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2019年5月21日火曜日

【資料集】中目重定

戦国時代末期に大崎家に仕えつつも、のちに伊達の被官となった中目兵庫重定に関する史料・資料の抜き出し。各資料を編年の順で抜き出した。

01.居館・兵庫館および伊場野古城
01-1.『仙台領古城書上』
   下伊場野村

一 下伊場野城 東西 三十三間
一 下伊場野城 南北 十三間
一 下伊場野城 
城主 中目大學。

一 古城    東西 十七間
一 古城    南北 廿五間
一 古城    
城主 中目兵庫頭。
仙台藩内にかつて存在した中世の城館について作成された記録。江戸幕府に提出されたもので、成立時期は延宝年間(1673~1681年)のことと言われている。出典は『仙台叢書』第4巻(大正12年(1923))所収の「仙台古城記」に拠った。

下伊場野村について、中目大学を城主とする下伊場野城、および中目兵庫を城主とする下伊場野古城にふれ、どちらも山城としている。また、中目城(兵庫館)については記載がない。現代の尺度に直すと、下伊場野城は東西60m、南北23.6m。古城は東西30.9m、南北45.4mの規模となる。

また、下記04-2.『貞山公治家記録』でも中目兵庫の居住地を下伊場野としている。


01-2.『封内風土記』巻之十六
下中目邑。(中略)古壘一。傳云。中目兵庫不傳。所居。(後略)
仙台藩の儒学者・田村希文が安永元年(1772)に完成させた地誌。中目城(兵庫館)について触れた部分。志田郡 下中目邑の項目。詳しくはこちらを参照。出典は『仙台叢書 封内風土記』の国会図書館デジタルコレクション版に拠った。


01-3.『風土記御用書出』志田郡 北方 下中目村(敷玉村)の部
一 古館 壱ツ
 一 兵庫館 竪 四拾五間
 一 兵庫館 横 貳拾五間
 
一 兵庫館 御城主 中目兵庫様ニ御座候由申傳候共 右年月 相知不申候事
仙台藩の儒学者・田辺希元(希文の子)が『封内風土記』を補うべく編纂した地誌。安永2年(1773)から同9年(1780)にかけて、各村の肝入から提出させた調査書がベースとなっている。詳しくはこちら。兵庫館については『封内風土記』と比べて規模の情報が加筆されている。現在の尺度に直すと、縦(南北)81.8m、横(東西)45.4mとなる。


02.活動の初見
02-1.弘治3年ヵ正月晦日「黒川氏宛 大崎義直黒印状」

村岡宮城之錯□付而、従其方之助
成、太義存候、就其義、当方へ合力之
義承候、葛西六郎方憑由、被申候
間、彼義無拠候、併年来御懇切
候条、対其方無余義候間、少々扶
佐之義、可申付候、委曲中目兵庫助
可理申候条、令略候、恐々謹言、 
□□正月晦日 左京大夫義直(黒印「國」)
□□□□黒川下総守殿
□□□□同 修理大夫殿
  • 村岡宮城之錯~:宮城(留守氏)に対して家臣・村岡氏がおこした反乱のこと。
  • 葛西六郎:六郎は葛西氏の歴代当主の幼名。当時の当主は親信だろうか?
  • 左京大夫義直:大崎義直。第11代当主。
  • 黒川下総守・修理大夫:黒川景氏・稙国親子。

大崎義隆が黒川景氏・種国親子に宛てた書状。佐々木慶市『奥州探題大崎十二代史』および『仙台市史 資料編1』では弘治3年(1557)のものと比定している。留守氏に対する家臣・村岡氏の反乱に際して、その調停につとめる黒川親子への協力の約束、葛西からの協力はあてにならないこと、詳細は中目兵庫が伝えること等が書かれている。

