2019年12月5日木曜日

近頃巷で流行りける”ようつべ”なるものを 吾もしてみむとてするなり

お久しぶりです。相変わらずの不定期更新で申し訳ありません。

いきなりですが、YouTube用に動画を作ってみました。



で、本日はこの動画作成に至った経緯やらを少し書き連ねたいと思います。


■正規購入したバイクで走りだす

今まで「みちのくトリッパー」を名乗りつつも移動手段は原付だったのですが、今年の春、ようやく念願の単車を購入しました。はじめは原付のスピードやら二段階右折などの規制がめんどくさくて、単純にもう少し速く移動できる手段としてのバイクに興味があったのですが、いろいろ調べているうちにバイクそのものに興味が移ってきてしまいました。

いろいろ考えた結果、長距離ツーリングも可能、かつ史跡がらみでは未舗装道に入ることも多いことを踏まえ、購入したのがこちら。


YAMAHAのSEROW(セロー)です。

実際に納車されて以降は、運転そのものが楽しくなってきてしまいまして、本来史跡巡りの手段である「移動」そのものが「ツーリング」という名の目的と化してしまうという、倒錯現象が起きてしまいました。こういうのを手段の目的化というのだろうなぁ。

今年の5月に中目重定の記事をアップしたころはまだ自制がきいていたので、続けて大崎家臣関係の記事を連投するつもりだったのですが、ツーリングシーズンである夏が近づくにつれて、バイク趣味にのめり込むようになってしまいました。

あげく、本格的なものではありませんが一応オフロードモデルではあるので、林道なんか探索し出すようになってしまったらもう抜け出せません。


■歴史趣味×バイク=...

一方で、郷土史研究も相変わらず捨てがたい趣味ではありまして、ブログ執筆からは遠ざかっていたものの、いろいろ読んだり訪れたりは続けていたわけです。郷土史好きな仲間とも交流は続いていたわけで、どうにか両者の両立を図れないかと思案していた結果が、上記の様な動画ができました。

もともと「街道」だとか「峠」っていうのは好きなテーマでしたし、近頃バイクの走行動画をアップする、いわゆる「モトブログ」も流行っていますので、いっちょ歴史要素を絡ませたバイク動画をやってみようかなー、という発想になりました。

とはいえ、東北はこれから積雪のシーズン。各地の峠道も冬季閉鎖が始まりつつありますので、バイク趣味も下火になるかもしれません。しばらくは、秋のうちに撮りためた動画の編集をしつつ過ごしたいと思います。

というわけで、今後は当ブログに加え、YouTubeのチャンネルもご贔屓にしていただけるとありがたい限りです。今後ともみちのくトリッパーを、よろしくお願いいたします。


追伸:こちらは少しバイク趣味に寄せた動画ですが、よろしければ御覧ください。


2019年5月28日火曜日

中目城 / 兵庫館 -大崎平野に浮かぶ小居館-

なかのめじょう / ひょうごかん
中目城 / 兵庫館
中目城。西方向からの眺め。2019年。
別称
中之目城、下中目在所
城の格
伊達仙台藩「在所
城郭構造
平城
天守構造
なし
比高
約5m (ふもとの標高:12約m、本丸約17m)
残存遺構
曲輪跡、水堀?
指定
宮城県遺跡番号:27074
築城
築城年
不明(室町時代以降の築城か?)
築城者
不明(中目氏?)
城主
中目氏
...中目重定、重種(- 1590)
木村領
城主詳細不明。1590年、中目相模が
葛西・大崎一揆の際に籠城。11月陥落。
遠藤氏
遠藤定弘、定良(1611-16??)
氏家氏
氏家清寿、清也、清寿、清継、
清主、清成、清氏、清庸(16??-幕末)
廃城
廃城年
不明(江戸時代は在所として存続)
理由
不明
位置
住所
宮城県 大崎市 古川 下中目 舘
現状
田園、稲荷神社
■中目氏と中目城

