、こちらを参考にしてほしい。
これが正しい関係図

以上の情報は、世間ではあまり正しく伝わっていないのが実情だ。では、世間ではどのように誤解されているのか?


■ 混同のパターン

飯坂の局と新造の方は、どちらも伊達政宗の側室である。そして、政宗の実子である伊達秀宗、宗清とのかかわりがある人物であることは間違いないのだが、ここが特に紛らわしい。別人の二人の側室を同一人物であるかのような書き方をする場合、いくつかのパターンがある。

① 別称として扱うケース
「飯坂の局(新造の方とも)」あるいは「新造の方(飯坂の局とも呼ばれる)」といったような書かれ方。近年では「猫御前とも」といった表記も。紛らわしいふたりの人物の検証についてあまり触れず、両論併記でお茶を濁すパターン。

② 伊達秀宗の母を飯坂の局とするケース
伊達秀宗の母は新造の方であり、飯坂の局は秀宗とは特に関係がない。秀宗の弟である宗清にとっては新造の方=実母、飯坂の局=養母なのだが、いつしか「伊達宗清の母は飯坂の局」 ⇒ 「であれば、兄である秀宗の母も飯坂の局」と混同されたのだと思われる。

③ 新造の方の父を飯坂宗康とするケース
飯坂の局の父は飯坂宗康であることは間違いないが、新造の方の父は六郷伊賀守である。

以上、3つのケースはどれも誤りである。


■ 別人である論拠 『飯坂盛衰記』

飯坂の局と新造の方を明確に別人として書いている書の代表的なものは『飯坂盛衰記』である。それぞれの出自について引用してみよう。まずは飯坂の局。

十四代の孫 飯坂右近大夫宗康に至り。世嗣の子なく息女二人もち給う。一女は桑折摂津守政長に嫁し。次女はいまだ幼年にて家に有。(中略)所詮娘事は君に指上げ奉る。願くは侍女ともなし。召仕はれ下さるべしとて指上ける。政宗公は姫君を御覧有けるに。其容色世に勝れ拾も夭桃の春を傷める粧ひ。垂柳の風を含める有様なれば。政宗公御喜悦淺からず。則側室となし御名は飯坂の局と改。
続いて、新造の方。

抑権八郎と申は。政宗公の五男にて。母は新造の御方也。此新造の御方と申は。新庄のもとの城主。六郷伊賀守の娘なり。
飯坂の局は飯坂宗康の次女、新造の方は六郷伊賀守の娘であると、明確に別人としてかき分けられている。また、上記引用の「権八郎」とは後の飯坂宗清のことである。宗清の実母は新造の方だが、宗清が幼いうちに亡くなったため、政宗が宗清の養育を飯坂の局に頼んだ(以後、養母となった)、というエピソードも出てくる。

さらに、新造の方は岩出山時代に政宗・愛姫とともに伏見で生活していたが、飯坂の局は疱瘡にかかり、政宗とともに岩出山・伏見へ行くことを拒んで松森に隠棲したことにも触れられている。

『飯坂盛衰記』は飯坂氏の視点から書かれた書物である。飯坂の局について都合の良い書き方をしようとすれば、宗清の母であり、宇和島10万石の藩祖・秀宗の母でもあるという世間の誤認をあえて正すメリットはない。そこをあえて別人、としているのには信憑性がある。


■ 飯坂の局は宗清の実母ではないとする論拠 『貞山公治家記録』

伊達家の公式記録である『貞山公治家記録』でも、新造の方と飯坂の局は別人として登場する。まず、秀宗が生まれた天正19年(1591)12月の記事(巻之十七 )に

此月、新造御方、村田民部宗殖入道萬好齋居城 柴田郡村田ニ於テ御安産、公第一ノ御子御誕生、御童名兵五郎ト稱シ奉ル。是從四位下宇和島侍從兼遠江守殿秀宗ナリ。

とあり、秀宗の母親は飯坂の局ではなく新造の方であるということが明示されている。

さらに注目したいのは伊達宗清が没した寛永11年(1634)の記事である。筆跡そのままで引用してみよう。

伊達河内殿宗清養母飯坂氏の女、と書かれてあり、宗清の「母」でも「実母」でもなく「養母」と書かれていることに注目したい。

■飯坂の局は秀宗の実母ではないとする状況証拠

世間の誤認どおり、飯坂の局が伊達秀宗の母であったと仮定しよう。そうすると、当然、宇和島藩主・伊達秀宗とその子孫たちには飯坂家の血が流れていることになる。そうなってきたときに不自然なのは、飯坂家の血筋が絶えた時、誰を跡継ぎとしたかである。

