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2016年3月5日土曜日

「政宗の野望」なんてなかった? -書評 『伊達氏と戦国騒乱 東北の中世史4』-その2

前回に引き続き、「東北の中世史」シリーズ第4巻、『伊達氏と戦国騒乱』について紹介。戦国時代の定説に一石を投じる、魅力的な最新学説が満載。



前回は、政宗の曽祖父にあたる伊達稙宗の行動原理を紹介したうえで、「彼の時代から素直な領土欲求に従っていれば、続く政宗の奥州統一戦争ももっと楽だったかもしれないのに...」といった内容で結んだ。今回紹介する内容は、そもそも政宗に奥州の統一、あるいは関東までの進軍なんていう大それた野望が本当にあったのだろうか? という、問いある。

野望にあふれた政宗のイメージ像を覆しかねない、とても刺激的な問題提起ではないだろうか。引き続き、執筆者は「第1章 伊達氏、戦国大名へ」を担当する仙台市博物館の菅野正道先生。

たとえば政宗は、天正十四年半ばに二本松領を併呑すると、その後の約一年間はほとんど軍事行動を起こしていない。天正十六年から翌年前半にかけて南奥で繰り広げられた政宗の軍事行動は、主体的なものというより、南奥諸氏の反政宗的行動に対応する中での動きが中心であった。天正十六年初頭の大崎攻めも、南進の意図があるとすれば、全くの反対方向での軍事行動であった。潜在的な意識はともかく、実際の政宗の戦略には、関東方面の進出という目標は設定されていなかったのではないだろうか。(下線部、強調はブログ筆者)

ここで菅野先生が政宗の野望に対して疑問を呈している3つの根拠について、それぞれ検証してみよう。

01.天正15年(1587年)の謎

「信長の野望・創造」より 伊達政宗
見よ! この野望にまみれた顔をっ!!
上記引用の下線部「天正十四年半ばに二本松領を併呑すると、その後の約一年間はほとんど軍事行動を起こしていない」という部分である。

これは自分も以前から疑問に思っていたところで、政宗は天正13年(1585年)に人取橋の戦いで仙道諸大名+佐竹連合軍を退けたのち、翌1586年に二本松城を攻略するのだが、それから1588年に至るまでの南進行動は、全くなかったのだ。

特に天正15年(1587年)における政宗の行動はゆったりとしたもので、特筆される出来事としては鮎貝城の戦いと国分騒動くらいだろう。前者は鮎貝城主の鮎貝盛次が最上義光の勧誘をうけて謀反を起こし、それを鎮圧したというもの。後者は政宗の叔父であり、国分家に養子として出された盛重が家中の反発をおさえられず、その対応に追われた、という件。02.03とも関係してくるが、どちらも政宗が積極的に起こした事件ではなく、受け身であり、またどちらの事件も伊達領北部における出来事だ。

1587年に南進行動がなかった理由としては、人取り橋の戦いで打撃を受けた家中の回復をはかるため、とか、新たに併合した塩の松、二本松地域の安定化を図るため、とかいろいろ説明はつきそうな気はするものの、とにかく南奥州の統一までに時間がないことを焦っていた、とする山岡荘八の小説や大河ドラマの政宗イメージからすると、どうものんびりしている印象が否めない。


02.南進とは逆方面における軍事行動

上記引用部分の「天正十六年初頭の大崎攻めも、南進の意図があるとすれば、全くの反対方向での軍事行動であった」という部分。引用とは順番が逆転するが、こちらから先に書く。本当に関東までの南進が目標ならば、なぜ逆方向に攻め入ったのか、という指摘である。

これについてはいろいろ説明はつきそうな気がする。政宗が大崎合戦を始めた1588年以前から大崎氏内部は分裂状況にあり、政宗に支援を求める勢力の誘いをほったらかしにするわけにもいかなかったであろうし、北部に接する大崎氏を征服できるまたとないチャンスではあったのだから、獲れるもんは獲っておけ、ということだろう。

