2016年9月1日木曜日

通木城

とおりきじょう
通木城
通木城主郭部(竹駒稲荷神社)
城郭構造
平城
比高
約5m (ふもとの標高:約15m、本丸約20m)
残存遺構
曲輪
築城
築城年
不明
城主
室田氏
室田右衛門 (大崎家中の人物か)
廃城
廃城年
不明(戦国時代末期~江戸時代初期か)
位置
住所
宮城県 大崎市 田尻 通木 御室
現状
竹駒稲荷神社、一般住宅、畑
ドライブ中に偶然みつけたお城を紹介。宮城県大崎市内の田尻という集落(旧田尻町)にある通木とおりき城というお城で、宮城県道175号 田尻瀬峰線を南下中にたまたま発見。

■ 通木城の歴史

通木城についてわかっていることはほとんどなく、築城の時期も主も不明である。ただ、興味深いのは宮城県の郷土史家・紫桃正隆氏が
「通木」の「木」は、「柵き」に通ずるものあり、古くは新田柵の東郭に擬さるべき所と信じている。(『仙台領内古城・館 第3巻』)
と述べており、対蝦夷城柵である新田柵の一部だった可能性を指摘している。だとすれば、その歴史は古代までさかのぼることになり、相当古いものとなる。

唯一明確にわかっているのは、戦国時代の館主として室田右衛門という人物の名が伝わっているだけである。『仙台領古城書上』には
一 平 通木城 東西26間  南北20間 城主 室田右衛門 
とある。「平」とは平城のことであり、東西26間 = 47メートル、南北20間 = 36メートルである。

当時の状況と室田という姓から推察するに、大崎氏支配下の城であったことがうかがえる。大崎家中に、不動堂城主であった室田小斎隆親なる人物もいたのだが、その親族だろうか。室田小斎は大崎合戦に際して師山城にこもって伊達軍を迎え撃っており、室田右衛門もなんらかのかたちで戦闘に参加していたかもしれない。

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赤い印の左上から高清水城、通木城、百々城、涌谷城


地理的条件をみてみると、大崎氏の南東方面の防衛線、つまり対葛西氏最前線であった高清水城 - 百々どど城 - 涌谷城を結ぶライン上にきれいにのっかることがわかる。

というわけで、この通木城も対葛西氏への備えとしての防衛拠点、出撃拠点としてなんらかの機能を果たしていたのではないかと思う。

廃城の時期も不明だが、葛西・大崎一揆で戦場となった形跡もないので、続く伊達氏の岩出山移封ののち、この地が伊達領となってからは使われなくなってそのまま廃城となったものと推察される。

なお、明治時代末期の電柱敷設工事の際に、多数の古銭が発見されたという。

■ 通木城の構造

県道沿いにある稲荷竹駒神社が本丸に相当するようで、周囲は約5メートルほどの高台になっている。


夏祭りの後だったのだろうか、社のとなりにやぐらが組まれていた。

神社の南北に畑が広がっており、こちらも周囲と比べると若干高度がある。曲輪として利用されていたものの名残だろう。

神社北側
先ほども引用した『仙台領古城書上』では南北20間(36メートル)に対して東西26間(47メートル)とあり、東西に広がっているとされているが、歩いてみた印象では南北に長いように思えた。東側はなだらかに高度を低くしており、曲輪の様子は見られなかった。こちらは一般の住宅となっているので、整地されてしまったのかもしれない。どちらにせよ、規模としてはそれほど大きくはない。

上記で、「対葛西氏への備えとしての防衛拠点、出撃拠点としてなんらかの機能を果たしていたのではないか」と書いてしまったが、どうも規模から考えて本格的な城郭であったとは考えにくい。近隣には、もっと城郭の建設地として最適であろう標高を備えた田尻大嶺、田尻八幡といった小高い丘もあることを考えると、城郭というよりは居館を簡単な堀で囲んだものだったのではないかと思える。
神社南側