宗清以降、飯坂氏の当主は男子に恵まれず、3度にわたって養子で家をつないでいる。そのうち1回は仙台藩主・伊達忠宗の子を養子に、2回は飯坂氏と縁戚関係にある桑折氏から養子を迎えている。

宇和島伊達家に飯坂氏の血が流れているのだとすれば、遠戚にあたる桑折氏から養子をもらうよりも、直接の血のつながりがある宇和島伊達家から誰かを養子にもらってきた方が、血脈の正当性、格ともにわかりやすい。

それをしなかったのは(仙台藩と宇和島藩の軋轢が原因と考えられないこともないが)、やはり伊達秀宗の母は新造の方であり、飯坂の局ではないからだろう。


■いつ頃から混じりだしたのか?
次に、『伊達治家記録』および『飯坂盛衰記』の時点では正しく認識されていた情報は、いつ頃から混同され始めたのか検証してみたい。

01.「桑折家系図」
飯坂の局と新造の方を混同している書物として一番古いものは、筆者の知る限り海田桑折家に伝わる「桑折家系図」で、附録によれば文化戊辰(文化5年、1808)正月に書かれたものである(『桑折町史』第5巻、資料編Ⅱ)。飯坂の局について書かれている部分を引用してみる。

女 政宗公侍妾、飯坂御前又吉岡局と申す
伊達遠江守秀宗公之御実母なり、政宗公御願之上、河内守殿を御養子ニ被成候て、飯坂の苗跡相続ニ被成下慶長十七年卒、吉岡天皇寺ニ葬る

宗清を養子にした、という部分はあっているのだが、飯坂の局を伊達秀宗の実母としている。兄の秀宗の実母ではあるのに、弟の宗清にとっては実の母ではないという矛盾があり、この当時にしてかなり混乱されていることがうかがえる。


02.『寛政重修諸家譜』
「桑折氏系図」の直後、文化9年(1812)に成立した江戸幕府の公式諸大名家譜である『寛政重修諸家譜』においても秀宗の母=飯坂の局、という記述が見受けられる。

秀宗 伊達遠江守村壽が祖。兵五郎 遠江守 母は飯坂氏。庶子たるにより家督たらず、別に家をおこす。『寛政重修諸家譜』巻第七百六十二) 
秀宗 兵五郎 遠江守 侍從從五位下 從四位下 松平陸奥守政宗が長男。母は飯坂氏(『寛政重修諸家譜』巻第七百六十三)

この家譜において秀宗は、仙台伊達藩の藩祖・政宗の子としてと、宇和島藩祖として2回登場するのだが、どちらも母親は飯坂氏であるとされている。幕府の公式記録にこのような誤記があったことは影響として大きかったと思われる。


03.「伊達略系」と『東藩史稿』
どちらも近代になってから当時の伊達家当主・伊達宗基が学者・作並清亮に命じて編集させたもの。伊達家の略系図である「伊達略系」(明治27年(1894))と、『伊達治家記録』に継ぐ公式記録とも言うべき簡易版仙台藩の準公式歴史書『東藩史稿』(大正4年(1915))である。まずは「伊達略系」から。

母側室飯坂氏。右近宗康娘。稱新造の方。法名心月妙圓。慶長十七年壬子四月二十二日逝。葬于松島瑞巌寺

続いて『東藩史稿』巻之十、列伝編。

側室飯坂氏、新造方ト称ス、右近宗康ノ女、秀宗君、宗清君ヲ生ム。

注目すべきは、「桑折氏系図」『寛永重修諸家譜』の段階では秀宗の母=飯坂の局、にとどまっていた誤認が一歩進んで、新造の方を飯坂の局の別称であるというところまで進んでしまったことだ。