また、南進の前に北部を安定させるため、という理由づけもできる。こういった例は、本命のフランスを攻める前に東欧に攻め入ったヒットラーや、北伐を開始する前に南部を平定した諸葛亮孔明など、枚挙にいとまがない。

とはいえ、この政宗の大崎攻めは思ったよりもうまくいかずに泥沼化してしまい、北部に釘付けになってしまったことで続く03の南部情勢も受け身の体制に陥ってしまうのではあるが。結果論として北部方面における軍事行動が南部の反政宗勢力を活発化させてしまったという点で、本当に南進の意図があったのかという菅野先生の指摘は正しい様にも思える。


03.受動的な南奥州情勢

上記引用の下線部天正十六年から翌年前半にかけて南奥で繰り広げられた政宗の軍事行動は、主体的なものというより、南奥諸氏の反政宗的行動に対応する中での動きが中心であった。」という部分。

「天正十六年から翌年前半にかけて南奥で繰り広げられた政宗の軍事行動」とは、大崎合戦で苦戦した政宗の隙をついて反政宗連合が軍事行動を起こした郡山合戦、同盟国田村氏が跡継ぎ問題を巡って伊達派と相馬派にわかれて争った田村騒動、蘆名氏を滅ぼした摺上原の戦いまでの一連の出来事をさしている。

この時期の政宗の行動が主体的なものというより、南奥諸氏の反政宗的行動に対応する中での動きが中心であったのは、最後の摺上原の戦いを除いてはその通りである。むしろこの時期の政宗は四方を敵に囲まれて、一歩間違えれば伊達家の存続すら危うい状況にあった。先手をとって侵攻する、といった状況ではなく、ほぼ受け身の対応である。

これについては、結果論ではないだろうか? とも思える。本当は政宗自身がイニシアティブをとって南進を開始したかったが、大崎攻めの失敗により思ったよりも早く南部が不安定化してしまった。

この四面楚歌の状況を少しづつ盛り返し、最後の最後で蘆名氏を滅ぼしてしまうのが政宗のすごいところであり、この時期のダイナミズムでもある。政宗が受け身の状況に追い込まれてしまったのは事実なのだが、1589年の段階における相馬攻めや蘆名滅亡においては立場が逆転し、政宗のペースで事を進んでいるのも事実なのだ。

■学会では政宗の野望に対して否定的?

さて、この『伊達氏と戦国騒乱』では、菅野先生だけではなく、編著者の遠藤ゆり子先生もコラム「伊達政宗の野望?」の中で政宗の野望に対して文字通りクエスチョンマークを投げている。

政宗は南奥州を統一し、関東まで進出することが夢だったとされる理由づけとなるのが、
  • 大内定綱の小手森城を陥とした後に「この上は須賀川まで打って出て、関東中も容易である」と最上義光に向けて書いた書状(「佐藤右衛門氏所蔵文書」)
  • 蘆名を滅ぼした後のこととして「関東へ進出し、天下に旗を揚げよう」としていたが「思いがけず太閤秀吉公が関東へ進軍したと聞いた。無常にも戦が終わり、実に残念であった」と晩年に政宗が回想したもの(「伊達政宗言行録」)
である。遠藤先生は
前者は十九歳の政宗が最前線へ赴き、予想外の大勝利を得て高揚しつつ、叔父最上義光へ認めた書状に見える文言であり、後者はあくまでも晩年の追想として伝わるものだ。

と指摘したうえで
実際には、政宗は会津黒川城入城後も、南会津や南奥の二階堂氏、石川氏、浅川氏などとの戦いで天正十七年末まで忙しかった。翌年正月(略)には秀吉と北条氏の対立が深刻であると認識していた。政宗が、関東進出や天下取りの野望を抱き、春を待ちわびながら準備に勤しんだ様子を伺うことは難しいといえる。