とてもこじんまりとしていて、見学していてまったく疲れない、ドライブ中の息抜きにちょうどよいお城であった。この記事を書くのにも、現地滞在10分、図書館での調べもの1時間、執筆1時間と、最初から最後まで気分転換に最適という、なんとも優れたお城である(笑)

■ 参考文献
・紫桃正隆『史料 仙台領内古城・館 第三巻』(宝文堂、1973年)
・『日本城郭大系 第3巻 山形・宮城・福島』(新人物往来社、1981年)
・田尻町史編さん委員会『田尻町史』(1982年)
・『仙台領古城書上』(「仙台古城記」、仙台叢書刊行会『仙台叢書』第4巻所収、1923年)


2016年5月24日火曜日

後藤信康 -高坂弾正の再来と呼ばれた猛将-

ごとう のぶやす
後藤 信康 
統率64、武勇73、知略61、とここまではいいのだが、政治24
と完全に猪武者扱いである。後述の仙台城 普請惣奉行の功績や
治水事業のことを考えれば政治の値はもう少し高くてもいいと
思う。
別名
孫兵衛、肥後
生誕
弘治2年(1556年)注1
死没
慶長19年(1614年) 8月8日注2(没年59歳)
君主
伊達輝宗 → 政宗
藩
仙台藩
家格
宿老
所領
時期不明- 米沢 のそ紀村、堀金村、柳沢村
1585- 耶麻郡 檜原城
1589- 会津のうち北方 たいとく村
1591- 亘理郡 坂本城
1600以降- 栗原郡 宮沢邑
時期不明- 桃生郡 大森邑 2500石
1605- 領地召し上げ
1611- 江刺郡 三照邑 500石
 (後に遠田郡 不動堂村 22貫657文加増)
氏族
湯目氏 → 後藤氏
父
実父:湯目重信(重弘)
養父:後藤信家
兄弟
実兄:湯目実広(半内実広/元康とも)
義弟:後藤寿庵?
子
後藤近元
子孫
後藤元康、後藤寿康、後藤良康、後藤充康
(いずれも仙台藩奉行職に抜擢)
親戚
湯目景康
墓所
正源寺(江刺郡(奥州市 江刺区)三照)
伊達政宗配下の武将として活躍した人物。「武勇絶倫、戦功亦多」出典Aと言われ、常に黄色の母衣をまとったことから、「黄後藤」と称された。

■ 後藤氏

後藤氏は、左大臣 藤原魚名を遠祖とする後藤則明から始まる家系である。その4世孫の孫兵衛実基のときはじめて後藤の性を称し、その子基清が検非違使、それ以後も基綱・基政・基隆が鎌倉および六波羅の評定衆に任ぜられるなど、鎌倉幕府の御家人であった。

後藤氏が伊達氏に仕えるようになったのは、基末のときであったが、その時期も経緯も不明である。このとき基末は伊達氏によって羽前置賜郡において「のすき村」「堀金村」「柳沢村」の三邑をあてがわれた。これらの村が、現在のどこに相当するのかは不明である。『小牛田町史』では、これ以前の後藤氏に奥羽に所領を賜った形跡がないことから、これが新地給与であり、これが後藤氏が奥州に下ったはじめてのことであるだろう、としている。

19代信秀の弟、秀基は織田信長の兄、織田信広に仕えた。彼は出陣の際に織田信長から左文字の太刀、甲冑、朱柄槍および織田木瓜の紋を賜ったという。以後、朱柄の槍は関羽ひげの大男がもつならわしとなり、片倉氏の糊刷毛槍のりはけやり、茂庭氏の胴白槍とともに「後藤の髭」として伊達行列の名物となった。秀基は主君・織田信広と共に伊勢長島の戦いで戦死している。

秀基の遺児である後藤信道は、叔父にあたる信秀の養子となり、改めて織田信長に仕えた。信長の偏名である「信」の字を与えられ、織田木瓜の紋の使用もみとめられたという。

...ここまではすべて『小牛田町史』(pp215-218)が出典だが、織田信長の名前まで出てくると、さすがにあやしい気はする。織田側の史料を確認してみないとなんともいえない。

