2017年12月10日日曜日

鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる- 【悲運の一族・飯坂氏シリーズ④】

さて、これからいよいよ本格的に飯坂家の歴代当主に触れながら、彼らの歴史について触れてみたいと思う。

とはいいつつも、初代・為家以降、戦国時代の当主・飯坂宗康までの鎌倉・室町時代の飯坂氏の事跡については、不明点が多い。手掛かりになりそうなのは「伊達分流飯坂氏系圖」(以下、「飯坂系図」)くらいで、せいぜい当主の名前くらいしか情報がない。

分家である下飯坂氏の「藤原姓下飯坂氏系図」(以下、「下飯坂系図」)の方が若干情報が詳しく、こちらには当主の生没年月日や、兄弟姉妹、母親の情報などもあるので、情報を補いつつ、足りない部分は多少の想像も含めつつ、飯坂氏の歴史を追いかけてみよう。

以下、判明していない事象が多いため「~と思われる」「~かもしれない」といった推定表現が続出する。あくまで筆者の推論ベースであることに注意して読んでほしい。

初めに、生没年がはっきりしている8代・重房までの生きた年代と簡易年表をまとめた図から掲載する。
クリックで拡大。赤字は東北に関わるできごと
それにしても、皆わりと長生きな一族である。

■ 2代・伊達家政

「飯坂氏系図」「下飯坂氏系図」ともに諱いみなが一致。幼名の「彦四郎」も一致している。母親(つまり伊達為家の妻)は畠新左衛門尉資弘の女だという。

弟に家延がおり、この人は常州 飯野弥二郎高光の養子となり家を継いだという。妹も常陸の志田五郎左衛門尉資広の室となっている。伊達家の初代・朝宗は常陸入道念西に比定されることもあり、常陸の一族との婚姻関係は、こういったバックグラウンドを連想させる。

正嘉2年(1258)7月11日、58歳で没とあるので逆算すると1200年の生まれ。活動の時期としては、ちょうど鎌倉幕府の創成期にあたる。


■ 3代・伊達宗政/家綱

「飯坂系図」では宗政、「下飯坂系図」では家綱、左近左左(ママ)衛門尉の名で伝わる。幼名の「小太郎」は一致する。母親(=家政の妻)は奥州 伊具四郎大夫長清の女だという。伊具とは伊具郡の伊具であろうか。だとすれば、伊達の本拠地・伊達郡を飛び越えた婚姻関係がこの時期すでに展開されていたことになる。また、兄弟姉妹の情報はみえない。

永仁5年(1297)6月22日、67歳で没とあるので逆算すると1230年の生まれ。活動の時期としては2度の元寇(1274、1281)によって鎌倉幕府の体制に揺らぎが生じてくるタイミングである。


■ 4代・飯坂政信

両系図ともに諱、伊賀の別称まで一致する。「下飯坂系図」では政信以下、9代・重朝まで幼名と思われる「小次郎」の記述が伴うが、おそらくこれは「小四郎」の誤りであろう。家祖・為家が「四郎」であったため、歴代当主は幼名として「小四郎」を名乗ったのではないか。母親(=宗政/家綱の妻)は湯田三郎左衛門尉 秀清の女という。

兄に「家信 宮城越中守」なる人物がおり、おそらく宮城家に養子に入ったものと思われる。姉は伊達郡 大森四郎通忠の妻。弟・源五は早世。妹は伊達郡 中村淡路為長の妻として名が伝わる。

特筆すべきは、この4代政信の代に伊達から飯坂に改姓しているということだ。姉妹も伊達郡の一族(大森姓なら信夫郡では? という気もするが)に嫁いでいることから、だいぶ土着が進んだものと思われる。

正和4年(1315)8月25日、60歳で没とのことで、逆算すると1255年の生まれ。活動の時期としては、やはり2度の元寇と永仁の徳政令(1297)により鎌倉幕府・北条政権に揺らぎが生じてきた時期だ。おそらくこの人の「政」の字は、同じ時期の伊達家4代当主・伊達政依(1227~1301)の偏諱(一字拝領)ではないかと思われる。


■ 5代・飯坂俊信

両系図ともに諱は一致。「飯坂系図」では彦四郎、「下飯坂系図」では小次郎、式部、大蔵の別称が伝わる。母親(=政信の妻)は二階堂四郎左衛門尉行定の女。おそらく、須賀川二階堂氏の誰かだろう。

妹は伊達家士・渡辺源七定綱の妻、弟に信明(彦四郎)、家政(弥五郎)の名が伝わる。

歴応3年(1340)7月22日、63歳で没とあるので、逆算すると1277年の生まれ。彼の晩年はちょうど、南北朝時代の動乱が始まる時期である。揺れる鎌倉幕府、後醍醐政権、足利氏ら建武政権に反発する武士団などの間で舵取りが難しい時期であったはずだ。