考察するに、誤解が生まれていく順序として

  1. 宗清の養母は飯坂の局(正)
  2. 宗清の実の母は飯坂の局(誤)
  3. 宗清の兄である秀宗の実の母も飯坂の局(誤)
  4. 新造の方は飯坂の局の別称(誤)
  5. 新造の方の父は飯坂宗康(誤)
という展開であったと思われる。


■両者をフュージョンさせた架空キャラ・猫御前

以上のような経緯でしだいに混ざっていく飯坂の局と新造の方の同一人物イメージを決定的にしたのは、なんといってもNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』(1987)だろう。ドラマでは政宗の側室・猫御前として登場し、父親は飯坂宗康、秀宗と宗清の実母という設定である。

ドラマでは猫を捕まえた姿から政宗に「猫」と名付けられる

まずは「猫御前」なる名称についてだが、この大河『独眼竜政宗』放送以前に書かれた書物に「猫御前」という呼び名は存在しない。もしかしたら原作小説である山岡荘八の『伊達政宗』(1970)の時点で登場しているのかもしれないが(未確認)、いづれにせよ創作物である。

思うに、飯坂の局と新造の方という、史実上も紛らわしい二人の側室がドラマに登場してもややこしい。ドラマの演出上、二人の人物を同一人物として扱うが、それは実在の人物をモチーフとした架空のキャラクターである。それを示すためのサインとして、「猫御前」なる名称を脚本家(もしくは原作小説作家の山岡荘八)が与えたのではないだろうか。

【追記】Twitterで指摘してくださった方のご教授によると、山岡荘八『伊達政宗』の時点で「猫」の呼称が登場する様だ。

実際、ドラマでの猫御前は正室・愛姫と対称的なキャラクターとして生きているし、側室が何人いても紛らわしいだけなので、演出としては正解だったと思う。一方で、世間の飯坂の局に対する誤認にお墨付きを与えてしまう結果ともなったわけだが。


■まとめ

紛らわしいので、再度まとめてみよう。飯坂の局と新造の方と、猫御前についてである。



もっとも、新造の方についてはこの記事では『飯坂盛衰記』に従って「六郷伊賀守の娘」としたが、仙北地方の六郷氏を「新庄のもとの城主」との誤記があることもあり、彼女の素性についても少し検討が必要だと思われる。これについては後に詳しく触れてみたい。


世間の誤認を解くべく力説してはみたものの、飯坂の局も新造の方も、政宗の数ある側室の一人にしかすぎず、世間の関心を広く集めるような人物ではない。が、飯坂生まれの筆者にとっては生まれ故郷の先達として多少なりとも思い入れがある人物であり、彼女にまつわる誤解を放置しておくのもなんとも申し訳ない気持ちになってこの記事を執筆するに至った。願わくば、飯坂の局に関する真実が少しでも世に広まれば幸いである。

2017年10月30日月曜日

戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-

伊達政宗の側室のひとり、飯坂の局を語るうえでひとつ外せないテーマとしてあるのが、政宗の側室になる前の黒川式部との婚約関係だ。

もともと黒川式部との婚約があったのを、年の差を理由に離縁され、政宗の側室となった、という筋書きはどれも同じなのだが、書物によって微妙にニュアンス、ディテールが異なる。

この話が登場する資料として『飯坂盛衰記』『成実記』『政宗記』『伊達秘鑑』の4つを用いたのだが、そのあたりを読み比べながら細かく検証してみたい(他にも出典となりうる資料を御存知の方がいらしたら、是非ともご一報ください)

史料の原文はどれも【史料集】飯坂宗康の記事に収録したが、必要だと思われる個所は改めて引用する。


検証① 黒川式部とは?

