2014年11月20日木曜日

白石宗実

しろいし むねざね
白石 宗実 
別名
老後丸、若狭守
生誕
1545年(天文14年)1月10日 ※本文参照
死没
1599年(慶長4年)10月27日 享年55歳
死因
自然死
君主
伊達輝宗 → 伊達政宗
藩
仙台藩
家格
一門 第五席
(※正確には息子の宗直の代から)
所領
白石城
1586- 宮森城 安達郡塩松33邑
1591- 水沢城 15000石
氏族
白石氏
(※登米伊達家は子の宗直から数える)
在位
不明
父
白石宗利
母
不明
兄弟
不明
妻
桑折宗長の娘
子
娘:心月院
養子:白石宗直(梁川宗清の息子)
子孫

先祖
刈田経元(白石氏家祖。藤原経清の子、
奥州藤原氏・藤原清衡の同母兄弟)
墓所
龍雲寺(京都伏見)
養雲寺(登米市)にも供養塔あり
宗実は「むねざね」と読む。「むねみ」ちゃんではない。

片倉小十郎、伊達成実とともに「伊達三傑」の一人に数えられることもあるが、宗実の代わりに茂庭綱元を当てるものもある。一応、『登米町誌』『白石城物語』など白石氏ゆかりの資料には三傑に宗実がカウントされている。

これは想像だが、宗実は1599年に没しており、活躍は政宗の小田原参陣前の南奥州統一戦において目立つ。かわってもう一人の茂庭綱元は、それ以降、政宗政権の官房長官格としての活躍が目立つことから、宗実の死後に入れ替わるように呼称されたのではないだろうか。あるいは、完全に後世にできた呼称かもしれないが。
※ なお、亘理元宗を伊達三傑に数えるものもあり、市町村史をはじめとする郷土史本では、意見のわかれるところ顕著である。
■ 生い立ち

刈田郡白石城主 白石宗利の嫡男として生まれる。登米伊達家の急進らで結成した温故会の編纂した『登米伊達家』によると、宗実は若くして兵学にたけ、諸国遍歴の旅に出た。その造詣は東海・近畿までも聞こえ、京都の信長屋敷に兵学の講義を求められた。帰路の三河でも家康の歓待を受けたという記録が残るという。1575年(天正3年)に白石に帰国。30歳。

父・宗利は『登米藩史稿』『白石氏系図書』によると1553年に死去しているが、『性山公治下記録』には元亀元年1570年の項に中野宗時・牧野久仲親子の謀反の際、彼らが相馬領へと逃げるのを防げなかった白石大和守宗利、宮内中務宗忠、田手式部宗光、小梁川盛宗に対し激怒、という記載があり、少なくともこの年まで生きていたことになる。
現在は片倉小十郎の城として
有名な白石城。元は宗実の城である。

これは宗実の帰国の5年前であることから、その死去もそれ(元亀元年)からさらに存命だったとすれば、嫡男の宗実が30歳まで諸国遍歴をできたこともうなずける。あるいは3歳年上の宗実の従兄(父・宗利の弟・綱辰の長男綱与)が宗実の後見をしていたとされ、宗実の留守中は彼が白石を代行して統治していたのかもしれない。

■ 対相馬戦

諸国遍歴から帰国して早々の翌1576年、伊達輝宗が対相馬の戦において一大兵力を招集する。その4番備えに白石宗実の名前が見えるのだが、この陣触れにおいて単独で「備」を構成しているのは、全11個の備のうち、1番備・亘理重宗、2番備・泉田景時、3番備・田手宗時、6番備・粟野重国の他にはおらず、この時点ですでにかなりの兵力を動員・指揮できる立場にあったことがうかがえる。
※備:そなえ。戦において陣形を組むための単位。ひとつの備えについては300-800名で構成されるといわれており、1万石級の所領があれば単独で「備」を動員できるといわれている。
1581年(天正9年)11月、相馬義胤が伊具郡に侵入。輝宗は臣下たちにその対策を諮問したが、宗実は「現在雪深く、兵を動かすには時期が悪い。春の雪解けを待って出動するのが得策」と建言し、これが採択された。

