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2017年9月26日火曜日

ロマンを追うか? 史実を追うか? 書評『暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」』後編

大泉光一著『暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」 ヴァティカン機密文書館史料による結論』の書評の後編。



前編ではヴァチカン機密文書館(ASV)に残された史料について、中編ではその史料をどう解釈するべきかについて触れた。本稿後編ではそもそも論として、仮に政宗が倒幕計画を立てていたとして、それを立証することは可能なのだろうか? というところから話をはじめたい。

■ 倒幕計画を立証するには?

NHK大河『独眼竜政宗』より
戦国最後の大戦・大阪の陣における政宗と松平忠輝。
このときも、隙あらば家康の首を狙っていた?

これは著者も本書で認めていることではあるが、少なくとも日本側で政宗の倒幕計画を立証する文書は見つかっていない。そこから

  1. それは政宗が証拠隠滅を図ったからだ。証拠はないが倒幕計画はあった
  2. 証拠がない以上、それ以上のことは言えない

という2派に別れるのである。1の立場は、天下取りの野望を秘めた政宗の世間一般のイメージからすれば倒幕計画はあってもおかしくないという、ある意味ロマン派な意見で、2の立場は証拠がない以上何も言えないというドラスティックな現実主義的意見だ。

その意味で、倒幕計画を立証したいのであれば国内の史料でそれが叶わない以上、海外の史料をあたるしかないという著者・大泉氏のアプローチは正しい。ただ中編で述べたように、政宗があえて親書に残さなかった請願がヴァチカンの史料から読み解ける=倒幕を考えていた、は論理が飛躍しすぎているし、証拠としても弱い。

本書では、ヴァチカンのローマ教皇庁以外にもイエズス会、フランシスコ会、インディアス顧問会議、スペイン通商院など様々な団体が遣欧使節団についての報告書を書いている様子が紹介されている。そういった文書の中にたとえば

日本の奥州王たる伊達政宗の真の目的は、けっして信仰上のものではありません。ローマ法王庁の権威を借りてジパング国内のクリスチャンを味方につけ、クーデターを起こすことです。彼は真のキリスト信者ではありません。謁見の際は注意されたし」(イエズス会のローマ法王庁宛報告書(架空))
松平陸奥守は野心的で、我らスペイン王国の尖兵となりえます。日本の政府にはウィリアム・アダムスなるイングランド人の外交顧問がおり、将軍の信頼を勝ち取っています。英国の影響力を排し、我らスペイン人が割って入るのが難しい今となっては、奥州王の政府転覆計画に協力するのも選択肢かもしれません」(メキシコ副王政庁のスペイン本国宛報告書(架空))

といったような文言が見つかれば、多少は倒幕計画の裏付けになるかもしれない。ただ、それでもその文書の信憑性に対する批判・検証は必要ではあるのだが。

■ 黒脛巾組と悪魔の証明

慶長遣欧使節からは脱線するが、政宗をめぐる似たような議論に、黒脛巾組くろはばきぐみというトピックがある。政宗お抱えの忍者集団なのだが、1次史料に登場せず、はじめて名前が出るのは江戸中期に書かれた『伊達秘鑑』と成立時期不明の『老人伝聞記』であり(どちらも『仙台叢書』所収)、その実在性が疑われている。

かつて伊達武将隊には黒脛巾組の忍&くのいちがいた。黒脛巾組は仙台市公認?
学説的な実在性はともかく、観光資源として人気のある伊達武将隊には
外国人ウケの良い忍者キャラは復活させた方がいいと思う。にんにん!

