もうひと世代、祖父・祖母の代までさかのぼれば4家、曾祖父・曾祖母の代になれば8つの家の血が流れている計算になり、代をさかのぼるごとにその数は倍になっていく。
一言で田中家の人間、といっても、その体には多くの家の血が流れており、「田中」というのは父系の苗字を便宜的に名乗っているにすぎないのだ。
■ 伊達政宗の血統
歴史上の人物についてもそれは同じで、伊達政宗も、伊達家の正統な嫡男というイメージが強いが、その体にはいろんな家の血が流れている。というわけで、政宗にはどんな家の血が流れているのか、ちょっと確認してみる。
下の図は一見トーナメント表のようだが、政宗本人の両親、両親の両親…といった具合に血筋をたどった家系図になっている。縦方向に枝分かれしていくおなじみの家系図とはちょっと印象が違うが、ヨーロッパ史ではたまに使うことのある家系図のスタイルで、同世代の横のつながり、つまり兄弟や叔父・叔母の関係を完全にそぎ落としているかわりに、誰の血を継いでいるのかがダイレクトにわかるつくりになっている。
いわば、伊達政宗の血統書である。
とりあえず、政宗から5世代前の先祖までをたどってみた。5世代前となると32の血脈にいきつくことになる。
こうしてみると、意外と政宗の先祖については明確に人物を特定することが難しいことがわかる。この時代はどうしても母系、つまり女性の名前が残りにくいことと、父系の伊達家と比べて、母系の最上・中野家の情報が不足しているのが大きい。
ほとんどが「不明」で埋まってしまったので、もう少し整理してみると
こうなった。32の血脈のうち、判明したのは9つ、約1/3しかわからなかったことになる。
■ 対立した大名家の血をことごとく継いでいる
自分の出自である伊達家はさておき、政宗には大崎氏、上杉氏、蘆名氏、宇都宮氏、岩城氏、最上氏の血が流れていることがわかる。これらの大名は、実はことごとく政宗と(が)敵対した大名であることに気付く。
- 大崎家:大崎合戦にて対峙し、後に従属させる
- 上杉氏:関ケ原の戦いに連動した慶長出羽合戦で対決
- 蘆名氏:摺上原の戦いで滅亡においやる
- 岩城氏:田村領をめぐる戦いで敵対
- 最上氏:叔父である最上義光との関係が芳しくなく、大崎合戦で敵対した。
残る宇都宮氏とは直接対戦したことはなかったが、これはその前に秀吉による奥州仕置を迎えてしまったから、と考えると、対立は時間の問題だったようにも思える。蘆名氏を滅亡させたあとの政宗は、北関東へのさらなる南下と、その障害となる佐竹氏との対決を予定していた。宇都宮氏はその佐竹氏と盟友関係にあったから、もし政宗の南下戦争が続いていたら、そのうち敵対関係に陥っていたことが想像される。
ただし、この時代の大名、特に東北の大名の間には血縁ネットワークが張り巡らされているのが常であり、特に政宗において顕著な現象ではないかもしれない。親戚どころか、親兄弟との争いですら珍しいことではなかったのが戦国大名である。
■ 大崎氏・上杉氏の血を2重に継いでいる
政宗の血脈をたどると、大崎教兼の血を2重にひいていることがわかる。もっとも、大崎氏は伊達氏のおとなりさん大名であるし、大崎教兼の時代、大崎氏は奥州探題の職についており、家格は伊達氏よりも上だった。そう考えると、大崎氏との結びつきが大切だったことがわかる。
また、上杉氏の血も2重でひいている。伊達・蘆名ともに隣接する越後の上杉氏との関係を重視したことの表れであろう。
ちなみにこの上杉氏は、上杉謙信とは別系統の上杉氏である。
■ つまりは斯波氏の血が濃いということに
大崎氏の血脈が2重になっているのは母方の最上氏にも大崎氏の血が流れているからであるが、最上氏ももとをたどれば大崎氏にいきつく。
そして、最上氏も大崎氏ももともとは斯波家兼という人間が祖である。右の円グラフは、政宗の血統を家ごとにパーセンテージ化したものであるが、2重に血を引いている大崎氏・上杉氏が共に6.3%ずつ、その他の大名が3.1%ずつ、不明が71.9%となっている。というわけで、大崎氏と最上を併せて斯波氏というくくりを設けるならば、斯波氏の血統が最も強いことになる(もっとも、「不明」の割合が大きすぎるのでなんともいえないところではある)。
ちなみに、それぞれの家系をさかのぼると
伊達 | 藤原氏 | 宇都宮 | 藤原氏 |
大崎 | 源氏 | 岩城 | 平氏 |
上杉 | 藤原氏 | 最上 | 源氏 |
蘆名 | 平氏 |
■ まぁ、こんな分析よりも…
と、ここまでいろいろやってみて、あんまこの分析意味ないんじゃねーか? と思えてきた。というのも、政宗の性格・行動を見ている限り、どう考えても母親である義姫の血が濃いのでは? と思うことが多いからだ。
画像は「信長の野望・創造」より なんとも血の気の多い顔をした母と子である。 それなりに似ている。画家も意識したのだろうか。 |
- 父・最上義守と兄・最上義光の争い
- 兄・最上義光と夫・伊達輝宗の争い
- 兄・最上義光と子・伊達政宗の争い
を仲裁、というよりも無理やり止めさせたという武勇伝をもつ。対峙する両軍の陣中を駕籠でつっきっただの、間に輿でのりこんで停戦させただの、あるいは政宗毒殺未遂事件をおこしたりなど、その男勝りのエピソードには枚挙に暇がない。
政宗について一言で説明しろ、と言われた場合「東北の覇者」だとか「10年生まれてくるのが遅かった戦国大名」だとか、いろいろ言い方はあるだろうが、自分だったら一言こう言う。
「あの義姫の息子だよ」
と。実際、政宗が女だったら上記のようなエピソードを残していたであろうし、逆に義姫が男に生まれていたら、関ケ原の戦いが終わって徳川の時代になっても天下をあきらめなかっただろうし、占領した城で撫で斬り(皆殺し)みたいなことをやっていたと思う。
親子で対立することもあったみたいだが、どうも同族嫌悪だったのではないだろうかという気がしてならない。
今回、政宗の血統をたどってみてはじめて気づいたこともあったのだが、結局は母親である義姫の血が濃いんだろうなぁ、という結論になってしまった。
ちなみに、政宗の血液型はB型だったそうだ。これは、政宗の墓所である瑞宝殿を発掘調査した際、遺骸の毛髪から鑑定された結果である。
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