2014年6月15日日曜日

大窪城 -対大崎最前線-

涌谷城を目指していた途中、たち寄った道の駅おおさとの案内板にて「大窪城址公園」なる表示を発見。完全にノーマークだったのだが、よりみちしてみる。

ちなみにGoogle Mapでは「大窪城址公園」と検索してもでてこない。実際には宮城県道40号と16号の交差点、および16号沿いの城址公園入口に案内板がたっていたので、迷わずに到着。



というわけで、事前情報は全くなしの状態で立ち寄ったのだが、案内板の記述によると、宮沢時実が伊達尚宗の時代(※1)に大崎・葛西に対する北の守りとして築城したとのこと。

ということは、このあたりが伊達の勢力圏と大崎・葛西勢との境界、あるいは伊達勢力圏の北限、ということになるのだろう。
※1 ということは、1400年代後半から1500年代前半。尚宗は、伊達宗家第13代当主。政宗の祖父の祖父。
初代、宮沢時実から2代目・裕実、3代・実家、4代・景実を経て、5代目宮沢元実の時代が、伊達政宗の時代とクロスオーバーする。

記念碑には「相馬及び大崎の軍に従いて」と書いてあって、この宮沢元実が相馬・大崎に従って伊達勢と戦ったのか、それとも大崎・相馬の政宗軍に従軍したのか、わかりにくい日本語になっているのだが、文脈から判断するに後者だろう(後で調べたらその通りでした)。

元実は常に先鋒をつとめ、朝鮮の役にも参加して功績があったらしい。ながく大松沢の地を治めたことから、政宗に大松沢に改名するように命じられ、以後大松沢氏は仙台藩の家格において「一族」に列せられる。地図で確認してみると、確かにこのあたりの住所は大松沢である。

こちらは公園入口をぬけてすぐの二の丸に相当する広場。なかなかの広さ。記念碑、城址略図もこの広場内にあり。













城址略図にも「現在の登り口」という表記は地図の公園入口と対応するのだがわざわざ「当時の」と書いてあるあたり、現在の入口と城の虎口は別物なのだろうか? 写真右の「空堀跡」の写真が入口付近の様子なのだが、そこだけ空堀にかかる土橋になっている。やはりここが城門正面か。


二の丸広場の写真中心部に見える階段を上ると、本丸へ。













本丸の様子。当時のものかどうかはわからないが、井戸が。

やたらとハスの葉っぱが生い茂っていただが、標高80m以上の本丸で湿地ということはさすがにないだろうか…!? 訪問したのは、ちょうど梅雨時の約1週間にわたる長雨のあと、久々の晴れ空の日。たまたまそういう時期だったのかな。


城からの眺め。付近の地理には不案内だったため、後で参考にした『大郷町史』から引用。
本丸に立って周囲を眺めると、南方には鶴田川ぞいの水田地帯から遥かに旧品井沼の美田地帯を一望のもとにおさめ、さらに対岸の大谷地区の羽生・山崎・不来内などの各所を遠望することができる。まさに長世保の南西部を固め、大谷保や黒川耕土方面を監視するのにふさわしい場所であることがわかる。
『大郷町史』を読んでみると、このあたりはまさに伊達(およびその配下の留守氏)・大崎・葛西の勢力圏のはざまに位置するようで、戦国-江戸の時代を境に記録からみえなくなった家名も多いのだとか。

というわけで、この現・大郷町ちかくの戦国サバイバルはなかなかにハードだったわけで、戦のたび、あっちについたりこっちについたり裏切ったり、それなりに忙しかったようだ。

そのなかでこの大窪城を残し、伊達の臣下として明治以降まで家を残した宮沢、改姓して大松沢元実という男は、なかなかしたたかな武将だったのか。それとも、たまたま運が良かっただけなのか。




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