2016年12月26日月曜日

仙台藩の官選地誌まとめ -今読んでも面白い江戸時代の地理書4選-

昔から変わらぬ雨上がりの田園風景(宮城県某所)
写真中央には消えかかった虹がうっすら見える
仙台藩の官選地誌の一覧。仙台藩の学者の主導により藩全域について記述されたもの4点についてまとめた。ポイントとしては、
  1. 誰によって書かれ
  2. いつ完成し
  3. どの様な特徴があり
  4. 現代の我々が参照するにはどうしたらいいか?
の4点を意識して書いてみた。というのも、特に4つ目のポイントなのだが、これらの地誌、現代の我々が読んでいてもそれなりに面白い

旧仙台藩域(宮城県全域、福島県の一部、岩手県の南部)にお住いの方なら、自分の暮らしている土地が昔どの様な場所だったのか、とても楽しく読めると思う。

旧仙台藩の領域で旅をするなら、かたわらに携帯し、現代の風景と見比べてみるといろいろと新しい発見に恵まれることうけあいである。昔の地名と今の地名を比較してみるだけでも面白い。

それではどうぞ。



『奥羽観蹟聞老志』(おうう かんせき もんろうし)

『奥羽観蹟聞老志』
写真は仙台市HPより拝借
仙台藩の儒学者・画家・書家であった佐久間義和(洞巌)4代藩主・伊達綱村の命により享保4年(1719)に完成させた地誌。佐久間自身はタイトルを『観蹟聞老志』としたが、俗に『奥羽観蹟聞老志』と呼ばれることが多い。

仙台藩の地誌の先駆けであるばかりでなく、名所旧跡、神社仏閣などを和歌、物語、民話、伝説などを交えて説明している点に特色がある。そのため、地理情報よりも歴史・文化といった類の情報が目立ち、佐久間に編集を命じた藩主・綱村が作詞・詠歌を好んでいたことも影響しているとみられる。

また、記述の対象は仙台藩領に限らず、陸奥国南部(現在の福島県)、出羽国南部(現在の山形県)にも及んでいる。

完成までに9年を費やしたが、その間、自ら藩域を巡視したり、宝永4年(1707年)の仙台大火で編集記録が消失したりなど、苦労が絶えなかった。また、著者自身の筆と称される書写本が多く、貧窮した佐久間が自らの生活の足しにしていたという逸話も残る。

『仙台叢書』第15巻、16巻に収められている。また、国立国会図書館デジタルコレクションでも閲覧可能。また、完本に近いとされるものが宮城県図書館に所蔵され、宮城県指定文化財となっている


『封内名跡志』(ほうない めいせきし)

郡奉行であった萱場高寿かやば たかとしが、部下である役人の佐藤信要のぶあきに命じて藩内の名所や古今の事跡を各地の役人に尋ねさせたもの。編集の過程で『奥羽観蹟聞老志』に基づいて調査を行い、誤りを訂正したため、『聞老志』の改訂版とも言える。

神社・古城・旧跡・地名・仏寺・地理・風景などについてまとめられており、漢文で書かれた『観蹟聞老志』に対して『封内名跡志』は和文で書かれている。著者も官吏であることから民政に役立てようという視点があったことがわかる。

萱場高寿が佐藤信要に編集を命じたのが享保15年(1730)秋で、約10年後の寛保元年(1741)年に完成した。佐藤信要は『聞老志』の著者・佐久間義和の門人であり、佐久間と相談しながら編集をすすめたが、完成前に佐久間が没したため、以後は高橋以敬の指示を仰いで文章を整えたという。佐久間義和と高橋以敬は、仙台藩の儒者・遊佐木斎の同門で、兄弟弟子の間柄である。

『仙台叢書』第8巻に収められている。

【参考】仙台藩の地誌編集者人脈



『封内風土記』(ほうない ふどき)

『封内風土記』
写真は平成版『仙台市史 通史編5』(近世3)から拝借
『封内名跡志』の完成からおよそ20年後の宝暦13年(1763)、7代藩主・伊達重村の命により藩の儒学者・田辺希文が地誌編纂を開始し、安永元年(1772)に完成したもの。仙台藩全域におよぶ地誌として編纂されたものの中では最も完備された地理書である。漢文調。

ややこしいのだが、『風土記』と略記される事例がよく見られる。通常『風土記』と言えば奈良時代に元明天皇の詔により書かれた『風土記』を指すことが多いが、仙台郷土史の文脈では『風土記』と略して特にこの『封内風土記』を指すことが多く、注意が必要。

巻数は全22巻であるが、巻三(宮城郡)、巻十八(栗原郡)、巻二十(磐井郡)が上下にわかれているので、実際には25巻となる。巻一では藩域の総論がまとめられ、他藩との境界、気候、風俗、特産物などについてまとめられている。巻一の後半部および巻ニは「府城」すなわち仙台城下について書かれており、以下は一巻一郡ごとに記述がなされている。

会津藩でまとめられた地誌である『会津風土記』、『新編会津風土記』を意識して編纂されたと言われ、統治の参考にするための実用書として役立てることを目指したと考えられる。『奥羽観蹟聞老志』『封内名跡志』とはフォーマットが異なり、郡の境界、百姓の戸数、馬数、収穫高や郡内に所領を持つ家臣の氏名とその配下などについての記述があることもその一端と言えよう。

一方で、仙台藩においては地誌編纂の文脈上、『奥羽観蹟聞老志』『封内名跡志』の影響が大きかったこともあり、名所旧跡についての記述の充実度とくらべて民政の参考になる情報の現地調査が不足していることは否めない。場所によっては脱漏も多かったことから「治具之要典」とするには不完全であったとも指摘されている。もっとも、この点については著者の田辺希文も自覚していたようで、老齢のために不十分に終わった現地調査の継続を息子の田辺希元に託し、増補版である「風土記捨遺」の完成を目指していた。

現在は絶版となっているものの『仙台叢書』シリーズとして3冊にまとめられたものが宮城県内の各図書館に収められていることが多い(が、館内閲覧のみ可能な場合も)。他県でも、比較的大きな図書館や大学図書館には所蔵されている模様。国立国会図書館デジタルコレクションでも閲覧可能なので、こちらの方が便利か。



『風土記御用書出』(ふどき ごよう かきだし)

『風土記御用書出』
写真は宮城県HPから拝借
『封内風土記』を編纂した田辺希文の子・田辺希元は、父の意思を継いで「風土記捨遺」の編集を計画していた。これを受け、仙台藩では安永2年(1773)から同9年(1780)にかけて、各村の肝入(庄屋のこと)から「風土記御用書出」と呼ばれる邑内情勢の調査書を提出させている。また、村の情報だけでなく、「代数有之御百姓書出」「品替御百姓書出」「古人書出」「神職書出」「寺院書出」などと呼ばれる調査書の提出も行われた。これら一群の古記録を総称して『風土記御用書出』と呼ぶ。

これらの調査書をまとめた上で最終的には「風土記捨遺」の編集が目指されたが、結局は完成をみることはなかった。いわば、幻となった「風土記捨遺」編纂のための資料集、ゲラ集のようなものと言えよう。

ゲラとはいえ、これらの書出は各村にも控えが保存され、その情報は以降の肝入たちが必ず備えておくべき行政書類の一種となった。いわば、『封内風土記』が果たすことのできなかった「治具之要典」としての役割を、きちんと果たしていたのである。

『封内風土記』に対して『安永風土記』あるいは『安永風土記書出』『風土記書出』といった略称・異称で呼ばれることも多いが、単に『風土記』と紹介されることもある。『封内風土記』も『風土記』と略されることがあるので、その場合どちらの風土記を指しているのかわからないことがあり、非常にまぎらわしい。出典情報を記述するときは『風土記御用書出』か『安永風土記』と書くように注意しよう(筆者の自戒の意味も込め)

編集者である田辺希元自身も各村の実地調査に赴き、その過程では民政に携わる郡奉行、大肝入、肝入だけでなく、藩各地に散らばる有力家臣たちの協力があった。これは、希元が仙台藩の家臣禄である『伊達世親家譜』の編纂にも携わっていたことが関係しており、例えば刈田郡の記述については片倉家の協力があったとみられる。