黒巾組の存在を主張する人々は、「そもそも裏方・汚れ仕事・秘密工作を担当する忍が、史料なんて残すはずがない。史料はなくて当然なのだ(でも彼らは存在した)」という根拠の弱い主張にならざるをえない。

一方、黒巾木組の存在を疑う立場からは「1次史料に登場しない以上、実在性は疑わしい、江戸時代の創作だ」としつつ存在しないことを証明しきれない、いわゆる「悪魔の証明」に陥ってしまう。

黒脛巾組は「信長の野望・創造」にも登場。
新作「大志」が11.30に発売予定。はよ出ろ。
一般に、何かの存在を証明するには「存在した」という証拠を一点示すだけでよいが、「存在しないこと」を証明するためには、世の中の森羅万象を調べ尽くさなければならず、それは不可能に近い。こういうのを悪魔の証明という。

従って、調べても調べても「今のところ黒巾木組の存在を証明できる1次史料はみつかっていない(いたのかいないのか、実のところよくわからない)」という、奥歯に者が挟まった様な歯切れの悪い結論になってしまうのだ。

そもそも黒脛巾組は主に小説やゲームなどのクリエイターが扱う題材で、学者が手を出すようなトピックではない。上記で「議論」と言ったのはちょっと大げさだったかもしれない。

が、歴史好きの仲間と飲んでいると「政宗ならああいう影の軍団使いそうだよねー」と盛り上がれる話題であることは間違いない。羽黒山と伊達家の関わりだとか、政宗外交の粘り強さとか、黒脛巾組という補助線を用いることで妙に納得? してしまう点は確かにある。

■ 伊達政宗をめぐる永遠の葛藤

伊達政宗は慶長遣欧使節、黒巾木組以外にも


など、疑惑や謎の多い人物で、どのトピックでも史料ベースで議論を進めるべきという歴史学と、野心に溢れた政宗の一般的イメージに立脚したロマン主義の対立が起きている。主に小説やドラマ、ゲームなどの創作物で政宗人気が沸き立ち、歴史学がその世間一般のイメージを訂正しようとする、という永遠のいたちごっこなのだ。

実は今、ブログ筆者もこの2項対立に悩んでいる。

天下取りの野望を抱く、ギラギラとした若き戦国武将。数々の疑惑をもたれながらも、それを潜り抜ける用心深さ。そんな一般的なイメージの政宗が好きだ。慶長遣欧使節だって、ただの通商目的よりも倒幕計画と絡めた方が話としては面白いに決まっている。

一方で、なるべく思い込みのイメージを排した実像に迫りたいという欲求もある。

史料主義の歴史学という手法では、政宗という人物はとらえきることが難しいことは確かで、あるいは心理学や民俗学といったような別の手法でのアプローチがあってもいいのかもしれない。

筆まめで自筆の書状も多く残り、外部から彼を記録した史料も豊富。それでいて、史料ではとらえきれない魅力にも溢れた人物。

伊達政宗の研究は実に難しい。であるが故に、面白い。

2017年9月25日月曜日

倒幕目的説にはどこまで信憑性があるのか? 書評『暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」』中編

大泉光一著『暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」 ヴァティカン機密文書館史料による結論』の書評の中編。



前回の前編ではヴァチカン機密文書館(ASV)に残された史料を読み解けば、政宗がローマ法王パウルス5世に対して「カトリック王への叙任」と「キリスト教騎士団の創設」という隠された2点の請願をしていた可能性が導けることと、政宗自身はクリスチャンではなかったことが判明したことまで紹介した。

■ 倒幕計画の結論ありき?

NHK大河『独眼竜政宗』より
大久保長安・ソテロと密談するシーン。彼の胸中やいかに。 
問題はここからである。

この2点の隠された請願は何を意味するのか? 慶長遣欧使節団の真の目的は何だったのか? 著者・大泉氏によれば
政宗の本当の目的は、ローマ教皇の力でスペインの軍事的協力を得て、徳川幕府に最後の決戦を挑み、徳川秀忠に代わって伊達政宗が将軍職に就き、日本の支配者になることであった。(p8、強調はブログ筆者による)
だそうなのである。ここが難しい。

