2017年4月21日金曜日

御仲下改所跡(堤町)-仙台城下町の北門-

今回は、筆者の自宅から一番近いと思われる史跡を紹介。近いにも関わらず、存在に気付いたのは割と最近である。


一見、ただの木造看板である。いや、実際にこの看板以外に特に残っているものはないのだが、案内を詳しく読んでみると、ここには以前、御仲下改所なる施設が存在したというのだ。

■ 御仲所とは!?

詳しく調べてみたところ「おすあい したあらため どころ」と読むようだ。看板では「御仲下改所」の5文字に対して「おすあいどころ」とルビがふられているが、「仲」一文字で「すあい」、「下改」で「したあらため」である。

案内板の図。当時の姿をどれだけ反映しているかは
不明だが、街道沿いの雰囲気が伝わってくる。

一番わかりにくい「仲すあい」の意味だが『仙台藩歴史用語辞典』によれば、
すあいやく・すあいどころ 〔仲役・仲銭・仲所〕
「すあい」は仲介者、仲介料のこと。為間銭ともいう。他領および領内に移出入商品に課された取引税(仲役)を仲所で徴収した。...
とある。要は昔の税関みたいな施設である。人ではなく物流に対するチェックポイントであるから、厳密には番所(仙台藩では関所のことを番所と呼ぶ)とは異なるようだが、ここが仙台城下町の北の入り口ととらえてよさそうだ。

■ 奥州街道と台原丘陵

この御仲下改所跡の看板がある場所は大通りからは一本ずれた場所に設置されているが、じつはこの看板の前の細い道こそが、旧奥州街道に相当する。


現在は太い青線の宮城県道22号(旧国道4号)が仙台駅前から直結して通っているが、このラインが開通するのは昭和時代になってからで、それまでは緑の線の奥州街道が仙台の北口だった。

1930年の地図。仙台の北側に伸びる奥州街道はまだ旧道ラインで
現在の宮城県道22号に相当する車道は開通していない。

ちなみに、もっと時代をさかのぼった江戸時代の地図(『仙台城下五釐掛絵図』、元禄4-5年(1691-92)作成と推定)を見てみると、このあたりは仙台城下町の最北端だったことがわかる。上記のふたつの地図を見てもらってもわかるが、平地の仙台城下町がここから丘陵地帯になる。このあたりの丘を台原丘陵と言い、下の地図では、まるで山の合間を抜ける隘路のような描かれ方である。


多少の誇張はありそうな気がするが、この辺りが仙台城下町の北の果てだったことは確かで、南北に延びる奥州街道が東に折れ曲がるあたりは今でも北山という地名が残っている。

話を御仲下改所に戻すと、幕末の文書では七北田・原町・五軒茶屋・案内・八幡町・中田の6ヶ所で確認できるらしい。この記事で紹介している堤町の御仲下改所はその文書に登場しないようだが、上記6ヶ所はどれも仙台の東西南北の入り口に位置している。それぞれ

  • 東:原町、案内
  • 西:八幡町
  • 南:五軒茶屋(現在の広瀬橋仙台側近辺)、中田
  • 北:七北田

の方角になるが、案内、中田、七北田は仙台城下町から離れた場所に位置する。北部方面をみると城下町の御仲所が存在せず、七北田だともう仙台の次の宿場町になってしまう。文書では確認できなくても、やはり仙台城下町の最北端・堤町に御仲所が存在していておかしくはない。

看板によれば平成13年(2001)夏まで建物が残っていたというから、比較的最近まで現存していたことになる。どこかに写真でも残っていそうなものだが、どこかで御覧になった方はいないだろうか?