という。確かに、史料にそった歴史学的アプローチをとるならば、政宗の野望を証明するには根拠が薄いのかもしれない。


■家中統制のための野望掲示説

菅野先生、遠藤先生の指摘をうけたうえで自分は、「関東侵攻、天下取りを目指す政宗の野望は少なくとも表面上はあった。同時に政宗自身はそれが困難であることも認識していた」という立場をとりたい。

理由は、政宗の本心がどうであれ、伊達家の頭領として政宗は部下たちの前で壮大な構想・目標を掲げることでその求心力やモチベーションを高める必要があった、という人間心理に根差したものだ。

南奥州の統一、関東への侵攻という目標に家臣が共鳴したからこそ、伊達成実や白石宗実といった家臣は先祖代々の土地を離れて最前線への転封を受け入れたのだと思うし、次々に領土を広げ、新しい家臣が増える中でもより大きな構想を掲げることは、家中の統一を図るためにも必要だっただろう。先に「野望は少なくとも表面上はあった」と書いたのはそういう意味だ。

小田原参陣を経て秀吉政権の一員となった時代の伊達家臣に離反が相次いだのも、その証明にならないだろうか。「殿は天下取りの夢をあきらめ、秀吉の傘下でいることに甘えてしまった...」という。

今となっては政宗の本心など確かめようがないが、少なくとも大きな野望を掲げざるを得ない政治力学は存在した思う。同時に、その実現が難しいことも政宗は知っていたと思うのだ。

とはいえ、政宗の本心がどこにあったかという問題は、あまり重要ではないのかもしれない(政宗を主人公にした小説でも書くのであれば話は別だが)。遠藤ゆり子先生は、

「天下に旗を揚げよう」という言葉が、どれほどの現実味をもって語られたのかは定かではない。だが少なくとも、天正末期に政宗が秀吉との関係を悪化させてでも戦争を展開し、領国を広げていった理由は、彼の野望とは別に、当時の奥羽社会の状況を見ていくことで明らかになる問題ではないだろうか。

とコラムを締めくくっている。これは菅野先生の指摘03にも通じることなのだが、天正末期の南奥州情勢を考えるうえでは、政宗の野望がどうであったかよりも、政宗以外の奥州の大名たちがどう動いたか、という要因のほうが大切なのも確かである。これに関しては、自分も賛成である。

2016年3月3日木曜日

伊達稙宗の行動原理 -書評 『伊達氏と戦国騒乱 東北の中世史4』- その1

お久しぶりです。というか、あけましておめでとうございます(笑)。

去年もそうだったのだが、どうしても冬はモチベーションが下がってしまう。寒さ&路面の凍結で、移動手段が原付の自分としてはどこにも行く気がしなくなってしまうのだ...。どこにも行けないとはいえ、歴史の研究なんて部屋の中でできることはいくらでもあるわけで、そっちも活動が鈍ってしまうのはザ・怠惰が原因。言い訳無用。

そろそろ少しずつ暖かくなりだしてきたので、3月末くらいからまた活動を再開するのではないかと思っていたところ、その3月末にどうやら信長の野望の新作が出てしまう! ...ということで、もう少し冬ごもりが続くかもしれないのだけど...。

さて、「東北の中世史」なる面白いシリーズが吉川弘文館より出ている。「古代史」シリーズ5巻の刊行が終わったのち、「中世史」が4巻目にしてついに戦国時代まで到達したので読んでみたのだけど、これがなかなか、最新の学説を含んだ面白いものだったので、紹介してみようかと思う。



この書評を書こうとしているまさにその日、第5巻にしてシリーズ完結編にあたる『東北近世の胎動』も書店に並んでいるのを見たので、面白かったらそちらも紹介するかも。これ、「中世史」シリーズの次は「東北の近世史」シリーズもでるのだろうか...?