翌82年(天正10年)4月1日には政宗が梁川八幡宮に参詣したのちに梁川城に入城。士卒はこれを歓迎したが、宗実の行列は他にぬきんでて盛んだったという。同じ月に小斎城主・佐藤為信が伊達家に帰属すると輝宗は新地・駒ヶ嶺へ攻め入ったが、大雨にあい後退した。相馬義胤はここぞとばかりにこれに追い打ちをかけたが、白石宗実は手勢500をもって殿をつとめ、武将級10、雑兵100余りを打ち取り、本体には何の損害も与えない、という大殊勲を立てた。

1584年天正12年、輝宗は隠居し、政宗が家督を相続。このとき政宗はわずか18歳であったため、家臣のなかにはこれの実力を疑う声もあった。宗実はこれを心配し、娘を男装させ、政宗に奉公させることにした。諸将もこれにならって子弟を政宗に仕えさせることになったが、これは政宗が諸将の人質を得たことを意味し、政宗の軍令を軽んずる風潮は改まった。宗実は娘が11歳になったときにこの密謀が露見するのを防ぐために暇を願い出た。

宗実の娘出仕の後に諸将がこれに倣った、ということは、この時すでにそれなりに伊達家中における名声を得ていたのだろう。1545年誕生説に従うなら、この時すでに40歳。心身ともに働き盛りである。

■ 大内攻略戦

1585年(天正13年)大内定綱が蘆名家への傾倒を強めると、政宗はこれを討つことを決めた。はじめ会津の檜原峠を進軍し、あたかも会津・蘆名を直接打つように見せかけたが、狙いはあくまで小浜の大内定綱である。

8月、伊達成実が大内家の刈松田城主・青木修理の籠絡に成功すると、大内討伐軍の先鋒として白石宗實、片倉景綱、小梁川泥播斎、浜田伊豆、原田宗時らが刈松田に近い飯野に布陣した。8月24日、諸将は小手森城の攻略を開始。先鋒・川俣兵衛、右翼・小梁川泥播斎、白石宗実は右翼隊長として布陣。この包囲戦の最中、宗実は大内の一族、大内長門の士・松本与市以下50を打ち取り、その功績として政宗から駿馬1頭を授けられている。27日、小手森城落城。有名な撫で斬りがあったのはこのときであった。

 ※更新続く

2014年10月12日日曜日

雑感 -Google Mapのありがたさ-

■Google先生の弱点

史跡めぐりをしていて避けて通れないのが、その場所の特定である。当たり前だが、場所がわからなければ訪れることはできない。

さすがに「大阪城」だとか「松下村塾」といったレベルの史跡ならば、Google先生に訪ねれば一発で解決なのだけれども、なかには場所がわかりにくいものもある。

たとえば仙台には「芭蕉の辻」という歴史的に有名な交差点がある。旧奥州街道と仙台城の大手通が交わる、仙台の「ヘソ」だ。これも残念ながら、「芭蕉の辻」と検索してもピンポイントでは指し示してくれない。

史跡としての「芭蕉の辻」跡は検索されない。
ヒットするのは「芭蕉の辻 支店」。これがGoogleの限界か。

これはまだ交差点だけあって場所の特定が楽なほうなのだが、中には城跡など、場所の特定が極めて難しいものもある。それこそ図書館で市町村史をみて「~旧○○街道の××里西方に」だの「本丸には○○神社が残っており」だのといった文言を参考に、現地で人に訪ねまわって、ようやく場所がわかるものもあるのだ。

「最寄りのTSUTAYA」とか「整形外科」といったような生活に必要な情報なら抜群の威力を誇るのだが、史跡という観点からみれば、まだGoogle先生は万能の存在とは言い難い。

…と、タイトルが「Google Mapのありがたさ」なのに、なんだか天下のGoogle先生をディスる内容になってしまった。このままではタイトル詐欺である。

■ 苦労してこそ旅の思い出

ただし。

個人的には「場所の特定」も含めての史跡めぐりだとおもっているので、それはそれで楽しいから問題ないと考えている。

上記のように図書館で調べものをしたり、土地の人に訪ねながら目的地を探すのは、楽しいし、むしろそこにこそ、旅の本質がある。目的地まで一直線の旅なんて、面白くない。

何より、そういった苦労話も含めて自分の体験を元に特定した場所を具体的に指し示すところに、こういった史跡巡り系ブログの価値が生まれるのである。そして、その表現方法としてのGoogle Mapに、ブログ主はありがたさを感じている、というのが今回述べたいことなのだ。