伊達政宗の詳細はさておき、ここでのメインの登場人物となる黒川式部なる人物についてまず触れる。この人の割と素性ははっきりしており、黒川晴氏の叔父であるということが『飯坂盛衰記』を除く3冊と、黒川氏の系図で確認できる。また、「源姓黒川氏大衡家族譜」なる系図では氏定という諱も伝わっている。

黒川晴氏の叔父ということは、黒川氏の当主・稙国の弟、景氏の息子ということになる。黒川式部の父・黒川景氏は「源家足利黒川系図」(『大和町史 上巻』p356)に「実飯坂弾正清宗長子」とあり、飯坂氏から黒川に入嗣した人物である。

『飯坂盛衰記』巻末の「伊達分流飯坂氏系図」と
「源家足利黒川系図」(『大和町史 上巻』)を参考に作成。

この飯坂清宗なる人物は飯坂氏側の当主系図には名前がないので、誰に比定するべきか、あるいは分家の人物なのかは不明だ。しかし、飯坂氏の血を引いていることは確かで、黒川式部と飯坂の局の婚姻は、そもそも同族婚であったことになる。


検証② 黒川式部が伊達に仕えたのは?

どの資料も、黒川式部が輝宗の代から伊達に仕えだしたことは共通している。しかし『飯坂盛衰記』のみが「恨る事有て伊達へ來り」と、もともと黒川の実家には居づらい事情があったことをほのめかしている。

『飯坂盛衰記』は飯坂氏の視点に立った書物なので、邪推するならば、少しでも黒川式部の人間性を貶めることで飯坂宗康の罪を相対化しようとする意図を感じることもできる。


検証③ 縁組を命令したのは?

どの資料も、黒川式部が飯坂の局と婚約することは、式部が飯坂宗康の

  • 名代:『飯坂盛衰記』『成実紀』『政宗記』『伊達秘鑑』
  • 家督:『飯坂盛衰記』

つまり婿養子=後継者となることとセットであったことは一致している。問題は、それが誰の命によっての縁組だったかということだ。

『飯坂盛衰記』にははっきりと「政宗公の仰には」と書かれている。『成実記』『政宗記』には特に記述はなく、『伊達秘鑑』では主語が誰なのか文脈上はっきりしないのだが「命セラル」とは書かれており、上からの命令であったことは示唆されている。命令によるものであるとすれば、当時の当主・輝宗だろう。

飯坂氏は伊達の支族であるし、家臣の婚姻に主君が介入するのは当時としては何の不自然さもない。命令の主体が当時幼年だった政宗の意思だったとしても、当主・輝宗の同意は当然あっただろうし、逆も然りだ。

結論としてはあいまいだが、ある程度は当家どうしの合意が成立したうえで、伊達家当主のお墨付きを得て行われた婚姻だっただろう。

検証④ いつの事件なのか?

この事件当時、各資料にはそれぞれ飯坂の局の年齢を

  • 『飯坂盛衰記』:いまだ十歳に足らず幼年
  • 『成実記』:十計
  • 『政宗記』:ようやく十歳計り
  • 『伊達秘鑑』:十歳ハカリ幼少

としている。10歳未満とする『飯坂盛衰記』と、約10歳であったとする他3冊でニュアンスが異なるが、おおむね一致している。間をとって、事件当時の飯坂の局の年齢は8~12歳の頃だったと仮定してみよう。

検証④-a.飯坂の局の年齢
『飯坂盛衰記』には飯坂の局の没年齢が記されているので、そこから彼女の生年と事件がいつだったのか、ある程度割り出せそうだ。飯坂の局は寛永11年(1634)に66歳で亡くなっているので、逆算すると永禄12年(1569年)の生まれになる。事件当時8~12歳の頃だとするなら、天正4年(1576)~天正8年(1580)のできごとという計算になる。

飯坂の局の没年齢から逆算した事件のタイミング考察

ちなみに当時の式部の年齢だが、彼の生没年が伝わっていないので飯坂の局の様に逆算はできない。だが、ふたりの間にかなりの年の差があったことは事実のようだ。『飯坂盛衰記』は「三十の餘り」、『政宗記』は「三十に及」としており、30代であると記述、『成実記』は「年入候」、『伊達秘鑑』は「壮年」としている。