惜しむらくは、あまりに膨大な文量のため書写が難しく、中には散逸してしまった村の記録もあることだ。もっとも、お蔵入りしがちな無用の書物とは違い、実用的であるがゆえにあちこちで使われていたことの証明とも言えるだろうか。また、それぞれの調査書は執筆担当者が異なるため、基本的には変体漢文だが、多少文体のばらつきがみられる。

近代に入り、仙台藩から宮城県に引き継がれたものの大部分が宮城県図書館に現存(県の文化財指定)しているが、これも全体量の半分にも及ばないという。県図書館は各地方の所蔵者から欠落部分を借りて写し、県史編纂事業の一環として『宮城縣史』の資料編として発行した。『宮城縣史 23 史料篇1』~『宮城縣史 28 史料篇6』がそれに該当する。



■ 4書の特徴

以上、本記事では仙台藩の地誌として4つを紹介した。どれも特徴として

  • 藩関係者の主導による官選地誌としての性格が強い
  • 記述の対象が仙台藩全域におよび、一覧性が担保されている

という特徴がある。いわば、藩としてのオフィシャルな地理書なので、記述された情報にはある程度の信頼性がある。

また、4冊の編纂過程に一本のストーリーラインが見て取れるのも面白い。すなわち文化誌としての性格の強かった『奥羽観蹟聞老志』をベースとして、少しずつ実用的な情報が書き加えられていき、『封内名跡志』『封内風土記』ができた。その不足を補うべく、最終的には「風土記捨遺」として仙台地誌の完成を目指したが、果たせなかった。しかし、その過程で集められた情報は、『風土記御用書出』として実際の民政に活用され、無駄にはならなかった。

一方、これらの地誌はどれも18世紀(1700年代)の江戸中期に書かれたものである点には注意が必要であろう。この時期は、江戸初期の新田開発がひと段落した時代で、戦国時代に荒廃した農村の風景からは大きな変化があったのではないかと想像される。なので、これらの地誌を読んで「昔からこの村は~だった」と断定するのは危険だ。一口に「昔」と言っても、江戸時代中期とそれ以前では、だいぶ事情が異なる。

ちなみに、仙台藩域については、記述が藩全域には及ばないとしても、民間人の手によって書かれた地誌も多く存在するので、機会があればそちらについても調べて紹介記事を作ろうと思う。

■ 活用の方法

読んでみると、意外と江戸時代から風景が変わっていない場所があることに気付くこともあり、そういった場所ではタイムスリップした気分を味わえる。

『宮城県史 史料篇』所収の「風土記御用書上」
磐井郡 流金澤村の箇所をスキャンしたもの
旧仙台藩域を旅するときは、是非携帯して今の風景と地誌の情報を見比べてほしい。...もっとも、江戸時代の書物なので、所有している人は非常に希だろう。古文書片手に旅してる人がいたらガチの歴史マニアに違いない。

上記の様に、どれも復刻版があり、『仙台叢書』と『宮城縣史』に収められている。また、各自治体による市町村史の資料編にも、当該箇所だけ抜き出して収録されていることが多い。しかし、2016年末現在、絶版本ばかりで手に入りにくいうえ、ハードカバーで重いのが難点だ

おそらく、図書館でコピーし紙で持ち歩くのが現実的だろう。ちなみに筆者は、仙台メディアテークか宮城県図書館の郷土史コーナーでコピーしたものをさらにスキャンし、画像データをスマホに取り込んで携帯している。

『風土記御用書上』については上述のとおり、散逸してしまった部分もあるので、もし原本を所有している方がいたら
高値で売っ払えるぜうぇーい! するなり然るべき博物館、図書館に寄贈するなり、適切なアーカイブ方法を検討されたい。

■参考文献
  • 佐々久「解題」(『宮城縣史 23 史料篇1』宮城県史編纂委員会, 1954, p19-23)
  • 平重道「『封内風土記』解説」(仙台叢書『封内風土記』第一巻, 昭和50年(1975), 宝文堂)
  • 『仙台市史 通史編5』(近世3)仙台市史編さん委員会, 平成16年(2004), p310-312
  • 宮城県HP, 宮城県の指定文化財>書跡・典籍のページ

2016年11月28日月曜日

殿入沢跡 -大槻泰常殞命の地-

石巻市の須江糠塚(旧河南町)に、「殿入沢跡」という標柱・看板と、「大槻但馬守平泰常殞命地」と題された石碑が建ってる。東浜街道(現在の宮城県道257号線、河南登米線)沿いだ。古い街道沿いでよくみかける石碑、といってはそれまでだが、筆者にとっては特別な想いがある場所なので、今からそれについて書く。


看板によれば、この場所について江戸時代に書かれた『風土記御用書上』という文書に、「葛西家敗軍の砌みぎり...又は大崎家敗軍の節、御一家様方御生害」あるいは「此辺このへん古戦場」と書かれているとのこと。

この地で何が起きたのか、実はよくわかっていないのが現状らしい。説としては2つあり、

 説①:天正18年(1590)8月、葛西氏が秀吉の奥羽仕置に抵抗して戦い、敗れた場所
 説②:天正19年(1591)8月、葛西・大崎一揆の処理で一揆の指導者が伊達軍に殺された場所

あるいは、その両方に該当するとも考えられる。看板の名義は河南町教育委員会(河南町は2005年に石巻市に合併)で、平成12年(2000)3月25日の日付である。

では、その隣にあるもっと古そうな石碑はいつ、誰が建てたものなのか。


こちらもはっきりしており、大正3年(1914)11月に、日本初の近代辞書『言海』の著者として知られる大槻文彦博士が建てたものである。石碑の表には「大槻但馬守平泰常殞命地(おおつき たじまのかみ たいらのやすつね いんめいのち)」と題され、裏に漢文で碑文が刻まれている。

では、石碑の裏にはなんと刻まれているのか。それをじっくり読んでみよう。下にスクロールすると現代語訳があるので、漢文を読むのに抵抗がある方はそちらまで飛ばしていただいて結構である。

■ 原文
実際の碑文
陸前桃生郡須江村糠塚殿入澤實爲吾家祖但馬守君殞命地君葛西氏支
族居西磐井郡金澤村大槻館天正十八年葛西氏爲豊臣氏所滅木村吉清
來領其封苛政誅求葛西氏遺臣憤怒擧兵逐吉清伊達氏來討勸降拘将領
二十餘人於此地待命及豊臣秀次東下命斬伊達氏遣兵來臨二十餘人奮
闘遂爲所斬塩淹其首送京師君實在其中時天正十九年八月十四日也年
五十五子孫住西磐井郡中里村存祀文彦至此地歔欷低徊不能去茲建一
碑以慰君在天之霊今地主桑島氏及龜山氏賛襄之
大正三年甲寅十一月   十世孫 文學博士大槻文彦謹記
本来は漢文なので縦書きなのだが、ブログという制約上、横書きにした。従って、左上から右下に向かって読む。

■ 書き下し文

とはいえ、このままでは現代人である筆者も読むのは無理ぽオワタなので、頑張って書き下し文にしてみた。ついでに、旧字体も現代風に直してある。読みやすい様にスペース、句読点も挿入した。
陸前桃生郡 須江村 糠塚 殿入沢は、実に吾家祖 但馬守君 殞命の地なり。
君は葛西氏の支族にして西磐井郡 金沢村 大槻館に居る。
天正十八年、葛西氏 豊臣氏の滅す所と為る。
木村吉清 来領し、其の封で苛政誅求す。
葛西の遺臣、憤怒し兵を挙げ吉清を逐う。
伊達氏来たり討ち降を勧め、将領二十余人を此の地に拘し、命を待つ。
豊臣秀次の東下に及び、斬を命ず。
伊達氏、兵を遣り来り臨む。
二十余人奮闘、遂に斬する所と為る。
その頭を塩淹し、京師に送る。
君、実に其の中に在り。
時に天正十九年八月十四日也。
年五十五。
子孫 西磐井郡 中里村に住し、祀を存す。
文彦この地に至り歔欷低徊し、去る能わず。
茲に一碑を建て、以て君が在天の霊を慰む。
今、地主桑島氏及び亀山氏これを賛襄す。
大正三年 甲寅 十一月   十世孫 文学博士 大槻文彦 謹記
ちょっとずつ読めるようになってきた。まだ古語が多用されているのでわかりにくい。いくつか言葉の解説を加えると、
  • 但馬守大槻泰常のこと。葛西氏の武将。
  • 殞命:いんめい。命を落とすこと。
  • 苛政誅求:かせいちゅうきゅう。容赦のない過酷な政治。
  • 降を勧め:降伏をすすめる、の意。
  • 将領:指揮者、指導者。
  • 塩淹:えんえん。塩漬け。
  • :し。神や先祖をまつること。
  • 歔欷:きょき。すすり泣き、むせび泣きのこと。
  • 低徊:ていかい。うろうろと歩くこと。
  • 賛襄:さんじょう。助けて事を行うこと。
といったあたりだろうか。このまま一気に、現代語に訳してみよう。

