2015年5月3日日曜日

政宗配下の24武将、そのメンツに迫る ~『伊達家臣二十四将図』とは? ~

学研の『新・歴史群像シリーズ⑲ 伊達政宗』に「伊達家臣二十四将図」なる絵図がのっている。ページのはしっこに小さい写真で紹介されているだけなので、具体的に誰が24将に相当するのかは文字が小さすぎて判別できない。

この絵図は涌谷の町立史料館におさめられているもので、一度行って写真を撮影してきたのだが、遠くからとったものであるために拡大しても文字が読めないというポンコツ写真(およびポンコツ撮影技術...)だったため、24将が誰なのかをはっきりさせるためにも、もう一度涌谷まで行ってそれを見てくることにした。これがその、「伊達家臣二十四将図」である。



涌谷町立史料館は写真撮影可とのこと
場所は伊達二十一要害のひとつ、涌谷城址
■「伊達家臣二十四将図」

「24将」ではあるが、伊達政宗本人も含めて25人が描かれている。当然、「1」の一番上に大きく描かれているのが政宗である。以下
02.亘理兵庫元安(※元宗、元安斎)
03.伊達藤五郎成実
04.片倉小十郎景綱
05.鬼庭良直入道左月
06.留主上野政景(※留守)
07.大條薩摩実頼
08.伊藤肥前重信(※伊東)
09.後藤孫兵衛信康
10.原田左馬之助宗時
11.中村八郎右衛門盛時
12.白石若狭宗実
13.大町三河■■(※おそらく定頼)
14.斉藤外記永門
15.小梁川泥蟠斎(※盛宗)
16.泉田安藝重光
17.黒木肥前■■(※宗俊か宗元)
18.遠藤文七郎宗信
19.石田将監與純
20.小山田筑前定頼
21.津田豊前景康
22.小田邊勝成
23.石母田大膳宗頼
24.富塚小平治宗総
25.石川弥平実光 
となっている。上記の名は絵図の表記に従ったが、表記ゆれも散見されるので、その場合は(※)で補正した。■■の部分はどういうわけか黒墨で塗りつぶされていて読めない。



■24将紹介

それでは、それぞれ簡単にどういう人物だったのか紹介してみよう。


02. 亘理元宗
伊達稙宗(政宗の曽祖父)の12男で亘理家を継ぎ、亘理城主に。政宗の時代まで伊達家の重鎮として各地を転戦。のち元安斎と号し涌谷城主に。この絵図は「涌谷の殿さまは24将の中でも政宗のすぐ近くにいますよ」というアピールとして涌谷史料館に展示されている様だ。

03. 伊達成実
「智の小十郎」こと片倉景綱と並ぶ政宗側近中の側近で「武の成実」と呼ばれた猛将。父親は伊達稙宗の3男・実元、母親は政宗の叔母・鏡清院で政宗の従弟でもある。一時期出奔するが、関ヶ原の戦い前に帰参。大森城 → 二本松城 → 角田城を経て最終的に亘理城主に。

04. 片倉小十郎
言わずと知れた政宗側近。政宗の家臣の中で一番有名なのがこの小十郎だろう。輝宗の小姓だったが政宗の近習として仕え、参謀各として政宗を常に支え続けた。他の大名からも伊達の筆頭家老として認識されていた様である。後に大森城 → 亘理城を経て最終的に白石城主に。

05. 鬼庭左月斎
政宗の父・輝宗の側近で政宗の時代には60歳越えのおじいちゃん世代でありながらも第一線で活躍した猛将。人取橋の戦いでは政宗を逃がすためにしんがりを務め、壮絶な戦死を遂げる。息子の綱元も政宗の側近として彼の治世を支え、伊達成実、片倉小十郎、鬼庭綱元の3人を「伊達三傑」と呼ぶことも。


06. 留守政景
政宗の叔父にあたる人物で、留守家を継ぐ。大崎合戦では泉田重光とともに大将、長谷堂の戦いでも大将を務めるなど、政宗の信頼は厚かったらしい。後に雪斎と号す。亘理元安斎、小梁川泥蟠斎とあわせて、政宗の「一族衆シニア組三傑」と勝手に命名。後に伊達姓に復帰し、水沢伊達氏の祖となる。 ⇒ 個別記事

