2015年7月7日火曜日

石原莞爾将軍墓所 -陸軍の異端児が眠る霊廟-

石原莞爾
Wikipedia より拝借
仕事で酒田まで来たので、ついでによれる場所はないかと検索してみたところ、「石原莞爾の墓」なるものがヒットした。そういえば、この人も東北(鶴岡)出身者である。最近は戦国時代、伊達家にまつわる記事ばかりをアップしているので自分でも忘れてしまいそうになるのだが、このブログのテーマはあくまで「みちのく」である。

この石原莞爾(いしら かんじ)なる人物、一言で説明するなら「満州事変(1931)を起こした主謀者」だ。それだけ聞くと、左よりの人たちからは拒否反応が出てしまうかもしれないが、石原はそこまで単純な人物ではない。満州事変の首謀者でありながら、二・二六事件の反乱軍を鎮圧したり、日中戦争の拡大に反対したりしている。

一方では日蓮宗の熱心な信者であり、『世界最終戦論』では将来の日米戦争(太平洋戦争)を予言し、その最終戦争のあとには、人類は永久平和の時代を迎えると説くなど、一言で「軍国主義者」と片づけるわけにはいかない何かがこの男にはある。

その「何か」について語っていると、それだけで専門のブログができてしまう程の奥深さがある人物なので、詳しく知りたい方は彼の著作である『最終戦争論』『戦争史大観』あたりを読んでみてほしい。彼がどういう思想・世界観をもった人間なのかがよくわかるはずである。

私は高校生(当時)のときにヤングジャンプで連載していた本宮ひろ志の『国が燃える』という漫画がきっかけで石原莞爾の存在を知って以来、彼への興味は尽きることなく今日まで生きている。




ともあれ、石原について語っていると止まらなくなってしまうので、この記事では彼の墓について述べるに留める。

■ 墓の場所

墓所は「旧墓所」と「新墓所」の2か所あり、どちらも近い位置にあるのだが、間に国道7号 吹浦バイパスが通っているため直通ができず、大きく迂回するしかない。ちなみに新墓所には駐車場がある。


住所は 山形県 飽海郡 遊佐町 菅里 菅野

酒田から国道7号を北上し、吹浦バイパスと旧道が分岐するY字路の近辺。石原莞爾が晩年を過ごした場所の近くということらしい。

■ 旧墓所

文字がハゲているが、「石原莞爾先生の墓」とある。

入口は住宅地の奥、雑木林になっているところ。



雑木林の中、整備された道を進んでいく。案内板に従って歩けば迷うことはない。



石原莞爾の墓。てっぺんには「南無阿弥陀仏」と書いてあった。石原莞爾は熱心な日蓮教徒としても知られており、彼の『最終戦争論』には日蓮宗の教義の影響もみられる。



石原莞爾が目指した戦後日本復興の三大スローガン、「都市解体」「農工一体」「簡素生活」の碑。現代にも通じるものがあると思うのは私だけではないだろう。「都市解体」は地方分権を彷彿とさせるし、「簡素生活」はEUに支援を求めておきながら自らは財政再建の努力をしない(少なくとも私にはそう見える)ギリシアのことをなんとなく思い起こさせる。

なお、仕事帰りにたちよったため、このあたりから写真が暗くなっており、無理やり編集で明るくしたので画質が粗くなっていることをお断りさせていただく。

■ 新墓所

新墓所は国道7号吹浦バイパス沿いにあり、駐車場もあるので入りやすい。
右が国道7号 吹浦バイパス。左手奥が新墓所。


「私はただ仏様の予言と日蓮聖人の霊を信じているのです 石原莞爾」とある。


旧墓所と同じ三大スローガン。


同志之霊碑。日も落ちておやすみのところ、フラッシュで眠りを妨げてしまって申し訳ありませんでした...。

旧墓所、新墓所ともにとても丁寧に手入れがされており、管理されている方々の心情がうかがい知れる場所だった。墓所のホームページによれば、「石原莞爾顕彰会」なる団体が墓所を管理されている様だ。