■ 孫兵衛 信康

はじめ孫兵衛と称した信康は、弘治2年(1556年)、湯目重信(雅樂允、重弘とも)の次男として生まれた。父・重信は湯目景康で有名な湯目家の分家にあたり、洲島城主を務めた。孫兵衛もこの洲島城で生まれている。同世代の伊達家臣としては、一つ上に鈴木元信、ひとつ下に片倉小十郎がおり、政宗と比べると10歳年上である。のちに刎頚の交わりとなる原田宗時は9歳下になる。

いつの頃かは不明だが、子がなかった後藤信家の養子となり、後藤家を嗣ぐことになった。養父、信家の病死後、のそ紀村注3、堀金村、柳沢村の所領も継承する。

天正10年(1582年)、かねてより伊具郡の領有をめぐって争っていた相馬氏との戦に出陣する。これが信康の初陣で、26歳のときのことであった。信康は政宗の麾下に入っていたと伝わっており出典B、このときに後に檜原城主を任せられるだけの信頼を勝ち取ったとものと思われる。

なお、伊達家の嫡子・政宗は前年の天正9年(1581年)当時15歳の年に初陣を済ませており、当時の武将としては、信康の戦デビューは遅かったといえるかもしれない。

■ 会津侵攻と檜原城代

檜原城。福島県 耶麻郡 北塩原村 檜原
天正13年(1585)、家督を継いだばかりの政宗は、会津の蘆名氏を攻めるべく檜原峠から会津方面へと侵攻した。世にいう関柴合戦である。このとき、信康は旗奉行として従軍した。この戦いで伊達勢は蘆名の本拠地である会津まで攻め入ることはできず、侵攻先を仙道(現在の福島県中通り)方面へと転じることになる。

一方、会津方面への攻守のかなめとなる土地・檜原には新しく城を築いて、これを後藤信康に守らせることにした。天正13年(1585)6月28日のことである。以後信康は、蘆名氏の滅亡(天正17年、1589年)までの約5年間、檜原城代としての役目を担うことになる。

檜原は、伊達の本拠地・米沢と蘆名の本拠地・会津との間の最短の峠道である。政宗の南下作戦は今後仙道方面が主戦場となったため、信康は最前線からは退き、地味な任務につくかたちになってしまったが、檜原の地政学的重要性は前述のとおりであり、在番中、信康をねぎらう政宗の書状が何度かきている。また、政宗の正室・愛姫(陽德院)からも信康を気づかってうちかけを与えている。

檜原城代に任ぜられて間もなくの天正13年(1585)閏8月28日には政宗の書を受けて小手森城の大内定綱攻めにも従軍したという。これについて、『小牛田町史』では「参加した」としているが、『伊達治家記録』の同日の条には政宗が信康と上郡山景為に向けて小手森陥落を知らせる書を送ったことだけが記されており、信康本人の従軍については述べられていない。檜原城代を命ぜられてからわずか2か月後のことであり、すぐさまその任を投げ出して大内攻めに加わったとするのは不自然に思われる。

また、この檜原城代のころ、信康の武勇は敵方にも知れ渡っていたらしく、高坂弾正(武田信玄配下の四天王のひとり、高坂昌信)の再来と恐れられ、城の近くに近づく者はいなかったという出典C。高坂昌信は、川中島の海津城主として上杉の武田領侵攻を抑え続けた名将であることから、信康を彼に比する言説が生じたのだと思われる。

■ 喜多方への移封

天正17年(1589)、摺上原の戦いで蘆名氏が滅亡すると、会津北方の備えとして喜多方城主に任命される。これも『小牛田町史』が出典だが、調べても喜多方城(北方城とも)なる城はどこにも発見できなかった。喜多方地方のどこかの城の別名だと思われるが、どの城を指しているのかは不明である。一方で『仙台藩家臣録』(『御知行被下置御帳』)には
会津之内北方たいとく村 被下置候由、御知行高は不承伝候。
とあり、喜多方地方のどこかに所領を新しく賜ったことは確実である。