検証④‐b.「側室」ということは...
離縁のあと、飯坂の局は伊達政宗の側室となった。「側室」とは「正室」に対する言葉なので、飯坂の局が政宗の側室となったのは、すでに正室・愛姫との婚約が終わった天正7年(1579)以降のことだろう。


検証④-c.黒川氏側の記録では...
黒川式部についていろいろ調べてみたら、手掛かりになりそうな情報があった。「源姓黒川氏大衡家族譜」なる系図がそれで、『大和町史 上巻』(pp.357-360)に収められている。大衡氏は黒川の支族で、当時の当主・大衡宗氏は黒川式部の同母弟でもある。

黒川式部について詳しく載っているのでそのまま引用してみよう。

氏定 黒川源四郎式部
弘治元年春 伊達家族 飯坂右近宗信 配長女 為継嗣 居於奥州伊達郡飯坂邑 永禄六年 有故与宗信不和親 同年十月 出飯坂 赴越後州 為上杉家幕下 賜采地
元亀二年八月四日 卒於越州宮川荘 年五十一 母同宗氏

「宗信」とあるが、宗康のことで間違いないだろう。要約してみると
  1. 弘治元年(1555)春、飯坂の局と婚約
  2. 永禄6年(1563)に宗康との関係悪化(=婚約破棄か)
  3. 永禄6年(1563)に越後へ出奔
  4. 元亀二年(1571)に死去
となる。うーん、困った。というのも、飯坂の局の誕生が永禄12年(1569年)なので、1~3はタイムライン的に矛盾してしまうのだ。「わしに娘が生まれたらそなたの嫁にくれてやろう」的な口約束があった可能性もあるが、生まれる前の娘と婚約し、それを反故にされたから他国へ出奔というのはちょっと考えにくい。当の飯坂の局が生まれる前のできごとだとしたら、ここまでの大ごとにはなりようがない。

しかも、この資料を注意深く読んでみると「長女を配す」とあるのだが、飯坂の局は飯坂宗康の次女である。「上杉家の幕下と為る」という他の資料には出てこない情報といい、宗康を宗信と誤表記するなど、どうもこの系図、細かい間違いが多そうだ。

上記の推論と整合性を持たせるならば、永禄6年が天正6年の誤りだとすると、つじつまが合いそうだ。すなわち

天正6年:飯坂の局10歳、式部と離縁

である。10歳に達しているので「十歳に足らず」とする『飯坂盛衰記』と矛盾するが、「然るに宗康兼々の所存に。式部は已に三十の餘り。娘はいまだ十歳に足らず。不都合なる故。此人に世を譲る共久しき契にも有まじ。殊に我身の榮花も久しからし。所詮式部と父子ノ緣を切。」なので、文脈の順序として宗康が二人の婚姻を「不都合」に思ったのが10歳未満のとき、実際の離縁は10歳になってからと考えると無理やりではあるがつじつまがあう。


検証④の結論
以上の考察を総合して、本考察では

  1. 天正5年(1577)より前:飯坂の局と黒川式部との婚約
  2. 天正5年(1577)より前:舅の飯坂宗康、黒川式部をうとましく思う様になる
  3. 天正6年(1578):離縁
  4. 天正6年(1578)以降、黒川式部、越後へ出奔
  5. 天正7年(1579)以降、飯坂の局、政宗の側室となる
という時系列を結論としたい。


検証⑤ 離縁の理由は?

これについてはほとんど一致している。

  • 飯坂の局と黒川式部に年の差がありすぎたこと
  • 宗康が、黒川式部に飯坂の家を継がせることが嫌になったこと
  • どうせ美人な娘なら、政宗に嫁がせようと目論んだこと

である。飯坂氏視点の『飯坂盛衰記』ですらこれを認めているので、信憑性はあるだろう。

『伊達秘鑑』には「(宗康が)輝宗ヘハ作惡ヲ訴ヘテ。名代ノ緣ヲタツ」という一文があり、飯坂宗康が黒川式部との縁を絶つにあたって輝宗に対し「作惡」、つまりあることないことを吹き込んで離縁の口実にしたと書かれている。他の資料には登場しない話であり、脚色の可能性も高いが、ありえない話ではない。


検証⑥ その後の黒川式部は?