◾︎ 東北出身の軍人たち

さて、石原莞爾は1889年に山形で生まれ、1901年まで同地で幼年期を過ごした。1902年から3年間、仙台陸軍地方幼年学校に在学しており、その後は全国各地、あるいは海外で勤務することも多かったが、まごうことなき「東北人」である。

石原莞爾もそうだし、彼とともに満州事変を主導した板垣征四郎も岩手県出身である。

この時代に活躍した旧・大日本帝国軍人、および関東軍軍人には、「あんたもか!」ってくらいに東北出身者が多いことに驚く。冷静に考えれば日本軍はかなり大きな組織なので、東北出身者が多くいても当たり前なのだが、以下、思いつく限り列挙すると

小磯国昭
生まれは宇都宮だが、旧新庄藩士の長男として生まれ、旧山形県中学校(現在の山形県立山形東高校)を卒業。陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官、内閣総理大臣を歴任。東京裁判で終身刑判決。
米内光政
岩手県盛岡市に旧盛岡藩士の長男として生まれる。連合艦隊司令長官、海軍大臣、内閣総理大臣を歴任。
服部卓四郎
山形県出身。陸軍士官学校時代は「34期の三羽烏」と称された秀才。参謀本部勤務などを経て関東軍作戦主任参謀に。ノモンハン事件においては作戦参謀の辻政信と共に拡大方針を唱えた。
甘粕正彦
宮城県仙台市に旧米沢藩士の父と母(仙台藩士の娘)の長男として生まれる。憲兵となったのち、1923年関東大震災のときに起こした社会主義者・大杉栄の殺害事件(甘粕事件)で有名。軍を退官後、フランス留学を経て満州に赴任。満州国の建国、運営に大きな影響を及ぼした。

今村均
宮城県仙台市生まれ。祖父は仙台藩士。陸軍大学校を首席で卒業後、関東軍参謀副長、教育総監部本部長などを歴任。太平洋戦争においては第8方面軍司令官としてラバウル島防衛の任につく。温厚で高潔な人柄と、占領地での軍政・指導能力は高く、名将という評価を受けており、旧占領国の現地住民だけでなく、敵国であった連合国側からも称えられている。

などがいるだろうか。

一口に「東北出身の軍人」とは言え、所属部隊や階級、思想も行動もバラバラなのだが、薩長閥に牛耳られた帝国軍において「朝敵」の子孫として育った彼らの心のうちには、なんらかの共通点を見出せそうな気がしてならない。

東北出身者ということであれば、昭和恐慌下の厳しい不況、および東北を苦しめた冷害の被害者が、彼らの身内や親しい人の中に大勢いたはずなのである。

そういう境遇にある軍人が「満州をとれば、中国をとれば日本は少しはマシになる」と考えるのは必然だったのかもしれない。当時の世界は「ブロック経済」「帝国主義」のロジックで動いた世界であるから、なおさらである。石原莞爾もそうであったのかもしれないし、実際、関東軍にはそういった東北出身の兵卒・下士官が多かったと何かで読んだことがある。



東北出身の帝国軍人は多い。

彼らの中に共通項を見いだせるかどうかはやってみないとわからないが、いつか、彼らがどういった状況で、どういう考えに基づいてどんな行動に至ったのか、じっくり研究してみたいところではある。

2015年6月11日木曜日

未来屋書店に文化を担う書店としてのプライドはないのか!? -イオングループに対するレジスタンス宣言-

■ 岩波文庫を置かない未来屋書店

昨日、仕事帰りにとある仙台近郊のイオンモールに立ちよった。個人的にイオンは大嫌いなのでなるべくイオンで買い物はしないようにしているのだが(理由は後述)、帰り道の途中にたちよれる場所で目的の買物ができる場所がそこしかなかったので、仕方なくイオンに入ったのだ。

