粟野家
粟野 国定
粟野家当主。1482年(文明14年)、伊達氏の傘下に属す。1505年(永正2年)、北目城を嫡男の国高に譲り、沖の館(沖野城のことか)に住んだ。
粟野 高国(~1528)
粟野家当主。国定の嫡男。享保元年(おそらく享禄元年、1528年の誤り)3月に伊達稙宗に従って小手森の合戦に参加し、討ち死。
粟野 長国(新三郎、遠江守、三河守、~1566)
粟野家当主。高国の嫡男。天文の乱においては稙宗党につき、晴宗党の留守景宗と対立。天文の乱のさなか、1544年(天文13年)閏11月26日伊達稙宗の書状では、粟野の所領から亘理に兵糧米が流通せず、亘理(同じく稙宗党)が難儀している様子が描かれている。天文年間(1532 - 1555年)の間に伊達の「大老臣」となったとされる。2人の娘は堀江長門、朴沢政時(共に国分家臣)へ嫁ぐ。
粟野 国勝(刑部、~1528)
高国の子、長国の弟。祖父・国定から隠居領である沖野館を譲り受ける。父・国高とともに小手森の合戦に参加し、討ち死に。
粟野 宗国(重国、大膳亮、~1623)
粟野家当主。父・長国の没後、宗国が幼かったために伊達からの「御仕置」を受ける。詳細は不明だが伊達による介入強化と家臣団の増強のことだと思われる。1587年、国分騒動に介入、1588年、大崎合戦に際して松森城警備、1589年、1590年仙道方面に出撃など、政宗配下の武将として転戦。1591年には大原へ移封となる。養子・重清、与五右衛門の他に実子・左右衛門がいた。
粟野 国治(助太郎、左衛門尉)
国勝の子、宗国の弟。沖野城主。1588年、兄・宗国とともに松森城の警備を担当。のちに兄とは境目論争で対立し、兄を是とした伊達政宗の裁定により逃亡を余儀なくされる。
伊達家臣を郡ごとに書きあげた「在郷衆日記」には粟野左衛門尉の名が記されており、兄・宗国からは独立した伊達家臣であった可能性もある。
粟野 重清(重次、清蔵、~1659正月)
粟野家当主。粟野宗国の養子。実父は亘理重宗。大坂冬の陣の直後、1614年(慶長19年)に伊達秀宗について宇和島へいくことを命じられるが、これに従わずに改易となり、伊達郡で浪人する。政宗の没後忠宗の代に仙台藩への帰参を許され、実家の亘理氏(当時は涌谷伊達氏)を頼り、亘理肥後と称する。
粟野氏系図
家臣団 あ行
相原 越後守
永禄12年(1569年)7月20日に高野山に登り粟野大膳(長国のことか)の菩提を弔ったことから、粟野氏の一族、または重臣であった可能性がある。
相原 助左衛門(和泉、~1655年正月28日)
粟野大膳の一門で「名取七騎」のひとりに数えられた。
相原 友久(~1664)
助左衛門の子。粟野宗国の没後も名取郡に残って政宗に仕え、後にその命によって政宗の三男・宗清に仕え黒川郡にうつる。宗清が没したのちは政宗の末子・宗勝に仕え、300石でその家老職をつとめ、一関に住んだ。
相原 善兵衛
助左衛門の子、友久の弟。兄と同じく伊達宗勝に仕え、一関で知行100石を得た。曾孫に医者であり『平泉実記』『平泉雑記』などの著作がある相原友直がいる。
赤井沢 掃部丞
粟野宗国の家老職をつとめたが、粟野家が没落したときに録を失う。
赤井沢 掃部
掃部丞の子。同じく粟野宗国の家老職をととめたが、主家没落とともに録を失う。
石沢 藤十郎
「高野山観音院過去帳」によると、天正19年(1591年)3月に「奥州名取郷北目 石沢藤十郎」が父母の菩提を弔った記録がある。この時点で北目城はまだ粟野氏の居城であることから、藤十郎も粟野氏の家臣、あるいは与力だった可能性がある。
石橋 八郎左衛門
仙台市太白区根岸の宗禅寺に残る粟野宗国の供養碑の背面に「奉造立 石橋八郎左衛門」とあることから、おそらく粟野旧臣の代表的人物であったと推察され、粟野氏現役時代も石橋氏なる有力家臣がいたものと思われる。
板橋 定近(丹後、1658年11月27日)
父・板橋隼人の武功を聞き及んだ政宗により家臣として召し抱えられたという。
入生田 成定
山岸成宗の3男。この代から入生田を名乗る。合戦で負傷して以降出仕できず、子も幼かったので所領の富沢は屋代景頼に与えられた。
入生田 元康(~1636年6月)
成定の子。武功をあげ、1592年(天正20年、文禄元年)に旧領である富沢を返還される。伊達政宗死去に際し殉死。
か行
柿沼 五郎兵衛
前沢館主。場所は粟野亮南方にあたるが、1588年(天正16年)に留守政景から直接安堵状をもらっており、留守家配下であった可能性が高い。その場合、前沢館は留守領の飛び地となる。
さ行
菅井 景国(内膳)
伊達稙宗に仕える。天文元年(1532年)12月、四郎丸にいた名取四朗某を討ち、その武功により翌1533年1月に「四十二町四郎丸」を賜り、そこに居住した。
菅井 常国(藤右衛門、大炊祐)
景国の子孫。『伊達世臣家譜』では名取四朗を討ったのは常国となっている。伊達氏より粟野氏の後見を命じられたという。
菅井 直国(内記)
景国の子孫。四郎丸領を相続。伊達氏より粟野氏の後見を命じられた。
菅井 実国(藤兵衛、和泉)
直国の子。常国とともに伊達氏より粟野氏の後見を命じられた。
菅井 泰国(和泉)
景国の子孫。四郎丸領を相続。
た行
富沢 伊賀守
富沢館主との言い伝えがある。伊達との合戦で和賀川の深みにはまって戦死。その場所は伊賀淵と呼ばれている。
山岸 成宗(三河守)
出羽国長井郡入生田の将。粟野領が伊達支配下になったのち、富沢館に居住する。
は行
本郷 善四郎
粟野宗国に仕えたという。大番士・本郷氏の祖。
本郷 定実
善四郎の子。伊達政宗の小姓として召し抱えられた。知行177石・大番士として仙台藩に仕える。
■ 参考資料
- 仙台市史編さん委員会 『仙台市史 特別編7 城館』
- 菅野正道「名取郡北目城主粟野氏の盛衰(上)(中)(下)」 仙台郷土研究会『仙台郷土研究』(各通巻255号、258号、259号所収)
0 件のコメント:
コメントを投稿