■ 葛西・大崎一揆

宮崎城。宮城県 加美郡 加美町
天正18年(1590)、葛西・大崎一揆が発生すると、信康も従軍して一揆鎮圧に出陣した。天正19年(1591)の宮崎城の戦いでは、後藤信康と原田宗時の以下のようなエピソードが伝わっている。
二人はいつも先陣を競い合っていたのだが、後藤信康が夜にこっそり抜け出して城に忍び入って石壁に取りつくと「えらい早駆けじゃのう」という声がする。みてみると信康よりも先に忍び込んでいた原田宗時が城門の柱にしがみついていた。城門から敵が攻めてきたが、二人は隠れて城内にとどまった。敵の攻撃がやんで城内に戻ると、二人は城門を開け放って味方を招き入れ、そのまま城は大混乱になったという。出典F
一説によれば、後に改易となるのはこのときの抜け駆け行為が原因だといわれるが、詳しくは後述する。

続く佐沼城の戦いでは、敵兵の山内内膳を一騎打ちのすえに討ちとる活躍が伝えられている出典A。

■ 坂本城への移封

白石城。関ヶ原の戦いに連動して
伊達政宗が上杉から奪還した。
天正19年(1591)、秀吉の奥州仕置を経て政宗が米沢から岩出山に移封になると、会津も没収されてしまったため、信康も亘理郡坂本城主へと移動になる。この坂本城も対相馬方面防衛の要となる城であった。

文禄元年(1592)からの朝鮮の役にも政宗に従い渡海した。この文禄の役のさなか、朋友である原田宗時が風土病にて没している。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに連動した上杉との戦いでは7月の白石城の戦いに従軍する。『伊達世臣家譜』8月には政宗から、相馬氏に対しての備えを怠らないようにとの書をうける。こののち、前線の白石方面から退いて坂本城の守りについたと思われる。結局相馬と戦いになることはなかったが、このとき政宗から鳥毛鞘の槍を賜った出典G。

■ 仙台藩創世期の活躍

関ヶ原の戦いの後、政宗は居城を岩出山から仙台へと移し、仙台藩が成立する。信康は栗原郡 宮沢邑主(宮沢城主)となった。宮沢には、延長約4000メートルの「後藤江」なる用水路があり、『小牛田町史』ではこの「後藤江」が後藤信康、あるいはその義弟という説(後述)がある後藤寿庵による建設・設計である可能性について触れられている出典D。

宮沢の後、桃生郡 大森邑に移封となる。加えて新田を給与され、所領は2500石となる。宮沢、大森ともに移封がいつのことかははっきりしないが、『伊達世臣家譜』の文脈上、関ヶ原(慶長5年、1600)以後、慶長10年(1605)年以前のことであることは間違いないだろう。

また、この間の慶長6年(1601)1月11日には、仙台城築城にさいして川島宗泰と共に普請の惣奉行に任命されている出典E。仙台城はこの前年の慶長5年(1600)12月24日、政宗自ら縄張りはじめを行い、翌慶長6年(1601)正月11日から着工、慶長7年(1602)7月18日には一応完成して8月8日に政宗が仙台城入りした。

この間、新しい領地の経営と仙台城の普請を同時並行で行っていたとすれば相当な忙しさであろうし、仙台城普請惣奉行の功績が認められて宮沢、大森へと移封、加増されたと考えるのが自然ではないだろうか。

■ 謎の改易と晩年

ところが慶長10年(1605)突然、「御勘気を蒙り」領地を召し上げられてしまう。この理由について、一説によれば前述の宮崎城攻めの際の抜け駆け行為が軍法違反だとして罰せられたという。しかし、これでは約15年前のことを理由に処罰を受けたことになり、また、15年間もその軍規違反が放置されていたということにもなる。よって『小牛田町史』でも領地召し上げの原因として宮崎城の件とは関係がないであろうとしている。