本書にはなぜ2点の隠れた請願があったという可能性が政宗は実は倒幕を狙っていた、という結論につながるのかが、ほとんど書かれていない。

たとえば「カトリック王の叙任」および「キリスト教騎士団の創設」という請願があったとして、ここから政宗が何をしたかったのかを考えるとしよう。倒幕計画以外に、である。
  • 政宗本人はクリスチャンではないが、国内キリシタンの保護、及び失業対策を考えていた
  • 徳川政権と懇意の新教国(イギリス・オランダ)に対抗意識があり、それら勢力に対抗するカウンターパワーとしての旧教勢力(スペイン・ローマ法王庁)の利用を考えた
  • カトリック王の称号、騎士団創設の実績を看板に、スペイン以外の国とも貿易交渉を行う構想があった。その交渉での有利な材料としたかった
もちろん、それぞれに細かい検証は必要ではあるが、上記の様な推論も成り立つとは思うけれども、いかがだろう。それらを排していきなり倒幕計画につなげてしまうのは、少し無理があるし、説明があまりに足りない。

ちなみに、「キリスト教騎士団」の創設とは、あくまで日本国内のキリシタンを政宗配下の騎士団として組織する、という意味だろう。それと筆者の言う「スペインの軍事的協力」とはまた別の話だ。前者は国内のキリシタンを味方につける方策、後者は外からの援助を得る方策である。


■ 政宗の倒幕計画をそそのかしたのはソテロ?

もうひとつ、この本で説明が足りないと思ったのが、なぜ政宗が倒幕計画を志向するようになったかの動機についてである。まぁこのあたりは、世間一般の野望に溢れた政宗のイメージからすれば今更説明は不要として省略したのかもしれない。

本書で唯一触れられているのが、ソテロが政宗をそそのかしたのではないか? という推論で、徳川政権の倒幕を狙っていたのは、実はソテロだったのではないかという説だ。

徳川幕府のキリシタン、および宣教師たちへの弾圧が強まるにつれ、ソテロも捕縛され、火あぶりの刑を受けることになった。しかし、使節団の案内役として余人をもって代えがたしという政宗の嘆願によりかろうじて救われたことを指摘したうえで、
自らも殉教寸前という経験をしたソテロは、強い衝撃を受け、徳川政権下でキリスト教の布教活動を行うことに、絶望感を抱いたであろう。親しい関係にある政宗を使って徳川政権を倒すしかないと、ソテロが考えたと推測して間違いないと私は考える(p52)
というのが筆者の主張だ。これも、弾圧をうけたこととソテロが倒幕を目指すようになったことがダイレクトに結びつきすぎていて、説明が足りない。

日本国内で弾圧を受けたキリスト教宣教師は、なにもソテロだけではない。弾圧どころか殉教した宣教師もいるなかで、なぜソテロだけが倒幕まで目指すようになったのかの根拠が弱い。

宣教師 ルイス・ソテロ
1574-1624。父親はスペインの参議院議員。
自身もサマランカ大学で法学・医学・神学を
治めたエリートである。そんなスペックをも
ちながらわざわざ極東の島国までやってきた
のだから、志のい人物ではあったのだろう。
そもそも土着の宗教もある日本に乗り込んできて勝手に布教をしながら、それを禁止されたからと言ってその国の政府を倒すところまで発想がいってしまうというのも、迷惑このうえない話ではある。

...と思いながらいろいろ書いてたら、案外過激な宣教師とはそんなものではないかという気もしてきた。

古今東西、あらゆる宗教にとって布教と弾圧はセットである。積極的な布教という意思の弱い日本の神道を例外として、新しい宗教を広めようとすれば既存の勢力との軋轢を生みだし、弾圧されるのが常だ。弾圧は身内意識をかため、より強い教団へと成長していき、やがて国家に容認される、というのが勝ち組宗教のパターンだ。

ところが負け組宗教というか、弾圧の試練を乗り切れなかった教団は、テロ行為に走る傾向がある。

日本にもかつて、オウム真理教なる宗教団体が存在した。彼らは教祖である麻原彰晃が選挙に負けたのをきっかけに、日本政府の転覆を狙って地下鉄サリン事件などのテロ行為をおこしたことがある。