■ 現代語訳
陸前の国 桃生郡 須江村 糠塚 殿入沢(現在の宮城県 石巻市 須江糠塚)は、私(大槻文彦)の先祖、但馬守 大槻泰常が没した地である。大槻泰常は、葛西氏の支族であり、西磐井郡 金沢村(現在の岩手県 一関市 花泉町)の大槻館に住んでいた。 
天正18年(1590)、葛西氏は豊臣秀吉の奥羽仕置によって滅亡した。旧葛西領には木村吉清が新領主として派遣されたが、彼の政治は容赦のない厳しいものであったため、葛西の旧臣たちは激怒し、挙兵して木村吉清を追放しようとした。 
一揆の鎮圧のために伊達の軍勢がやってきて降伏を勧めたが反乱はやまず、指導者約20人をこの場所に捕えて、次の命令を待った。 
豊臣秀次が東北にやってくると、彼は反乱指導者たちの処刑を命じた。それを受けて伊達の兵たちが押し寄せてきた。葛西旧臣たちは奮闘したが、ついに斬られてしまい、首は塩漬けにされ、京都に送られた。大槻泰常が絶命したのもこのときである。ときに天正19年8月14日。享年55歳。
泰常の子孫は西磐井郡 中里村現在の岩手県 一関市 蘭梅町に住み、先祖を敬ってきた。同じく子孫である私、文彦はこの地に至って思わずすすり泣き、うろうろしては立ち去りがたい想いに駆られた。よって天に召された泰常の霊を慰めるため、この地に石碑を建てたのである。石碑建立に際しては、この地の主である桑島氏と亀山氏に大いに助けていただいた。
大正3年(1914)11月。10世孫 文学博士 大槻文彦 謹んでこれを記す。
お分かりいただけただろうか。石碑は、大槻文彦が先祖である大槻泰常の死を悼んで建てたものなのである。文面から、文彦は説②の立場であったことがわかる。すなわちここは、葛西・大崎一揆の後始末の際、一揆の主導者たちが集められ、豊臣秀次の命を受けた伊達の軍勢によって殺された場所なのだ。

大槻文彦。1847-1928。
日本初の近代辞書『言海』の著者として有名。そのため、国語学者として紹介されることが多いが、
晩年は伊達騒動(寛文事件)や葛西氏の研究など、郷土史研究家としての顔も併せ持っていた。
写真は、歴史仲間の @るぞさんが撮影してくれた みちのく伊達政宗歴史館の蝋人形。生々しい...

...それにしても、文学博士・大槻文彦の漢文を台無しにする下手クソな現代語訳である。現代語訳というか、解説も含めた意訳になってしまったが、その点はご容赦願いたい。

■ 『伊達治家記録』との照合

この碑文の内容を、反乱の鎮圧者である伊達側の記録と照合してみよう。江戸時代に書かれた伊達家の公式記録である『伊達治家記録』のうち、『貞山公治家記録 巻之十七』天正19年8月16日の条から書き出してみる。
〇八月丁酉大六日己亥。この日中納言(秀次)二本松へ到着、大神君(※徳川家康)もこの時節、二本松御着と云々(日知れず)。公(※政宗)、この節御病気のところに、弾正小弼殿(※浅野長政)より去る三日書状を以って、御病気少しも御験気(※おしるしけ。病状が回復すること)においては、さっそく二本松まで御出然るべき由、仰せ進ぜらるにつきて、二本松へ御出あり。然るに中納言殿より御両使(氏名伝わらず)を以て、大崎葛西一揆の様体を尋ねらる(強調、注釈はブログ筆者による。表記は現代風に改)
この時点で、葛西・大崎一揆の最大の拠点である佐沼城が天正19年(1591)7月3日に陥落し、一揆鎮圧が最終段階に入ろうとしているシチュエーションである。

葛西・大崎旧領での一揆以外にも、東北各地で奥羽仕置に反発する一揆が続発しており、その鎮圧のために秀吉の甥である秀次や徳川家康が二本松まで来ている。


政宗も二本松へ向かったところ、秀次の使者から一揆の様子を尋ねられた。
(※政宗)御請うには、一揆ども城多く相抱え、百姓等まで譜代の者たるに依て、御退治も御難しき義なり。幸い一揆の者ども詫び言仕るにつきて、身命許りは何とぞ相扶らる様にと存じ、深谷と申す所に引き寄せ、差し置きたり。何様にも御指図次第に相計らはるべきの旨仰上げらる。(強調、注釈はブログ筆者による。表記は現代風に改
政宗は「一揆勢はその勢力圏に多くの城を抱え、一揆に参加している百姓も葛西の旧臣たちが多いので、一揆の鎮圧は難しい。幸いにも、一揆指導者たちからの謝罪があったので深谷という場所に彼らを集めている。彼らをどうするかは、秀次の指図に従う」と答えた。深谷とは殿入沢周辺の地名である。
一段の事なり、早々誅戮(※殺すこと)せらるべき由、中納言お指図あり。因って泉田安芸重光に黒川の御人数(※黒川郡を治める黒川氏の軍勢。この時期、黒川は事実上伊達の属国化している)相そえ、一揆武頭二十余人討ち果たし、首中納言殿(※秀次)へ差し出さる。即ち塩漬けに仰せ付けられ、京都へ差し上げられると云々(公二本松へ御出の日ならびに一揆の首差上げらる日等知れず)。(強調、注釈はブログ筆者による。表記は現代風に改)
秀次は「さっさと一揆の指導者たちを殺せ」と命じたので、政宗は泉田重光に黒川の軍勢を添えて一揆の指導者たち20人あまりを討ち果たした。首を秀次に差し出したところ、塩漬けにして京都へ送るように指図したという。

大槻文彦の書いた碑文と『伊達治家記録』の記述は

  • 一揆指導者を殺すように命じたのは豊臣秀次であること
  • 直接手を下したのは伊達の軍勢であること
  • 犠牲者は「二十余人」であること
  • 反乱者たちの首を塩漬けにして京都に送ったこと

という点で伊達側の記録と一致していることがわかる。と、いうか大槻文彦も碑文を書くうえで『治家記録』を参照したのあろう。大槻文彦は旧・仙台藩士であり、晩年は郷土史研究にも打ち込んだ人物でもある。

■ 実際の事件の規模は?

『伊達治家記録』も文彦の碑文も、犠牲者の数については「二十余人」という表現で共通している。

しかしながら、宮城の郷土史家・紫桃正隆氏はその著書『仙台領の戦国誌』において、犠牲者はもっと多かったはずである、と主張されている。氏は『仙台領の戦国誌』で事件の犠牲者の名を76人ほど列挙したあとでこう述べている。
 斯様かようにして考えてみると、深谷で誅殺された人々はおびただしい数にのぼることがわかる。
筆者が掲げた人だけでも、約80名の多きに達している。勿論、この中には異名同一の人が、ある程度いたようで、重複している面が、ないでもないが、それにしても余りにも多い。
それに、前記の人々は、概ね、葛西大崎の諸城主といわれた大身のものたちであって、これに各々数人の従兵が付随していたわけであるから、実際の人員はその数倍になっていたのは充分に想像されるところである。
(p469)
筆者も、この事件で殺害された葛西・大崎の旧臣は20人では済まなかったと思う。紫桃氏の言うように、犠牲者になった武将それぞれが城主クラスの者たちであり、それぞれに従者がいたと考えるのが自然である。実際、大槻泰常も大槻館主であった。一人でこの地に来ていたとは考えにくい。さらに紫桃正隆氏が指摘されるとおり、葛西旧臣の家系図には先祖がこの事件で殺されたことを示唆する記述が多く見受けられるのである。

それでいて『伊達治家記録』に犠牲者が「二十余人」と書かれているのはどういうわけか?

