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2018年2月15日木曜日

飯坂宗康と戦国時代 -男子なき父親の苦悩- 【悲運の一族・飯坂氏シリーズ⑦】

それではいよいよ、飯坂氏シリーズのひとつのクライマックスである、飯坂宗康の生涯について触れる。

さて、そもそもこの飯坂宗康なる武将、知名度が決して高いとは言えない。ちょっと気になったのでTwitterでアンケートをとってみたところ


という結果になった。回答総数は99票で、そもそも筆者のTweetに反応してくれている時点である程度歴史、伊達家に詳しいか、興味のある人たちのはずだ。そんな99人でも知らないが半数を超える、なかなかマニアックな武将である。

いいざか むねやす
飯坂 宗康 
NHK大河『独眼竜政宗』より
別名
幼名:小太郎
諱:宗康、宗貞、宗泰
官名:右近大夫、右近将監
生誕
不明
死没
天正17年(1589) 9月2日
異説:天正18年(1590) 3月14日
死因
不明
君主
伊達晴宗 → 伊達輝宗 → 伊達政宗
家格
一家
所領
信夫郡 飯坂城
(石高推定:2500石前後か)
氏族
飯坂氏
飯坂宗定
桑折宗保の娘
兄弟
妹:飯田宗親の妻
義弟:桑折宗長
桑折景長の娘
長女(桑折政長の妻)、飯坂御前
系譜上の養子:飯坂宗清
子孫
飯坂宗長、宗章、輔俊
先祖
伊達為家、飯坂政信 etc.
墓所
天王寺(福島市 飯坂町 天王寺)
戒名
雲岩起公
なお、以下情報の出典についてはあらかじめ【資料集】飯坂宗康にまとめてあるので、興味のある方はそちらを参照してほしい。


■ 宗康の生い立ち

宗康の生まれた正確な年代はわかっていないが、父・飯坂宗定と母(桑折宗保の娘)の間に幼名・小太郎として生まれた。

伊達家への奉公は晴宗の時代からということなので晴宗の治世(1548~1564)には現役世代だったはずだ。諱・宗康の「宗」の字も晴宗からの偏諱(一字拝領)であろう。

この時代の飯坂宗康の活躍を示す資料は残っていないが、前回の記事でも触れた彼の婚姻関係から推測するに、晴宗政権の主要人物のひとりであった桑折景長の一党として活動していたと思われる。

こういった桑折氏の婚姻政策や、分家・下飯坂氏の活躍は、後に宗康が娘を伊達政宗の側室として送り込み、一族の立場浮揚のきっかけとした発想につながったのではないか。


■ 宗康と天王寺の再興

宗康の活躍としてまず目にとまるのが、飯坂氏の菩提寺でもある天王寺の再興である。天王寺は、寺伝によれば聖徳太子の時代までさかのぼる古い由緒のある寺だが、この時代はすでに荒廃していた。

宗康は天正3年(1575)、住職の春翁正堂和尚とともに天王寺の中興をはかり、寺を臨済宗に改め、また寺田として103石を献上している。

寺田として103石という数字はなかなかたいそうな献上であり、江戸時代に表高62万石だった仙台藩が、中堅クラスの領内寺院に与えた寺領が例えば輪王寺147石、陽徳院130石、光明寺127石、資福寺84石である。宗康のような中小クラスの武将が寺院に寄進する石高としては、かなり大きな割合であることが想像できる。

天王寺は今も飯坂に残っており、宗康を中興の祖と位置付けている。また、彼の墓もこの天王寺にある。


■ 天正4年 対相馬戦

戦国武将としての宗康の名が初めて記録に見えるようになるのが天正4年(1576)の対相馬戦である。この戦は伊具郡の奪還を目指して伊達輝宗が福島~宮城県南部にかけての侍たちを動員しておこしたかなり大規模なもので、飯坂宗康の名が13番備筆頭として記載されている。この時共に13番備を形成しているメンツをみてみると

十三番 飯坂右近大輔(伊達郡飯坂城主、飯坂宗康)
十三番 瀬上三郎  (信夫郡大笹生城主、瀬上景康)
十三番 大波平次郎 (大波長成
十三番 須田佐馬之助
十三番 同 太郎右衛門
三番 同 新左衛門