ソテロはビッグマウスというか、誇張の表現が多い人物だという証言が多方面から残されている。そういったソテロのイメージからすれば、弾圧を逆恨みして倒幕まで考えてしまう、思考のブっとんだ人物だと考えるもありえなくはない気がしてきた。

というわけで、ブログ筆者は著者・大泉氏の「ソテロが倒幕を考えていたかもしれない」という説には要検討ではあるものの、可能性は排除しきれない、という感想を持つに至った。

ただし、その実証にはやはり文書ベースの決定的なエヴィデンスが必要ではあるのだが。

■ 著者・大泉氏のバックグラウンド

実はブログ筆者は、この大泉氏の本を読むのは初めてである。どころか、前編冒頭で述べたように、慶長遣欧使節についてはこれまであまり深く首を突っ込まずに来た。今回この本を読んでみて、慶長遣欧使節の目的=倒幕という、学会では否定的な意見を文春新書というメジャーな媒体で、かつ堂々と展開しているので大泉氏のバックグラウンドが気になった。

Wikipediaで調べられるレベルだけでも
危機管理、国際テロなどが専門だが、支倉常長について長く研究をしており、田中英道の『支倉常長』を捏造だと批判して、田中と論争になった[2]。「支倉は徳川幕府打倒のために派遣された」という説を唱えているが、歴史学界では荒唐無稽の説とされている。https://ja.wikipedia.org/wiki/大泉光一
という情報が出てくる。さらにTwitter上でつながりのある方の指摘で思い出したのだが、ブログ筆者は以前にも大泉氏の他の本を立ち読み(買わなくてさーせん)したことがあり、そこでは仙台郷土史会の割と有名な学者たちに対する名指しの批判・恨み節が、これでもかというくらいに述べられている章があった。



あるいは、ディベート文化の海外の学歴キャリアを持つ著者の論戦のしかけ方は、日本の研究者には過激に映るのかもしれない。いずれにせよ、大泉氏は慶長遣欧使節や伊達政宗に関する研究のメインストリームに位置する方とはとうてい言いがたく、「倒幕計画」という結論ありき、かつ学会内での人間関係が原因で、ある程度主張に主観が入りすぎている感はどうも否めそうにない。

とはいえ、大泉氏の本を一冊(と1章の立ち読み)だけで批判するブログ筆者の態度もあまり褒められたものとは言えない。大泉氏の他の著作に、この『暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」』だけでは読み取りきれなかった著者の主張や論拠が書かれているかもしれないので、それらについても機会があれば触れてみようと思う。

■研究を阻む言語の壁

思うに、慶長遣欧使節というテーマは実にやっかいである。

前提として当時の日本の情勢はもちろん欧州諸国、中南米諸国、キリスト教諸団体の情勢という複数の知識が求められる(話はそれるが、本書には1591年の九戸の乱を1600年と誤認している箇所(p59、第1刷)があり、大泉氏の東北戦国史についての知識はそれほど専門的ではなさそうではある)。

加えて、原史料を読み解こうと思ったら、簡単に思いつくだけでも日本古語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語、ラテン語を習得する必要があり、それらは現在の話し言葉とは違う古典言語で、しかも専門的な行政文書である場合がほとんどだ。

これは大泉氏も指摘しているところではあるが
...これ(※ブログ筆者注、上記列挙の複数言語)を原文で読み、理解することのハードルの高さが、研究を困難なものにしてきた。
研究者が原典にあたらず、明治時代、まだ辞書も不完全であった頃に訳された、転写漏れ、誤写や誤訳だらけの史料集(『大日本史料(第十二編之十二)』)を引用、孫引きして研究を進めたため、不可解な定説が生まれたと言っていい
...(p11)
という側面は、確かにあるのだろう。であれば、やはりそれら複数の言語を読み解ける大泉氏のスキルはとても貴重である。

■いでよ、次世代の研究者...