ちなみに、一番初めに掲載した写真の看板は、その取り壊された御仲所の廃材を利用して建てられたものらしい。ちょいと粋なはからいである。

■参考資料
・『仙台市史 通史編4 近世2』2003年
・『仙台市史 通史編5 近世3』2004年
・『新版 仙台藩歴史用語辞典』仙台郷土研究会編、2015年
・『江戸時代の仙台を歩く - 仙台地図さんぽ』時の風編集部、2016年
・レファレンス協同データベース 登録番号1000075893


2017年4月13日木曜日

白石城(根白石) -政宗の祖母が眠るもう一つの白石城- 【史料集付】

しろいしじょう
白石城
白石城。城跡にある宇佐八幡神社の鳥居。
城郭構造
平山城
比高
約5m (ふもとの標高:約80m、本丸約75m)
残存遺構
土塁
築城
築城年
不明(室町時代以降か)
城主
白石氏
白石三河(伊達家傘下 国分家中の人物)
裁松院(伊達政宗の祖母)の居館としても利用
廃城
廃城年
不明(戦国時代末期か)
位置
住所
宮城県 仙台市 泉区 根白石 館下
現状
宇佐八幡神社、三十三観音堂
宮城県、旧仙台藩領で白石城といえば、普通刈田郡 白石市の白石城を思い浮かべるだろう。有名な片倉小十郎の城である。しかし、仙台市内にももうひとつの「白石城」があることをご存じだろうか? こちらも、伊達家とゆかりの深い古城である。

■ 白石城の歴史

まずこの白石城についてだが、地名としては仙台市 泉区の北西・根白石ねのしろいしにある白石城を指している。もともとは白石という地名だったのが、やはり藩政時代に刈田郡の白石と紛らわしいということで、泉ヶ岳のふもとという意味で「根」の字をあてて根白石という地名となった様だ。

■ 謎多き白石氏

白石城の築城時期については特に伝えるものが残っていない。しかし、この一帯は中世以降国分氏の勢力圏であり、その配下、白石氏の居城であると伝わっている(刈田郡 白石宗実の白石氏とは別系統)

城主としては白石参河の名が伝わっているが、この人物の素性がはっきりしない。

『伊達世臣家譜』によれば参河を名乗ったのは家祖・白石宗頼と2代目・宗明、4代・政安である。2代目・宗明は宗頼に子がなかったため国分能登守の弟が養子に入った人物。4代・政安はその子で、相馬との戦い(於・駒ヶ嶺)で戦死したという。

一方『宮城郡誌』では白石参河について「黒川安藝守晴氏の弟」としている。後述するが、この城跡には黒川晴氏の孫にあたる黒川季氏の墓もあるため、白石氏と黒川氏の間になんらかの縁戚関係があったのは間違いないようだ。

国分氏はこの地域を領する大名だし、黒川氏も北に隣する大名なので、白石氏がこの両家から養子をもらうことは十分にありえる。総合すると、参河の受領名を名乗った白石氏は複数存在するらしく、それが混同されたうえで「白石参河」の名が城主名として伝わっているようだ。

なお、現在白石城について書かれた最新の出版物であると思われる『仙台市史 特別編9 地域誌』では白石三河を2代目・白石宗明のことであるとしており、城跡の標柱では初代・宗頼のことであるとする。が、どちらも「白石三河」であることは確かだ。

■ 奥州一の美女の墓

もうひとつ、この白石城について特筆されるべきなのは、伊達政宗の祖母である裁松院が晩年を過ごした場所であるということだ。裁松院は久保姫(窪姫、笑窪姫)の名で知られる人物で、岩城重隆の娘である。当時、奥州一の美女とされ、当初、結城家への輿入れが決まっていたのを、政宗の祖父である伊達晴宗が強奪し、文字通りの略奪婚となった事件が有名である。

裁松院の墓
晴宗の死後は杉目城で過ごし杉目御前と呼ばれたが、天正19年(1591)の岩出山移封で杉目城が蒲生領となると、この白石城へ移って余生を過ごした。3年後の文禄3年(1594)に没するが、そのとき遺言で居館跡に宝積寺ほうしゃくじを建立したというから、このとき白石城は軍事施設としての役割を終えたのかもしれない。