たちよった未来屋書店の実際の風景。
イオンモールのHP画像から拝借。
買物を済ませた後、本屋に立ち寄った。

未来屋書店という名前である。

学生時代に読んだ本をふともう一度読みたくなったので、それがないかどうか、探すためである。本のレーベルは岩波現代文庫なので、文庫本コーナーの岩波の棚を探した。

ない。

目的の文庫本が見つからなかったのではない。岩波現代文庫が1冊も置かれていないのである。そもそも、通常の岩波文庫すらおいていない。

結局みつけることのできなかった岩波の棚を探す過程で、店内をぐるっと一周したので気付いたのだが、その未来屋書店にはビジネス書のコーナーもなかった。ノンフィクション、社会情勢、政治、経済、経営、といった類のコーナーは存在しない。ましてや理工書、専門書なんぞの類は一冊もない。

厳密にいえば、売れ筋のビジネス書なんかは新刊コーナーに置いてあるのだが、常設のビジネス書コーナーは存在しないのである。

この書店のレイアウト、ラインナップをみて、無性に腹が立ってきた。

じわじわと怒りがこみあげてきた。

この書店に、本屋としてのプライドはないのか? 
文化を担う書店としての矜持はないのかっ!!?

■ 元書店アルバイトとして思うこと

...実はブログ主、学生時代に某大手書店でアルバイトをしていたことがある。都内の敷地面積がそこそこ広い店で、チェーン店内における売上もそこそこ良かった。

まさにこんな感じのカリスマ書店員もいて、
当時ブログ主のあこがれだった笑それに
しても稲盛いずみはっても美人だなぁ
...話はそれるが、昔からのファンである。
(画像は戦う! 書店ガールのHPから)
その書店では、当然のものとして、岩波の棚は存在した。その某大手書店的発想から言えば、岩波文庫が置いてない書店なんて、ありえなかった(※1)。
(※1)個人的には岩波文庫はあまり好きではない文庫ではある。文字が小さくて読みにくく、同じタイトルの本が新潮文庫であれば間違いなくそちらを買う。新潮文庫はひものしおりがデフォルト装備なのがいい。
社員さんたちは自分が担当する棚のレイアウトやラインナップに対してこだわりを持っていたし、文化の守護者・発信者たる書店員としてのプライドを感じることができて、当時学生だった自分はそんな社員さんたちをみて、憧れをいだいた。

なにより、社員さんだけじゃなくアルバイトも含めてみんな本が大好きで、好きな本のジャンルは人それぞれなのだけど、酒を飲みながら読書論だったり、好きな作家について語り合えるあの書店の仲間たちが、自分は大好きだった。

教養もあって尊敬しあえる仲間たちと一緒に働けてたことが自分はうれしかった。

当時は学生だったから、フルタイムで働けなかったので特定の棚を任せてもらえることはなかった(※2)が、それでも文化を担う書店員としての誇りを、自分も生意気ながらに、もって働いていた。
(※2)アルバイトでも昼の時間週4~5で入っていた人たちは、自分の担当・ジャンルの棚を任されることがあった。
そういう経験があったものだから、この未来屋書店に対して、余計に腹が立った。

腹立たしさは、やがて「情けねぇ」という思いに変わった。

この書店の店員どもは、こんなくだらねぇ本しか並べてない自分の店が恥ずかしくないのか?

■ 未来屋書店はイオンのグループ企業

そりゃあ、敷地面積的な制限で岩波を置けない小さな書店は世の中にたくさん存在する。誰が買うかもわからない岩波文庫よりも、ドラマ化した小説、話題の本など万人ウケする売れ筋の本をメインに揃えないと、やっていけない書店もあるだろう。岩波を置きたくても置けない書店は、確かにある。

けれど、この岩波の棚がなかった未来屋書店は、イオンの系列書店である。Wkipediaの表現をかりるなら
全国に約220店舗展開する、イオングループの中核企業
http://ja.wikipedia.org/wiki/未来屋書店、強調は筆者による)
なのである。天下のイオングループ様の、中核を担う企業なのだ。今日び、良くも悪くもイオンというだけで人は集まってくる世の中だし、その書店もけっして敷地面積の狭い方ではなかった。

それなのに、岩波文庫すら置かないで、クソみてぇな本ばっかり並べていやがる書店でいいのか?
おまえら書店員は、そんなファッ●ンな本屋で働いてて楽しいかっ!!?

