一見、ただの木造看板である。いや、実際にこの看板以外に特に残っているものはないのだが、案内を詳しく読んでみると、ここには以前、御仲下改所なる施設が存在したというのだ。
■ 御仲所とは!?
詳しく調べてみたところ「おすあい したあらため どころ」と読むようだ。看板では「御仲下改所」の5文字に対して「おすあいどころ」とルビがふられているが、「仲」一文字で「すあい」、「下改」で「したあらため」である。
案内板の図。当時の姿をどれだけ反映しているかは 不明だが、街道沿いの雰囲気が伝わってくる。 |
一番わかりにくい「仲すあい」の意味だが『仙台藩歴史用語辞典』によれば、
すあいやく・すあいどころ 〔仲役・仲銭・仲所〕とある。要は昔の税関みたいな施設である。人ではなく物流に対するチェックポイントであるから、厳密には番所(仙台藩では関所のことを番所と呼ぶ)とは異なるようだが、ここが仙台城下町の北の入り口ととらえてよさそうだ。
「すあい」は仲介者、仲介料のこと。為間銭ともいう。他領および領内に移出入商品に課された取引税(仲役)を仲所で徴収した。...
■ 奥州街道と台原丘陵
この御仲下改所跡の看板がある場所は大通りからは一本ずれた場所に設置されているが、じつはこの看板の前の細い道こそが、旧奥州街道に相当する。
現在は太い青線の宮城県道22号(旧国道4号)が仙台駅前から直結して通っているが、このラインが開通するのは昭和時代になってからで、それまでは緑の線の奥州街道が仙台の北口だった。
1930年の地図。仙台の北側に伸びる奥州街道はまだ旧道ラインで 現在の宮城県道22号に相当する車道は開通していない。 |
ちなみに、もっと時代をさかのぼった江戸時代の地図(『仙台城下五釐掛絵図』、元禄4-5年(1691-92)作成と推定)を見てみると、このあたりは仙台城下町の最北端だったことがわかる。上記のふたつの地図を見てもらってもわかるが、平地の仙台城下町がここから丘陵地帯になる。このあたりの丘を台原丘陵と言い、下の地図では、まるで山の合間を抜ける隘路のような描かれ方である。
多少の誇張はありそうな気がするが、この辺りが仙台城下町の北の果てだったことは確かで、南北に延びる奥州街道が東に折れ曲がるあたりは今でも北山という地名が残っている。
話を御仲下改所に戻すと、幕末の文書では七北田・原町・五軒茶屋・案内・八幡町・中田の6ヶ所で確認できるらしい。この記事で紹介している堤町の御仲下改所はその文書に登場しないようだが、上記6ヶ所はどれも仙台の東西南北の入り口に位置している。それぞれ
- 東:原町、案内
- 西:八幡町
- 南:五軒茶屋(現在の広瀬橋仙台側近辺)、中田
- 北:七北田
の方角になるが、案内、中田、七北田は仙台城下町から離れた場所に位置する。北部方面をみると城下町の御仲所が存在せず、七北田だともう仙台の次の宿場町になってしまう。文書では確認できなくても、やはり仙台城下町の最北端・堤町に御仲所が存在していておかしくはない。
看板によれば平成13年(2001)夏まで建物が残っていたというから、比較的最近まで現存していたことになる。どこかに写真でも残っていそうなものだが、どこかで御覧になった方はいないだろうか?
ちなみに、一番初めに掲載した写真の看板は、その取り壊された御仲所の廃材を利用して建てられたものらしい。ちょいと粋なはからいである。
■参考資料
・『仙台市史 通史編4 近世2』2003年
・『仙台市史 通史編5 近世3』2004年
・『新版 仙台藩歴史用語辞典』仙台郷土研究会編、2015年
・『江戸時代の仙台を歩く - 仙台地図さんぽ』時の風編集部、2016年
・レファレンス協同データベース 登録番号1000075893
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