ただ、この説以外にはどうして信康が改易となったのかを説明するものはなにもなく、理由はまったくの不明である。前後関係から考えれば、新しい領地の大森で何らかのトラブルがあったと考えられるかもしれない。あるいは、仙台藩内部において派閥争いのようなものがあり、それに巻き込まれたのかもしれない。当時は信康のような武功派の武将から文治派の官僚タイプに活躍の場が移りつつある世の中で、徳川家でも大久保忠隣の改易事件といった例がある。が、これらはあくまで、ブログ執筆者の想像にすぎず、いずれにせよ、信康改易の理由はわかっていない。

慶長16年(1611)、赦免されて江刺郡の三照村に50貫文(500石)にて知行を得る。さらに遠田郡 不動堂村にも22貫657文(226石)をあてがわれたが、以前の2500石と比べれば大幅な減俸である。屋代景頼のように追放された者もいることを考えれば、復帰できただけでももうけものであろうか。また『伊達世臣家譜』には宮城郡 赤沼村に「後藤堤」なる堤があり、この赤沼も後藤信康の所領であったであろうとしている。

慶長19年(1614)8月8日、59歳で没する。

子の近元の代に加増され、2000石まで復帰。さらに不動堂要害を賜る。後藤家は仙台藩において「宿老」の家格を与えられ、奉行を何人も輩出している。

■ 原田宗時との関係

「伊達二十四将図」より。
やっぱり並んでいる後藤信康と原田宗時。
上記、宮崎城の戦いのエピソードでもそうだったが、後藤信康は、伊達の家臣として原田宗時とセットで語られることが多い。この二人の間にある次のエピソードはとても有名で、NHK大河ドラマの『独眼竜政宗』でもこの小芝居がどこかで挿入されていた記憶がある。
原田宗時は、年少ながら武勇絶倫で知られていた。故あって信康に恨みがあり信康との決闘を望んだ。信康は客と囲碁をしていた最中であったが、宗時は信康への恨みを語ったうえで決闘を申し込むが、信康は悠遊と囲碁を続けている。対局が終わったのち、信康は落ち着いた様子で語った。
「おぬしの申すこと、いちいち心当たりがある。決闘するのは構わないが戦国の世にあっておぬしのような勇猛な士を失うのは惜しいし、私もそのようなことで死ぬのは御免である。国のために忠戦して戦場で死ぬべきであって、私憤で命を捨てるべきではない」 
この信康の態度に感服した宗時は信康に謝り、以後彼を尊敬し、二人は刎頸の交わりとなったという出典C。
このとき原田宗時がもった「恨み」がなんだったのかはよくわからない。あるいは幼くして勇猛として知られていた原田宗時は、同じく勇猛で知られていた後藤信康とどちらが強いのかをはっきりさせたかったのかもしれない。

さて、こういったエピソードのせいか、常にセットで語られることが多い信康と宗時であるが、Wikipediaをはじめとして、中には混同されているものも見受けられる。
朝鮮出兵の際、伊達の武者行列が京を通ったとき、派手ないでたちに「これぞ伊達者」と京の町衆が大騒ぎした。このとき、後藤信康と原田宗時は長さ一間半(約2.7メートル)の大太刀をぶらさげて...
というものなのだが、このとき大太刀をぶらさげていたのは遠藤宗信と原田宗時であり出典H後藤信康ではない。前述の通り、後藤家には信長から賜った槍を賜ってこれは伊達行列の名物になっているし、原田宗時のとなりには常に信康がいる、というイメージから混同されたものだと思われる。