中目城は大崎市配下・中目氏の居館である。この築城の年代について伝えるものはないが、平成版『古川市史』第1巻では中目氏の苗字の由来として
中目氏については、大崎市が小野に居館を構えた頃、おそらく旧田尻町の中目に所領を宛行なわれ、後に旧古川市の敷玉に本拠を移したと考えられる。(p474)
としている。であれば、中目氏がこの中目城を築城したのは室町時代中期以降ということになるだろう。

また、現在の中目城は下中目、もしくは敷玉と呼ばれる地域に位置している。筆者はその近辺に「上」中目、あるいは「本」中目といった地名はなく、なぜ「下」中目なのか疑問に思っていたのだが、もともと田尻の中目に対して「下」中目であるならば合点がいく。

なお、中目氏は信憑性にクエスチョンマークはつくものの、『葛西大崎盛衰記』によれば大崎四家老の一家であるという。


■その位置と城主・中目兵庫

その城主については、江戸時代に編纂された地誌である『封内風土記』『風土記御用書出』共に中目兵庫であるとしている。中目兵庫重定は戦国末期の大崎家臣で、晩年には大崎氏を離れ伊達政宗の庇護を受けている。

中目城は、鳴瀬川に多田川が合流するポイントで、一体は水田地帯となっている。現在は新江合川(昭和32年(1957)開削)も合流する河川のジャンクションだ。

大崎氏の領土としては最南端に属し、南には黒川氏や、東南に伊達配下の松山城・遠藤氏や大松沢城・宮沢氏が控えている。中目兵庫が戦国時代末期に伊達よりの行動をとるのにも、こういった地政学的要因があったことだろう。

■中目城の反乱

中目城は、天正18年(1590)の葛西・大崎一揆に際して戦場となっている。伊達家の公式記録『貞山公治家記録』巻之十五 11月20日の条では
中目・師山両城ハ 公(※伊達政宗)終ニ御手ニ属セラル。中目城主ハ大崎殿旧臣 中目相模ナリ。松山城主 遠藤出羽高康父心休斎押寄セ、攻落ス。相模ハ討死歟、逃亡歟、不知。〇中目城 遠田郡ニモアリ。今度心休斎攻落スハ、信太郡下中目城ナリ。(強調引用者)
と記され、近隣の師山城とともに一揆の拠点となったこと、伊達方の遠藤心休斎高宗によって攻略されたことがわかる。また、このときの城主を中目相模としている。これは中目兵庫重定の親族の誰かであろう。当主・兵庫重定はすでに伊達の傘下となっていたが、伊達に従うこと、あるいは中央から下向した木村氏による統治を良しとしない中目一族もいたようだ。

また、上記引用文の前には鎮圧軍として下向した蒲生氏郷が浅野六右衛門正勝に宛てた書状も紹介されており、文中で氏郷は
一 先刻從是申入候中之目近邊、早速一刻モ早、ハカ行候ヤウニ御才覺、貴所御分別ニテ候、ハヤク隙明候事ニ久カヽリ申候者、ヘタカタキニテ候、カシコ、(強調引用者)
と述べている。文意がとりにくいが、『古川市史』によると「中目城ごときに手こずっていては、時間の無駄なので、計略をもって早々に済ませるように」との意らしい。実際に計略による落城だったかどうかは不明だが、後述するように、中目城は本格的な籠城に耐える規模の施設には見えない。「心休斎押寄セ」ともある様に、力攻めによる攻略だったとしても、それほど手こずりはしなかっただろう。


■遠藤氏統治下の中目

葛西・大崎一揆の終結後、中目城がどうなったのかはしばらく不明である。確実なのは、大崎領から木村氏の統治を経て伊達氏の領土となったことだ。江戸時代に入った慶長11年(1611)、中目城のある下中目は伊達家臣の遠藤定弘に与えられた。

この遠藤定弘は葛西・大崎一揆の際に中目城を攻略した遠藤宗高のひ孫にあたる人物で、この地ともゆかりのある氏族だ。定弘は幼少により、叔父である高信が陣代をつとめたが早世。弟の定良が家を継ぐも、遠田郡 大田に移封となる。

