2014年8月29日金曜日

小斎峠 -宮城のマーストリヒト-

宮城県の峠シリーズ第2弾。今回は小斎峠。

太平洋沿いの山元町と、伊具盆地の丸森町を隔てる山地をこえる峠。前回の笹谷峠ほど「国境」感はないものの、小斎城を目指す途中、いいコースにあったので通ってみた。


峠の山頂は三叉路になっており、それぞれ宮城県道44号が山元町と角田市へ、同県道245号が丸森町・金山方面に伸びている。名前の元になっている小斎へは、44号の途中で分岐した道を降りる。

特にそれといった記述は見つかっていないのだけれども、伊達・相馬戦争における小斎城を巡る戦いでは、おそらく相馬勢はこの峠を通って小斎城に向かったと考えるのが自然だろう。

実はこの山頂、そのまま山元町・丸森町・角田市の境界になっている。境界線上の峠でもあり、そこからそれぞれに道が伸びているという、なんともシンボリックな峠なのだ。

これと似た場所に、世界史に登場する条約名でも有名なオランダのマーストリヒトに「ファールスの丘」というのがある。国と市町村で規模は違うものの、こちらもオランダ・ベルギー・ドイツの3つの国境線が交わる場所で、観光名所になっている。

というわけでこの小斎峠、「宮城のマーストリヒト」と勝手に命名。


大きな地図で見る

山頂の三叉路は、道を通すためにだいぶ削ったのだと思われる。三方が丘に囲まれた交差点になっていた。
写真左側が丸森・金山、右側が角田・小斎方面。
後ろ側が太平洋・山元町方面。
この写真からみて裏側には、もっと高そうな地点が見えた。そっちが本来の峠なのかもしれないと思って行ってみると...


うぉ! 見事に削られとる!!

Google Mapで後で確認してみると、この一帯が広範囲にわたって削られているのが一目瞭然。

なんの工事なのかと思って看板を見てみると、目的は「土石の採取」になっている。

2年経った日付ではあるものの、開始日が「3月11日」なのも偶然ではあるまい。

この峠のふもとの太平洋側は、東日本大震災の被害をモロに受けた地域である。おそらくは、東北の各地で進んでいる大規模な堤防の構築や護岸工事のために使う土砂を集めているのだろう。

宮城のマーストリヒトの貴重な地形が失われるのはもったいない気もするが、貴重な人命には変えられない。人はこうやって、大地を切り開いて文明社会を発展させてきたのだ。

2014年8月20日水曜日

伊達・相馬戦争 その1 -天文の乱の傷あと-

■ 戦のはじまりとその舞台

天文の乱の後、息子・晴宗に敗れた伊達稙宗は、隠居領として丸森・金山・小斎・新地・駒ヶ嶺の五ヶ村を譲り受けて丸森城(丸山城とも)に隠居した。

【初期の伊達・相馬戦争 関連地図】
稙宗が隠居領としてあてがわれた丸森・金山・小斎・新地・駒ヶ嶺5ヶ村には
どれもそれに前後して築城が行われ、その主戦場になっている。
この地は相馬領に隣接する地で、かつ相馬勢は天文の乱において終始稙宗を支援した。相馬もさすがに稙宗の存命中は遠慮もあったと思われおとなしかったが、その威光も衰えてくるとこの地への侵略を実効に移した。

まず、1564年(永禄7年)に金山を攻略。

この間、稙宗は相馬の侵略に対して抵抗を試みた形跡はなく、戦いらしい戦いもなく相馬領化が進んでいる。あるいは乱の間も稙宗を支え続けた相馬顕胤に対し、稙宗も信頼、恩義があったのであろう。あえてこれを黙認していたのかもしれない。現に隠居後も相馬は稙宗への世話を続け、稙宗もまた、相馬を訪れていることから、両者の仲はそれなりに良好だったようだ。

あるいは、初めて相馬が伊達領を侵略した1564年というタイミングを考えるならば、これは稙宗の没する一年前である。相馬からすれば、稙宗の威光はすでに衰え、伊達の実権は息子の晴宗にうつっている。もはや年老いた稙宗に抵抗する力はない、加えて大きな貸しのある稙宗ならこれを黙認するであろう、とマキャベリスティックに判断して侵略をしたのかもしれない。

初期の伊達・相馬戦争はこの地を巡り、あるいは主戦場として行われるわけであるが、地図(『仙台市史 古代中世編』の資料を参考に作成)をみてみよう。この一帯が伊達にとって相馬領に対して半島の様に突き出ていることがわかる。

金山城から見た伊具盆地
(クリックで拡大、南から北に臨む眺め。正面が角田、右が太平洋方面)