07. 大條実頼
「おおえだ」と読む。蘆名氏に嫁いだ彦姫(政宗の叔母)に従って蘆名氏に属していたが、1588年に彼女が死去すると伊達家に帰参。以後奉行職、丸森城主に任命されるなど重用された。大條氏はもともと伊達氏の庶流であり、明治になってから伊達に復姓した。この家系の末裔にサンドウィッチマンの伊達みきおがいる。

08. 伊東重信
人取橋の戦いで活躍。大崎合戦の際は伊達領北方の防衛にあたった。1588年の郡山合戦では政宗の身代わりになって討ち死にしたというエピソードが残る。また、孫にあたる伊東重孝は寛文事件(伊達騒動)に関連する人物でもあり、伊達宗勝を討とうとするも失敗して捕縛された。

09. 後藤信康
会津・蘆名氏への備えとして4年間檜原城主を務める。以後も葛西・大崎一揆の鎮圧や朝鮮出兵などで武功多数。常に黄色の母衣を身にまとい「黄後藤」の異名をとった。一時期政宗から追放されるが(原因は不明)、後に帰参。子の代、後藤家は不動堂城主となる。 ⇒ 個別記事

10. 原田宗時
後藤信康に決闘を挑むも、「つまらないことで死ぬくらいならその命を伊達家のために使おう」と諭されて以後、信康とは刎頚の友となったというエピソードがあり、彼とともに各地で多くの武功をたてた猛将。朝鮮出兵の際に風土病を患い、帰国かなわぬまま病死した。


11. 中村盛時
中野宗時(名前がまぎらわしい...はじめこの人の間違いかと思った)が謀反を起こした際にこれに加わるように誘われたが固辞した。小手森の戦いで武功あり。人取橋の戦いでも奮戦して20騎を打ち取り浜田景隆の窮地を救うが、政宗はこの手柄を認めなかった。抜刀して「この刀で20騎を切った」と直訴すると政宗は初めてこれに応じ、500石まで加増したというエピソードが残る。

12. 白石宗実
若いころには諸国を遊学し、信長屋敷で講義したり、家康に招かれたりするなど博学の士であったらしい。仙道方面の戦いで活躍し、白石城から宮森城主に。奥州仕置後は水沢15000石の城主となる。朝鮮から帰国後の1599年に没。後に子孫は登米城主となり、伊達氏の名乗りを許された。 ⇒ 個別記事

13. 大町兼頼
大町家は奉行を務め、金ヶ崎要害の主となった家系。絵図には「三河」としか記されていないが、人名事典によれば「三河」を称したのは兼頼である。天文の乱で稙宗党であったため、晴宗の命により弟の頼明が家を継ぐことになり、兼頼は隠居、流浪した。


14. 斉藤永門
外記と称す。大坂の陣の後、松平忠直に謀反の噂が立つと政宗の命で越前にこれを探りに行く。たまたま伊達家から逃げ出した下郡山清八郎なるものが松平家で鷹匠をしているのを見つけ、彼を捕らえる。政宗は喜び望みを聞いたところ「財産はいいので名前を残したい」と答え、仙台城下町に「外記町」なる地名が残った(現在は青葉区本町)。

15. 小梁川盛宗
小梁川家は伊達氏庶流で、盛宗は伊達晴宗の娘を正室に迎えるなど、晴宗政権下では重臣のひとりとなった。輝宗の死後、老齢を理由に泥蟠斎と号して隠居するが、政宗のアドバイザーとして仙道方面の戦に従軍、幕閣に加わり続ける。

16. 泉田重光
岩沼城主。大崎合戦の際は留守政景と共に大将を務めるが、中新田城の攻略に失敗し、新沼城への籠城を強いられた。彼が捕虜となることで城兵は解放されるものの、山形まで連行され約半年間に及ぶ虜囚生活を過ごす。最上義光からは何度も投降を進められたが、伊達家に叛くことはなかった。後に薄衣城主に。 ⇒ 個別記事

17. 黒木宗俊、宗元
黒木「肥前」と記されており、諱は黒墨で消されていてわからない。黒木家には宗俊、宗元の親子がいるがどちらも「肥前」を称しており、どちらを意図したのかは不明である。なんで黒墨で消してしまったんだ、まったく。黒木家はもともと懸田氏を名乗った伊達の臣だったが、天文の乱後に謀反を起こして相馬に逃亡。後に伊達に帰参して駒ヶ嶺城主となった。