さらなる怒りがわいてきた。


...少し補足させてもらうと、自分は未来屋書店が岩波文庫が置いてないことにムカついているわけではない。むしろ岩波文庫は上記注釈で触れたように、自分はあまり好きではないのだ。

ここで自分が怒りの対象としているのは、岩波文庫に象徴される、「教養」なり「知識」の倉庫としての本を置かずに、どこの本屋にいっても同じように平積みされている新刊本、話題の本、雑誌類、つまりさきほど自分が「クソみてぇな」と表現した本で埋め尽くされたレイアウトに対してである。

そしてそのレイアウトを許容している、未来屋書店およびその店員たちのプライドのなさに対してである。

奴らの「文化の守護者たる書店」としての自覚のなさに対してなのである。

再びWikipediaの情報によれば、そんなクソみてぇな未来屋書店が、全国に約220店舗も存在するらしい。これでは、本離れが叫ばれて久しいこの世の中の悪い流れを、さらに加速させるだけである。

■ 文化の破壊者 イオン


そもそも、この未来屋書店を擁するイオングループが「文化の守護者」どころか「文化の破壊者」であることは様々な場所で議論されている。

ためしに「イオン 文化破壊」で検索してみただけでも42万4000件のヒットがあった。有名な話、イオンモールはテナントとして全国チェーンばかりを出店させるので、どこのモールに入っても金太郎あめの様な画一的風景になるし、地元の零細企業はイオンモールでの出店、取引ができないのでそうやって地方の文化は廃れていく。

「復興の象徴」の触れ込みで被災地に新規出店をしておきながら、被災地の企業、個人商店にはいっさい金が入らないシステムでの出店であるため、むしろ迷惑に感じる人もいた、というエピソードはもっと世に知られて然るべきだろう。

この一定の売れゆきが確保できるだろうと思われる全国チェーンばかり出店を許し、地方の文化の担い手である個人商店はどれだけ儲かるかわからないからはじく、というイオンモールの出店スタイル、どこかで聞き覚えがないだろうか。

確実な売れゆきが確保できるだろうと思われる新刊、話題の本、雑誌ばかりを並べ、文化、教養の基礎となる本はどれだけ売れるかわからないからはじく...。

そう、未来屋書店の本のラインナップは、イオンモールのショップラインナップの縮図なのである!
文化の破壊者である「イオングループの中核企業」である未来屋書店が、文化の守護者たりえるわけがないのである!!

気分がノってきたので(笑)もっとはっきり言おう! 

なにが「未来」屋だこのクソ書店野郎!!
おまえら書店員のくせに「温故知新」って言葉知らねーのか! 
過去の英知の象徴である岩波文庫も置いてねえ書店が、偉ぶって「未来」名乗ってんじゃねーよ!!

おまえらみたいな大企業のくせに文化を破壊してる奴らに「書店」を名乗る資格なんかねーんだよ!!


■ 文化破壊に対するレジスタンス

...あぁ、なんだかここまでボロクソに未来屋書店をディスりきってある程度スッキリはしたのだが(笑)、イオンおよび未来屋書店に対する怒りはまだまだ冷めやらない。

と、いうわけで個人的にイオンに対するレジスタンスを行うことにした。文化の破壊者たるイオンに対して、ブログ主はささやかながら抵抗を試みることにした。

具体的には

  • 未来屋書店では本を買わない
  • イオンで買い物をしない
  • イオン系コンビニであるミニストップで買い物をしない
  • 岡田克也が代表をつとめる民主党には投票しない(※3)
  • なるべく個人経営なり地元密着型の企業、小売店で買い物をするように心がける

といった方法である。要はイオングループに対する不買運動だ。ミニストップまで巻き込んでいることに対し、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」じゃねーかよ、という批判は甘んじて受けよう笑
(※3)民主党代表、岡田克也はイオングループCEOの岡田元也の実の弟である。そのため、岡田克也の政治的行動にはイオングループの意向が反映されると考えてまず不自然ではない。まぁそもそも、岡田克也が代表であるかどうかにかかわらず民主党には投票しないが笑
まぁ、戦いの結果は火を見るよりも明らかだろう。こっちは単なる零細ブロガー。一方で相手は天下のイオングループ様様である。凡庸なたとえで言うなら、象に挑むアリといったところか。

