■ まずは結論から
これから飯坂の局に関する世間の誤認を訂正していくわけだが、まずは正しい情報からお伝えしたい。
- 飯坂の局と新造の方は別人である
- 飯坂の局の父は飯坂宗康であり、新造の方の父親は六郷伊賀守である
- どちらも伊達政宗の側室である
- 政宗の長男であり宇和島藩主・伊達秀宗の実の母親は新造の方である
- 政宗の3男である伊達宗清の実の母は新造の方である。が、宗清が幼いころに新造の方がなくなったため、後に飯坂の局が宗清の養母となっている。
- 猫御前なる名称は史実上存在せず、飯坂の局と新造の方をモデルにした架空のキャラクターである。
以上が飯坂の局と新造の方にまつわる誤認を排した正しい情報である。複数の人物が登場するのでややこしいと思う。すっきりイメージするためにも、正しい関係図を掲載するので、こちらを参考にしてほしい。
以上の情報は、世間ではあまり正しく伝わっていないのが実情だ。では、世間ではどのように誤解されているのか?
■ 混同のパターン
飯坂の局と新造の方は、どちらも伊達政宗の側室である。そして、政宗の実子である伊達秀宗、宗清とのかかわりがある人物であることは間違いないのだが、ここが特に紛らわしい。別人の二人の側室を同一人物であるかのような書き方をする場合、いくつかのパターンがある。
① 別称として扱うケース
「飯坂の局(新造の方とも)」あるいは「新造の方(飯坂の局とも呼ばれる)」といったような書かれ方。近年では「猫御前とも」といった表記も。紛らわしいふたりの人物の検証についてあまり触れず、両論併記でお茶を濁すパターン。
② 伊達秀宗の母を飯坂の局とするケース
伊達秀宗の母は新造の方であり、飯坂の局は秀宗とは特に関係がない。秀宗の弟である宗清にとっては新造の方=実母、飯坂の局=養母なのだが、いつしか「伊達宗清の母は飯坂の局」 ⇒ 「であれば、兄である秀宗の母も飯坂の局」と混同されたのだと思われる。
③ 新造の方の父を飯坂宗康とするケース
飯坂の局の父は飯坂宗康であることは間違いないが、新造の方の父は六郷伊賀守である。
以上、3つのケースはどれも誤りである。
■ 別人である論拠 『飯坂盛衰記』
飯坂の局と新造の方を明確に別人として書いている書の代表的なものは『飯坂盛衰記』である。それぞれの出自について引用してみよう。まずは飯坂の局。
十四代の孫 飯坂右近大夫宗康に至り。世嗣の子なく息女二人もち給う。一女は桑折摂津守政長に嫁し。次女はいまだ幼年にて家に有。(中略)所詮娘事は君に指上げ奉る。願くは侍女ともなし。召仕はれ下さるべしとて指上ける。政宗公は姫君を御覧有けるに。其容色世に勝れ拾も夭桃の春を傷める粧ひ。垂柳の風を含める有様なれば。政宗公御喜悦淺からず。則側室となし御名は飯坂の局と改。続いて、新造の方。
抑権八郎と申は。政宗公の五男にて。母は新造の御方也。此新造の御方と申は。新庄のもとの城主。六郷伊賀守の娘なり。飯坂の局は飯坂宗康の次女、新造の方は六郷伊賀守の娘であると、明確に別人としてかき分けられている。また、上記引用の「権八郎」とは後の飯坂宗清のことである。宗清の実母は新造の方だが、宗清が幼いうちに亡くなったため、政宗が宗清の養育を飯坂の局に頼んだ(以後、養母となった)、というエピソードも出てくる。
さらに、新造の方は岩出山時代に政宗・愛姫とともに伏見で生活していたが、飯坂の局は疱瘡にかかり、政宗とともに岩出山・伏見へ行くことを拒んで松森に隠棲したことにも触れられている。
『飯坂盛衰記』は飯坂氏の視点から書かれた書物である。飯坂の局について都合の良い書き方をしようとすれば、宗清の母であり、宇和島10万石の藩祖・秀宗の母でもあるという世間の誤認をあえて正すメリットはない。そこをあえて別人、としているのには信憑性がある。