■紙の限界と、デジタルマップの有用性

とある史跡ガイドの定番本より、花巻周辺。
こんなおおざっぱでわかるかっ!!
史跡の場所について具体的に地図を載せている旅行ガイド本は多い。

しかし、問題はその縮尺である。一枚の地図に多くのスポットを載せようとするあまり、おおまかな位置はわかっても、実際に現地で近づいてみると場所がまったくわからないものも多いのだ。

「とにかくがんばれ」だの「熱意があれば伝わる」といった精神論だけを説き、具体的な指示をくれないポエム系上司の説教にどこか似ている。「なんとなくその辺に行けば見つかるよ」と。

それがどこやっちゅうねん。

とはいえ、一件ずつ詳細な地図を載せるのも、紙幅の関係上難しいのであろう。地図はあんがい、スペースを食う。

やはり同じ理由で、説明と地図のページがかけはなれていて、いちいちページを往復できない構成のものもあり、それもまた不便に感じる。

その点、Google Mapはありがたい。

たとえば、(手前味噌で申し訳ないのだが)当ブログ主が編集した下の地図を見ていただきたい。これは、江戸時代の仙台藩における城/要害/所/在所/番所/関所をまとめた地図である(ただいま絶賛更新中)。



このデジタルマップならば、拡大して詳細な位置を確認するのも、縮小しておおざっぱな位置関係を捕らえるのも、思いのままなのである。

こういった城郭関連だととくにそうなのだが、城の位置関係を大局的な地図でながめて、
「あぁ、仙台藩の要害は北方の対南部、旧葛西・大崎領、南方の対相馬・仙道口に集中しているんだなぁ」
とか
「旧気仙郡には要害も在所もないけど、統治はどうしてたんだろう」
とかいったヒントを得られることもあるし、城の位置をもっと狭いスケールで確認して、実際に訪れるときの助けにしたり、周りの地形と照らし合わせながら、
「絶妙な場所に本丸があったんだなぁ」
とか
「この位置なら、この街道を抑えるのがこの城の役割だったんだろうなぁ」
といったヒントを得ることができるのだ。

拡大も縮小も、同じ一枚の地図でできる。

その上、(機能は上記のように完璧でないにせよ)検索もできる。

地図に載っていない情報でも、自分で編集して加えることができる。

さらに、それをブログに埋め込める。

あと地味に便利なのは、「この史跡から次の史跡まで車で何分」というルート表示・検索もできること。一枚の地図が、歴史的考察の助けにも、カーナビ替わりにもなるのだ。

このブログは特に埋め込みではない画像地図を作成する際にも、Google Mapの地形図をべースに編集させてもらうことが多い。

まさに、当ブログはGoogle Mapにはおんぶにだっこ状態なのである。

2014年10月5日日曜日

黒川晴氏 -伊達と大崎のはざまで-

くろかわ はるうじ
黒川 晴氏 
別名
月舟斎
生誕
1523年(大永3年)
死没
1599年(慶長4年)8月25日 享年77歳
死因
病死
君主
(大崎寄りの)独立領主 ⇒ 伊達政宗


家格
一家(伊達家の元で)
所領
黒川郡一帯
居城:鶴館城(下草城)
氏族
黒川氏
在位
当主:1568-
父
黒川稙国
母
不明
兄弟
稙家、晴氏
妻
大崎吉兼の娘
子
実子:竹乙姫(留守政宗の妻)
養子:黒川義康(大崎義直の子)
子孫
黒川季氏(孫、この代で黒川家は無嗣断絶)
先祖
黒川景氏(祖父)
墓所
不明
■黒川一族

黒川氏は、宮城県北部・黒川郡を所領とした一族。あくまで独立した勢力ではあったが、大崎・葛西、および少しずつ北進してくる伊達氏に挟まれた地政学的にかなり不安定な土地柄であったため、大崎や伊達氏の家臣の様に書かれることもあり、事実上そうなっていた時期もないとは言い切るのが難しい、なんともグレーゾーンな領主である。

晴氏の祖父・黒川景氏は伊達一門・飯坂清宗の息子であった注釈A。その縁から、この時代の黒川氏は大崎氏よりも伊達への親睦度が深かったようだ。

この代に伊達天文の乱がおこるが、景氏は稙宗党についた。

乱は晴宗党の勝利でおわるが、晴宗にとって敵方だったといえども、北方の伊達勢力の一角としての景氏の価値は無視できず、「大崎鎮撫のことはすべて景氏に任せる」といった意のことの述べている。当時は大崎に対する備えとして、伊達にとっては留守氏と並ぶ北方の同盟勢力であったことがうかがえる出典01。

