前回は、政宗の曽祖父にあたる伊達稙宗の行動原理を紹介したうえで、「彼の時代から素直な領土欲求に従っていれば、続く政宗の奥州統一戦争ももっと楽だったかもしれないのに...」といった内容で結んだ。今回紹介する内容は、そもそも政宗に奥州の統一、あるいは関東までの進軍なんていう大それた野望が本当にあったのだろうか? という、問いある。
野望にあふれた政宗のイメージ像を覆しかねない、とても刺激的な問題提起ではないだろうか。引き続き、執筆者は「第1章 伊達氏、戦国大名へ」を担当する仙台市博物館の菅野正道先生。
たとえば政宗は、天正十四年半ばに二本松領を併呑すると、その後の約一年間はほとんど軍事行動を起こしていない。天正十六年から翌年前半にかけて南奥で繰り広げられた政宗の軍事行動は、主体的なものというより、南奥諸氏の反政宗的行動に対応する中での動きが中心であった。天正十六年初頭の大崎攻めも、南進の意図があるとすれば、全くの反対方向での軍事行動であった。潜在的な意識はともかく、実際の政宗の戦略には、関東方面の進出という目標は設定されていなかったのではないだろうか。(下線部、強調はブログ筆者)
ここで菅野先生が政宗の野望に対して疑問を呈している3つの根拠について、それぞれ検証してみよう。
01.天正15年(1587年)の謎
「信長の野望・創造」より 伊達政宗 見よ! この野望にまみれた顔をっ!! |
これは自分も以前から疑問に思っていたところで、政宗は天正13年(1585年)に人取橋の戦いで仙道諸大名+佐竹連合軍を退けたのち、翌1586年に二本松城を攻略するのだが、それから1588年に至るまでの南進行動は、全くなかったのだ。
特に天正15年(1587年)における政宗の行動はゆったりとしたもので、特筆される出来事としては鮎貝城の戦いと国分騒動くらいだろう。前者は鮎貝城主の鮎貝盛次が最上義光の勧誘をうけて謀反を起こし、それを鎮圧したというもの。後者は政宗の叔父であり、国分家に養子として出された盛重が家中の反発をおさえられず、その対応に追われた、という件。02.03とも関係してくるが、どちらも政宗が積極的に起こした事件ではなく、受け身であり、またどちらの事件も伊達領北部における出来事だ。
1587年に南進行動がなかった理由としては、人取り橋の戦いで打撃を受けた家中の回復をはかるため、とか、新たに併合した塩の松、二本松地域の安定化を図るため、とかいろいろ説明はつきそうな気はするものの、とにかく南奥州の統一までに時間がないことを焦っていた、とする山岡荘八の小説や大河ドラマの政宗イメージからすると、どうものんびりしている印象が否めない。
02.南進とは逆方面における軍事行動
上記引用部分の「天正十六年初頭の大崎攻めも、南進の意図があるとすれば、全くの反対方向での軍事行動であった」という部分。引用とは順番が逆転するが、こちらから先に書く。本当に関東までの南進が目標ならば、なぜ逆方向に攻め入ったのか、という指摘である。
これについてはいろいろ説明はつきそうな気がする。政宗が大崎合戦を始めた1588年以前から大崎氏内部は分裂状況にあり、政宗に支援を求める勢力の誘いをほったらかしにするわけにもいかなかったであろうし、北部に接する大崎氏を征服できるまたとないチャンスではあったのだから、獲れるもんは獲っておけ、ということだろう。
また、南進の前に北部を安定させるため、という理由づけもできる。こういった例は、本命のフランスを攻める前に東欧に攻め入ったヒットラーや、北伐を開始する前に南部を平定した諸葛亮孔明など、枚挙にいとまがない。
とはいえ、この政宗の大崎攻めは思ったよりもうまくいかずに泥沼化してしまい、北部に釘付けになってしまったことで続く03の南部情勢も受け身の体制に陥ってしまうのではあるが。結果論として北部方面における軍事行動が南部の反政宗勢力を活発化させてしまったという点で、本当に南進の意図があったのかという菅野先生の指摘は正しい様にも思える。
03.受動的な南奥州情勢
上記引用の下線部「天正十六年から翌年前半にかけて南奥で繰り広げられた政宗の軍事行動は、主体的なものというより、南奥諸氏の反政宗的行動に対応する中での動きが中心であった。」という部分。
「天正十六年から翌年前半にかけて南奥で繰り広げられた政宗の軍事行動」とは、大崎合戦で苦戦した政宗の隙をついて反政宗連合が軍事行動を起こした郡山合戦、同盟国田村氏が跡継ぎ問題を巡って伊達派と相馬派にわかれて争った田村騒動、蘆名氏を滅ぼした摺上原の戦いまでの一連の出来事をさしている。
この時期の政宗の行動が「主体的なものというより、南奥諸氏の反政宗的行動に対応する中での動きが中心であった」のは、最後の摺上原の戦いを除いてはその通りである。むしろこの時期の政宗は四方を敵に囲まれて、一歩間違えれば伊達家の存続すら危うい状況にあった。先手をとって侵攻する、といった状況ではなく、ほぼ受け身の対応である。
これについては、結果論ではないだろうか? とも思える。本当は政宗自身がイニシアティブをとって南進を開始したかったが、大崎攻めの失敗により思ったよりも早く南部が不安定化してしまった。
この四面楚歌の状況を少しづつ盛り返し、最後の最後で蘆名氏を滅ぼしてしまうのが政宗のすごいところであり、この時期のダイナミズムでもある。政宗が受け身の状況に追い込まれてしまったのは事実なのだが、1589年の段階における相馬攻めや蘆名滅亡においては立場が逆転し、政宗のペースで事を進んでいるのも事実なのだ。
■学会では政宗の野望に対して否定的?