18. 遠藤宗信
政宗の父、輝宗の最側近だった遠藤基信の息子。輝宗の死後、基信が殉死すると代わって政宗に仕えた。小十郎が不在のときは政宗の相談相手となることが多く、信頼されていた様子がうかがえる。原因は不明だが一時期出奔し、後に帰参。1593年、若くして22歳で没。遠藤家は宿老として幕末まで伊達家に仕え続けた。

19. 石田與純
「よしずみ」と読む。14歳のとき、伏見で政宗の近習に抜擢される。大阪の陣では戦功があり、小姓頭に昇進。政宗が死去すると、徳川家光は仙台藩に対し殉死を止め忠宗に仕えるように促したが、與純は老中・酒井忠勝に対し強く殉死を望んだため、これを許された。瑞鳳殿の本殿脇に墓があり、政宗とともに眠る。


20. 小山田定頼
柴田郡の将。政宗に仕え各地を転戦。大崎合戦の際は軍監として従軍。大崎勢が反撃に転じると乱戦の中で定頼も苦境に立たされ、敵兵ともみ合いになる。敵兵は刺しぬかれたものの定頼を離さぬままに絶命。動けぬところを寄ってきた大崎の兵によって打ち取られるという、壮絶な戦死を遂げた。

21. 津田景康
旧姓は湯目。秀次事件の際に政宗がその関与を疑われると、この無実を中島宗求とともに津田ヶ原にて秀吉に直訴、政宗は無罪となる。これにちなんで「津田」の姓を与えられる。後に佐沼城主となり、忠宗の代には評定役に任命され奉行職を務めた。

22, 23. 小田辺勝成 / 石川実光
共に元二本松家臣。小田辺は騎馬で敵をかき乱すことに優れたので「乗込の大学」、石川は歩兵として防戦することに優れたので「不屬(しらます、勢いを殺すこと)の弥平」と呼ばれた。二本松滅亡後に浪人するが、後に片倉小十郎を通じて伊達家に仕えるようになる。長谷堂城の戦いでも活躍。

24. 石母田宗頼
元朝倉家臣の子。はじめ小早川英秋に仕えたが1599年から政宗に仕え重臣・石母田景頼の娘婿となる。白石城の戦いでは先陣を務め、大坂の陣は抜群の武功があった。政宗が没すると殉死を願い出るが、徳川家光の上意により差し止められる。忠宗の代には奉行職に任命された。

25. 富塚小平治宗総
「むねふさ」と読む。絵図には「富塚小平治宗総」となっているが、どうも二人の人物がまざっている様だ。どちらも似たような経歴なのだが、共通しているのは宿老・富塚信綱の弟で、上杉との戦で安田勘助なる者を討ち取ったが、政宗にこの手柄を認められなかったので憤慨して出奔。秀頼に仕えて大坂城に籠った、ということである。富塚「小平治」は後に山川帯刀と変名した人物で、富塚「宗総」ははじめ「小平太」と称し柴田五左衛門と変名した人物である。



■24将の選抜基準とは!?

...さて、この24人なのだが、一言でいうとバラバラである。バラバラすぎて、共通項を見出すことがなかなか難しい。

ひとつめに時代。鬼庭左月斎は1585年の人取橋の戦いで戦死している一方で、石田與純は1589年の生まれである。したがって、この絵図の様に24人プラス政宗が一同に会したということは歴史上ありえない。

ふたつめに忠誠度。黒木肥前はもともと相馬の家臣であったし、小田辺勝成、石川実光は元二本松家臣、富塚小平治宗総にいたっては人名事典に「叛臣」とまで明記されている人物である。

最後に家格。仙台藩では時代とともに家臣の家格ランクが明確に整備された。最高ランクの「一門」第一席は石川昭光なる人物で、一門、一家、準一家、一族、宿老、着座、太刀上...という家格の序列が明確に定められている。
話はそれるが、石川昭光はこの24将に含まれておらず、恥ずかしながら24将に含まれている石川実光の存在を知らなかった筆者は、「石川光」は「石川光」の書き間違えではないのか? と疑ってしまった。
他にも家格の高い「一門」の岩城政隆、白河義綱、あるいは「一家」の秋保氏、鮎貝氏、柴田氏なども含まれていないし、伊達家の家臣には他にも城主クラスがゴロゴロいる。一方で、一介の侍や武者頭クラスの武将が24将に選ばれている。