東北の中世史シリーズ第4巻にあたる『伊達氏と戦国騒乱』では、東北の戦国時代について、出羽国に相当する山形・秋田や陸奥国北部、青森・岩手県の戦国時代についても網羅しており、これ1冊で東北の戦国史はだいたいわかるうえに、第一線の研究者たちによる執筆なので読み応えがある。

とはいえ、南奥州以外の研究状況については何が新しい指摘で、なにが従来通りなのかよくわからないので割愛。今回は第1章の「伊達氏、戦国大名へ」の部分で面白いなと思ったところだけを紹介する。ちなみに、この章を執筆しているのは仙台博物館の菅野正道先生。

■ なぜか増えない伊達家の領土

以前から疑問に思っていたのだが、戦国時代における伊達氏の領土は、増えない。いや、もちろん政宗の時代には南奥州(ほぼ)制覇を成し遂げるわけで、領土は大幅に増えているのだが、それ以前の稙宗・晴宗・輝宗の時代には度重なる戦の割に、領土が増えていないのだ。

もっとも、時代により最上氏・大崎氏や、仙道の諸大名を従属下においていたりはするのだが、それも伊達氏の領土として編入するのではなく、あくまで諸大名の当該地域支配を認めたうえで、それを勢力下においているに過ぎない。直接の支配地と従属地域は違う。

特に不自然なのが伊達稙宗で、この人は政宗以前の伊達家当主としては、確実に全盛期を築いた人のはずだ。各地の戦に介入したり、自分の息子・娘を周辺大名に養子に入れ、嫁に出し、縁戚ネットワークを構築し、陸奥国守護の地位まで手に入れたのに、その実績と権威の上昇に、領土の拡張が伴っていないのだ。

このあたり、戦国伊達ファンとしてはとてもはがゆいところで、政宗の先代からもう少し領土の拡張に成功していれば、政宗の躍進がもっと楽だったろうに...との思いを禁じ得ない。信長の野望なんかやってるとそれが露骨にでてくるのだが、政宗以前の伊達氏は、まわりに同盟国やら従属国ばかりで、攻め込めないのがむしろ不自由ですらある。

信長の野望・創造PK 1534年スタートのシナリオ。当主・伊達稙宗。伊達家は周囲に大崎(従属)、最上(従属)、蘆名(同盟)、二階堂(同盟)、田村(同盟)、相馬(同盟)の諸大名を抱えている。これがすべて伊達の領地だったならば...


本書の中で、この点を菅野先生も指摘されている。

もう一つの稙宗の外征で特徴的なこととして、稙宗が度重なる軍事行動を起こし、相応の勝利を得ながらも、この外征による伊達氏の領土拡大がほとんどなかった点を指摘できる。 

伊達稙宗の外征は領土拡大や周辺の領主に従属を強いることを第一義としたものではないことが想定される。外征を契機に、稙宗の攻撃を受けた領主が伊達氏と縁組を行う例がいくつか見られる。
(略)
これらの縁組は、伊達氏の勢力拡大を目的とした政略的な縁組であると認識されがちである。しかし、稙宗の外征が勝利を得た場合でも領国拡大につながらなかったことや、稙宗の子女が縁づいた家が後に伊達氏と対立関係に入ることが少なくないことを考えると、この縁組を単純に勢力拡大を目的とした政略的な縁組とする解釈には疑問を感じざるを得ない。

これは、国取り合戦に明け暮れるという、一般的な戦国大名のロジック、イメージからは大きくかけ離れていると言えるだろう。領土拡大や周辺国の従属化に興味がない戦国大名なんていたのだろうか? かといって稙宗は局外中立の平和主義者でもなく、戦そのものは何度も行っているのだ。なのに、領土は増えない。いや、増やさない。

となればどこかに、伊達稙宗が目指していた目標なり、彼なりの行動原理があるわけで、その答えを菅野先生は「陸奥国守護」という彼の公的なポジション・ステータスに求めておられる。