それには、2つの理由があると筆者は推測する。

  • 第1に、伊達家として事件の汚点をあまり強調したくなかったこと。
  • 第2に、事件の遺族・子孫たちも表立って事件を公にする必要がなかったこと。
葛西俊信。画像は「信長の野望・創造」より
葛西氏最後の当主・晴信の弟の孫。馬術の
名手として知られ、京都で技を披露したことも。

第1は明白であろう。伊達軍は秀次に命じられたとは言え、いわば汚れ仕事である一揆首謀者殺害の実行犯となってしまったのだ。犠牲者は少ないに越したことはない。

忠実に『治家記録』を読めば、「一揆武頭二十余人討ち果たし」と記述されており、「武頭」以外にも事件現場には数多くの武将たちがいた、とも読むこともできる。

どちらにせよ、被害者の数をあまり強調したくはないスタンスが読み取れる。

第2であるが、事件犠牲者、つまり葛西旧臣の遺族・子孫たちは、江戸時代に伊達家に召し抱えられたものが多い。

例えば、葛西氏の末裔である葛西俊信は1627年、政宗によって仙台藩「準一家」の家格に列している。

他に、木村勘助という例もある。彼の本名は寺崎貞次といい、実は父の寺崎正次もこの殿入沢で殺された葛西旧臣、かつ葛西支族の一人である。貞次は伊達家に仕えるにあたって「寺崎」の姓を用いることをはばかり、木村勘助と変名した。

そういった者たちにとって、仙台藩の公式記録である『治家記録』になんと書かれようとも、異議を申し立てるのは難しい。滅亡した大名の旧臣たちは、生き抜くのに必死だったのである。

■ 大槻一族と仙台藩

こういった事情は大槻一族も同様であった。

大槻泰常の曽孫にあたる茂慶の代に大肝入(※大庄屋のこと。仙台藩では庄屋を「肝入」と呼ぶ)に任命されて民政と仙台藩政の橋渡し役となったのをきっかけに、大槻一族は仙台藩で活躍する人材を次々に輩出してゆく。

  • 大槻玄沢:蘭学者。『解体新書』を書いた杉田玄白、前野良沢の弟子。藩医として仙台藩に召し抱えられた。また、江戸幕府の「蛮書和解御用」にも任命され、翻訳書多数。
  • 大槻磐渓:玄沢の子で漢学者、儒学者。戊辰戦争の際に藩主・伊達慶邦の学問相手として藩論を影響力をもち、イデオローグとして奥羽越列藩同盟の結成に尽力。
  • 大槻文彦:磐渓の子。仙台藩士として幕末の京都で情報収集の任務を負っていた過去もある。国語学者として日本初の近代辞書『言海』を著す。晩年は郷土史研究にも尽力。
  • 大槻平泉:儒学者。仙台藩の藩校・養賢堂の学頭を40年近く勤め、学制改革を行う。
  • 大槻習斉:平泉の嗣子。同じく養賢堂の学頭を務める。養賢堂の支校を開設。

簡単に列挙しただけでも、これだけの一族出身者が仙台藩士として活躍している。

クリックで拡大。
大槻家は一関で大肝入として活躍した一関大槻家、仙台で養賢堂学頭として活躍した仙台大槻家
学者として主に江戸で活動した江戸大槻家の3つの系統がある。特に著名な大槻・磐渓・文彦を大槻三賢人と呼ぶ。

大槻家の祖・大槻泰常を殺したのは伊達の軍勢である。しかし、大槻一族はいまや立派に仙台伊達藩の一員として活躍している。そういう立場の者たちにとっては、過去の遺恨をほじくり返すより、仙台藩の一員として前向きに生きていく方が生産的な態度と言えるだろう。

■ 先祖の没した地に立って

この殿入沢跡は、宮城県道257号線(河南登米線)沿いにあるが、普通に車を走らせていたらまず気付かずに通り過ぎてしまう場所だ。冒頭にも述べたように、古い街道沿いでよく見かける板碑のひとつにみえる。


そんな場所について長々と書いたのは、実は筆者が大槻文彦の子孫だからである。文彦の玄孫にあたる。大槻文彦の子孫ということは、自動的に大槻泰常も先祖になる。実に14世代前のご先祖様だ。


文彦はこの殿入沢の地に立ってすすり泣き、うろうろしては立ち去りがたい想いに駆られたという。国語学者だった文彦は「歔欷低徊し、去る能わず」というなかなか格調高い言葉遣いで自身の気持ちを表現している。

文彦の様な文才はなく、浅学な筆者ではあるが、子孫として文彦の想いについてもう少し掘り下げてみたい。

文彦は旧仙台藩士でありながら、廃藩置県後の明治時代に活躍した学者である。したがって、それまでの大槻家の人々と比べれば旧仙台藩のしがらみは弱まり、割と自由な観点から研究ができたはずだ。事実、藩政時代には到底不可能であっただろう伊達騒動(寛文事件)の研究成果として『伊達騒動実録』を著し、晩年には伊達家に滅ぼされた葛西氏の研究にも手を伸ばしている。

文彦には旧仙台藩士として、また郷土史家として藩祖・伊達政宗が当時おかれた苦しい立場も理解できた。一方、伊達政宗の命令によって、大槻家の祖・大槻泰常は討たれたことを考えると、子孫としては複雑な心境であろう。

...しかし、それこそが戦国という時代だったのだ。
それぞれに立場があり、相容れなければ戦って雌雄を決するしかない。
そういう世の中だった。
戦いは勝者と敗者を分ける。
昨日の勝者が明日の敗者となる。
勝者の歴史は記録され、敗者の記憶は薄れていく。
思えば戦国の勝者、仙台伊達藩ですら、戊辰戦争に敗れて朝敵の汚名をかぶった。
それでも月日は流れ、遺恨も薄れていく。
子孫たちは新しい時代を生きる。
歴史はそうやって、少しずつ紡がれていく。
そんな歴史の1ページを、後世の我々はきちんと記憶せねばならない。

...明治が去り、大正の世となった当時、こんな風に考えながら文彦が「低徊」している姿を、筆者は想像できる。自分でもうまく説明できないが、ふと「歔欷」してしまった文彦の姿を、筆者には想像できる。先祖である泰常が、文彦が、石碑を通してそのように語りかけてくるのだ。



...とまで言ってしまったら、流石に嘘くさいだろうか。

しかし、イギリスの歴史学者 E・H・カーが著書What is history? (『歴史とは何か』)で残した名言を思い出してほしい。
What is history? It is a continuous process of interaction between the historian and his facts, an unending dialogue between the past and the present. 
歴史とは何か? それは、歴史家と歴史家にとっての史実との、一連の相互作用のプロセスであり、過去と現在の終わりのない対話である。
歴史とは対話なのだ。筆者は現代を生きる人間としてこの場所に立ち、大槻泰常と、大槻文彦と、あるいはこの場所で繰り広げられた歴史と対話した。そうしたら、彼らはそんな風に答えてくれた気がした。

この場所は、筆者にとって過去との対話ができる、とても大切な場所なのだ。

2016年11月24日木曜日

中野宗時の乱 04 -伊達家の戦国大名化-

中野宗時の乱(元亀の乱)シリーズ。ここまで01で事件の背景02で事件の顛末を解説し、03で事件の全貌を推理してみたが、最終回となる今回は、事件の影響について書いてみたい。

結論から言うと、この事件をきっかけに伊達家はようやく君主権力が確立し、伊達家が一丸となって軍を動員できるようになった。これは、のちに政宗が飛躍する前提となっている。

どういうことか。詳細に追ってみよう。

■ 稙宗政権

伊達家の歴代当主の政権がどういったものだったかを検証するために、まずは伊達稙宗(輝宗の祖父、政宗の曾祖父)時代から振り返ってみる。

稙宗の時代、君主権力は強かったといえよう。例として、分国法である『塵芥集』の制定が挙げられる。この『塵芥集』で稙宗は地頭の私成敗(勝手に領民を裁くこと)を禁止したり、段銭徴収や棟役制度(税金の徴収)の整備を行っている。

『塵芥集』。画像は宮城県の重要文化財紹介ページから拝借。
天文5年(1536)に成立。171か条からなる。
一方で、そういった君主の方針に家臣も不満を抱えており、その不満が天文の乱という形で噴出する。