何を選抜の基準として24人が選ばれたのか、もう少し考察が必要みたいだ。

■秀次事件当時の重臣たち

参考までに、秀次事件時の19人の重臣、というくくりがある。1595年の秀次事件で政宗の関与が疑われた際に、当時の重臣19人が連判起請文を提出し豊臣氏への忠誠を誓ったものである。これは当時の記録なので、その時代において自他ともに認める重臣たちであったことは間違いない。そこに名前が記されているのが

  • 石川 中務大輔 義宗
  • 伊達 藤五郎 成実
  • 伊達 上野介 政景 (留守政景)
  • 亘理 兵庫頭 重宗
  • 伊達 彦九郎 盛重 (国分盛重)
  • 泉田 安芸守 重光
  • 大條 尾張守 宗直
  • 桑折 点了斎 不曲 (桑折宗長)
  • 白石 若狭守 宗実
  • 石母田 左衛門 景頼
  • 大内 備前守 定綱
  • 中嶋 伊勢守 宗求
  • 原田 左馬助 宗資
  • 富塚 内蔵頭 信綱
  • 遠藤 孫六郎 玄信
  • 片倉 小十郎 景綱
  • 山岡 志摩守 重長
  • 湯目 民部少輔 景康
  • 湯村 右近 親元    (以上、『貞山公治家記録 巻之十九』 文禄4年8月24日の条)

である。緑色かつ太字なのが24将図にも記されている者で、一致しているのは6名のみ。色付きだけの者は本人ではなくともその親族が24将にカウントされている者たちである。この時代、手柄は個人というよりも家系に蓄積されていくものだったから、それらも含めれば19人中13人が一致した。

一方、国分宗重、桑折宗長、大内定綱、中島宗求、山岡重長、湯村親元は24将に含まれておらず、かわりに鬼庭左月斎、伊東重信、後藤信康、中村盛時、大町兼頼、斉藤永門、小梁川盛宗、黒木肥前、石田與純、小山田頼定、小田辺勝成、石川実光がカウントされている。

...どうやら、政宗が現役だった時代の価値観を反映した選抜基準ではなさそうだ。

■「伊達家臣二十四将図」が描かれた背景

この24将図は明治14年(1881年)11月21日に発行され、佐久間徳郎なる人の手によって描かれたものである。
※涌谷の史料館には作者についての記載はなかった。しかし、この記事を書く上で参考にした『仙台人名大辞書』にはこの「伊達二十四将図」の絵に酷似した肖像が載っており、「肖像は書人佐久間德郎の筆なり」とある。
当時はどうだったか知らないが、あくまで筆者の主観でものを言わせてもらうと、さほど知名度が高くない武将が含まれているように感じる。実際、中村盛時、斉藤永門、石川実光、富塚宗総の4名は今回はじめて見た名前だった。かわりに茂庭綱元、屋代景頼、あるいは一般的な知名度が高い支倉常長なんかが入っていても良い気がする。

結論をいうと、この24将は作者の独断と偏見で選んだ24名、と断定して間違いないだろう。おそらく有名な「武田二十四将」や「上杉二十五将」に触発されたのではないだろうか。念のため史料館の方に「あの24将図ってのは、明治時代の人が勝手に24人選んだものってことですよね?」と聞いてみたところ「そうでしょうね」という答えが返ってきた。

戦国時代、あるいは仙台藩創世期に「24将」なる呼ばれ方が使われたことはまずなかっただろうし、もし仮にあったとしても、そのメンツはおそらく違うものであったはずである。

とはいえ、これはこれで、明治時代にどんな武将が注目されていたのかを示す貴重な史料ということも言えるだろう。明治時代といえば、東洋ナンバーワンの軍事大国・大日本帝国の発展とともに過去の戦国武将たちの活躍が再注目され、講談、特に軍談が流行った時代だった。

中には小田辺勝成 & 石川実光コンビの様に「キャラ立ち」した武将もおり、そのあたりは平成の世である現代にも共通するものが感じられる。日本人は昔っから、戦国武将に憧れを抱いていたのだ。