使節団の請願に対する教皇庁の回答文書
ASV所蔵。イタリア古語で書かれたものとのこと
まぁ、こんなの一般人に読めるわけないよね...
そういうせっかくの貴重なスキルを生かして、大泉氏は『支倉六右衛門常長「慶長遣欧使節」研究史料集成』全3巻を刊行されているそうだ。おそらく大変な労力であっただろう。こういった氏の業績は素直に評価されるべきだと思う。

しかし、せっかくの良質な史料にアクセスできる能力を持っておられながら、大泉氏の論には飛躍が多い気はする。

これはとある方の受け売りなのだが、持論を展開するには論拠(エビデンス)と論理(ロジック)が必要である。建築に例えるなら建材と工法が必要なのだ。せっかく腕のいい大工でも、ボロボロの建材を使えば立派な建築はできない。未熟な大工が高級な素材を使っても然りだ。

大泉氏が発掘し、研究に利用している海外の文献は、これまで日本の研究者があまり手を出してこなかった貴重なものも多いはずだ。だが、それらの史料をどう読み解いて使うかというところに、大泉氏が批判される理由がある様に思う。

同じ素材を用いた結果「倒幕計画」以外の結論にいたる学者がいてもいいと思うし、そういう論があるならぜひとも聞いてみたい。Twitter上でつながりのある方もこの本を読んで似たような感想をもたれたそうで、「これら史料使っての他の方の解釈が聞きたい、史料批判含め論じて欲しい」とおっしゃっていた。

需要はある!

海外の文献も駆使しつつ、仙台の郷土史家たちともWin-Winの人間関係を築きながら、論理の展開にも齟齬のない次世代の研究者たちが登場するのを、気長に待ちたい。

【続く】ロマンを追うか? 史実を追うか? 書評『暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」』後編

2017年9月23日土曜日

政宗はカトリック王になりたかった? 書評『暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」』前編

仙台の郷土史のなかでも、支倉常長や慶長遣欧使節団についてはあまり手を付けてこなかった。「支倉常長」や「慶長遣欧使節」、あるいは東北のキリシタン史もそれぞれそのテーマだけで数冊の本がでている大きなトピックなので、下手に首をつっこめなかったのが正直なところ。

あまり知識もないのだけど、今回手軽に読める新書が発売されたので手に取ってみた。



副題の「ヴァティカン機密文書館史料による結論」にもあるように、著者はヴァチカン機密文書館(ASV)まで赴いて、ローマ教皇庁側の史料から遣欧使節のテーマに取り込んでいるところに本書、および著者の特徴がある。

ASVといえば、『ダ・ヴィンチ・コード』にも出てきたあの史料室である。ヴァチカンといえば、ローマカトリック教会の総本山であることは言うまでもなく、各国に派遣される宣教師からの報告が集まる情報センターでもあり、今で言ったらラングレーのCIA本部並みに古今東西のコンフィデンシャルな情報が埋もれているかもしれない場所だ。

ローマ教皇 パウルス5世
在位:1605-1621。高校世界史
レベルでは名前の登場する人物で
はないが、ヴァチカン機密文書館
(ASV)を創設した教皇でもある。
政宗の新書を携えた支倉常長一行
を謁見。
...というとまた陰謀くさく聞こえてしまうので、この本の書評としては細心の注意を払う必要がありそうだ(理由は後述)。

■ ヴァチカン側の史料からみる使節団の目的

さて本書ではヴァチカンの史料だけではなく、メキシコやスペインの史料も紹介されているのだが、一番面白いなと思ったものを紹介しよう。

1615年(元和元年)11月3日、支倉常長はローマ教皇・パウルス5世に伊達政宗の親書(和文とラテン語訳、ともに現存)を手渡した。筆者の要約によれば、この親書に認められる政宗のローマ教皇庁への請願は6点である。