墓は昔、五輪塔だったというが荒廃したため、享保17年(1732)に五代藩主の伊達吉村が新しく建て直したという。今も残るその墓が、左の写真である。

いずれにせよ、江戸時代には伊達四十八舘にもカウントされていないので、戦国時代末期から江戸時代初期のうちに廃城となり、寺として生まれ変わった様だ。なお、現在はその宝積寺も残ってはおらず、城の周辺に「宝積寺前」という地名が残っているのみである。

■ 白石城の構造

白石城の規模については『仙台領古城書上』に「東西 六十六間(120m)、南北三十間(54m)」、『宮城郡誌』には横「三十間(54m) 長五十間(90m)」とあるが、南北に図っても100m以上はあり、ほぼ方形のコンパクトな構造である。


おそらく、真東に流れる冠川と300m南方を流れる七北田川を天然の堀に見立てた築城と思われる。


南から見ると主郭部だけが比高約5mほどせり上がり、その傾斜はかなり急で、典型的な平山城といった感がある。


現在は宇佐八幡神社および裁松院の墓碑までの参道が階段として整備され直線で登れるが、本来の登城道としてはくの字型になっている車用の登坂道がそれに相当したと思われる。



北部は防風林に埋もれてわかりにくいが、1.5m程の土塁がせり上がり、そのまま比高3m程の空堀となって落ち込んでいる。


主郭部はきれいに平坦化されている。

宇佐八幡神社


裁松院の墓碑の隣に位置する三十三観音堂。天保4年(1833)に村人たちが裁松院の冥福を祈って安置したものだという。


黒川氏十一世季氏の墓」および「伊達裁松院殿臣白石三河宗頼之墓」の標柱が並ぶ。

黒川季氏は黒川晴氏の孫にあたる。黒川氏は大崎合戦で伊達政宗に背いたことで大名としては事実上滅亡したが、晴氏の養子・義康は伊達の家臣となって1000石を領した。寛永3年(1626)に義康が没すると知行は没収され、甥にあたる季氏は縁戚関係にあるこの地に隠棲して没したという。

一方の白石三河の墓だが、こちらの標柱では白石三河=初代宗頼であるとしている。かつ「伊達裁松院の臣」であるとしているので、裁松院がこの地に移ってから彼女に仕えたことを示唆しているのだが、彼女が根白石に住んだのが1591~94年であることを考えると、やはりこの時期の白石三河は宗頼ではなく2代目・宗明の方が妥当に思える。

上記の2件を総合すると、白石氏は少なくとも江戸時代初期まではこの根白石の地を領有していた様だ。


北東方面から。きれいに田園に浮かぶ島の様になっている。

■白石城に関する史料集
■『仙台領古城書上』

一 白石城 東西 六十六間
一 白石城 南北 三十間
一 白石城 城主白石三河。曾孫白津勘之助。末孫白津安太夫。今ハ寶積寺寶積寺内
仙台藩内にかつて存在した中世の城館について作成された記録。江戸幕府に提出されたもので、成立時期は延宝年間(1673~1681年)のことと言われている。出典は『仙台叢書』第4巻(大正12年(1923))所収の「仙台古城記」に拠った。

■『封内名跡志』
根の白石村寺あり。琥珀山寶積寺といふ。天正十九年。裁松院殿信夫郡杉目より此に移住し。後文禄三年甲午六月九日。遺言して居館を寺となさしむ。琥珀山寶積寺と稱す。信夫郡琥珀山寶積寺前住。能山和尚をして開山たらしむ。遺骸此に葬る墳墓今猶あり。郷人清水澤といふ。此地往昔白石参河守居館あり。是を白石の城といふ。
仙台藩の役人である佐藤信要が作成した地誌。寛保元年(1741)に完成。第七巻 宮城郡。詳しくはこちらを参照。出典は『仙台叢書 第八巻』(昭和47年(1972)、宝文堂)に拠った。