しかし、伊達の威光を背景に入嗣した景氏も、周囲を大崎系の諸族に囲まれた根なし草の状況を打破すべく、娘たちを大崎一族の百々氏、高城氏などに嫁がせ、また高城氏や一迫氏からの娘をめとった。

景氏の息子(晴氏の父)・稙国、その息子(晴氏の兄)・稙家を経て、稙家が1568年に死去すると晴氏が家をついだ。

■伊達・大崎 二方面外交

祖父・景氏はおそらく伊達方の武将としての自意識があったはずであるが、孫の代にまでなってくると、周囲には大崎系の血が濃くなっている。上記のような状況下で育った晴氏は、おそらく大崎に対する親しみのほうが強かったのかもしれない。

ただし、晴氏も大崎一辺倒の外交をしていたわけではなく、小領主としての宿命から、一方では伊達との誼を深めることも怠っていない。

奥州の情勢図。現在の仙台市周辺には国分・留守・粟野・秋保・亘理といった中小勢力がひしめいていたが、戦国時代が終わりに近づくにつれ、最終的にことごとく伊達傘下となった。黒川氏も、伊達・大崎のはざまで決断を迫られるようになる。

1574(天正2年)年には、伊達輝宗の日記に晴氏から年始として扇子・茶碗が送られてきたことがみえ、政宗の家督相続の際は祝いの品を送っている。

伊達政景が留守氏に入嗣した際、余目氏、村岡氏、佐藤氏などが反乱をおこすと、晴氏は進んで調停役に尽力。やがて娘・竹乙姫(鳳仙院)を留守政景に嫁がせる仲にまで発展し、近隣の勢力である留守氏との結びつきを深めている。

また、晴氏には男子がなく、大崎家当主の義直の息子、義康を養子とした。その義康には伊達一門の亘理元宗の娘をめとらせている。このことからも、伊達・大崎との2方面外交を行い、勢力の安定に努めていたことがうかがえる。


黒川晴氏を中心とした系図。やたらとややこしくなってしまったが、要はこの人の婚姻政策はやたらとややこしいのである。周辺勢力との結びつきにより家を守ろうとする小領主の苦労(およびこの系図を作成した筆者の苦労)が垣間見える系図であろう。

■大崎合戦の勃発

そんな折の1588年、大崎家の内乱に伊達政宗が介入し、大崎合戦がはじまる。大崎・伊達と両方に誼をつうじていた晴氏も、どちらかにつかなければならないときがやってきた。

伊達勢は浜田景隆を陣代に、大将に泉田重光、留守政景の2頭体制。

留守政景は前述のとおり黒川晴氏の義理の息子にあたる人物。そのことに加え、伊達勢の中でも最北端に所領をもつ武将であることもあり、大崎情勢には詳しかったのだろう。必然的に政景は慎重な攻略策を提案するが、もう一人の大将・泉田重光は強硬論を唱える。

この対大崎戦における伊達勢の目標は、大崎家中における伊達派であり、政宗に援軍を求めた岩手沢城の氏家吉継との連絡をつけることが第一である。伊達勢は出撃拠点の松山城から、鳴瀬川沿いに進軍し、いっきに大崎の本拠地・中新田城をぬいて岩手沢を目指すことが合理的であり、これこそが強硬派・泉田の主張した策でもあった。

しかし、問題はその進路上にある桑折城に、あろうことか晴氏が入ってしまったことである。当初、晴氏がどちら側につくのかはっきりとわからなかったこともあり、伊達勢は泉田案のとおり、直接中新田城を攻撃することになった。





伊達郡は2月2日に行動開始。

注釈A:『大和町史』p388。『報恩寺系図』によると、黒川景氏は飯坂清宗の子であるという。しかしながら、飯坂側の資料である『飯坂盛衰記』付属の系図には「飯坂清宗」なる人物名は記載されておらず、誰に比定すればよいのかは今後の研究が必要であろう。どちらにせよ、黒川景氏が飯坂氏の出身であることは間違いない。「飯坂宗清」はまた時代の違った人物なので注意が必要。
出典01:『大和町史』