ところが、ヴァチカン側は、政宗の請願6点以外についても回答行っているという記録(小勅書、および異端審問会議の回答文書下書き)があるというのだ。

通常、請願が6点なのであれば回答も6点になるはずだが、7点目・8点目の回答があるという。そのヴァチカンの回答内容というのが

 回答7点目
(教皇聖下による)日本の王(政宗)に対する剣(stocco)と帽子(capello)の叙任について:王(政宗)はキリスト教徒ではないので、少しの協議(検討)もできない。しかし、キリスト教徒の王(カトリック王)になれば、通常、キリスト教徒の王に与えられるあらゆる満足がすぐに与えられるでしょう。また、聖ピエトロ(ローマ教皇)の保護を受けられるでしょう。(p112)
および
回答8点目
司教の任命(権)および騎士団の創設について、(政宗が)キリスト教徒になった時、また教会を寄贈したならば、彼の功績を考慮して、これについて協議される(p115)

というもの。まず筆者は、6点の請願に対して8点の回答がされているということは、政宗があえて親書に明文化して記入せず、使者(支倉常長)から口上させた請願があるはずで、7・8点目の回答はそれに対するものだと推測している。

そしてそれぞれの請願・回答の内容だが、7点目は政宗の「カトリック王に叙任してほしい」という請願と「クリスチャンではない日本の王をカトリック王に叙任はできない」という回答。8点目は「キリスト教徒の騎士団を創設したい」という政宗の請願と、同様の理由からの拒絶回答だ。

8点目は字面通りだが、7点目が解説が必要だと思われる点で、筆者によれば「剣(stocco)と帽子(capello)の叙任」とは「カトリック王への叙任」の比喩で、いままで日本でこのヴァチカン史料を紹介した媒体(『大日本史料』『仙台市史』)は、すべて訳者がこの比喩に気付けずに直訳したものにとどまっているとのことである。

請願と回答の件数が一致していないのは不自然であり、親書に記されなかった口上による請願があったはずだ、という筆者の推論には説得力があり、本書ではこの箇所が一番興味深いと思った。

親書に書かれていないので日本側の史料だけでは読み解けないが、ヴァチカン側の史料からは使節団の隠された目的が読み取れる。それは、カトリック王への叙任とクリスチャン騎士団の創設である、という論だ。

■ 肝心のカトリック王とは?

しかし、読んでみてよくわからなかったのが本書で使われている「カトリック王」という概念である。

スペイン王 フェリペ3世
在位:1598-1621。祖父はカール5世。
フェリペ2世で、ともに高校世界
人物だが、この人自身はあまり有名とは
言えない。支倉常長とも面会している。
「カトリック王」という呼称はおそらく「神聖ローマ皇帝」とは区別された用語のはずだが、当時(1615年)の世界で思いつくカトリックの国王といえばスペイン王・フェリペ3世とフランス王・ルイ13世くらいだろうか(イタリア諸国を除く)

他のヨーロッパ地域は宗教改革によって生まれたプロテスタント諸派が多く、まともなカトリック王国としての体をなしていない。いや、フランスも当時はまだナントの勅令が生きており、国内にはユグノー(新教勢力)が多かった。フランスがユグノー弾圧を再開し、カトリック大国として復活するのは太陽王・ルイ14世の時代からである。

では政宗が叙任を臨んだ「カトリック王」とは、当時(世界の覇権は大英帝国に推移しつつあるとはいえ)唯一ともいえるカトリック大国スペイン王・フェリペ3世のような「大国の王」としての実態を伴うものであったのだろうか? それとも、国の実態はどうであれ単に「信仰がカトリックである国王」という単なる称号なのだろうか?

前者であれば、極東の島国のいち藩主(ローマからみればせいぜい州総督レベルだろう)がいきなり目指す実態として飛躍がありすぎるし、後者であれば名ばかりの称号にどれだけの価値があるのかわからない。実態はともあれ、「カトリック王」の称号さえあれば日本国内のキリシタンは政宗に従うという考えだったのだろうか?