■ 飯坂の局は宗清の実母ではないとする論拠 『貞山公治家記録』
伊達家の公式記録である『貞山公治家記録』でも、新造の方と飯坂の局は別人として登場する。まず、秀宗が生まれた天正19年(1591)12月の記事(巻之十七 )に
此月、新造御方、村田民部宗殖入道萬好齋居城 柴田郡村田ニ於テ御安産、公第一ノ御子御誕生、御童名兵五郎ト稱シ奉ル。是從四位下宇和島侍從兼遠江守殿秀宗ナリ。
とあり、秀宗の母親は飯坂の局ではなく新造の方であるということが明示されている。
さらに注目したいのは伊達宗清が没した寛永11年(1634)の記事である。筆跡そのままで引用してみよう。
伊達河内殿宗清養母飯坂氏の女、と書かれてあり、宗清の「母」でも「実母」でもなく「養母」と書かれていることに注目したい。
■飯坂の局は秀宗の実母ではないとする状況証拠
世間の誤認どおり、飯坂の局が伊達秀宗の母であったと仮定しよう。そうすると、当然、宇和島藩主・伊達秀宗とその子孫たちには飯坂家の血が流れていることになる。そうなってきたときに不自然なのは、飯坂家の血筋が絶えた時、誰を跡継ぎとしたかである。
宗清以降、飯坂氏の当主は男子に恵まれず、3度にわたって養子で家をつないでいる。そのうち1回は仙台藩主・伊達忠宗の子を養子に、2回は飯坂氏と縁戚関係にある桑折氏から養子を迎えている。
宇和島伊達家に飯坂氏の血が流れているのだとすれば、遠戚にあたる桑折氏から養子をもらうよりも、直接の血のつながりがある宇和島伊達家から誰かを養子にもらってきた方が、血脈の正当性、格ともにわかりやすい。
それをしなかったのは(仙台藩と宇和島藩の軋轢が原因と考えられないこともないが)、やはり伊達秀宗の母は新造の方であり、飯坂の局ではないからだろう。
■いつ頃から混じりだしたのか?
次に、『伊達治家記録』および『飯坂盛衰記』の時点では正しく認識されていた情報は、いつ頃から混同され始めたのか検証してみたい。
01.「桑折家系図」
飯坂の局と新造の方を混同している書物として一番古いものは、筆者の知る限り海田桑折家に伝わる「桑折家系図」で、附録によれば文化戊辰(文化5年、1808)正月に書かれたものである(『桑折町史』第5巻、資料編Ⅱ)。飯坂の局について書かれている部分を引用してみる。
女 政宗公侍妾、飯坂御前又吉岡局と申す
伊達遠江守秀宗公之御実母なり、政宗公御願之上、河内守殿を御養子ニ被成候て、飯坂の苗跡相続ニ被成下慶長十七年卒、吉岡天皇寺ニ葬る
宗清を養子にした、という部分はあっているのだが、飯坂の局を伊達秀宗の実母としている。兄の秀宗の実母ではあるのに、弟の宗清にとっては実の母ではないという矛盾があり、この当時にしてかなり混乱されていることがうかがえる。
02.『寛政重修諸家譜』
「桑折氏系図」の直後、文化9年(1812)に成立した江戸幕府の公式諸大名家譜である『寛政重修諸家譜』においても秀宗の母=飯坂の局、という記述が見受けられる。
この家譜において秀宗は、仙台伊達藩の藩祖・政宗の子としてと、宇和島藩祖として2回登場するのだが、どちらも母親は飯坂氏であるとされている。幕府の公式記録にこのような誤記があったことは影響として大きかったと思われる。
秀宗 伊達遠江守村壽が祖。兵五郎 遠江守 母は飯坂氏。庶子たるにより家督たらず、別に家をおこす。(『寛政重修諸家譜』巻第七百六十二)
秀宗 兵五郎 遠江守 侍從從五位下 從四位下 松平陸奥守政宗が長男。母は飯坂氏(『寛政重修諸家譜』巻第七百六十三)
この家譜において秀宗は、仙台伊達藩の藩祖・政宗の子としてと、宇和島藩祖として2回登場するのだが、どちらも母親は飯坂氏であるとされている。幕府の公式記録にこのような誤記があったことは影響として大きかったと思われる。