出典は『仙台市史 資料編1 古代中世』文書番号324に拠った。『古川市史 第7巻 資料Ⅱ 古代・中世・近代1』文書番号341にも収録。中目家文書より。


03.天正大崎の乱

⇒ 【資料集】大崎合戦 を参照のこと


04.大崎合戦以後
04-1.『政宗君記録引証記』八
一 遠藤出羽ニ被下候と相見得候御書写、但シ前ノ氏家ニ被下候御書、自松山之書札と有之ニ付、此書出羽ニ被下候と相考申候 
氏弾其地二無相違打越、自其も途中無異義様ニ相送候哉、簡用迄候、於爰元中ゝゝ無心元候間、兼而自是も飛脚遣候キ、漸可打越候哉、仍中目家中、古河家風之者討候哉、因之、中目所より其元及内儀旨候欤、併世間見合無聊尓刷、千言万句候、其上何辺氏弾へ相談之上、彼口可及取刷、仙道口、最上弥々静謐候、可心安候、尤小成田惣右衛門登之刻、諸事可申越候、恐々謹言、
    三月七日 政宗御書判
     無御宛所 
右ハ二日町土屋彦右衛門所持、御記録江摘載之、
藩政時代に編集された伊達家の公式記録である『伊達治家記録』を編集する際に集めた史料・出典を集めた『引証記』から。他の書状との兼ね合いから、遠藤高康宛ての政宗書状だと推測している。出典は『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』文書番号389に拠った。語句解説は下記04-2.で併せて。


04-2.『貞山公治家記録』巻之八 天正17年(1589)3月7日の条
〇遠藤出羽高康へ御書ヲ賜フ。氏家弾正其地へ無相違打越シ、其許ヨリモ途中異義ナキ様ニ相送ラレタル哉、肝要ナリ、爰許ニ於テモ御心許ナク思サレ、兼日飛脚ヲ遣サル、漸可打越歟、然レハ中目家中ノ者、古川家風ノ者ヲ討タル哉、因テ中目所ヨリ其元ヘ内議ニ及フ旨アル、併ラ世間見合聊爾ナキ刷ヒ肝要ニ思召サル。何篇氏家ニ相談、彼口取刷ヒ然ルヘシ、仙道口、最上口、彌以テ静謐ナリ、心安カルヘシ、尤モ小成田惣右衛門登リノ節、諸事可申越旨著サル。中目・古川共ニ大崎家臣ナリ。中目兵庫ハ志田郡下伊場野ニ住シ、古川弾正ハ同郡古川ニ住ス。
  • 遠藤出羽高康:松山千石城主。対大崎最前線の城主であり、松山城は大崎合戦において伊達方の出撃基地となった。
  • 氏家弾正:岩手沢(のちの岩出山)城主・氏家吉継。大崎合戦の一方の当事者にして、昨2月上旬に政宗のいる米沢に参上している。
  • 古川家風ノ者:宝文堂版の平重道の解説によれば「家風の者」と「家中の者」との区別は不明で耳慣れない言葉ではあるが、「古川家に所属しているらしい者」という意味ではないかと、伝聞・推定のニュアンスを込めて推測している。
  • 聊爾:りょうじ。いいかげんであること。04-1.では「聊尓」と表記。
  • 刷ヒ:つくろい。
  • :いよいよ。
  • 小成田惣右衛門:のちの山岡重長。柴田郡 小成田の領主。大崎合戦に目付として参戦し、その後も対大崎工作を担う。

伊達家の公式記録である『伊達治家記録』より。出典は『仙台藩史料大成 伊達治家記録 一』(平重道 責任編集、昭和47年(1972)、宝文堂)に拠った。表記や言い回しに若干の変更はあるが、04-1.を書き下しつつ引用し、中目兵庫と古川弾正についての解説を加えている。

前半は米沢参上後に岩出山へ帰還する氏家吉継の護衛を促す内容か。後半では中目兵庫と古川弾正の間に衝突があったことと、中目から遠藤に相談があるかもしれないので、その際は世間の評判が悪くならないように、氏家吉継とも相談して対処するように、と指示している。