2015年5月1日金曜日

『伊達政宗 Sendai, Miyagi in easy English Date Masamune』と「馬上少年過...」

本棚を整理していたらこんな本が出てきた。
表紙も金ピカのまさに「伊達」な一冊

タイトルは『伊達政宗 Sendai, Miyagi in easy English Date Masamune』という。本というよりは冊子、といった厚さなので、買ったことをすっかり忘れて他の本の間に埋もれていた。

どういった内容かというとコレ、伊達政宗について英語で紹介したおそらく日本で(あるいは世界でも)唯一の単品書籍であろうと思われる。

40ページくらいの冊子で、見開きの半分は写真や図説になっているので、実質的な長さとしてはセンター試験の長文問題くらいだろうか。タイトルにeasy English とあるとおり難易度もそれほど高くなく、関係詞に気を付けながらところどころ辞書をひけば高校1・2年生でも読めると思う。あるいは大学入試にむけた勉強中の学生なら、これくらいは読めないと焦ったほうがいいレベル(笑)である。

発行は仙台国際日本語学校で、もともとそちらの教材として使われているものらしい。奥付をみてみると、
Author(著者)  Kazuhiko, Endo
Translator(訳) Satomi, Sugai
となっている。おそらく学校の先生たちだろう。

この本を書店でみかけたのは今年(2015年)の2月、仙台駅前、アエルの丸善だった。洋書部門のランキングトップとして目立つ場所に置かれていたので、みかけた方も多いのではないだろうか。ISBNの発給されたれっきとした書籍だが、仙台国際日本語学校さんのブログによると、仙台丸善松島の伊達政宗歴史館でしか手に入らなさそうだ(残念ながらAmazonで検索してもでてこなかった)。

副題にSendai, Miyagi とあるように、どちらかといえば米沢時代の「武将」政宗よりも、仙台に移ってからの「統治者」政宗に焦点があてられており、仙台開府、北上川の改修、遣欧使節団の派遣など、政宗の生涯後半についての記述が多い。

奥州仙台おもてなし集団 伊達武将隊
仙台城で会える小十郎はサムライの格好だ!
伊達政宗に関する必要最低限なことについて簡単な英語でコンパクトにまとめられており、非常におもしろい。

英語話者の友達に仙台を案内するとき、ダースベイダーの外見のモデルについて外国人にうんちくをたれたいとき(そんな場面あるのか?)には必携の一冊であろう。

別に外国人の友達がいなくても、伊達政宗が好きだったり、英語を勉強中の方なら十分に楽しめる内容だ。しかも値段も500円とリ-ズナブル! 仙台に住んでいるならさっそく買いに行くべきだし、旅行で仙台に行くなら下手なガイド本を買うよりもこっちにしたほうがいい。

...と、非常にすばらしい本なのだが、このブログの性質上、あえて重箱の隅をつつくようなツッコミを入れさせていただくと(失敬!!)...

政宗の師である虎哉宗乙とともに片倉小十郎が"tutor" (家庭教師、指導教員)と紹介され、その後、共に戦ったような記述が見受けられないので、あくまでも政宗配下の武将であり側近であった彼の一面が欠け落ちているように思えた。

これを読んだ後に仙台城で伊達武将隊の姿を見たら、「先生」だと思っていた片倉小十郎がサムライの格好をしているのをみて違和感を覚えてしまうかもしれない。2人の"tutor"のうち虎哉和尚についてははっきりと"monk"(僧)と書いてあるのでなおさらである。

まぁ小姓やら近習やらといった概念の説明も大変で紙幅の関係もあるだろうし、"tutor"でもけっして誤りではないので、ホント揚げ足とりの様で申し訳ない...。

本の最後には、政宗の辞世の句である
曇りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞ行く
が英訳されている。
I am moving forward in the changing era with a peaceful mind that shines like a clear moon
有名な政宗の肖像画。左上が例の漢詩。
...ってか「伊達政宗」で検索してこの画像
みつけるのにすごく苦労した。「政宗」で
てくるのって、一体どうなんだっ!?
なるほどねー。「浮世の闇」を"the changing era"と訳したか...。

おそらく詩なり句の翻訳って、そもそも解釈がわかれてくるのでまずは現代語にどう訳すか、それをさらにどう英訳するか、という2つのステップを踏まなくてはならず、一番難しい分野だと思う。だからこそ他の人の翻訳は勉強になるし、とてもおもしろい。