こうした行動を、稙宗の領土拡張を目的としてた外征・外交と評価するのは難しく、彼が補任された陸奥国守護職に由来する公権を発動させ、南奥羽の秩序を保とうとした行為のようにも考えられる。その意味で、稙宗はかつての奥州探題大崎氏の立場を継承し、南奥羽の諸領主よりも一ステージ高い場所に自らを置こうとしたと考えられないだろうか。

稙宗は自分を一般的な戦国大名よりも上の存在として、南奥羽全域の秩序の守護者であると捉えていた。スポーツにたとえるならば、稙宗はいちプレーヤーではなく、レフェリー(審判)になろうとした、と考えればわかりやすいだろうか。

■ 稙宗レフェリー説

伊達稙宗。政宗のひい爺さまにあたる。
プレーヤーが自らの得点の最大化を目標とするのに対し、審判の行動原理はゲーム内における秩序の安定(ルールに沿ったゲームの安定した続行)と、プレーヤーに対する強制力の維持である。ルールに違反したプレーヤーに対し、審判は赤や黄色のカードを用いることで警告し、罰する。この場合のルールとは、稙宗の望む南奥羽の秩序体制であり、カードに相当するのが外征という手段だったのだろう。

とはいえ、実情としては審判兼プレーヤー、あるいは審判を目指しているプレーヤーといったところだったろうか。稙宗の鶴の一声ですべての大名がそれに従ったわけでもなく、だからこそ稙宗は外征というイエローカードを連発して、自分こそが審判であるというアピールを常にする必要があったし、婚姻政策により自身の影響力の強化もしなければならなかった。陸奥国守護職よりも一段高い地位とされた、奥州探題のステータスを欲したのもその一環であろう。

この菅野先生の推論を、稙宗レフェリー説、とでも名付けようか。このレフェリー説なのだが、自分にはかなりストンと納得できた。というのも、稙宗の行動原理が一般的な大名よりも一段上にあったのだとしたら、そののちに起きた天文の乱の構造も、スムーズに理解できるのだ。

手元に当該資料が見つからないので正確な引用ができないのが申し訳ないのだが、小林清治先生(だったと思う)が天文の乱の本質的な原因について

陸奥国守護としての南奥羽の秩序を優先する稙宗の論理と、戦国大名として伊達家を優先する晴宗の論理の対立(出典不明、引用不正確)

と指摘されていたのをどこかで読んだ。乱の原因については、時宗丸(伊達実元)の上杉入嗣問題だとか、「塵芥集」制定による家中統制強化への反発だとか、いろいろ指摘はされている。しかし、より深層にある本質的な原因としては、この稙宗のレフェリー志向に対して晴宗、およびそれを支える伊達家臣団からの反発があったのだ。「オヤジ、レフェリー目指すのもいいけど、伊達家がプレーヤーとして弱っちまったら意味ねぇじゃねぇかよ」という。

というわけで、稙宗はその存在感の割になぜ彼の時代に領土が増えなかったのか、という疑問についてはほぼ自分の中で納得できたのだが、その稙宗の目指した野望の結末、つまり天文の乱による野望の瓦解と、続く伊達家の弱体化を知っている後世の伊達ファンとしては、このとき稙宗が素直な領土欲求に従って伊達家を巨大化させていたら...、という思いも禁じ得ない。

歴史にIf は禁物だが、稙宗が純粋な戦国プレーヤーとして領土の拡大に励んでいたなら、おそらくその意思をストレートに理解して継承したであろう晴宗との衝突(天文の乱)も起きなかったであろうし、その分伊達家の領土はかなり増えていたはずである。なれば、政宗の奥州統一戦争も、もっとスムーズにスタートしていた可能性もある。

伊達稙宗は、戦国時代というシステムの中でゼロサムゲームを繰り返すプレーヤーではなく、システムそのものの構築者になろうとした。いわば、南奥州にミニ幕府を打ち立てたかったのだろう。彼の野望は、時代を少しばかり先取りしすぎていたのかもしれない。

その2へ続く。