■ 晴宗政権

天文の乱の結果、敗北した稙宗は隠居を余儀なくされ、その息子である晴宗政権が成立する。
伊達稙宗と晴宗の方針の違いについてはこちらを参照 ⇒ 伊達稙宗の行動原理
しかしながらこの晴宗政権では、乱の論功行賞のために、晴宗方についた家臣の「惣成敗」「守護不入」や、本来伊達家の収入となるべき租税の徴収権を認めた結果、今度は家臣の力が強いという性格の政権になってしまった。

その家臣の筆頭が中野宗時とその息子である牧野久仲である。晴宗も中野宗時と牧野久仲にはそれなりに気を使っていた形跡があり、例えば牧野久仲は、伊達晴宗が奥州探題に任命されるのと同時に、奥州守護代に任命されている。

■ 輝宗政権

元亀の乱以前の伊達輝宗政権も、基本的には晴宗政権を引き継いだものだったため、家臣の力が強かった。この点は、仙台市博物館の菅野正道先生も指摘しておられる。

輝宗政権の初期段階において、輝宗は領国経営を任せる重臣の選択ができる立場にはなく、実質的には晴宗政権の枠組みを維持せざるを得なかったのである。」(『伊達氏と戦国争乱』p41)

しかしながら、元亀の乱で中野宗時が失脚したため、輝宗は自由に権力を行使できる立場になった。03で触れたように、乱の以前は中野一派の潜在的なシンパは多かったと思われるが、その当主である中野宗時が失脚したため、輝宗にストップをかけられる存在がいなくなったためである。

遠藤基信の進言により、中野に関与したと思われる者たちへの処罰もほとんどなかったことから、こういった旧中野シンパの者たちの間で、輝宗に対する心理的な負い目が生まれたことだろう。あるいは「積極的に手柄を立てることによって汚名をそそがなくては」という発想が生まれる。

■ 小梁川盛宗にみる輝宗政権の性格

典型的なのは小梁川盛宗(泥播斎)だ。彼は以前の記事でも触れたように、中野宗時の逃亡を見逃したことで輝宗の不興を買ったが、遠藤基信の進言によりその罪を許されている。その後、天正2年(1574)の最上との戦における小梁川盛宗の活動を『性山公治家記録』から抜き出してみると
  • 1月25日、上山城の里見民部への攻撃命令を受ける
  • 5月7日、伊達輝宗が高畑城に立ちよった際、2000貫を献上
  • 5月20日、最上との戦、畑谷口での戦闘で1番備えとして出陣
  • 8月1日、部下3名が五十嵐源三と共に敵3名を打ち取る
と、必死で輝宗の役に立とうとしている姿が想像できる。この小梁川盛宗の行動が積極的であったにせよそうでなかったにせよ、輝宗政権においてはある程度家臣をコントロールしやすくなったことは間違いない。

ちなみに小梁川盛宗は次世代の政宗政権においても活躍し、政宗側近衆のひとりとなっている。江戸時代以降は子孫も野手崎の領主として繫栄し、一家 第4席の家格を与えられた。

■ 天正4年 相馬の陣

続いて注目したいのが、天正4年(1576)の対相馬戦である。この戦において輝宗は、宿願である伊具郡の奪回を目指して大動員をかけた。その陣容をみてみると
  • 01番備 亘理重宗
  • 02番備 泉田景時
  • 03番備 田手宗時
  • 04番備 白石宗実
  • 05番備 宮内宗忠、砂金常長
  • 06番備 粟野宗国
  • 07番備 四保宗義、沼辺重俊、福田助五郎
  • 08番備 石母田三郎、大町七郎、江尻彦右衛門
  • 09番備 村田近重、小泉下野、中名輿市郎、舟迫右衛門
  • 10番備 秋保勝盛、中嶋宗意、中村盛時、支倉時正、小野雅樂之允
  • 11番備 桑折宗長、大條宗直、成田紀伊、下郡山朝秀、西大窪九郎三郎、桐ケ窪治部大輔
  • 12番備 中目長政、中嶋宗求、桜田三河、間柳式部大輔、山崎丹後
  • 13番備 飯坂宗康、瀬上景康、大波長成、須田左馬之助、須田太郎右衛門
  • 14番備 原田宗政、富塚宗綱
  • 15番備 遠藤基信、濱田大和
  • 16番備 伊達実元
  • 17番備 御旗本(『性山公治家記録 巻之三』天正4年8月2日の条より)

という錚々たるメンツである。ほとんどが城主あるいは中規模の領主クラスの者たちで、当時の伊達領における現在の福島県北部(伊達・信夫郡)から宮城県南部(刈田郡・柴田郡・伊具郡・亘理郡・名取郡)あたりの武将は総動員といった状況を呈している。

注目したいのは、稙宗政権・晴宗政権時代にこれだけの動員がかけられた形跡が認められないということだ。やはり輝宗政権では、伊達家当主・輝宗の号令のもとそれなりの軍事力を行使できた、ということになる。輝宗政権において伊達家は、はじめて真の意味で戦国大名化した、とも言えるだろう。

■ 政宗時代の飛躍はこれが前提

政宗の時代だけに注目すると、さも当たり前かの様に配下が政宗の命令を聞き、伊達家一丸となって戦をしているイメージがあるのだが、それは当たり前のことじゃないんだ、ということを筆者は言いたかった。

実際、家中の統制が最後までうまくいかず、小田原参陣ができなかったために秀吉に改易された葛西氏の例がすぐ隣の大名としてあるではないか。あるいはさらにその北の南部氏も、家中統制には苦労して九戸政実の乱が起きたといった例がある。

政宗だって、家臣のコントロールができない状態ではあれだけの領土拡大はできなかったに違いない。そういう意味で、伊達家中の統制強化のきっかけとなった中野宗時の乱とその鎮圧は、まことに歴史的意義の大きい事件であった、ということがわかっていただけただろうか。

前稿と似たような結論になってしまうが、改めて言いたい。今日、後世の我々が英雄・伊達政宗の活躍に心を躍らせることができるのも、この事件があったからこそなのだ。



2016年11月23日水曜日

中野宗時の乱 03 -謀反計画の全貌とは?-

中野宗時の乱(元亀の乱)シリーズ。01で事件の背景02でその顛末について解説した。今回は、未遂に終わった反乱の全貌について推理してみたい。

■中野宗時に加担したのは誰か?

まず、中野宗時のクーデタ未遂に加担したのは誰だったかを考えてみたい。まず怪しむべきは、中野宗時が逃亡する際に、それを見逃した者たちである。すなわち

高畑城主・小梁川盛宗(泥播斎)
白石城主・白石宗利
宮ノ城主・宮内宗忠
角田城主・田手宗光

らだ。彼らの城は、すべて中野一派の逃亡経路上にある。



彼らは亘理親子の様に積極的に中野一派を迎撃することはなかったから、輝宗につくか、中野につくか、少なくとも日和見的態度をとっていたのは間違いない。現に、輝宗もそれを咎めようとしたが、遠藤基信の進言によって事なきを得ている。

あるいは、事前に中野宗時の謀反に協力、参加を表明してはいたが、思わぬ形でそれが露見してしまったため、こうなってしまってはもはや中野サイドには立てない、と判断した可能性もある。

考えるに、伊達家中にはこういった日和見の態度の者が多かったのではないか。つまり、伊達家当主である輝宗が勝つか、それとも実力者・中野宗時が勝つか、両者のパワーバランスをみると、当時はなかなか判断しにくい状況にあったのだ。

そう考えると、伊達家中のほとんどの者があやしく見えてくる。むしろ、はっきりとシロと断言できるのは、

・息子と対立してまで謀反を知らせた新田景綱
・中野らの籠る小松城を攻撃して戦死した小梁川宗秀
・中野宗時を迎撃した亘理親子砂金貞常
・謀反予防の布石を打っていた遠藤基信

くらいではないか。

いや、彼らの行動だって、自らの関与を隠すための行いかもしれない。とにかく、疑いだしたらキリがない。

だからこそ、事件の取り調べに半年もかかってしまっただろう。誰が敵で、誰が味方なのかもよくわからない。ほとんどの者がグレーだ。下手な捜査をしたら、思わぬ藪蛇をつついてしまうかもしれない。取り調べは慎重に行う必要があったからこそ、半年もかかってしまったのだ。

さらに『治家記録』では、小関土佐なる人物についても触れている。中野事件の際は上方にいたが、米沢へ帰国後に「奉公余儀ナク励ムヘキノ旨誓詞ヲ捧ゲ」ている。『治家記録』は小関が中野の親族であった可能性を示唆しており、たまたま事件のとき上方にいたので加担しなかったが、もしかしたら…とも思えてくる。

■ 中野宗時のクーデタ計画とは?