となっている。須田一族に関してはわからないのだが、瀬上氏、大波氏ともに現在の福島市、信夫郡を拠点とする勢力で、特に瀬上景康と飯坂宗康はこの後も行動を共にすることが多かった。

一つの備を構成するのに約800名、1万石クラスの経済基盤が必要だったとされている。13番備を飯坂家、瀬上家、大波家、須田家の4族で構成しているのであれば、単純に4で割って飯坂氏の動員兵力は200名、2500石くらいの所領だった計算になる。

対相馬戦争の焦点のひとつ・小斎城と伊具盆地。
この年の戦いでは決着がつかず、その後も戦いは続いた。

また、出陣した武将として約50名程列挙されている中で、末尾の起請文には13名の署名がある。その中にも「飯坂」の名がみえることから、この時期すでに、ある程度軍議において発言権を持ったポジションにいたのかもしれない。

これは興味深いところで、筆者は今まで宗康の娘・飯坂御前が政宗の側室に → 飯坂家の立場向上、という順序だと思っていたのだが、飯坂御前の側室入りはこの天正4年よりも後のできごとであるため、それよりも前からある程度飯坂家の地位は向上していたのかもしれない。


■ 娘・飯坂御前を伊達政宗の側室に

宗康には男子がおらず、二人の娘がいた。長女は親戚である桑折政長の妻となっている。一方妹の飯坂御前だが、彼女は伊達政宗の側室となったことで有名だ。その詳しいいきさつはこちら(戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-)にまとめたが、簡単に触れると以下の通り。

飯坂宗康には二人の娘がおり、妹は黒川式部の許嫁となっていた。黒川式部は、伊達の傘下でもあり黒川郡を治める黒川氏の一族で、黒川晴氏の叔父にあたる人物だ。式部の父である黒川景氏は飯坂氏の出身でもあるため、黒川氏と飯坂氏にはもともとつながりがある。

宗康には男子がなかったことから、娘の許嫁である式部が飯坂の名代として活動し、事実上の後継者扱いとなっていたらしい。しかし、娘が美女として評判だったにも関わらず式部との年の差が大きいかったこと、次第に式部を疎ましく感じるようになってきたことから、式部と娘を離縁させ、娘を伊達政宗の側室として差し出すことを選んだ。

政宗も美女と名高い宗康の娘を気に入り寵愛したが、一方で婚約を破棄されて男としての面子をボロボロにされた黒川式部は失意のうちに越後へと去っていったという。

天真爛漫な飯坂の局(ドラマでは「猫御前」として登場)と、
うしろにぼんやり写っているのが飯坂宗康(NHK大河『独眼竜政宗』より)

経緯はともかく、こうして飯坂宗康は、側室とはいえ伊達家当主である政宗の岳父の立場を手に入れた。また、将来飯坂御前と政宗の間に子が生まれれば、その子を飯坂家の跡取りとする約束であったため、飯坂家の立場は安泰である。

この飯坂御前の側室入りと、正室である田村家の愛姫と伊達家の婚姻は、どちらも後継男子がいなかった家が、将来生まれるであろう政宗の子を跡取りとする、という約束のもとで行われた点で共通しているのが面白い。


■ 郡山合戦

次に宗康の名が記録に登場するのが、天正16年(1588年)の郡山合戦である。おそらく、それ以前の大内領塩松攻略戦や人取橋の戦いにも参戦してたのではないかと思われるが、記録は確認できない。

郡山合戦は、伊達にとっての正念場であった。同じ年の初頭、北方における大崎合戦に事実上敗北し、大崎氏と同盟を組む最上氏とも先端が開く中、南方でも佐竹・蘆名連合軍が伊達領への侵攻を開始したまさに四面楚歌の状況である。

郡山合戦(1588)。郡山城を囲む蘆名・佐竹勢と、その救援をすべく
山王山・窪田城・福原城の近辺に後詰する伊達勢。ほぼ現在の郡山市街地が戦場。
宗康が参戦した窪田城の正確な位置は不明だが、おそらく地図上の位置と推定。

伊達側は少ない兵力で必死の防衛戦を展開するが、その際に飯坂宗康も戦いに参加し、窪田城の防衛を任されている。『貞山公治家記録』には大嶺信祐とともに窪田の防衛に派遣されたことしか書かれていないが、『飯坂盛衰記』には戦闘の様子が詳細に記載されているので引用してみる。