しかし。


アリも群れれば猛獣を倒すこともある。このブログを読んでもし共感してくださった方がいらしたら、ぜひともイオングループに対するレジスタンス戦線に加わっていただきたい。

我々は常に、文化の破壊者に対して毅然たる態度をもって応じなくてはならない。特に、こういった地域史・郷土史をテーマとしているブログの執筆者なら、なおさらなのである。


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2015年5月13日水曜日

宮崎城 -伊達軍を翻弄した要塞-

みやざきじょう
宮崎城
宮崎城遠景。南東方面から。2015年。
別称
特になし
城の格
大崎家臣・笠原氏本城
伊達仙台藩「
城郭構造
山城
天守構造
なし
比高
約70m (ふもとの標高:75約m、本丸約145m)
残存遺構
堀切、曲輪
指定
特になし
築城
築城年
不明(1339年以前、もしくは正平年間(1346-70))
築城者
笠原重広?
城主
笠原氏
(宮崎氏)
笠原重広、為広、為宗、為時、詮時、兼時、
仲沖、隆治、隆親
城預かり
片平親綱、山岡重長、石母田宗頼
(文禄より慶長のはじめ、交代で統治)
牧野氏
牧野盛仲、茂中(?)
石母田氏
永頼、宗存、頼在、興頼(1652-1757)
古内氏
義清、義周、実徳、実道、実直、実広
(1757-1869)
廃城
廃城年
不明(江戸時代は所として存続)
理由
不明
位置
住所
宮城県 加美郡 加美町 宮崎 麓一番
現状
山林
今回紹介する宮崎城は、宮城県内でも有数の天険である。

1.宮崎城の歴史
1-1.笠原氏
宮崎城が建てられたのがいつなのかははっきりしない。『宮崎町史』には「初代笠原重広が延元四年(一三三九)宮崎城を賜って」とある。もともと存在していた城を「賜った」のか、彼が築城したのかは不明だが、少なくとも1339年の時点では存在していたようだ。

一方で『日本城郭大系』には「笠原氏系図」に正平年間(1346-70年)に笠原重広が宮崎城を築いたことが記されている、としている。

現地の案内板には「大崎氏時代には三大名城のひとつといわれ、自然の要害の地であった」と記されている。

笠原氏は大崎氏の家臣で、親族である柳沢(屋木沢)氏、米泉氏、谷地森氏などを従えてこの一帯(現在の加美町北部、旧宮崎町)あたりを支配した。笠原宗家は宮崎の姓を名のってもいる。

大崎氏内部では、氏家氏など、大崎宗家に公然と反旗を翻す一族もあったなか、笠原一党は比較的忠実に大崎家に仕えたようである。大崎家が分裂した天正末期の騒動では大崎義隆の呼びかけに宮崎、屋木沢、谷地森氏が応えて参陣している。

1-2.宮崎城の戦い
宮崎城が脚光をあびるのが、葛西・大崎一揆においてであた。大崎家は葛西氏とともに奥州仕置の際に改易となり、新領主として秀吉旗下の木村吉清・清久親子が入ってくるが、これに対する一揆が旧葛西・大崎領で頻発した。

この一揆の特徴は、単なる農民暴動ではなく、旧領主・大崎家や葛西家の家臣たちが組織的に新領主・木村親子に反抗したことにあった。また、伊達政宗がこれを扇動していたとする説が有力で広く知られているが、実際のところはわからない。

ときの笠原家当主・笠原(宮崎)隆親も一揆に参加したうちの一人である。実は隆親の叔父にあたる谷地森直景の娘(つまり隆親のイトコ)が大崎家当主・大崎義隆の妾であり、嫡子・庄三郎(義興)を生んでいたのである。