■『封内風土記』
古壘凡ニ。其一。號白石城。傳云白石参河諱不レ知。所居也。今爲八幡社地。及寶積寺地。名跡志曰。天正十九年。裁松院殿當家十五世晴宗君夫人。磐城左京太夫平重隆朝臣女。信夫郡杉住于此。文祿三年甲午六月九日卒。遺言令居舘爲一レ寺。號琥珀山實積寺。以信夫郡杉目琥珀山寶積寺前住能山和尚開山。葬遺骸于此。墳墓今猶在焉。土人曰之清水澤
仙台藩の儒学者・田村希文が安永元年(1772)に完成させた地誌。宮城郡 根白石邑の項目。詳しくはこちらを参照。出典は『仙台叢書 封内風土記』の国会図書館デジタルコレクション版に拠った。

■『伊達世臣家譜』
白津初稱白石、姓藤原、未出自、以白石参河宗頼祖、食釆于宮城郡根白石邑、因氏焉、宗頼不幸無子、養国分能登守某弟以爲嗣、稱参河宗明、宗明子縫殿助頼重、永禄中戦死於南宮宮城郡之役、時年二十三、頼重亦無子、以弟爲嗣、稱参河政安、貞山公時戦死於駒峰宇多郡之役...
伊達家に仕える藩士の家臣録で、寛政4年(1792)頃に成立したもの。巻之九、召出二番座 第9席、白津氏の項。白石氏は後に白津氏に改姓している。記録はまだ続くが、参河の受領名をもつ当主について抜き出した。出典は『仙台叢書 伊達世臣家譜 第一巻』(昭和50年(1975)、宝文堂)に拠った。

■『貞山公治家記録』巻之十九
〇六月辛未小九日丙辰。 御祖母 磐城氏平久保姫 裁松院月盛妙秋禪尼、奥州宮城郡國分根白石館ニ於テ卒シ給フ。奥州磐城先主 磐城右京大夫殿重隆ノ女ナリ。天正五年 晴宗君卒シ給フ。以後モ信夫郡杉目城ニ御座シ、天正十九年 公岩出山へ移リ給フ時、始テ根白石館ニ移住シ給フ。今度御臨終ニ及ンテ、其御座ス所ノ屋宇ヲ以テ寺トシ、曹洞宗月窓派 信夫郡杉目琥珀山寶積寺前住能山和尚諱正藝ヲ開山トシ、住持セシメ、御遺骸ヲモ此所ニ葬リ奉ラレ、御居館ヲ寺トシテ、琥珀山寶積禪寺ト號シ、能山和尚ヲ開山ノ祖トシ、住セシム。且ツ小分ノ地ヲ寄附シ給フ。蓋シ杉目寶積寺ハ 晴宗君ヲ送葬シ奉ラレシ寺ナリ。故ニ此御遺言ニ及ハルト云云。此後別ニ裁松禪院ヲ仙臺城下八塚ノ地二御創營、 裁松院殿ノ御位牌ヲ安置シ給ヒ、寺領ヲ寄附セラレ、曹洞宗大源派松音寺第五世臺屋和尚諱恕三ヲ請シテ開山ノ祖トシ給フ。
 裁松院殿壽算未考。〇裁松院御創營ノ月不知。

伊達家の公式記録である『伊達治家記録』より、根白石城に住んだ久保姫が死去した日の記事。彼女の出自とその菩提寺の縁起について述べられている。出典は『仙台藩史料大成 伊達治家記録 二』(昭和48年(1973)、宝文堂)に拠った。

■『宮城郡誌』
【白石城址】黒川安藝守晴氏の弟、白石参河守の居城。横三十間長五十間、周圍に幅二間深さ丈餘の溝址あり、今は畑地となる。根白石村々社白幡山八幡神社の傍らに在り。
白石三河を黒川晴氏の弟とする唯一の資料。昭和47年出版。

■上記以外の参考資料
・沼舘愛三『伊達諸城の研究』1981年、伊吉書院
・紫桃正隆『みやぎの戦国時代 合戦と群雄』1993年、宝文堂
『仙台市史 特別編7 城館』2006年
『仙台市史 特別編9 地域誌』2014年