■ 6代・飯坂信近/近信

「飯坂系図」では信近、「下飯坂系図」では近信と、明らかにどちらかが誤植であると思われる名が伝わるが、どちらが正であるかなんとも判断しがたい。「飯坂系図」では式部大輔、「下飯坂系図」では式部の官名が伝わる。

母親(=俊信の妻)は刑部少輔 平盛胤の女であるという。苗字が伝わらないが、平姓の「盛」「胤」とくればどことなく近隣の相馬氏を連想させる名前ではある。ちなみに相馬氏には13代・15代当主に相馬盛胤がいるが、生きた時代(13代:1476-1521、15代:1529-1601)は一致しない。また、特に兄弟の名は伝わっていない。

文和元年(1352)8月4日、52歳で没とされ、逆算すると1291年の生まれ。この時代は本格的に南北朝の動乱の時代と重なる。当時の伊達家7代当主・伊達行朝は後醍醐政権の奥州トップ・北畠顕家の遠征に従ったり、伊達勢力下の霊山にこもったり南朝方としての活躍が知られる。飯坂氏も当主・伊達行朝に従って、南朝方として活動したと考えるのが自然だろう。
霊山。「りょうぜん」と読む。福島県 伊達氏 霊山町。
伊達氏の支配領域で、奥州南朝方の拠点となった。

であれば、飯坂からみて霊山はわずか20キロ西方になる。霊山は北朝方に包囲された記録があるので、この時期の飯坂も、あるいは敵方の侵入を許したかもしれない。信近/近信も霊山の山城に籠城したり、北畠顕家に従軍して機内まで壮大な遠征をおこなっていた...かもしれない。


■ 7代・飯坂重近

両系図ともに諱が一致。また受領名の「和泉(守)」も一致する。母(=信近/近信の妻)は中条 和泉次郎左衛門尉 藤原秀明の女という。東北で中条氏といえば、越後の揚北衆・中条氏(いちおう藤原姓)くらいしか思いつかないのだが、これまで近隣で済ませていた婚姻関係からはどうも飛躍が過ぎる気はする。

また、弟に飯坂平四郎安重、伊達郡・小倉俊信の養子となった孫次郎信重の名が伝わる。

永徳3年(1383)9月24日、61歳の卒なので、逆算すると1322年の生まれ。この人も、青年期は父親と同じく南北朝の動乱期にあたるため、南朝方としてなんらかの活動をしていたのではないかと思われる。

父の時代と違うのは足利氏勢力の内紛である観応の擾乱(1349-1352)を経て一時的に奥州南朝方の勢力が盛り返したものの、大局的には南朝方が衰退し、北朝方優勢の時代となったことである。伊達氏も南朝方の武将であった行朝の子・宗遠の時代からは北朝方に転じたとされており、この時代の飯坂重近も難しい対応を迫られたことだろう。



■ 8代・飯坂重房

「飯坂系図」では家房、あるいは和泉守、重房、「下飯坂系図」では重房、薩摩、和泉の名で伝わる。ここでは一致する重房の名を採用した。母親(=重近の妻)は赤井兵庫助高次の女。兄弟の名は伝わらない。

応永20年(1413)4月10日、69歳没と伝わり、逆算すると1344年の生まれ。時代としては、先にも触れた伊達氏8代当主・宗遠、9代当主政宗の時代となる。彼らの時代の伊達氏の大きなトピックといえば、近隣の長井氏を攻め、置賜郡(現在の米沢周辺)を支配下におさめたことである。

であれば、飯坂の地政学回でも触れたように、信達地方=置賜ルートの起点となる飯坂はこの時代、戦略的価値が増したのではないかと思われる。飯坂がこれら対置賜侵攻の出撃拠点となったことも考えられるし、重房も実際に従軍していたかもしれない。

伊達氏9代当主・伊達政宗。伊達氏中興の祖。
17代当主・政宗はこの人にちなんで「政宗」の名を与えられた。

また、この頃から伊達氏は京都の室町幕府と関東の鎌倉府の対立において、幕府方につき鎌倉府側と対立するようになる。9代当主・政宗も鎌倉府側の諸氏との対立を起こしており(伊達政宗の乱)、こういった戦いにも関わりがあったかもしれない。


■ 9代・飯坂重明/重朝

「飯坂系図」では重明、小四郎、「下飯坂系図」では重朝、小次郎、尾張の名で伝わる。重に続く「明」と「朝」は字面が似ているため、これもどちらかが誤植ではないかと思うのだが、どちらが正しいかは判断が難しい。