嫡子の母親の家系・つまりは外戚として、笠原一党は大崎家中における主流派を形成していた。ともなれば、お家の滅亡を黙って受け入れられないのも必定。笠原党は庄三郎を擁し、大崎家復興のために宮崎城で挙兵した。

浜田景隆の墓宮崎中学校わき)
胸部を撃ち抜かれても「体を城の方へ
埋葬してくれ」と言い残し死したという。
ときの権力者・秀吉から鎮圧を命じられたのは伊達政宗だった。伊達の軍勢は約1万。対する籠城軍は約3000人である。

攻撃は天正19年(1591年)6月24日から開始された。初日から伊達の智将・浜田隆景が討ち死にし、大松沢元実も腰を撃ち抜かれるなど被害甚大な激戦となった。

2日目になると伊達の総攻撃が始まるが、このときの原田宗時後藤信康のエピソードが伝わっている。二人はいつも先陣を競い合っていたのだが、後藤信康が夜にこっそり抜け出して城に忍び入って石壁に取りつくと「えらい早駆けじゃのう」という声がする。みてみると信康よりも先に忍び込んでいた原田宗時が城門の柱にしがみついていた。

城門から敵が攻めてきたが、二人は隠れて城内にとどまった。敵の攻撃がやんで城内に戻ると、二人は城門を開け放って味方を招き入れ、そのまま城は大混乱になったという。

城主・笠原隆親は降伏を申し出たたが政宗はこれを許さず、徹底的な殲滅を主張した。おそらくはここで撫で斬りのパフォーマンスをすることにより、他の一揆勢に対するデモンストレーションとしたかったのだろう。しかし伊達成実が「敵の本拠地は佐沼城にあり。佐沼も堅城である故、宮崎での犠牲は少なく済ませ、早急に佐沼へ向かうべし」と献策した。政宗は成実の意見に納得するも許しがたかったらしく、城は炎に包まれた。

笠原隆親は家臣らとともに秘密の坑道を抜けて脱出。出羽の小国へと落ち延び、舅を頼ろうとしたものの城内に妻子を残してきたためにどうも居心地が悪かったのか、最終的には由利まで赴いている。

宮崎城を落とした伊達勢は佐沼へと転戦。政宗の主張した「徹底的な殲滅」は佐沼にて行われることになる。

1-3.伊達領 宮崎所
葛西・大崎一揆の終結とともに宮崎も伊達領の一部となる。岡千仭『仙台藩史料』によれば「文禄より慶長のはじめ宮崎城は片平親綱、山岡志摩(重長)、石母田宗頼の三人に預けられ交代してここを管理」していたようだ。

江戸時代になると宮崎城は伊達四十八舘のひとつ、城郭ランク「所」として領内支配の拠点となる。江戸時代初期の統治者は記録には残っていないものの、『宮崎町史』では牧野家の支配管理下となったが、故あって改易、家断絶となったために伊達家の記録から抹消されたものと推測している。

記録が残っているのは承応元年(1652年)からで、この年に石母田家6代目の永頼が岩ケ崎から転封となって宮崎に入る。以下、7代・宗存、8代・頼在と続き、9代・興頼のころ、宝暦7年(1757)に高清水へと移封となる。

代わりに入ってきたのが古内氏で、5代・義清、6代・義周、7代・実徳、8代・実道、9代・実直と続き、10代・実広のころに明治維新を迎えた。

なお、石母田氏の時代、明暦元年(1655)には領主の館を移している。旧館は狭い傾斜地にあり、町場の形成に難があり、街道からも離れていたので宿場北側に移転したという。『史料 仙台伊達氏家臣団事典』では、石母田氏に代わって入封した古内氏もその館を引き継いだ、と推測している。


2.宮崎城の構造
現在の加美町役場 宮崎支所の裏山、熊野神社の東側一帯が宮崎城の城域にあたる。熊野神社までは道が通っているが、城域には道がないので、雑木林をかき分けて進んでいくしかない。