さて、この『伊達氏と戦国騒乱』では、菅野先生だけではなく、編著者の遠藤ゆり子先生もコラム「伊達政宗の野望?」の中で政宗の野望に対して文字通りクエスチョンマークを投げている。
政宗は南奥州を統一し、関東まで進出することが夢だったとされる理由づけとなるのが、
- 大内定綱の小手森城を陥とした後に「この上は須賀川まで打って出て、関東中も容易である」と最上義光に向けて書いた書状(「佐藤右衛門氏所蔵文書」)
- 蘆名を滅ぼした後のこととして「関東へ進出し、天下に旗を揚げよう」としていたが「思いがけず太閤秀吉公が関東へ進軍したと聞いた。無常にも戦が終わり、実に残念であった」と晩年に政宗が回想したもの(「伊達政宗言行録」)
前者は十九歳の政宗が最前線へ赴き、予想外の大勝利を得て高揚しつつ、叔父最上義光へ認めた書状に見える文言であり、後者はあくまでも晩年の追想として伝わるものだ。
と指摘したうえで
実際には、政宗は会津黒川城入城後も、南会津や南奥の二階堂氏、石川氏、浅川氏などとの戦いで天正十七年末まで忙しかった。翌年正月(略)には秀吉と北条氏の対立が深刻であると認識していた。政宗が、関東進出や天下取りの野望を抱き、春を待ちわびながら準備に勤しんだ様子を伺うことは難しいといえる。
という。確かに、史料にそった歴史学的アプローチをとるならば、政宗の野望を証明するには根拠が薄いのかもしれない。
■家中統制のための野望掲示説
菅野先生、遠藤先生の指摘をうけたうえで自分は、「関東侵攻、天下取りを目指す政宗の野望は少なくとも表面上はあった。同時に政宗自身はそれが困難であることも認識していた」という立場をとりたい。
理由は、政宗の本心がどうであれ、伊達家の頭領として政宗は部下たちの前で壮大な構想・目標を掲げることでその求心力やモチベーションを高める必要があった、という人間心理に根差したものだ。
南奥州の統一、関東への侵攻という目標に家臣が共鳴したからこそ、伊達成実や白石宗実といった家臣は先祖代々の土地を離れて最前線への転封を受け入れたのだと思うし、次々に領土を広げ、新しい家臣が増える中でもより大きな構想を掲げることは、家中の統一を図るためにも必要だっただろう。先に「野望は少なくとも表面上はあった」と書いたのはそういう意味だ。
小田原参陣を経て秀吉政権の一員となった時代の伊達家臣に離反が相次いだのも、その証明にならないだろうか。「殿は天下取りの夢をあきらめ、秀吉の傘下でいることに甘えてしまった...」という。
今となっては政宗の本心など確かめようがないが、少なくとも大きな野望を掲げざるを得ない政治力学は存在した思う。同時に、その実現が難しいことも政宗は知っていたと思うのだ。
とはいえ、政宗の本心がどこにあったかという問題は、あまり重要ではないのかもしれない(政宗を主人公にした小説でも書くのであれば話は別だが)。遠藤ゆり子先生は、
「天下に旗を揚げよう」という言葉が、どれほどの現実味をもって語られたのかは定かではない。だが少なくとも、天正末期に政宗が秀吉との関係を悪化させてでも戦争を展開し、領国を広げていった理由は、彼の野望とは別に、当時の奥羽社会の状況を見ていくことで明らかになる問題ではないだろうか。
とコラムを締めくくっている。これは菅野先生の指摘03にも通じることなのだが、天正末期の南奥州情勢を考えるうえでは、政宗の野望がどうであったかよりも、政宗以外の奥州の大名たちがどう動いたか、という要因のほうが大切なのも確かである。これに関しては、自分も賛成である。