伊達にとっては対相馬最前線あるいは太平洋沿岸までの領地拡大の足掛かりとして、相馬にとっては伊達の本拠地である伊達郡や奥州街道筋への入口としてそれぞれ戦略上重要なポイントだったことだろう。また、丸森・金山には鉄鉱山があったことも大きかっただろう。

相馬による実効支配

1565年(永禄8年)、伊達稙宗死去。

ことの真偽は定かではないが、稙宗の没後、相馬は「稙宗からこの地の相続を許された」と主張。死人に口なしであるが、大義名分を掲げて実効支配を正当化し、さらなる侵略を本格化した。

まず、家臣の藤橋紀伊、井戸川将監にうばった金山の地に城を構築させた。続く1566年には稙宗の勢力下にあった小斎平太兵衛を攻め滅ぼして小斎城を占領。藤原紀伊を城代に任命した。

1570年(元亀元年)、もはや遠慮のかけらもなく、稙宗の隠居どころであった丸森城を攻略。相馬の勢力圏は伊具郡南部の阿武隈東岸全域に及んだ。同時に家臣団を再編し、
丸森城:門間大和
金山城:藤橋紀伊
小斎城:佐藤為信(宮内)
を配して実効支配を完成させた。

■ 天正4年 相馬の役

1576年(天正4年)5月には相馬盛胤による伊具郡再侵攻と、小斎城主・佐藤為信の家老取立てがあった。これにより相馬が小斎を重要拠点として位置付けていることが伝わったのか、同7月には伊達輝宗が小斎を攻めている。この年の戦は、輝宗にとって重大な決意をもって行われたようで、伊達領北方の家臣たちがほぼ総動員されている。以下、そのメンツを確認してみよう。
  • 01番備 亘理重宗
  • 02番備 泉田景時
  • 03番備 田手宗時
  • 04番備 白石宗実
  • 05番備 宮内宗忠、砂金常長
  • 06番備 粟野宗国
  • 07番備 四保宗義、沼辺重俊、福田助五郎
  • 08番備 石母田三郎、大町七郎、江尻彦右衛門
  • 09番備 村田近重、小泉下野、中名輿市郎、舟迫右衛門
  • 10番備 秋保勝盛、中嶋宗意、中村盛時、支倉時正、小野雅樂之允
  • 11番備 桑折宗長、大條宗直、成田紀伊、下郡山朝秀、西大窪九郎三郎、桐ケ窪治部大輔
  • 12番備 中目長政、中嶋宗求、桜田三河、間柳式部大輔、山崎丹後
  • 13番備 飯坂宗康、瀬上景康、大波長成、須田左馬之助、須田太郎右衛門
  • 14番備 原田宗政、富塚宗綱
  • 15番備 遠藤基信、濱田大和
  • 16番備 伊達実元
  • 17番備 御旗本(『性山公治家記録 巻之三』天正4年8月2日の条より)

1579年(天正7年)12月には、伊達と相馬の間で一時的な和解が成立した。

■ 小斎を巡る攻防

1581年(天正9年)4月、硬直していた戦線であるが、ひょんなことから小斎が伊達の手におちる。小斎城主・佐藤為信が相馬を裏切って伊達についたのである。詳しくは「佐藤為信」の項を参照していただきたいが、一言でいうと相馬家中のいざこざが原因であった。これに前後して、伊達勢は冥護山に設陣し、亘理元宗も西山に布陣している。

この間(最後の小斎城は伊達にとって棚からボタ餅的に得た戦果であり)、終始相馬に押されっぱなしであったこの戦であったが、伊達が逆襲を始めるのは政宗の登場以降である。

名称について

おそらく、どの文献を探しても「伊達・相馬戦争」なる項目はみつからない。当ブログが便宜上かってにつけた名前である。これを一連の戦争としてとらえるのであれば、その時期はおおまかに3期にわけられる。すなわち
第1期:相馬の実効支配が進んだ永禄年間
第2期:戦線が膠着した輝宗時代(但し、小斎の奪還はあり)
第3期:政宗によって伊達が失地を挽回する天正年間(1580年代前半)
第4期:田村家の相続をめぐって争われた1580年代後半
この「伊達・相馬戦争 その1」のページでは、第1期、2期について述べたことになる。

第3期に関しては後編で詳しく述べるが、(固有名詞としての扱いかどうかはともかく)「相馬の役」と記述している資料もあり、一般的に伊達と相馬の戦争といえば、伊達政宗が初陣を飾ったことで最も華々しく、また激しかったこの時期を指すのが一般的であろう。