萬年寺。中目城のすぐ西隣に位置する。

遠藤氏による統治がいつまでだったかは調査が及ばなかったが、それほど長くはなかった様だ。遠藤氏時代の事跡としては、中目城のすぐ西隣にある萬年寺の移転がある。これはもととも遠藤氏の中世の領地・松山で開かれた寺で、遠藤氏の移封とともにこの地に移ったという。遠藤氏は遠田郡に移封となるが、万年寺はこの地に留まり、次に入封する氏家氏の菩提寺となった。


■氏家氏の入封

次いで下中目を知行したのは、仙台藩 着座第21席、氏家氏である。氏家氏も中目氏と同じく旧大崎家臣の家柄で、戦国時代末期に中目城主だった中目兵庫重定の妻は氏家氏の出身であるため、遠藤氏に次いで氏家氏もこの中目の地にゆかりのある一族となる。

入封の詳細な時期は不明だが、清寿の時代であり、彼が家を継いだ寛文9年(1669)12月以降のことだろうかと思われる。氏家氏の統治は清寿に続いて清也・清寿・清継・清主・清成・清氏・清庸と、幕末まで約200年間続いた。

また、下中目は仙台藩の城郭ランク「在所」にカテゴライズされた。これは要害・所に次ぐ地方統治の拠点で、屋敷は藩からの拝領となる。

遠藤氏、氏家氏時代の屋敷跡がどこなのかははっきりとはわからなかったのだが、宮城県遺跡地図では兵庫館(中目城)が「中世・近世城館」に分類されており、あるいは中目城の一角がそのまま在所の屋敷用地として利用されたのかもしれない。


■中目城の構造

中目城の歴史を語ったところで、次に城館としての構造を見ていこうと思う。中目城の規模については『風土記御用書出』に「竪 四拾五間 横 二拾五間」とあり、縦(南北)81.8m、横(東西)45.4mの換算となる。

『風土記御用書出』では横(東西)よりも縦(南北)に長いサイズに記録されているが、Google Mapの衛星写真では、東西方向に長い長方形に見える。城館跡の東側に若干盛り上がった部分があり、この大きさが『風土記御用書出』に記録されたサイズとほぼ一致するため、ここが中目城の主郭部だったのだろう。

衛星写真に『風土記御用書出』記載のサイズを当てはめてみた。
実際に周囲から盛り上がっている丘の規模は東西120m近くになる。

一方、1975年の衛星写真では、城館の輪郭らしきものが現代のそれと比べて若干大きく見える。

国土地理院航空地図より。1975年撮影。
上掲のGoogle Map衛星写真とほぼ同じ縮尺で切り出した。

周囲は標高約12mの水田地帯で、城館一帯は17~18m、比高約5m程度の丘となっている。段彩陰影図で地形の高低差をクリアに表示してみると、この一帯だけ綺麗に浮き上がっている。中目城の西側にある高台は萬年寺で、あるいはここも城郭施設として利用があった可能性もあるのではないか。


前述したとおり、ここは鳴瀬川と多田川の合流地点であり、治水の進んでいなかった中世には河川の氾濫も頻繁に起こったであろうから、季節によっては周囲に水を引き込んで水城のような防御戦術がとれたかもしれない。

事実、山城が圧倒的多数を占める東北において、平城が目立つのが大崎地方の特徴で、佐沼城や宮沢城など、水の流れを防衛に組み込んだ城も多い。

中目城一帯は水田に囲まれた私有地の感が強かったので、今回筆者は遠目から眺めるにとどめ、丘の中には立ち入らなかったが、紫桃正隆『仙台領内古城・館』第3巻によれば頂上部に稲荷神社がまつられ、西側には水堀跡もみられるという。

調べてみる限り、中目城について発掘調査が行われたことは無いようだ。もし調査が行われれば、葛西・大崎一揆の際の戦いの跡や、近世居館の生活にちなんだものが何かしら出土するだろうか。


■参考文献
  • 紫桃正隆『仙台領内古城・館』第3巻、宝文堂、1973年
  • 『古川市史1』第1巻 通史Ⅰ、2008年






2019年5月22日水曜日

中目重定 -伊達に寝返った大崎宿老-

なかのめ しげさだ
中目 重定 
別名
兵庫助、兵庫頭、隆政?
生誕
不明
死没
不明
君主
大崎義直 → 義隆 → 伊達政宗
勢力
大崎家 → 仙台伊達藩
家格
四家老? → 不明
所領
-1590 下中目 兵庫館(および下伊場野古城?)
1590- 不明。浪人?