『治家記録』には、謀反が発覚してからどうなったかについては詳細な記述があるのだが、どういう謀反計画だったのかは具体的に記されていない。事件の首謀者である中野宗時が逃亡してしまったので、当然といえば当然かもしれないし、伊達家の公式記録である『治家記録』では、家臣の機微に触れることは書きにくい事情もあっただろう。『治家記録』は、当時の家臣たちの子孫たちが現役の仙台藩士として活躍していた時代に書かれた書物である。

では、中野宗時の乱が実際に成功していたとすれば、どんな手口でそれを行ったであろうか?

実は、彼には前科があり、それをもとに推理することはできる。

前科とは、天文の乱である。

■ 天文の乱における中野宗時の手口

天文の乱とは、簡単にいうと伊達家の内紛である。伊達稙宗と、その嫡男である晴宗の争いだ。しかしながら、南東北の大名がそれぞれ稙宗派と晴宗派に別れて争ったため、事は伊達家の内紛では収まらず、南東北全土を巻き込む大乱となった。

この事件の背景には、他の大名との関係を優先する伊達稙宗に対して、伊達家家臣団の不満があったといわれる。その家臣団の筆頭が中野宗時である。

そしてその中野宗時が反乱の旗頭に据えたのが、伊達晴宗だった。つまり何が言いたいかというと、中野宗時の手口として、当主の方針に反対するためにその嫡男をかつぎあげて旗頭にする、という方法が前例としったのだ。

■ パペット政宗

それをふまえた上でよく考えてほしい。中野宗時が伊達輝宗に対抗するためには、誰を反乱の旗頭に据えるのが一番いいであろうか。

いるではないか。

当時4歳、パペット(あやつり人形)とするには最適の幼子にして輝宗の嫡子が。

梵天丸。そう、後の伊達政宗である!


歴史にIF はないが、この反乱が成功していれば、独眼竜・伊達政宗は中野宗時の操り人形としてそのキャリアをスタートさせていたかもしれない。

疱瘡で片目となった姿を池にのぞき込む梵天丸。
うぅ…。NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』より。
その場合、彼の理解者であり続けた輝宗は政宗の側になく、また片倉小十郎景綱のような有能な側近が彼を補佐することもなかっただろう。中野宗時にとっては、パペットである政宗は無能な方が操りやすい。片目を失明してふさぎがちになっていた政宗に、優秀な側近をあてがう必要なんてない。

内気な少年であったことが伝えられている梵天丸が後の独眼竜・政宗に成長するためには、父・輝宗と側近・片倉景綱、この二人の理解者の存在は大きかった。両者のサポートなく飾りの君主として育っていたならば、政宗は陰鬱な当主として中野宗時の操り人形であり続けた可能性が高いと思う。

…そう考えると、この中野宗時の反乱は失敗に終わってよかったなとつくづく思う。反乱が失敗したからこそ、後世の我々は伊達政宗という偉大な英雄の活躍に心を躍らせることができたのだから。



2016年11月21日月曜日

【新潟の旅】2日目 新潟エクスカーション

承前:【新潟の旅】 1日目 雨の中新潟へ

■ 朝からいきなりハーレム状態

某所の風景。ドラマ化もされた某野球漫画で有名な
某街の、某一級河川をはさんで手前側が某所である。
前日は、気持ちよく酔っぱらいながらゲストハウス人参にてぐっすり就寝した。朝起きると、宿の廊下数名のご婦人方とすれ違ったので、軽くご挨拶。

話をしてみると、そのご婦人方は短大のときに同じ寮に寄宿していた仲で、いわば「同じ釜の飯を食った」仲だという。定期的に集まっているらしく、今回、幹事になった朝子さんの地元である新潟が同窓会の場所として選ばれ、ゲストハウス人参に泊まったのだとか。

そのご婦人方が学生の時に暮らしていた寮が関東の某所という場所にあったのだが、奇遇にもそこは、筆者も学生時代に一人暮らしをした場所であった。時代の差はあれど、同じ某所で暮らしていた人間が、たまたま新潟という旅行先で出会うという偶然!

「えー! 某所ですか! 僕も昔住んでましたよ!」
「あら、ホント!? っていっても私たちの下宿時代なんて、あなたの生まれる前の話でしょうけど笑。これからあたしたち、朝のお散歩に出かけるんだけど、よかったら一緒にどう?」

...と、誘われるがままに、朝の新潟の散歩がノリで始まった笑。ご婦人方に囲まれて、ハーレム状態である。こうやって、旅先で出会った人と意気投合して一緒に街を歩くのも、なんだかバックパッカーらしくて懐かしい。

■ 古町通と新潟の都市軸

ゲストハウス人参は、新潟の「古町通」という歴史ある街並みの3番町に位置している。



古町通は新潟の都市軸のひとつ、といって差し支えないのだろう。あるいは、メインストリートと言ってもいいのかもしれない。通りは1~13番の町にエリア分けされており、5番町から国道7号にぶつかる9番町までが繁華街になる。仙台でいうところの国分町エリアだ。

駅前と昔ながらの繁華街、という風に、町の中心点がふたつ存在するのは、仙台と似ている。大きく違うのは、新潟の場合ふたつの中心の間に信濃川が横たわっていることだ。

古町通はおおむね信濃川に並行しており、軸としてはナナメっているので、今思えば新潟の街をあるいていて方向感覚がつかみにくいのはこれが原因だったかもしれない。

古町通は東西をそれぞれ西堀通東堀通に挟まれており、これらに直交する道は「小路」と呼ばれる。東堀通のさらに東には本町通があり、こちらもメインストリートのひとつとなっている。とりあえずこれだけ覚えておけば、新潟中心部の街歩きは大丈夫だろう。

■ 白山神社とやすらぎ堤

古町通1番町のとなり、いわば通りの起点に位置するのが白山神社で、朝の散歩の最初の目的地はこちらになった。ちなみに「しらやま」ではなく「はくさん」神社と読む。


古町通アーケード街の起点。振り返ると…


白山神社の鳥居。朝の散歩には絶好の快晴。こちらのサイトによると、日本海側気候に属する新潟は全国的にみても晴れの日が少ないことがわかる。とてもラッキーだったといえるだろう。

山門

そして拝殿でお参り。

白山神社は、2度の大火で史料が焼けてしまったため、正確な創建時期は不明である。しかし、戦国時代にはすでに大社として知られていたようで、上杉景勝が戦勝の帰途に鏡を寄進している。現在は新潟県を代表する神社として知られ、新潟の人にとって初詣といえばまず弥彦神社、次に白山神社となるらしい。

そのまま白山公園を横断して、信濃川の河畔、やすらぎ堤へ。


信濃川(長野県では千曲川と呼ぶ)河口の堤防で、ここも新潟観光の定番らしい。花火大会の日には多くの人で埋まる。

この日はまず図書館や観光案内所で、下調べをしてから新潟市内をゆっくり回ろうと考えていた。

ところがこのお散歩タイムを通して、ご婦人方や、その団体の幹事である朝子さんとはすっかり意気投合してしまい、ご厚意に甘えてこのあともご一緒させていただくことになった。現地の方の案内があるのは、とても心強い。同窓会に筆者の様な異人を温かく迎え入れてくれたご婦人方には本当に感謝である。

■ 齋藤邸別邸

続いてやってきたのは斎藤家別邸。かいつまんで言うと、古いお屋敷である。ただ、それなりに歴史のあるお屋敷なので、別に記事をたて、詳しいことはそちらに書いた。興味のある方はそちらを読んでほしい。ここでは、写真で屋敷の様子を伝えるにとどめる。

齋藤邸別邸 -新潟市民に愛された商人のお屋敷-

二階大広間から

主庭の茶室にてガイドさんの説明を聞くご一行。


新潟らしくて面白いなー、と思ったのがこれ。多脚の樹である。根上がりの松と呼ぶらしい。

根を張った木のまわりの砂が波風でさらわれ、根っこが地表に出てしまった結果、このような姿になるのだという。木の幹が分かれているのではなく、根っこが地表から露出し、重量を支えるために太くなったものだ。海に近い新潟の古い屋敷ではそこまで珍しいものでもない、とのことだが、初見者にとっては充分なインパクトがある。