■ 後藤寿庵との関係

仙台領における治水工事を行い、キリシタン武将としても有名な後藤寿庵が、信康の義弟であったという説がある。後藤寿庵の出自についてははっきりとわかっていないのだが、だいたい3通りの説がある。
  1. 後藤信家の第2子であったが、キリシタンであったために士族であっては信教の自由がないために、自分から家を継ぐのを辞退したという説
  2. 葛西氏の支族にして藤沢城主の岩淵秀信の一族であるという説
  3. 岩淵氏の出ではあるが、政宗が寿庵を登用するにあたって後藤信康の義弟としたという説
どれも確証はないのだが、寿庵が後藤信康と義兄弟の関係にあったとすると、後藤信康が仙台城の普請惣奉行に任命されたのにも納得がいく。すなわち、信康ならキリシタン武将として最先端の土木技術をもつ寿庵からのサポートを得られると見込んで、政宗は信康を奉行に任命したのだ。これらのことから、『小牛田町史』では「なんらかの『属縁』関係にあったのではないかとみられる」としている。

■ 関連地図と系図



■ 出典・注釈
注1:出典の『小牛田町史』p218には弘治2年(1583)とあるが1556年の誤り。
注2:出典の『小牛田町史』p222には8月8日とあるが、一方『三百藩家臣人名事典1』には8月29日とある。どちらも慶長19年没としているのは共通。
注3:出典は『仙台藩家臣録』第1巻 「拙者曽祖父後藤四朗兵衛儀」より。「のそ紀村」とは上記の「のすき村」の事だろう。
出典A:『伊達世臣家譜』
出典B:『小牛田町史』pp218、219
出典C:『仙台人名大辞書』 「後藤信康」の項
出典D:『小牛田町史』pp236、237
出典E:『貞山公治家記録』巻之二十一 慶長六年 正月十一日の条
出典F:『宮崎町史』より要約
出典G:『貞山公治家記録』巻之二十上 慶長五年 八月上旬の条
出典H:『貞山公治家記録』巻之十八上 文禄元年 三月十七日の条 「其中ニ遠藤文七郎宗信、原田左馬助宗時両人ハ、刀脇指ハ常ノ如クニ佩キ、其上ニ又木太刀ヲ長サ一間半ニ在リテ拵テ佩ク、長キ故ニ小尻ノサカリタルヲ、眞中此ニ金物ヲ打テ金鎖ヲ以テ肩ヘ釣リ上タリ」

2016年4月1日金曜日

「信長の野望・創造 戦国立志伝」 プレイ感想 -今後のアップデートへの期待・要望-

信長の野望シリーズの最新作、戦国立志伝が出た。発売日に購入して約一週間たったので、プレイの感想と今後されるであろうアップデートへの期待・要望を書いてみたいと思う。

■ 城主以降だと与えられない「領地」

戦国立志伝の最大の特徴は、武将プレイが可能なことで、武将 → 城代 → 城主 → 軍団長 → 大名 と徐々に出世していく。武将から始めると、城持ちではない代わりに「領地」が与えられ、そこで今作のウリでもある箱庭内政ができる。武将から出世していけば城持ちになっても領地は引き続き支配できる。つまり、城と領地、ふたつの収入・兵力が得られるのだ(そのため、支城の城主なのに本城よりも多い兵力を動員できるという倒錯もおきる)。

自分の領地では箱庭内政が楽しめる。ここからの収入・兵力はバカにならない!
しかしながら、いきなり城主の身分からスタートした場合、この領地が与えられないのだ。武将から徐々に出世するのを楽しんでほしい、という配慮なのかもしれないが、城主にも領地を与えてほしいところだ。大名にも、直轄地はあるのだからそれはそれで史実に即しているはずだ。

■ 外交への進言

今作では、身分によってできることに制限がある。城代では自分の判断で出陣はできないし、城主では敵城を攻め落としてもそれを自分のものにすることはできない。軍団長まで出世すれば敵国の城は「切り取り次第」となるのだが、その軍団長となっても外交は相変わらず大名の専権事項なのだ。

それはそれでいいと思うのだが、せめて外交に口を出す権利がほしい。

伊達家でプレイ。関東侵攻を前にして同盟国なし!
せめて北条とやりあう前に、その背後にいる武田家と同盟を結ばせてくれ!
今回は勲功に応じて「発言力」がたまり、大名に人員の増強や加増の申し出をする機能「提案」があるので、ここに外交政策への提言もできるようにしてほしい。というのも、AIの大名はほとんどまともな外交をしてくれない。おかげで、四方を敵に囲まれて効率的に攻略できないのだ。せめて一方と同盟して一方を攻める、くらいのことはしたい。「○○家と同盟を結ぶ」あるいは「○○家と断絶する」といった提案をさせてほしいところ。