1593- 青生・彫堂
氏族
中目氏(渋谷氏系統か)
父母
不明
兄弟
不明
氏家直俊の娘
中目弥五郎重種
子孫
中目太郎左衛門
親戚
中目相模? 中目大学?
氏家隆継(義理の甥)、氏家吉継(義理の大甥)
墓所
不明
中目兵庫重定は大崎家の家臣でありつつも、戦国時代の末期に伊達家に仕えた武将である。中目は「中ノ目」「中野目」とも表記されることから、「なかのめ」と読むのが正しいと思われる。

『葛西・大崎盛衰記』によれば中目家は大崎の「四天王の御家臣」であり、四家老と呼ばれたりするのだが、これは近世の著作であり、大崎氏の初期~全盛期においてはともかく、重定の時代にこの四家老なるタイトルが実情に即していたかどうかは疑わしい。


■その支配地

大崎地方に下中目(現在の宮城県 大崎市 古川 下中目)という集落があり、そこを治めていた様だ。下中目は現在、低地の田園地帯となっているが、そこにぽっかり島の様に浮かんだ丘がある。「中目城」あるいは「兵庫館」とよばれていた城館跡があり、『風土記書出』では城主を中目兵庫と伝える(以下、出典史料については【史料集】中目重定を参照)。

ここは鳴瀬川に多田川が合流するポイントで、昭和32年(1957)以降は新江合川もそそぐ結節点となった。いずれにせよ、治水がそれほど進んでいなかった戦国時代当時は、それなりの湿地帯であっただろう。河川の氾濫がおこれば、中目城はあるいは水の浮城のような城塞となったのかもしれない。ただし、

①現在の様子を見ても、小規模な居館といった印象
②大崎合戦においても対伊達の防衛ラインとして用いられていない
③葛西・大崎一揆においても簡単に陥落している

ことから考えて、本格的な籠城に耐える城ではなかった様だ。

また、『風土記書出』では下伊場野村の古城(伊場野古城)についても城主を中目兵庫とし、隣接する下伊場野城については中目大学を城主と伝える。中目大学は兵庫重定の親戚だろう。

どちらにせよ、中目一族としては鳴瀬川をはさんで南北にその領地をもっていたこととなる。伊場野は伊達領の大松沢(大松沢氏)や松山(遠藤氏)と接する場所であり、のちに大崎を見限って伊達に接近するのも、こういった地理的要因があったかもしれない(上記 兵庫館・伊場野古城の位置については下記Google Map参照)。


■活動の初見 - 黒川への使者

中目兵庫重定の名が初めてみえる史料に、「黒川氏宛 大崎義直黒印状」がある。弘治3年(1557)のものと推定されており、大崎家の第11代当主・義直が黒川景氏・稙国親子に宛てたものである。

内容は、近隣の大名である留守氏の当主・顕宗に対して家臣・村岡氏がおこした反乱に関するもので、この留守氏内紛を調停しようと動いていた黒川親子へのねぎらいと、協力の約束である。最後に「委曲 中目兵庫助 理申すべく候」とあるので、大崎義直の使者として、中目重定が黒川へ派遣され、詳細を伝えるメッセンジャーの役割を任せられたのだろう。

以上から、中目重定が大崎義直の代から現役だったことがわかる。一方で、続く第12代・大崎義隆の時代末期まで、しばらくその活動の詳細は不明である。


■大崎合戦

天正末期、大崎家がふたつに割れた天正大崎の内乱においては、中目兵庫重定は大崎義隆・新井田刑部の側についたと『成実記』にみえる。

ただし、その内乱が発展し伊達政宗の介入を招いた天正16年(1588-)からの大崎合戦においては、伊達勢を迎え撃った大崎家臣団の中に中目重定の名前が見えなくなる。あるいはこのとき既に伊達によしみを通じていた、もしくは中立的な態度をとっていたのかもしれない。