主庭から主屋に臨む



主庭の滝
同行のご婦人たちが先に次の場所に向かった後も、自分は庭にとどまって景色を眺め続けた。やっぱり和風庭園っていい。

■ 日和山

せっかく海まで近い距離にいるので、齋藤邸を出た後、海岸に向かってみた。適当に走っていたのだが、ちょうどよく展望台のある場所だったのがラッキー。

展望台

地元小学生のマラソン大会に遭遇

展望台から見た景色。仙台市民にとってはあまりなじみのない日本海と、奥にうっすら見えるのが佐渡島。昨日ゲストハウス人参で聞いた話によれば「初めて佐渡島を見た人は『あんなにでっけーの!?』って驚くと思うよ」とのこと。まさにその通り。でっけぇ。島というよりも、半島か大陸くらいに思える。

この展望台は「日和山展望台」というのだが、正確にいうとここは堤防の上であって、日和山ではない。本当の日和山はこちら。


展望台から300mほど内陸にある小高い山、というより丘で、標高は約15m。おそらく江戸時代はもっと高い山だったと思われ、新潟で一番の高台だったという。あるいは先ほどの堤防まで、丘が続いていたのかもしれない。

ちなみに「日和山ひよりやま」という名前の山は全国にある。主に港町に多く、船乗りが舟を出せるかどうか天候をチェックし(日和を見)た山のことで、宮城県でいうと仙台と石巻にも存在する。石巻の日和山は、葛西氏の本城だった石巻城址であり、仙台の日和山は「日本一低い山」として知る人ぞ知る、地理マニア向けの名所となっている。

ともあれ、新潟の日和山も、新潟が歴史のある港町だったことの証明だ。いま、日和山のてっぺんからは住宅地に阻まれて海は見えないが、当時はここから多くの人が日本海を眺めていたことだろう。

■ 置屋・川辰仲

日和山を出た後、ご婦人方と合流してランチタイム。そのあと案内してもらったのが、置屋・川辰仲

そもそも置屋って言われてもピンと来ないと思うのだが、簡単に言うと、芸能プロダクション兼芸者さんのスタンバイルーム、といったあたりだろうか。ここから芸者さんが料亭などへ派遣されるのだ。


ここでは、店主のひろこさんが置屋の内部から芸者・置屋の歴史まで丁寧にいろいろと解説してくれたのだが、説明に夢中であまり写真を撮らなかったのと、あまりこういった文化的知識がないので、ちょっとスキップすることをお許し願いたい。

ひとつだけ書いておきたいのは、芸者って人たちはつくづくプロフェッショナルな存在だったんだな、ということ。一流の芸能と教養を身に着けるために日々努力する。川辰仲では、そんな芸者さんたちの洗練された生活ぶりをを感じることができた。

■ ”新潟コンシェルジュ”こと朝子さん

川辰仲を出て、ご婦人方の同窓会は終了、解散という流れになった。筆者は、幹事で新潟在住の朝子さんにお茶に誘っていただいた。

連れてっていただいたのが、日和山五合目というカフェ。先ほど紹介した日和山にあるカフェで、オーナーさんが『ブラタモリ』の新潟回でタモさんの案内人を務めた、新潟では今話題のカフェなのだそうだ。タモさんを案内したオーナーさんだけあって、店内には新潟の郷土本がいっぱい。筆者の様な歴史好きにはたまらない空間である。
日和山「五合目」と言っても、階段を数段登れば到着。
なんとも洒落たネーミング。
ここで、今回新潟を案内してくださった朝子さんを改めて紹介しておこう。

今この記事を書いている段階で、筆者は朝子さんとまだ2回しかあっていないので、詳しいプロフィールはわからない。ただ、ひとつわかるのはとにかく新潟で顔が広く、そして新潟を愛している、ということだ。一緒に歩いていて、挨拶されることが何度かあった。もちろん、筆者にではなく朝子さんに対してである。

日和山五合目にて。シューアイスをほおばる朝子さん。この写真を
Facebookにアップしたところ、朝子さんの知り合いと思われる方から大量の
「いいね!」がついた。こういうところからも、朝子さんの顔の広さがうかがえる。

日和山五合目を出た後も、一度解散して別の宿にチェックインしてから、再度合流して夜の新潟の街をいろいろと案内していただいた。この日はまさに至れり尽くせりで、感謝してもしきれない。

今回、朝子さんが幹事として企画する、某短大の同窓会兼旅行に紛れ込ませていただく形になったのだが、どうも僕のような異邦人が同窓会に紛れることは、今回に限ったことではないらしい笑 どうも旅人を見ると、新潟を案内せずにはいられない様だ。

まさに「旅は道連れ」という言葉を体現されている方である。おそらくこの方の辞書に「人見知り」という言葉はない。筆者は勝手ながら「新潟のサザエさん」と呼ばせていただいている。ゲストハウス人参では「新潟コンシェルジュ」と呼ばれていた。まさに言いえて妙。

朝子さんもそうなのだが、今回、ゲストハウス人参でも、新潟愛に溢れた地元の人たちと多く知り合いになれたのはとても幸運だった。

最近、旅のときはビジネスホテルや旅館に一人で泊まることが多かったのだが、やっぱり旅は現地の人や、同じ旅人どうしが集まるゲストハウスやユースホステルがいい。せっかくの旅先で、一人で宿泊するなんてもったいない。出会ったばかりの人たちどうしでも、すぐに仲良くなれるのは旅人の特権である。

そして何より「出会いこそが旅なのだ」というバックパッカー精神を思い出すことができたのは、ゲストハウス人参と朝子さんに拠るところが大きい。本当に感謝である。

2016年11月19日土曜日

野中神社 -ここが仙台の中心だ!-

最近職場が変わった。仙台の街なかである。

昼の休憩時間、天気がよかったので近くを散歩していたら、ビルの谷間に神社の鳥居があったので、ふと立ち寄ってみる。

写真をみてお分かりのとおり、本当にビルの谷間に参道があって、拝殿は見えない。ちょっと興味をそそられたので入ってみると、ちゃんとあった。


ずいぶんとこじんまりとした神社だ。当然、その由緒が気になる。

これだけ街なかにあるということは、仙台城下町時代からあって、開発の波にのまれてしまった可能性が高い。だとすれば、それなりに古い神社かもしれない...と考えていたら、ちゃんと由緒書きがあった。要約すると

  • 慶長6年(1601)1月11日、政宗が仙台城下町の縄張りをはじめる。野中神社は、その縄張りの起点となった場所で、城下の中心点となったところ。
  • 町割りの縄張りに使った縄を地中に埋め、その場所に野中神社を創建した。
  • 1945年7月10日、仙台空襲により消失
  • 1946年、仮社殿を建てる。
  • 1986年、大町通商店街の街づくりとともに、野中神社再建の機運が高まる
  • 1988年7月10日、再建。

とった感じ。というわけで、この場所を起点に仙台城下町の建設が始まったと考えると、ここが仙台の中心なのだ!

確かに、野中神社の場所を地図で確かめてみると、すぐ西に国分町通りが南北に伸びているのがわかる。

画面中心部の★が野中神社。すぐ西に国分町通りが伸びる。

この国分町通りは、今でも仙台の繁華街として有名なスポットだが、江戸時代の呼び名は奥州街道である。

仙台開府より前、この地域にまだ奥州街道は整備されておらず、昔からの「奥大道」と呼ばれる街道があった。政宗はその奥大道を仙台城下町の中心部に導入することで、仙台に人と物資を呼び込んだのだ。

先に奥州街道の場所を決めて、その近くに野中神社を建てたのか、あるいはその逆に、町割りの起点に奥州街道を通したのか、前後関係はよくわからない。が、どちらにせよ政宗の城下町設計プランにおいて、野中神社と奥州街道はセットだったことは間違いないだろう。

その後、どちらかといえば仙台城下町の中心地として認識されていたのは芭蕉の辻の方だろう。こちらは奥州街道と仙台城の大手門からまっすぐ伸びる大町通りが交差する場所だ。