■ 「派閥」機能の実装

本作最大のウリである「武将モード」なのだが、なにか足りない! と思っていたところ、気づいたのが家中での政治工作である。

ゲーム中では大名の命令を聞いて少しずつ勲功をためていけばほぼ一直線で出世できるてしまうのだが、ちょっと待て。本物の出世競争とは、そんなものではないはずだ。一応、大名から与えられた任務を他の武将が先に達成してしまったりといった競争はあるのだが、今のところ今作の「武将モード」は、前作「創造」から大名の権限を削り取った「ミニ大名モード」でしかないと思う。

今回、城主以上の身分になると勢力内勢力とも言うべき「家」という単位ができる。例えば伊達家の中に「亘理重宗家」があり「伊達成実家」があったり(※)、という具合に。せっかくこういった単位があるのだから、これを家中の派閥としてはどうか。
※仙台郷土史の文脈では亘理元宗・重宗の家系は「涌谷伊達家」、成実の家系は「亘理伊達家」と呼ぶのが正確。ゲーム内では「フルネーム+家」という呼称を用いる。
先述のとおり「発言力」という概念もあるので、自分の派閥が大きくなればなるほど、発言力も大きくなるというのはどうだろうか。

「発言力」を消費して大名に提案ができる。
次期当主の政宗を配下にくれ! といったムチャな提案も。
片倉小十郎が政宗を配下にしたり、直江兼次が上杉景勝
を配下にする、といったことも実現可能(笑
もちろん、自分の派閥を大きくするためには政治工作のコマンドで労力やら金やらを消費する。つまり、戦にはろくに出兵しないのに政治工作ばかりしているために発言力が大きい武将もいる。逆に、戦場では武功を立て続けているのにもかかわらず、政治工作をしていないばかりに本国の官僚派から軽く扱われている武将もいる。豊臣政権における武断派と文治派の対立の再現である! こういうプレイができたらリアルで面白いと思うのは、自分だけだろうか?

大名は大名で自分に従ってくれる武将の派閥を育てることで、できるだけ親政に近いかたちをとらなければプレイの支障となるし、逆に大名派よりも大きい派閥を有することで、大名を事実上の傀儡とするのもアリ。

先ほど触れた外交への提言とからめても面白いかもしれない。伊達家の場合、東北を制覇してから関東以西へ進出しようとするとだいたい北条家と上杉家のどちらかが壁になるパターンになりがちなのだが、「北条と同盟、上杉領へ侵攻派」と「上杉と同盟、北条領へ侵攻派」の対立のようなものがあってもいいと思う。

大名に息子や血縁者が二人以上いる場合、誰を跡継ぎとするか、といった要素も派閥の機能と絡められると思う。

■ 準備できるまでひたすら待ちゲー、諸悪の根源は「練度」

信長の野望シリーズは基本的にどれもそうなのだけど、敵の領土に攻め入るための準備(内政)と実際の軍事行動(外征)の繰り返しである。今作「戦国立志伝」では、敵の城に攻め入るまでの準備の期間がとにかく長くなってしまうのがつらい。体感的には、「創造」のころと比べて2、3倍程の待ち時間が生じてしまっており、ゲームがリズム良く進まない。

その原因は、間違いなく「練度」というパラメータにあると思う。前作では
兵力の回復を待つ → 攻め込む
のパターンだったのが、今回
兵力の回復を待つ → 練度の上昇を待つ → 攻め込む
という、さらにもう一段階の待ち時間が生じることになってしまっている。この練度というパラメータは、上昇することにより組める陣形・戦法が増えたりとプラス面もあるのだが、それ以上に基礎値の40を下回ると、部隊が弱くなる(被害を受けやすくなる)といった側面が大きい。練度が低いまま戦場に部隊を送ると、ボコボコにダメージを受けまくってまともな戦いにならない。