『葛西・大崎盛衰記』では桑折城に中野目兵庫が加勢したと見えるが、『葛西・大崎盛衰記』は近世成立の軍記物であり、『成実記』と比べても大崎方の陣容にかなりの誇張があると思われ、信頼するには怪しい。

このとき大崎氏は対伊達戦線として、本拠地・中新田を守備するべく下新田城・師山城・桑折城を防衛ラインに設定していたが、それよりも前線側にある中目城は無視されている。

それだけでなく、おなじく中目兵庫が城主だったとされる伊場野古城、親族だと思われる中目大学が城主だった伊場野館も防衛ラインとしては外され、一段下がった師山城 = 桑折城が防衛ラインとして設定されている。

クリックで拡大。大崎合戦開始前(1588.01)の戦闘配置。『成実記』より。
南東の白いアイコンが中目氏関連の中目城(兵庫館)・伊場野館・伊場野古城。
これら3城は利用されず、大崎方の防衛線は一歩下がった師山=桑折城ラインに設定されている。

先述のとおり、城の脆弱性が原因かもしれないが、あるいはやはり、中目氏はこの頃すでに大崎防衛部隊からは戦線離脱していたのかもしれない。いずれにせよ、中目重定がこの戦いで目立った動きをしなかったことは確かだ。


■大崎への手切れと伊達への接近

大崎合戦において大崎方は、戦術的には中新田で伊達軍を打ち破りながらも、政宗による大崎家臣団の切り崩しや粘り強い講和条件交渉により、大局的には大崎方の劣勢に推移していった。

上記のように、もともと大崎合戦においては行動がはっきりとしない中目重定であったが、天正17年(1589)3月初頭、同じ大崎家臣の古川氏の配下を攻撃し、明確に反大崎の姿勢を明らかにする。これは『貞山公治家記録』(3月7日の条)およびその史料集ともいうべき『政宗君記録引証記』に紹介されている。

この中目重定の行動のタイミングを考察するに、少しさかのぼる2月上旬に大崎氏における最大の抵抗勢力・氏家吉継をはじめとする氏家党のメンバーたちが政宗の米沢にいる参上したことと関係があると考えられる。『古川市史』では中目の行動をもっと厳密に、氏家吉継が米沢から岩出山に帰還した直後の3月2日のこととしている。

氏家党メンバーの米沢参上は、彼らが大崎家を離れて伊達に出仕することを意味する。実は中目重定の妻は氏家氏出身で、吉継は親戚にあたる。氏家吉継は伊達出仕への手土産として、中目の大崎離反を工作したのかもしれない。あるいは逆に、中目重定が自ら流れに乗り遅れまいとして、反大崎の行動をとったのかもしれない。

また、同じく天正17年(1589)の12月24日には政宗からの書状(政宗文書579)で大崎の合戦が勝利した暁には、四日市場の領土を加増する旨を約束されている。この四日市場は、大崎の本拠地・中新田の近辺で、おそらく大崎方に属する地である(『古川市史』は下新田氏の領地と推測。下記に地図あり)。中目重定はこの時点で、完全に大崎に反し伊達方の武将として行動している。


■葛西・大崎一揆

その後、大崎氏は小田原参陣を果たせなかったことから、改易となり大名としては滅亡した。大崎と、同じく取りつぶしとなった葛西の旧領には木村吉清が入封するが、これに対して旧葛西・大崎家臣や農民たちの一揆がおこる。

伊達政宗や、蒲生氏郷はこの一揆の鎮圧に乗り出すが、途中、政宗は一揆を扇動していることを疑われ、弁明のために上洛。有名なセキレイの花押のエピソードで秀吉の疑いを解いた政宗は、一揆の第2次鎮圧を開始する。

この第2次鎮圧の開始直前(天正19年(1591)6月8日)、政宗は中目重定に宛てて書状を書いている(政宗文書837)。「これから出陣するので、(現地で)直接いろいろ申し付ける」といった内容で、このとき中目重定が一揆には加わらず、むしろ鎮圧側として政宗に協力していたことがわかる。