04-3.天正17年12月24日「中目兵庫頭宛 知行宛行朱印状」


太崎弓箭本意ニ執成
候者、四日市場可宛行候、
永代不可有相違者也、
仍証文如件、 
天正一七 丑巳年極月廿四日 政宗(朱印)
中目兵庫頭殿
太崎弓箭~:太(大)崎での弓揃(戦)が上手くいけば、四日市場を宛がう、との意。
・四日市場:現在の宮城県 加美郡 加美町 四日市場。中新田の街並みのすぐ南東に位置する。

出典は『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』文書番号579に拠った。『古川市史 第7巻 資料Ⅱ 古代・中世・近代1』文書番号475にも収録。翻刻は同じ。中目家文書より。

また、政宗はこの文書と同日に、同じく伊達寄りの大崎家臣である鮎田大隅守に米泉・清水、磯田典膳正に「似合之知行」を宛がう文書も発行している。政宗の大崎切り崩し工作の一環。


05.葛西・大崎一揆以後
05-1.天正19年6月8日「中目兵庫頭宛 伊達政宗書状」



就下向ニ書状到来、披見候、仍
近日其表出馬之儀ニ候間、
其刻諸事可相理候条、不具候、
謹言、
六月八日 政宗(花押)
中目兵庫頭殿
出典は『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』文書番号837に拠った。『古川市史 第7巻 資料Ⅱ 古代・中世・近代1』文書番号530にも収録。翻刻は同じ。中目家文書より。右筆によるもの。


05-2.『貞山公治家記録』巻之十六 天正19年(1591)6月8日の条
〇八日壬寅。中目兵庫重定ニ御書ヲ賜フ。御下向ニ就キテ、書状到来、披見シ給フ、仍テ近日其表御出馬ノ間、其節諸事仰斷ラルヘキノ旨著サル。兵庫ハ大崎舊臣ナリ。此節浪人タリ。一揆ニ與セスシテ、去年十一月以來御退治ニ與力シ奉ル。
  • 其表:大崎方面。
伊達家の公式記録である『伊達治家記録』より。出典は『仙台藩史料大成 伊達治家記録 ニ』(平重道 責任編集、昭和48年(1973)、宝文堂)に拠った。上記05-1.の趣意文。

タイミングとしては、政宗が葛西・大崎一揆の扇動疑惑に対する弁明上洛を終え、米沢帰還したのが5月20日。第2次鎮圧のために米沢を出陣するのが6月14日で、その間となる。中目兵庫の説明として当時「浪人」としているが、この時点ではまだ伊達の家臣扱いではなかったのだろうか。


05-3.天正21年3月26日「中目兵庫頭宛 朱印制札」

 (朱印)札
志田郡之内、一あわう、
一ゑりだう二ヶ所のあれ地、
五年くうやニ申付、おこさせ
へく候、聊違乱有間敷候、
仍如件、
屋代勘解油
屋代勘解由兵衛
天正廿一年三月廿六日
中目兵庫
中目兵庫殿
  • あわう:青生。現在の宮城県 遠田郡 美里町 青生。
  • ゑりどう:彫堂。現在の宮城県 遠田郡 美里町 北浦彫堂。
  • くうや:『古川市史』では「こうや」と翻刻している。荒野。
  • :いささか。
  • 天正廿一年:西暦では1593年に相当するが、天正は20年12月8日に文禄元年に改元したため、天正21年は存在せず、文禄2年とするのが正しい。『古川市史』では改元情報の伝達遅延によるものか、と推測している。

中目兵庫に対して青生・彫堂の領地を開拓する様、当時岩出山の城代だった屋代景頼の名で指示された制札。青生・彫堂はどちらも下中目からすぐ東隣の集落である。「あれ地」「こうや」とあり、このあたりも葛西・大崎一揆で荒廃したものと思われる。中目城が一揆の際に籠城に使われたことと関係しているのだろうか。

出典は『仙台市史 資料編11 伊達政宗文書2』文書番号938(中目家文書)に拠った。『古川市史 第7巻 資料Ⅱ 古代・中世・近代1』文書番号546にも収録。







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