名称について真面目に考えるのであれば、単純に当事者の名をとって「伊達・相馬戦争」、あるいは戦場名をとって南伊具合戦、阿武隈東岸の戦い、小斎合戦(第2期限定)などが考えられるだろうか。

ただし、第3期の戦場は浜街道筋にまで及んでおり、第4期にいたっては蘆名を筆頭とする仙道筋の大名連合との戦争とも関連付けて論じられるべき性格をもつので、やはり別物として扱うのが妥当かもしれない。

なお、4期については「田村継承戦争」なる名前がしっくりくるのではないかとひそかに自負している。相馬の影響力を排除し、田村の世継ぎを定めた政宗の施策を「田村仕置」といい、こちらは歴史用語として定着しているらしい。

その他、期間をとって「25年戦争」などが考えられるだろうか。

■以下、余談ではあるのだが...(司馬遼太郎風)

伊達家の戦国時代を考える場合にややこしいのが、特に政宗の登場以降顕著なのだけれども、どの戦争も連動していることだ。あっちゃこっちゃに神出鬼没の動きをみせる政宗のせいで、多数の戦線が同時進行で動くのだ。このあたりの同時多発的な戦争の進め方は、信長に匹敵するだろう。ましてや信長と違い、政宗には「秀吉による天下統一」というタイムリミットが迫っていたためになおさらそれが激しい。

うん。わかるよ、わかるよ政宗さん。焦っていたんだよねぇ。

しかし、いろんな角度から研究され、様々な文献で語られている信長の戦争と異なるのは、各戦争の名称が定着していないために、ということはつまり、学術的な分類があいまいなために、すべてを同時に語らなければならず、それがわかりにくさの原因になっていることだ。

たとえば奥羽仕置以前の伊達関連で名称の定着している戦いといえば、「天分の乱」「人取橋の戦い」「摺上原の戦い」くらいなものであろう。前者はともかく、後者ふたつは対蘆名戦争という大きな文脈のなかでのひとつの事件にすぎない。ミクロな事件には名前があっても、マクロな流れに歴史的名称が与えられていないのだ。

ここで「対蘆名戦争」ととりあえず呼んでみたマクロな戦いの流れに対して、具体的に何という名称がふさわしいのかは学者さんに議論していただくとして、なんらかの名前を与えておいたほうが大きな歴史の流れがわかりやすくなると思うのだが、同意いただけないだろうか?

よって、当ブログでは勝手ながらいろんな事象に名前をつけていくことをお断りさせていただきたい。今回、そういう宣言もこめて記事のタイトルを「伊達・相馬戦争 その1」とした。学術的なブログではないのであくまで勝手な行為であることは自認しているが、事象に名を与えることによって物事を分類し、わかりやすく物事を記述したいからだ。

中島宗求

なかじま むねもと 
中島 宗求 
別名
新六郎、新太郎、左衛門、伊勢
※苗字については「中嶋」の表記ゆれも散見
生誕
1522年(天文21年)
死没
1622年(元和8年) 享年歳
死因
不明
君主
懸田義宗 → 伊達輝宗 → 伊達政宗
藩
仙台藩
家格
一族
所領
金山城 2000石
氏族
中島氏
在位
当主:不明
父
中島宗忠
母
不明
兄弟
信利、宗求、信真
妻
富塚宗綱の娘
子
中島宗勝
子孫
中島恒康(幕末期)
墓所
瑞巌寺
中島家はもともと懸田氏の家臣だった。主君の懸田義宗は、伊達稙宗に仕えた武将で、稙宗とその息子・晴宗が争った天文の乱の終息後も、新当主となった晴宗とはしこりが残っていたらしい。

乱の後の1550年代前半、懸田氏は伊達晴宗に対して反乱を起こすが、中島家はそれにしたがわず、伊達家への忠義をつくし、以後伊達家に直接に仕えるようになる。

宗求も、時期ははっきりしないが、伊達郡の保原城を賜り領主となる。

輝宗に従って各地を転戦。たびたび軍功があったという。いつのことかは定かではないが、輝宗時代の宗求のエピソードとして以下のようなものがある。

輝宗が軽装で敵軍の偵察を行っていた際、敵兵からの狙撃をうけた事件があった。その際、側近にあった宗求は身を挺して輝宗をかばい、頬を撃ち抜かれた。現代風にいうところのボディガード、ブレッドキャッチャーである。見事な忠誠心。顔面に銃弾を受けながらもひるまずに敵兵を倒し、輝宗のピンチを救った。

金山2000石城主へ

記録は今のところ見当たらないが、1581年(天正9年)の伊達政宗初陣、翌1582年(天正10年)の相馬攻めにも従軍していたであろう。

1584年には田村・白川・佐竹・岩城諸氏のあっせんにより相馬との和議が成立。忙しい戦ばたらきの合間をぬって、この時期に瑞巌寺の中興開基となって同寺を菩提寺に定めている。