ゲームにおける「練度」は「新兵が加入すると下がる」という表現で説明されているのだが、実際には兵力が回復すると下がる。兵力の回復 = 新兵の加入 = 部隊練度の低下、ということらしい。

逆に、兵力を最大値まで回復させたうえで(これ以上新兵が加入しない状態で)待っていれば練度は自然に回復するのだが、これが実に厄介だ。兵力の最大値というのは、城下町の開発や人口の増加により、常に少しずつ増え続けているのが普通だろう。つまり、もう少し正確に書くと
兵力の回復を待つ(その間練度は下がり続ける) → 兵力が最大値まで回復する
→ 兵力の最大値が上昇する → 兵力が回復する(また練度が下がる)
→ 兵力が最大値まで回復する → やっと練度が安定して上がりだす
→ 兵力の最大値が上がると、また練度が下がる...のエンドレスリピート
なのだ。練度が上がるのを待っている間に兵力の最大値を揚げるような城下町開発をすると、練度の回復は余計に遅くなってしまうというスパイラルに陥ってしまう。

なぜか北条家に所属している、小高城所属の政宗の部隊。現在、練度はたったの12。これで戦場に出すと、
優秀なパラメータの政宗の舞台なのが信じられないくらいのダメージを受けてボッコボコになってしまう。
一か月で練度が18回復することになっているが、その間に兵力の上限値も少しずつ上がるため、
練度低下 → 回復 → 低下 → 回復、を繰り返して実際には10しか上昇しなかった。練兵って大変!!

以上、プレイしたことない人にとってはイメージしにくいかと思うが、要は部隊が出撃可能な状態になるまで待たなくてはいけない時間が長い! ということなのだ。しかも、あっちの部隊は準備万端なのに、こっちの部隊は練度ゼロ、という状況も割とよく起こるため、創造シリーズのウリである、多数の部隊による複数経路からの連携侵攻というものがやりにくくなってしまった。大規模な侵攻をしようとすれば、とにかく全部隊の兵力、練度が回復するまで待つしかない。

実際の戦国時代では、敵はこちらの準備を待ってくれないし、むしろこちらの隙をついてくるのが戦というものである。兵の練度が低いまま部隊を戦場にに投入せざるを得ないような状況もあっただろうから、これはこれでリアルっちゃあリアルなのだが、ゲームとしてはどうもテンポが悪いのは否めない。

せめて、金やら労力を消費することによって練度の回復率にブーストをかける「演習」といったコマンドを設けてはどうか。あるいは、武将の能力値(統率、武勇)を部隊の練度上昇率にリンクさせる、とか。

ある程度出世して、城をいくつも所有している状況になれば、とっかえひっかえ部隊を前線に送り込めるようにはなるのだが、それまでの待ち時間、というかゲームの停滞感が正直辛い。

■ 初期配置、身分の編集

これについては好評だった「『信長の野望・創造』における東北地方にツッコミをいれる」の続編として、別の記事を書こうかと思っているのだが、今作では史実武将がシナリオの初めに所属している城や身分がかなりめちゃくちゃだったりする。なんでこの時代にコイツがこの城にいて、しかも城主なんだよ! といった風な。

とはいえ、2000人以上の武将が登場するゲームなので、そこまで正確に再現するのはさすがのコーエーも不可能だったみたいだが、せめてこれを人力で編集できるようにしてほしい。


...といった感じで、1週間プレイしてみた感想と改善案をいくつか書いてみた。今作はパワーアップキットが発売されず、すべてアップデートで対応されるとのことですでに今後のアップデート予定も組まれている様だ。

全体的な印象としては「思っていたほど前作から変わっていない」というのが自分の正直なところなのだが、今後のアップデート次第で化ける余地はあるゲームだと思う。というわけで、期待を大にして待ってます、コーエーさんっ !!