これまでの当主たちの生没年はすべて「下飯坂系図」をベースとしてきたのだが、ここから情報が途絶える。というのも、この重明/重朝の時代には彼の弟である豊房の活躍が伝わり、彼が分家して下飯坂氏の祖となったことから、以後系図の情報は歴代下飯坂家の当主にシフトするからである。

下飯坂豊房は伊達家11代当主・伊達持宗に従って鎌倉府との対立(伊達松犬丸の乱)を戦い、このときの功績によって分家したという。弟の活躍が伝わる一方、兄で当主の重明/重朝についての情報がないのは、意図的に書かれなかったのか、あるいは本当に活動がなかったかのどちらかにはなるが、この乱で伊達氏は敵方の二本松城主・畠山国詮に大仏城(福島市、飯坂の目と鼻の先)を落とされているので、やはりなんらかの活動があったと考えてもおかしくはないだろう。

母親(=重房の妻)は飯坂安重の娘であり、父・重房と母親はイトコ婚であった。


■ 10代・飯坂宗家/重光?

「飯坂系図」には宗家、主馬の名が伝わる。一方の「下飯坂系図」には下飯坂氏2代目・宗房の兄として「重光 飯坂小四郎」の名が見える。飯坂の苗字と「小四郎」が飯坂氏歴代当主の幼名であることを考えれば、同一人物の可能性がある。

だとすれば飯坂氏9代・重明/重朝には子がなく、弟の子である宗家/重光を養子としたのだろう。母親(=下飯坂豊房の妻)は瀬上因幡宗康の女。瀬上氏は飯坂氏からみて最も近隣の城主であり、同じ伊達の支族である。

具体的な活動については情報がない。


■ 11代・飯坂為明 / 12代・飯坂重信

どちらも「飯坂系図」に諱と受領名(それぞれ但馬守、伊賀守)のみが伝わるのみで、他に情報がない。

おそらく時代としては伊達家当主の12代・成宗、13代・尚宗、14代・稙宗のあたりになるだろう。伊達氏が東北における室町幕府のトップである大崎氏の勢力を凌ぎ、名実ともに奥州の覇者として成長していく時代である。

おそらく彼らの時代のできごとだと思われることが2点ある。ひとつは伊達尚宗の時代、飯坂氏の菩提寺である天王寺の住職として、本宮小僧丸をひきとっていること。どの様な背景によるものかは不明だが、本宮氏は二本松畠山氏の一族であり、近隣の大名である。

もうひとつは、黒川郡の領主・黒川氏の当主に飯坂氏出身の人物が入嗣していることだ。黒川景氏なる人物がそれで、この人は飯坂弾正清宗の長子だという。この飯坂弾正清宗が飯坂氏歴代当主の誰に比定すべきかはわからない。為明・重信以外の当主の可能性もあるし、そもそも当主ではなかったかもしれない。

当時の黒川氏はすでに伊達氏の配下と化しているが、黒川家中ではもともとの主家筋にあたる大崎派と伊達派の間で綱引きがあったかと思われる。そういった中で飯坂氏から当主を送り込んだというのは面白い。

以後、黒川氏および黒川の土地と飯坂氏は、不思議な因縁で結ばれてゆく。


■ 13代・飯坂宗定

「飯坂系図」には宗定の名を筆頭に重定、持康の名が伝わる。また、受領名として但馬守、和泉守、童名・孫四郎。もともと重定、持康の名だったのを、おそらく同時代の伊達家当主稙宗か晴宗あたりから一字拝領して「宗定」と名乗ったのであろう。

であればなんらかの功績や期待があったのではないかと考えられるが、時期的には稙宗と晴宗による南奥州全土を巻き込んだ壮絶な親子喧嘩・天文の乱に関するものだろうか。稙宗も晴宗も「宗」が通字であるため、どちらによる偏諱かは判断しがたい。

また、妻に桑折宗保の娘をめとっており、ここから(あるいは11代・12代の時代からすでに始まっていたかもしれないが)同じ伊達の支族である桑折氏との濃厚な遠戚関係が始まる。

この宗定の子が飯坂氏14代当主・飯坂宗康である。筆者がこのシリーズで最も書きたかった人物だ。飯坂氏初代・伊達為家に始まりようやく宗康の時代までつながったのだが、ちょこっと寄り道をして本稿でも登場した分家・下飯坂について触れる寄り道をしたのち、彼について詳しく書いてみたい。


■ 両系図の情報まとめ

クリックして拡大。一致する情報は太字にしてある。

■ 悲運の一族・飯坂氏シリーズ一覧

飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家-
こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学- 
飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【資料集付】
④鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる- ← 今ココ
分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族-
┗【資料集】中世の飯坂氏
⑥飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク-
⑦飯坂宗康と戦国時代 -その功罪-
【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
┗【資料集】飯坂宗清
┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
┗【資料集】近世の飯坂氏
⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表

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