1586年(天正16年)、再び勃発した伊達・相馬戦争における金山城攻めに父の宗忠とともに出陣。その陥落に大きな功労があったことから、保原から移って金山城主となり、金山本郷、大内、伊手の3ヶ村2000石を賜る。

この金山城攻めと2000石の拝領は宗求について語る資料ではかならずセットで記載されているが、おそらくは前述のエピソードしかり、親の代から伊達家に忠実に仕えたことから輝宗・政宗親子からの信頼は厚く、これまでの労にねぎらう意味での2000石拝領であったと思われる。対相馬最前線に配置したのもその信頼のあらわれであろう。

金山城。江戸時代には伊達21要害のひとつになった。
「要害」という名称にかわっても、ほぼ戦国の城塞の様子
を残したままだったと考えてよい。

21要害の中では遺構の保存状態が良く、石垣も残っている
比較的珍しい物件。本丸への登山道も整備されている。
1588年、伊達政宗の命によって金山城の改修を行い、対相馬前線としての機能を強化。このときに完成した姿が、現在の金山城の基礎となっている。

また同じ年、政宗に対して鹿の皮と鉄を献上したという記録がある。『丸森町史』には
「金山の西方約五〇〇㍍、雉子尾川西岸の山麓に位置しており」
「鉱石は柘榴(ざくろ)石や緑簾石などのスカルンを多少交える部分もあるが、ほとんど純粋の磁鉄鉱に近く、鉄分は六〇㌫を超え、硫黄、憐などに乏しい上鉱である」
という蛭田鉱山の記述があり、おそらくこれと関連付けて考えて間違いないだろう。鉄砲の配備をはじめとする配下の近代化にいそしんでいた政宗にとってうれしい献上物であったことだろう。

政宗時代の活躍

1589年(天正17年)、駒ヶ嶺城攻めでは敵兵からの「一人で来れば立ち退く」という申し出に応じて単独で入城。無血開城を実現させる。その功績によって宇多郡にて3ヶ村を加増された。

1591年(天正19年)、葛西・大崎一揆の鎮圧に出陣。

1592年(文禄元年)、政宗の朝鮮出陣の際にこれに従軍。

1595年(文禄4年)、秀次事件に連座して政宗にも疑惑がかかったが、関白・秀吉の怒りと疑惑をとくために湯目景康とともに奔走。ここでも功績をあげている。ちなみにこの際、湯目景康は秀吉に政宗の無実を訴えた地である「津田」の地名を苗字として賜っているが、宗求に対してはそういった配慮はなかったのだろうかは疑問に思われる。宗求は秀吉にとって印象に残らなかった、あるいは直接面会しなかったのかもしれない。
追記:きちんと秀吉に「直訴」していることを確認。やはり湯目景康に比べて印象が薄かったのか…。

晩年

いつからかははっきりとしないが、亘理郡小山村に隠居し、子・宗勝より隠居領として500石の分知をうける。さらにのちに気仙郡の長部村500石を加増され、同村に移住。

子・宗勝の死後、宗求の隠居領であった地は官納、つまりは藩に献上したが、それが再び中島家へと与えられ、中島家は金山2000石領主として幕末まで存続する。ちなみに戦国から明治時代にかけて同じ土地を治め続けた伊達家臣もわりと珍しい部類で(※)、金山の土地・領民と中島家のつながりも相当濃いものであったことが想像できる。
※たいていの伊達家家臣は政宗の小田原参陣後(岩出山転封時)、もしくは江戸時代初期の仙台藩創世期における家臣団再編の際に領地替えを体験している。

兄弟・子孫

中島家5代・宗盈は藩の奉行職に登用され、幕末期13代の恒康は勤皇派指導層のひとりとして活躍。さらに14代信成は四十七銀行創立者となった。なかなか華々しい一族である。

なお、『私本 仙台藩士事典』によると宗求の弟「中島大蔵信真」なる人物について記載がある。天正期のいずれかに政宗の命により間柳式部のあとを1300石で継いで別家をたてる、とある。

しかしその息子、つまり宗求の甥にあたる中島左門は小姓として政宗に奉公したが、「慶長七年故有り切腹を命ぜられ家亡」したとのこと。どういった「故有」ったのかはわからないが、小姓として政宗に仕えていたのは確実なので、もしかしたら政宗や他の小姓との間に色恋にまつわるドロドロの愛憎劇があったのかもしれない…という腐女がよろこびそうな妄想(失敬!)も可能である。