03.「伊達略系」と『東藩史稿』
どちらも近代になってから当時の伊達家当主・伊達宗基が学者・作並清亮に命じて編集させたもの。伊達家の略系図である「伊達略系」(明治27年(1894))と、『伊達治家記録』に継ぐ公式記録とも言うべき簡易版仙台藩の準公式歴史書『東藩史稿』(大正4年(1915))である。まずは「伊達略系」から。母側室飯坂氏。右近宗康娘。稱二新造の方一。法名心月妙圓。慶長十七年壬子四月二十二日逝。葬二于松島瑞巌寺一。
続いて『東藩史稿』巻之十、列伝編。
側室飯坂氏、新造方ト称ス、右近宗康ノ女、秀宗君、宗清君ヲ生ム。
注目すべきは、「桑折氏系図」『寛永重修諸家譜』の段階では秀宗の母=飯坂の局、にとどまっていた誤認が一歩進んで、新造の方を飯坂の局の別称であるというところまで進んでしまったことだ。
考察するに、誤解が生まれていく順序として
- 宗清の養母は飯坂の局(正)
- 宗清の実の母は飯坂の局(誤)
- 宗清の兄である秀宗の実の母も飯坂の局(誤)
- 新造の方は飯坂の局の別称(誤)
- 新造の方の父は飯坂宗康(誤)
という展開であったと思われる。
■両者をフュージョンさせた架空キャラ・猫御前
以上のような経緯でしだいに混ざっていく飯坂の局と新造の方の同一人物イメージを決定的にしたのは、なんといってもNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』(1987)だろう。ドラマでは政宗の側室・猫御前として登場し、父親は飯坂宗康、秀宗と宗清の実母という設定である。
ドラマでは猫を捕まえた姿から政宗に「猫」と名付けられる |
まずは「猫御前」なる名称についてだが、この大河『独眼竜政宗』放送以前に書かれた書物に「猫御前」という呼び名は存在しない。もしかしたら原作小説である山岡荘八の『伊達政宗』(1970)の時点で登場しているのかもしれないが(未確認)、いづれにせよ創作物である。
思うに、飯坂の局と新造の方という、史実上も紛らわしい二人の側室がドラマに登場してもややこしい。ドラマの演出上、二人の人物を同一人物として扱うが、それは実在の人物をモチーフとした架空のキャラクターである。それを示すためのサインとして、「猫御前」なる名称を脚本家(もしくは原作小説作家の山岡荘八)が与えたのではないだろうか。
【追記】Twitterで指摘してくださった方のご教授によると、山岡荘八『伊達政宗』の時点で「猫」の呼称が登場する様だ。
実際、ドラマでの猫御前は正室・愛姫と対称的なキャラクターとして生きているし、側室が何人いても紛らわしいだけなので、演出としては正解だったと思う。一方で、世間の飯坂の局に対する誤認にお墨付きを与えてしまう結果ともなったわけだが。
■まとめ
紛らわしいので、再度まとめてみよう。飯坂の局と新造の方と、猫御前についてである。
もっとも、新造の方についてはこの記事では『飯坂盛衰記』に従って「六郷伊賀守の娘」としたが、仙北地方の六郷氏を「新庄のもとの城主」との誤記があることもあり、彼女の素性についても少し検討が必要だと思われる。これについては後に詳しく触れてみたい。
世間の誤認を解くべく力説してはみたものの、飯坂の局も新造の方も、政宗の数ある側室の一人にしかすぎず、世間の関心を広く集めるような人物ではない。が、飯坂生まれの筆者にとっては生まれ故郷の先達として多少なりとも思い入れがある人物であり、彼女にまつわる誤解を放置しておくのもなんとも申し訳ない気持ちになってこの記事を執筆するに至った。願わくば、飯坂の局に関する真実が少しでも世に広まれば幸いである。
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