ただ、個人的には辞世の句よりも「酔余口号」と題する漢詩のほうが有名で、かつ面白いし政宗らしさをうまく表現していると思っているので、そちらを英訳してほしかった。「馬上少年過ぐ...」という例のアレである。

...と、文句をつけてばっかりなようで仙台国際日本語学校の方に悪い気がしてきたので、いっそのこと自分で英訳してみることにした。
馬上少年過 馬上少年過ぐ
世平白髪多 世は平らかにして白髪多し
残躯天所赦 残躯天の赦す所なれば
不楽是如何 楽しまずして是れ如何せん
The days I devoted all my time to fighting on the back of a horse was a long time ago
Now the world sets peaceful and my hairs went gray
Luckily or somehow I survived the age of lingering wars
God would permit me to spend my remaining life with a great joy
うーん、文法的にはあってるハズだが、どこまでニュアンスが通じているかは自信がない(笑)それにしても、これだけの内容をわずか5×4文字で表現できてしまう漢詩のすごさに改めて驚く。この英文の、漢詩に対する自分の解釈も含めた逆訳としては
馬上で戦にあけくれた日々は遠い昔となり
世は平和となって私は老い白髪が増えてしまった
幸運にも戦乱の世を生き延びることができたのだから
天も余生を楽しむことを許してくれることだろう
といったところ。

 一番の違和感は「天の赦す所」の「天」を"God"にしちゃってるところなんだが、"The God of the Sun" ってしちゃうのも説明的な気がするし、むしろ天照大御神をさしちゃう気もするし...。

仙台国際日本語学校さん、添削してくださいっ!!

2015年4月29日水曜日

中羽前/北羽前街道の旅 [後編]

【承前】中羽前/北羽前街道の旅 [前編]
2日目はチェックアウトの時間近くまでゆっくーり休んでからゆっくーり出発。

■ 鮭延城/真室城跡

ひとつめの目的地は、宿泊した新庄と同じ最上地方の真室川。新庄から県道308号を北西に進む。この地域は戦国時代にまさに激戦地となったところで、庄内地方の大宝寺氏、秋田南部の小野寺氏、山形の最上氏、三者の争奪のマトとなった。

はじめ、この地を支配する鮭延氏は小野寺傘下だったのが、1581年に最上義光に攻められて降伏。以後、鮭延貞綱は最上義光に仕え、重臣のひとりとなった。その拠点となったのが、今からいく鮭延城で、真室城とも。

そこそこ険しい道を上っていくと...


かなり広い空間が。野球場が2つは入りそうな広大なスペース。どうやら上ってきた道は搦手で、大手門は逆の方向らしい。


本丸からみた景色。目の前を鮭川が流れる。右手奥の街並みは真室川町。案内板によると、この本丸広場から川辺の地下船蔵まで地下道が通じていたように描写されている。なんとも男心をくすぐる施設ではないか。


鮭川を渡った地点からながめた鮭延城全景。なかなかの城跡である。この要害っぷりは、平穏な江戸時代には逆にアダとなり、後にこの地に入封した戸沢氏は一度はこの鮭延城に入ったものの、平地に新庄城を築いて移動したのは以前の記事で触れたとおり。城は廃城となり、放置された。

■ 清水城跡

次の目的地も最上郡の拠点となった城跡のひとつ、清水城。ほぼ鮭川に沿うかたちで、県道35号 → 国道458号を大蔵村まで南下。


清水城は最上の一族、清水氏が統治していたが、6代清水義氏には子がなく、最上義光の3男・義親を養子に迎えた。彼は養子として清水家に入る前、豊臣への人質として大阪に預けられていたために、豊臣秀頼と近しい仲だった。

1614年、大坂の陣の直前にこれが問題となってしまう。清水義親は実の兄である最上家親から豊臣に通じている疑いをかけられ、清水城は攻撃され切腹させられることになってしまった。


城の入口を登っていくと、二の丸と本丸の間の空堀にいきつく。空堀は相当深く、3メートル近くはあった。現在はこれをV字型の坂道で昇り降りするが、当時は橋がかかっていたのではないか。