これも一致している。実家である黒川には戻らず、越後へ去ったという。

なお、『飯坂盛衰記』意外の3冊は、この事件がのちに黒川晴氏が大崎合戦の際、伊達に背いて大崎方へついた理由の一つであるとしている。そもそも文脈上、この話が出てくるのは大崎合戦の際になぜ黒川晴氏が裏切ったのか? というエピソードとして登場する。

このエピソードはNHK大河『独眼竜政宗』でも登場する。
政宗「黒川月舟(晴氏)の寝返りは猫のせいだぞ。月舟は身内の許嫁を俺に取られて恨んでおるのだ」
猫御前「うれしゅうございます。殿は猫一匹と黒川の所領をお取替えになりました」

黒川晴氏は式部から見て甥にあたる。彼の目から見れば、叔父の婚約者を伊達政宗が略奪したように見えたのだろう。略奪婚は晴宗の代から伊達の伝統といえば伝統である。面子を失った叔父は、あわれ越後の国へ去った。

黒川晴氏はそこまで単純な動機で伊達に背く人物とは思えないが、心のしこりがあったことは確かだろう。

なお、「源姓黒川氏大衡家族譜」のみが越後に去った式部は上杉家に仕えたとしているが、その信憑性についてはここではあまり深入りしないでおく。


結論

以上の検証を総合すると、以下の様になる。

  • 天正5年より前:伊達家当主・輝宗のお墨付きを以って飯坂の局と黒川式部との婚約。黒川式部は飯坂氏の次期当主となる予定であった。
  • 天正5年より前:舅の飯坂宗康、黒川式部をうとましく思う様になる。理由は娘との年の差や、娘を式部よりも政宗の側室とした方が家の繁栄につながると考えたから。
  • 天正6年:実際に離縁
  • 天正6年以降、黒川式部、越後へ出奔
  • 天正7年(1579)以降、飯坂の局、政宗の側室となる
  • 天正16年(1588)、黒川式部の甥・黒川晴氏、大崎合戦にて伊達に背いて大崎方として参戦

最後に、この一連のできごとがそれぞれにとってどういう意味を持ったのか考察してみたい。

まず、黒川式部だが、許嫁との婚約を反故にされ、メンツを失い実家にも帰れず、異国の越後で再スタートを切ることになったのだから、損失しかないうえにダメージは大きい。

飯坂氏にとっては、一見プラスが大きい様に見える。飯坂の局は政宗の側室となり、飯坂宗康も(側室とはいえ)伊達家当主・政宗の岳父の地位を手に入れ、地位は向上している。しかし、政宗と飯坂の局の間に子は生まれず、念願の飯坂氏の跡取りは宗清の入嗣(慶長9年(1604))を待つことになる。

筆者は、この一連のできごとによって一番のダメージを負ったのは、実は伊達政宗ではないかと思う。

『飯坂盛衰記』によれば、政宗は「其容色世に勝れ」た飯坂の局を側室に迎え「御喜悦淺からず」という喜び具合だったという。一時は正室・愛姫との不仲もあったから、側室・飯坂の局の存在が政宗の心の支えになったこともあっただろう。

その見返りとして政宗は、黒川晴氏の恨みを買い、これが約10年後に大崎合戦の大敗に結びついてしまう。前述のとおり、黒川晴氏の離反については彼の婚姻関係など他の要素も見逃せないし、筆者は黒川晴氏が私情だけ伊達への事切れに及ぶような単純な人物であったとも思わない。だが、このできごとがなければ、黒川晴氏は伊達に背くという選択に走らなかったかもしれない。

大崎合戦の敗北がなければ、それに連動した最上との戦や、佐竹・蘆名の侵攻(郡山合戦)も起こらなかっただろう。大崎合戦の敗北を機に、政宗にとっての天正16年(1588)が四面楚歌の苦境となってしまったのは事実で、それがなければ政宗の仙道制覇はもう少し早まっていたかもしれない。