今日、仙台の中心といえばどこになるだろう。仙台駅前か。国分町か。あるいはアーケード街か。

現在、野中神社のある一帯はオフィス街となっており、町の中心からは少し離れている。ビルの谷間に埋もれていることも含めて、時代の移り変わりを感じれる場所だ。

2016年10月31日月曜日

齋藤邸別邸 -新潟市民に愛された商人のお屋敷-

新潟市の観光名所・齋藤邸別邸。かいつまんで言うと、古いお屋敷である。ただ、それなりに歴史のあるお屋敷なので、今からそれについて書く。


■ 齋藤邸別邸の歴史

この家を建てたのは斎藤喜十郎(1864-1941、4代目)なる人物で、明治時代なかばから新潟の数々の企業勃興にかかわってきたビジネスパーソンである。

斎藤家は幕末のころに家業の清酒問屋から事業を発展させ、明治時代には海運業(越佐汽船会社)、銀行(新潟銀行)、化学工業(新潟硫酸会社)などにも関与する、新潟三大財閥のひとつにまで発展した。現代風にいえば斎藤ホールディングス、斎藤フィナンシャルグループ、である。

画像は「旧齋藤家別邸庭園調査報告書」より拝借
しかし、地主でもあった斎藤家は、所有する多くの田畑を戦後GHQによる農地改革によって失い、5代目喜十郎が死去すると、多額の相続税が課せられた。

戦後の混乱の中で斎藤家がこの別邸を維持することが難しくなったなか、新たなオーナーとなったのが新潟の建設会社、加賀田組の2代目社長・加賀田勘一郎である。

加賀田はビジネスだけではなく、新潟市議会議長として地方政治にかかわったり、囲碁や茶道をたしなむ趣味人でもあった。また、屋敷を文化交流の場として市民に開きながら維持してきたことで、新潟市民にとってもこの屋敷は愛着のあるものになったのである。

加賀田組のオーナーシップはつい最近2005年まで相続するが、そののちにこの屋敷が荒廃してしまうことを惜しんだ新潟市民の請願により、新潟市によって公有化され、今にいたっている。

…と、お土産に買ったガイドブックを参照しながら駆け足でこの斎藤家別邸の歴史について書いてみたが(だいぶ端折ったけど)。

斎藤邸について調べてみるだけでも、新潟の経済史、文化史の一側面がわかる。斎藤邸には興味深い資料がたくさんあるので、興味がある方は是非一度訪れてほしい。

ちなみに、このお屋敷は斎藤家の本邸ではなく「別邸」なのがミソで、ここは斎藤財閥や加賀田組にとってお客さんを迎えるための、いわばゲストハウスだった。地方の有力企業のゲストハウスともなれば、ここを訪ねた客も錚々たるメンツで、ガイドブックには総理大臣・若槻礼次郎、ノーベル賞作家・川端康成、おなじく総理大臣・田中角栄の訪問、そして囲碁のタイトル戦である第10期本因坊戦の様子などが写真とともに紹介されている。

■ 邸宅とその庭園

さて、前置きが長くなったので、斎藤邸については実際に写真で見てもらおう。

二階大広間から
大正スタイルの和風トイレ
窓がハート形になっているのに注目。

中庭の井戸。斎藤邸はかなり海岸に近い場所にあるが、きちんと真水がでるのだとか。
主庭の様子。9月末でもう、もみじが色づいている。

主庭の茶室にてガイドさんの説明を聞くご一行。


庭石。はるばる江戸の仙台屋敷から運ばれてきた、との言い伝えがある。おそらく廃藩置県後に江戸の大名屋敷が不必要になった際、斎藤財閥が買い取ったのだろう。しかし、庭ができたのが明治時代だとして、どうやってここまで運んできたのだろうか?
  • 鉄道:新潟市域としては初の沼垂ぬったり駅が1897年(明治30年)に開業。だけど貨物としては重すぎる?
  • 陸路:自動車はまだ普及していない。使えるのは馬車? 関東から中山道・三国街道を通って?
  • 海路:当時はまだ海運が大規模輸送の柱だったと思われる。斎藤家は上記のとおり「越佐汽船会社」なる海運業も営んでいたから、これが一番現実的だろうか。
...といったことを考えてしまう。おそらく伊達家の藩士たちも眺めていたであろう庭石が今は新潟にあるというのが面白い。


新潟らしくて面白いなー、と思ったのがこれ。多脚の樹である。根上がりの松と呼ぶらしい。

根を張った木のまわりの砂が波風でさらわれ、根っこが地表に出てしまった結果、このような姿になるのだという。木の幹が分かれているのではなく、根っこが地表から露出し、重量を支えるために太くなったものだ。海に近い新潟の古い屋敷ではそこまで珍しいものでもない、とのことだが、初見者にとっては充分なインパクトがある。

主庭から主屋に臨む


同じく主庭から。後ろに見えるのが新潟で2番目に高いビルであるNEXT21(128m、左)と、4番目に高いグランドメゾン西堀通タワー(111m、右)。斎藤邸から見るとグランドメゾンの方が近いため、高さはほとんど同じに見える。

この写真を撮影した場所は、主庭のなかでも斎藤邸主屋を真正面に眺めることができるビューポイントであるため、2つの高層建築物に対しては「せっかくの眺めを妨害する邪魔者」という声もあるらしい。このふたつのタワーが写りこまないようにするには、ひとつ前の写真の様に別の場所から少し見上げる角度で撮影するしかない。

しかしこの眺め、筆者は好きだ。

現代の最先端高層建築と、約100年前当時の粋をこらした邸宅。一見ミスマッチに思えるかもしれないが、これはこれで今の新潟を象徴していると思う。今やパリの代名詞とも言えるエッフェル塔だって、建設当時はパリの伝統的な景色を壊すという理由で反対の声があった。にもかかわらず、現在のパリには外して語ることのできない建造物ではないか。

同じようにNEXT21も、1994年に完成して以降、新潟のランドマークとして親しまれているらしい。19回の展望フロアは入場無料で一般に開放されており、新潟観光の定番の様だ。

和風家屋とのミスマッチ感をなげくよりも、「異なる時代のそれぞれの最先端建造物を一度に眺められる場所」として楽しんでしまった方がオトクなんじゃないか、と筆者は思うのだ。

主庭の滝

高低差のある庭のステップとして用いられている敷石なのだが、まんなかに穴が空いている。もともと、佐渡の金山・銀山で使われていた石臼なのだという。こういった本来の用途とは違った使い方をするのにも、庭師の遊び心と工夫が感じられる。

■ 庭の造成者・松本兄弟

この庭を造成された時代の背景を語るうえで欠かせないキーワードとして、「近代数寄者」と「自由主義風景式庭園」がある。

まずは近代数寄者から。数寄者すきものといえば、漫画『へうげもの』で有名な古田織部や、千利休の名が良く知られている。

茶道をはじめとして、小道具や建築などに独自の工夫と自分のスタイルを反映した趣味を極めた人たちである。彼らは戦国時代の人間で、武家や商人だったが、近代(明治時代)になると茶の湯や骨董の収集に熱心な財界人や政治家が出現した。彼らを「近代数寄者」と呼ぶ。

『新潟市旧齋藤家別邸 公式ガイドブック』より
江戸時代まで古典的な日本庭園は、浄土宗や禅といった精神的なものを表したり、一定のフォーマット化された様式や約束事にもとづいて作事をおこなう事が多かったが、当時の世は文明開化・華の明治である。西洋文化の影響をうけた近代数寄者たちは自然にみられる心地よい風景を、写実的に庭の中に取り入れることを理想とした。

宗教観にもとづいた精神的な庭から、西洋文化の影響をうけた写実的な庭へ。これが「自由主義風景式庭園」である。もちろん、いろいろと工夫はこらされているのだろうが、ぱっと見のわかりやすさを追求した、といったら簡単に要約しすぎて職人に怒られてしまうだろうか。

近代数寄者である益田孝、克徳兄弟(佐渡生まれ)や高橋義雄といった人々の庭園に対する考え方に影響を受けたのが松本兄弟だった。2代目・松本幾次郎松本亀吉である。この二人が、斎藤邸別邸の造園を行った庭師たちだ。

彼らはこの庭の他に渋沢栄一の曖依村荘あいいそんそうの庭園や、成田山新勝寺の作庭を行ったことで知られている。



邸内の案内の際、ついガイドさんの説明に夢中になり、写真撮影がなおざりになってしまった。庭の写真ばかりなのはそのためである。片手落ち感が否めないので、次に新潟にいくときはきちんと邸内の様子も撮影してこようと思う。