二の丸は田んぼになっていたが、本丸は広場として整備されている。こちらも鮭延城並みに広い敷地で、当時はいろいろな屋敷や櫓が建っていたであろうことが想像される。


本丸から見下ろす城下。最上川の水運を利用できる絶好の位置にあることがわかる。まだ「五月雨を あつめてはやし」という時期ではないものの、その流れは十分に速い。

■ めざせ鳴子峡

さて、ここから旅の復路となる。今回は往路で通った鍋越峠、中羽前街道のひとつ北、北羽前街道を通る。こちらは松尾芭蕉が有名な『奥の細道』で通った道で、奥州から羽州に入った芭蕉のルートを逆走するかたちになる。

清水からはまっすぐ東に進んで国道47号(北羽前街道)に入る。途中、最上町のコンビニで小休止。このあたりも、戦国時代には小国城があった場所で、ちょうど写真奥の山がそれだと思われる。

とりあえず県境をこえてから、景勝地として有名な鳴子峡と、芭蕉ファンの間では有名な旧仙台藩の尿前の関を目指していたのだが、休憩中にググっていたら、街道沿いに山形藩側の関所である笹森番所跡なるものもあることを発見し、そちらも目指すことに。

ただ、最上町笹森のあたりにあることはわかったのだけど、肝心の跡地は見つからなかった。この北羽前街道はこのあと何度もとおることになると思うので、またの機会に後回し。

北羽前街道は、狭い道が続いた鍋越峠と比べると、ゆるやかで道幅も十分なふつうの国道である。ただ、その分トラックややたらとスピードを出す車も多く、原チャリ族にとってはむしろ走りにくい。

県境の中山峠をこえてしばらく進むと、目的地の鳴子峡。


橋の前にドライブインがあり、そこからの眺めが最高だ。本来、鳴子峡は秋の紅葉で有名な場所であるので、葉っぱが色づいてきたらもう一度来ようと思う。

鳴子峡の橋を渡ってちょこっと進むと、尿前の関跡がある。自分にとっては旧仙台藩の旧跡として興味がある場所なのだが、芭蕉ファン、および俳諧ファンにとっては「聖地」であり、一度は来なければならない場所らしい。


関所跡も復元され、周囲には芭蕉の句碑が建つなど、だいぶ整備されている。

■ 一大イベント

さて、景色のいいドライブを十分に満喫したところで、あとは岩出山経由で帰るだけなのだけど、今日は自分にとっての一大イベントを控えており、朝からそればっかりが気になっていた。朝、出発の段階でスクーターの走行距離が7700キロを超えており、このままいけば今日中に走行7777.7キロの7ゾロ目を迎えられそうだったのだ。

清水城を出たあたりで、おそらく鳴子のあたりで数字がそろいそうだなー、と思っていたところ、尿前の関で止まった時点で残り15キロくらいだった。

幸い、ここからは1.8車線くらいの本線脇に十分な幅がある道が続いていたので、メーターとにらめっこしながら自分の中でカウントダウンをしつつ、その時がくるのを待ちながら走る。そして...


祝! 7777.7㎞走破!!

さて、次にメーターがそろうのはあと7万キロ走った後か。原チャリで77777.7の数字を見た人っているんだろうか...笑

■ 岩出山とその周辺

これでメーターに気を取られることがなくなったので、あとはぶっとばして仙台まで帰るだけ。途中、道の駅岩出山(「あ・ら・伊達な道の駅」というナゾの名前なのだが)で遅めの昼食をとったあと、ちょっと寄り道して一栗城を目指す。


ここは大崎家の家臣、一栗氏の居城で、大崎家の執事でありながらたびたび本家に反抗した岩出山の氏家党の一派である。

その氏家党の本拠地・岩出山城はのちに伊達政宗の居城となるも、すぐに仙台に本拠地を移したため、事実上の拠点となったのは10年間程度だった。ただし、岩出山は仙台藩の要害として統治の拠点ではあり続けた。


今回はブログに使う全景写真をとりたかっただけなので、さらっと見学しておしまい。岩出山周辺には、有備館や伊達家の霊廟など見るべきところがいろいろあり、とても半日では収まらないのでこれもまたの機会に。

そのまま南下して、往路で通った中新田へ。そこからは同じルートをたどって帰宅。それにしても2日目は前日のようなトラブルもなく、走行距離も縁起のいい数字が並び、快適な一日だった。2日間を通して、天気のいいドライブ日和な日だったのも幸い。2週間前のお花見ツアーでも、これくらいいい天気が続けばよかったんだけどなぁ...。

■ 旅のルート・立ち寄りスポット