いずれにせよ、当時のキリスト教世界における「カトリック王」なる概念、あるいは筆者がその概念をどう理解しているのかがいまいち読み取りきれなかった。したがって、政宗が「カトリック王」に叙任されたとして、何をしたいのかがよくわからない(後述するように、筆者はカトリック王への叙任願望を倒幕計画に結び付けるのではあるけれども...)。

■ 政宗はキリシタン大名ではない

以前歴史好きの友人が「政宗をキリシタン大名あつかいする人がいるみたいだけど、そんなことないよなうーむ」と自問自答していたことがあった。自分は、少なくとも学術的にはそういう論を聞いたことがないし、両親がクリスチャンであるという体験から「洗礼受けてればクリスチャン、そうじゃないなら(宗派にもよるけど)少なくともクリスチャンコミュニティでは教徒として認知されない」としたうえで

と回答したことがあった。要は政宗の洗礼名を示唆する署名がみつかればクリスチャンだったと考えてもいいかもしれないという論だ。

今回、上記請願が「王(政宗)はキリスト教徒ではないので」拒絶されているので、やはり政宗はキリシタン大名ではない、という結論で間違いない。というより、自分もこの本で初めて知ったのだが、政宗はローマ教皇宛親書で、自ら「自分はクリスチャンではない」という信仰告白? をしているというのだ。

於吾国、さんふらんしすこの御もんは(※サンフランシスコ会の門派)の伴天連ふらいるいすそてろ(※フライ・ルイス・ソテロ)、たつときてうす(※貴きゼウス)之御法をひろめニ御越之時、我等所御見舞被成候、其口より、きりしたん之様子、何れもてうすの御法之事を承わけ申候、其付しあん(※思案)仕候程、しゆせう(※殊勝)なる御事、まことの御定め之みちを奉存候、それにしたかつて(※従って)、きりしたん成度乍存、今之うちハ難去さしあわせ申子細御座候而、未無其儀候、...
「ローマ教皇パウロ五世宛書状」(文書番号1481,『仙台市史 資料編11 伊達政宗文書2』,p310より)

とある。簡単に訳すると、「日本に布教しにきたソテロからクリスチャンや神のことについていろいろ聞きました。その道に入って自分もクリスチャンになりたいのだが、今はそれが難しくまだ洗礼をうけることができていません」という内容。政宗による親書なので間違いない。

いや、本当はキリシタンだが、徳川にバレたらやばいのでこういう書き方をしたんだ。すくなくとも「きりしたんニ成度なりたく」と言ってるじゃないか! ワナビーだ!

...という反論があるかもしれないが、どんな事情があるにせよカトリックの最高権威であるローマ法王の前で信仰告白できるチャンスを目の前にしてそれをしないクリスチャンは、少なくともカトリック信者とは呼べない。その程度の信仰ということだ。

カトリックではないならプロテスタントの可能性はどうかと言えば、ローマ教会の権威を経由せずに神と直接つながろうとするのがプロテスタント諸派なので、わざわざ地球の裏側のローマ教皇庁に使節を送る必要はなく、仙台城や江戸屋敷で聖書を読みキリストを拝めばいいだけの話。加えて、ソテロら旧教(カトリック)国の人間とつるまずに徳川と懇意にしていたヤン・ヨーステンら新教(プロテスタント)国の人脈から教えを請えばいいだけの話だ。

というわけで、本書の主題である遣欧使節団の目的からは脇道にそれたが、政宗自身が自分はクリスチャンではないと宣言している文書があるということも、自分にとっては本書の収穫だった。

黄金の十字架を背負い、葛西大崎一揆扇動疑惑の釈明をしに上洛する政宗。
十字架はあくまでパフォーマンスであり、クリスチャンであるわけではない。

さて、この書評記事前編では本書で興味深いと思ったところから紹介した。文春新書なので、これからおそらく長い期間全国の書店の新書棚に並ぶであろうし、値段もページ数も手ごろなので、他の郷土史本と比べてアクセスが非常にしやすい。が、それだけに本書を読むにあたってはいろいろ注意がいりそうで、中編ではそのあたりにも触れてみたい。