宗康鐵石の如く堅固に守りければ。寄手の大勢 如何とも成がたく。遂に軍を班しけり、宗康は城の上より見渡し。すはや敵の足並亂しぞ。切て出よと下知すれば。早雄の若者共一度にどつと切て出て。追討に切ければ。敵大勢とは申せども。返し合する者もなく散々に亂れ立ち。右往左往に走り行く。小勢を以大敵を欺く事。比類なき事なりとて。政宗公御感心淺からず。
曰く、鉄壁の守りに敵の足並みが乱れたところに追い打ちをかけ、うまく窪田城を防衛しきった様だ。この働きもあってか、伊達側は郡山地域の防衛に成功し、ほぼ同時期に北方の最上・大崎との講和も成立、窮地を脱することになる。

またこの年の10月19日、使者をもって政宗に肴を献上したことが『貞山公治家記録』に記録されている。


■ 対岩城 田村領防衛戦

続いて宗康の戦闘行動が記録されているのが、翌天正17年(1589)4月である。これまで伊達氏と岩城氏は比較的良好な関係で、前年の郡山合戦も岩城氏の仲介によって蘆名・佐竹連合との講和が成立している。

しかし、当時ほぼ伊達の保護国と化している三春・田村氏内部の反伊達派が岩城氏の保護を受けたことや、岩城家中にも反伊達急先鋒・佐竹氏の影響力が強かったことから関係が悪化し、岩城氏が田村領へ侵攻する事件が起こる。

1588~1589年の仙道方面情勢。基本的には伊達 VS 佐竹だが、1589年には岩城氏も反伊達勢力に加勢する。

このとき、岩城軍によって田村方の鹿股城が落城するなどの被害が発生するが、その後の田村への援軍として飯坂宗康らが派遣されている。

実はこのとき、伊達家当主の政宗は落馬により足を骨折し、自ら出陣ができない状態であった。そんな政宗を気遣ってか、4月28日には政宗の元へ飯坂温泉の湯が届けられ、湯治を行っている様子が記録に残っている。おそらく、飯坂領主・宗康か、娘で政宗側室の飯坂御前の手配によるものだろう。

5月18日には、引き続き田村領に、今度は対相馬への備えとして宗康が派遣されている記録が残る。宗康の、武将としての戦闘に関する記録はこれが最後となる。


■ 死去

『飯坂盛衰記』によればこの年(1589)の9月2日に飯坂宗康は死去している。彼にとって心残りは、飯坂氏としての跡取りがまだ生まれていないことであった。

彼には男子がいなかったし、当初養子に迎えるはずだった黒川式部は既に離縁してしまっている。政宗の側室となった飯坂御前に子が生まれれば、その子を跡取りとする約束であったが、二人の間に子は生まれていない。

彼を見舞いに政宗の使者が訪れるが、宗康が政宗に遺言としての残したのは
  • 領地はすべて政宗に差し出す
  • 将来、飯坂の局と政宗の間に子が生まれたら、その子に飯坂の名跡を継がせてほしい
ということだった。この1589年9月と言えば、伊達家としては宿敵・蘆名を摺上原に破り(7月)、祝賀ムードであっただろうタイミングだ。そんな中、宗康はひっそりと息を引き取った。同じ年の春には田村領の防衛任務についていることから、あるいはこの戦いで何らかの傷を負ったのかもしれない。

飯坂・天王寺に残る宗康の墓

さて、ここからしばらく飯坂氏は当主不在の状況となる。男子が途絶えた以上、一時家は断絶したともいえる。この約15年後に飯坂の名跡は復活するのだが、次回はそれまでの間、飯坂の血筋を継いだ政宗の側室・飯坂御前の人生について触れたいと思う。


■ 悲運の一族・飯坂氏シリーズ一覧

飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家-
こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学- 
飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【資料集付】
鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる- 
分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族- 
┗【資料集】中世の飯坂氏
飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク- 
⑦飯坂宗康と戦国時代 -男子なき父親の苦悩- ← 今ココ
【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
┗【資料集】飯坂宗清
┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
┗【資料集】近世の飯坂氏
⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表


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