一方、『伊達治家記録』天正18年(1590)11月20日の条には中目相模なる人物が中目城に籠って一揆に参加していたことが書かれている。伊達方の武将・遠藤心休斎によって簡単に攻略されているが、この中目相模はおそらく重定の親族の誰かであろう。中目一族も一枚岩ではなかった様だ。

中目城(兵庫館)。中目兵庫重定の居館と伝わる。
葛西・大崎一揆(1590)では中目相模が籠城するも、
伊達方の遠藤心休斎により陥落される。宮城県 大崎市 古川 下中目。

少しさかのぼる11月11日には、政宗から中目弥五郎(『治家記録』では重定の嫡子・重種としている)宛に判物が下され、その忠節を賞されている。あるいは一族の中目相模の反乱に対して、重定・重種親子もなんらかの鎮圧行動に加わっていたのかもしれない。


■大崎耕土の開墾

その後の中目重定の活動は明確ではないが、1593年3月23日の段階で、伊達氏から中目兵庫(重定)宛てに朱印制札が出され、青生・彫堂の地の開墾を指示されている。青生・彫堂はいずれも下中目のすぐ東側の土地であり、制札では「あれ地」と表現され、葛西・大崎一揆で荒廃したことが示唆されている。あるいは中目相模が中目城に籠ったことと関係しているのかもしれない。


政宗は葛西・大崎一揆をきっかけに本拠地の置賜や現在の福島県域に獲得した領地を没収され、かわりに葛西・大崎の旧領を与えられた。これは石高としては大幅にダウンで、伊達家としては中目たちの様に、諸家から伊達に鞍替えして増えた家臣を、減少した収入で養わなければならなかった。

その解決策として行われたのが、このように給与の直接支給ではなく土地を与えて家臣たちの開墾を推奨する方法で、近世には地方じかた知行制と呼ばれた。これがのちに「実質200万石」ともいわれる穀倉地帯・仙台藩の姿につながる。中目重定に指示されたこの青生・彫堂の開墾は、その典型のように思える。


■その子孫

...以上のように、大崎家から伊達の配下となったことは確かな中目重定なのだが、その後の動向は子孫も含めてよくわからない。

彼の嫡子とされる中目弥五郎は、「伊達政宗最上陣覚書」と呼ばれる史料にその名前が見えることから、東北の関ケ原・長谷堂城の戦いへ派遣された伊達の援軍に参加していたことがわかる。つまりこのとき、すでに重定は第一線を退き、嫡子・弥五郎重種に家を継がせていたのではないかと思われる。既に活動の初見(1557年)から40年以上が経過している。妥当なところだろう。

仙台藩の家臣録である『伊達世臣家譜』には「大崎の旧臣」を称する中目家が載っているのだが、元寺尾姓、隆継・一慶を経て定継の代の慶長19年(1614)に伊達家に仕えた、とするなど、どうもここに紹介した中目重定の家とは一致しないように思える。あるいは、中目相模や中目大学の家系だろうか。

上記で紹介した政宗文書などは「中目家文書」として伝わっているものなのだが、文書について『政宗君引記録証記』では「右、津田民部預給主中目太郎左衛門所持」と解説している。中目重定が政宗から与えられた文書を所持していた中目太郎左衛門は、重定の子孫であることに間違いはないだろう。「津田民部 預給主」とあるので、兵庫重定の子孫たちは、佐沼要害を拝領した津田氏配下の伊達家臣として近世を生きた様である。


■参考文献
直接の出典となった史料についてはこちらを参照 ⇒ 【資料集】中目重定
  • 佐々木慶市『奥州探題大崎十二代史』1999年、今野出版企画
  • 遠藤ゆり子「大崎氏の権力構造」(『戦国時代の南奥羽社会』2016年、吉川弘文館 所収。初出は『立教 日本史論集』第8号に掲載の「戦国大崎氏の基礎的研究」2001年)
  • 『古川市史1』第1巻 通史Ⅰ、2008年