登山道が整備されていないことも相まって、まずもって言えるのが、一目見ればわかる大要塞である。

以下は、Google map から取得した等高線だ。東西に二つ高台になっている箇所があり、東側の曲輪はすぐに田川へと落ち込む崖になっていることがわかる。


『宮崎町史』には宮崎城の推定図が載っており、これと一致する。


『宮崎町史』では東側を本丸、西側を二の丸としているが、高さはどちらもほぼ同じだった。おそらく当時は、二つの高台が橋で結ばれていたのだろう。

東側本丸から崖にそって、ゆっくりと標高が落ちていく箇所が登城道だったようだ。西側のふもとは今も住宅が並ぶが、ここに侍屋敷が数件立っていた。

2-1.西部二の丸近辺
城のふもとは畑になっていて、私有地っぽくて勝手に入るのも気が引けたので、熊野神社のわきを通る道、城の案内板があるあたりから雑木林の中に入っていくことにした。


すぐに山が段々になっており、曲輪の痕跡が残っていることに気づく。


周囲と比べると少し傾斜がなだらかになっている場所がある。ここが登城道の跡か。


そのすぐ下は、急な斜面で堀になっていた。


二の丸の平坦部。紫桃正隆氏の『仙台領内古城・館』には「東西80m、南北50mの長方形に近い」とある。

2-2.東部本丸


二の丸から降りて本丸へ向かう。その間は空堀になって隔離されている。右が二の丸、左が本丸。


かなり急な本丸の斜面。

本丸平坦部。『仙台領内古城・館』によれば「東西70m、南北50mの楕円形」


頂上部で、石神様を発見。この一帯で初めて人工構造物を発見かと思いきや...


木の根っこの下に洞穴が。写真後ろに映る積み上げられた木の枝もそうだが、どうも人の手が加えられている様な気がしてならない。もしかして誰か住んでた? (もしくは現在形で住んでる?)

こういう山の中で、動物よりも人の気配がすることがなにより怖い。日の明るい時間にきてよかったー、と心から思った。あるいは、これが笠原隆親が逃げたという地下道の跡!?



本丸のてっぺんは約145メートル。麓との比高は約70メートルで、かなり見晴らしもいいはずなのだが、木が生い茂っているせいでいい眺めを見れる場所はない。木の合間からちょこっとだけ見えているのが田川。

写真ではなかなか伝わりにくいと思うが、東本丸から田川へと落ち込む斜面。相当な急角度。


城を歩いていて遭遇したアオダイショウ。冬眠から目覚めたばっかりだろうか。周囲の景色に同化して、あやうく踏んづけるところだった。


2-3.城の周辺


城の西側・熊野神社。こちらは参道が整備されており、わざわざ林の中を歩かなくてもたどり着ける。1320年の勧進。


丸に三つ引きの紋。大崎氏の家紋は通常「丸に二つ引」だが、三つ引き紋が使われることもあったのだろうか。


近くの公園から見た東側の絶壁。ちょうど真上が東側本丸のあたり。田川と崖に阻まれた、まさに天嶮の要害。原田宗時、後藤信康のふたりはまさかこの崖を登って侵入したのだろうか。


山のふもとのあたり。城の南側から。『仙台領内古城・館』によれば大手門跡があるらしいのだが、発見にはいたらず。

この宮崎城、もともとかなりの要害であることは事前知識としてあったのだが、実際に訪れてみるとそれ以上のものがあった。だいたい、どこの廃城跡も登城道くらいは残されているものなのだが、宮崎城ではそれがないうえに草木は生えっぱなしで人の出入りした形跡がまるでない。iPhoneのGPS機能がなければ、スムーズな見学はできなかっただろう。ほら穴で人の気配を感じたり蛇に遭遇したりも相まって、自分の中では宮城県内トップクラスのスリリングな城跡だった。

■参考文献
・紫桃正隆『史料 仙台領内古城・館 第三巻』(宝文堂、1973年)
・紫桃正隆『宮城の戦国時代 合戦と群雄』(宝文堂、1993年)
・『日本城郭大系 第3巻 山形・宮城・福島』(新人物往来社、1981年)
・宮崎町史編纂委員会『宮崎町史』(1973年)