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2018年1月9日火曜日

飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク-【悲運の一族・飯坂氏シリーズ⑥】

さて、どうにかこうにか息切れせずに(?)更新を続けることができている飯坂氏シリーズ、今回からようやく華の戦国、そして飯坂ピープルたちの細かなプロフィールや事象にも触れられる時代までやってまいりました。うぇーい。

前回、室町時代の後期には飯坂本家よりも、分家・下飯坂氏の方が重用されていたのでは? という記事を書いたのだけれども、今回はそんな飯坂氏の立場浮揚につながった背景について触れたいと思う。ここでいよいよ、戦国時代の当主・飯坂宗康にご登場願おう。

飯坂宗康の閨閥関係、婚姻戦略をみてみると、今後飯坂氏がたどる運命についてストンと腑に落ちる。そして、ここを押さえておかないと、なぜこの人が飯坂家の養子に? という理解が難しい。ということで、飯坂宗康の具体的なプロフィールよりも先に、婚姻関係から見ていこうと思う。

やたら前置きばかりで本題に入らないのはこのシリーズのご愛敬。しばしお付き合いください。


■ 桑折氏との閨閥関係

飯坂宗康の妻は桑折宗茂(播磨、景長)の娘で、桑折点了斎宗長の姉である。宗康には妹がおり、彼女の夫も桑折氏出身の飯田宗親である。さらに宗康は、後に生まれる娘も桑折政長に嫁がせている。

母も妻も桑折氏の出身、妹も娘も桑折氏出身者に嫁ぐ。飯坂氏と桑折氏の間には4重の婚姻関係が存在しているのだが、ややこしくなってきたのでまとめてみると、飯坂宗康からみたときに

・父:飯坂宗定
・岳父:桑折宗茂(景長、貞長)
・母:桑折保宗の娘
・妹婿:飯田宗親(桑折宗茂の子)
・妻:桑折宗茂の娘
・義弟:桑折宗長
・娘婿:桑折政長

となっており、四方八方 桑折一族である! これだけ桑折桑折と言われると冒頭からゲシュタルト崩壊必至なので、まずは下に掲げる系図をゆっくり眺めて落ち着いていただきたい。

さて、注目すべきは宗康にとっての岳父・桑折宗茂である。この人は桑折播磨守、伊勢守、貞長、景長といった名前で呼ばれることもある人物なのだが、天文の乱(一言でいうと伊達稙宗、晴宗による南奥州全土を巻き込んだ壮絶な親子喧嘩)の際から晴宗党の主力として活躍し、戦後は晴宗の奥州探題職 補任にあわせて守護代に任命された実力者である。

さらに嫡男の点了斎 宗長、孫にあたる政長も政宗時代に重用された家柄であり、桑折氏とこれだけ太いパイプをもっていたことは、飯坂宗康にとって伊達家内部におけるおおきなバックボーンとなっていたに違いない。

「信長の野望」に登場する桑折景長(貞長の名で登場、左)と宗長(右)親子。残念ながら、
さらにその息子である政長が登場しないのだが(最新作・大志にはでているのだろうか?)
彼も伊達政宗に重用され、朝鮮出兵時に病死した際には、その死を嘆いた。
政長の妻は飯坂宗康の娘、飯坂御前の姉であり、政長の死に際して政宗が彼女を気遣い、
桑折氏の家督について気を遣っている文書(割と泣ける)が残されている【政宗文書965】
おそらく戦国時代の飯坂氏出身者に唯一残されている政宗文書である。

桑折氏も、飯坂氏と同じく伊達の庶流である。伊達氏3代・義広の庶長子・伊達 左衛門蔵人 親長(4代・政依の庶兄か?)がその家祖であると伝わり、飯坂氏と同じく伊達傍流としての歴史は長い。

桑折氏にとって飯坂氏との婚姻関係は、同じ伊達庶流同氏の結束を固めるうえでメリットがあり、飯坂氏にとって桑折氏との結びつきは、伊達家内部における立場浮揚のおおきな助けとなる、Win-Winの関係だったはずだ。


■ 桑折党としての飯坂氏

さて、飯坂氏との関係以外にも、桑折氏を注進にその家系図を眺めてみると、なかなか派手な婚姻政策を展開していることがわかる。息子や娘を伊達家臣の有力家臣(ほとんどが城主クラス)に送り込んでおり、さながら奥州のハプスブルク・伊達稙宗を彷彿とさせる。というか、南奥州全域に渡った稙宗の婚姻政策をそのままスケールダウンして、伊達家内部で行ったのだろう。

桑折氏の系図を掲げてみる。以下は「海田桑折文書」の「桑折家系図」を元に筆者が作成した桑折氏の系図だ。

クリックで拡大

桑折氏の系図にはいくつかのバリエーションがあり、これが確実に正しい系図とは言い切れないものの、同一の系図内に伊達家内部における重鎮クラスの家が桑折氏の血縁ネットワークに包摂されていることがわかる。

伊達稙宗の子を養子に
残念ながら事故死して家督を継ぐには至らなかったが、奥州の覇王・伊達稙宗の子を養子にもらい受けている。稙宗には20人以上の子女がいたが、その多くが東北の中小大名に養子や姫として嫁いでおり、家臣に養子入りは珍しいパターン。

石母田家
桑折景長と同様、伊達稙宗の有力家臣にして後に晴宗にも仕えた石母田光頼、その子で政宗時代に奉行職も務めた石母田宗頼など。江戸時代の家格は一家第10席。

原田家
同じく譜代の重臣・原田宗政や伊達政宗がその死を嘆いた原田宗時など。甲斐宗輔の時代に寛文事件で断絶するが、間違いなく重臣クラス。

飯坂家
飯坂氏出身の姫が政宗の側室になったことで、間接的に仙台藩初代藩主とも縁戚関係に。また、宇和島藩主・秀宗が飯坂御前の子と誤認されたことも宇和島時代の桑折氏には有利な要素となった可能性がある。

白石家
白石宗実で有名。宗実は伊達の傍流である梁川氏の宗直を養子としたことから、以後この家系は登米伊達氏を名乗り、江戸時代には一門第5席の重臣となる。

奥山家
政宗に奉行として取り立てられた奥山兼清、常良兄弟が有名。以後も奉行職を数名輩出。家格は着座第3席・第4席(奥山家は2系統ある)。

大町家
系図の大町三河は頼隆のことか。一族第2席、新地(蓑首)要害、藤沢所、金ヶ崎要害などの要所の領主を歴任。

中野家
晴宗党の主要人物にして一時期は伊達家当主を凌ぐ権勢を誇った中野宗時の家系。クーデタ失敗で失脚するも、それまでは無視できない婚姻関係だったはずである。

このラインナップがどれだけ錚々たる顔ぶれになるかは、伊達クラスタ諸氏にはお分かりいただけるかと思う。よくわからない方はとりあえず華麗なる一族であることだけご理解いただけるとありがたい。

飯坂氏は、そんな桑折氏の婚姻政策に組み込まれたといえる。のちに飯坂宗康は2人目の娘を伊達政宗の側室に差し出すことになるのだが、そのアイディアの根源は、この桑折氏の婚姻政策にあったのではないか。


■ 桑折系飯坂氏

このページはもともと飯坂宗康ついて書くつもりだったのが、このまま勢いで「飯坂氏と桑折氏」というテーマに方向転換したまま、宗康死後の飯坂氏と桑折氏の関係について書ききってしまおうと思う。

というのも、飯坂宗康以後、飯坂家嫡流の血は一度絶えるのだが、飯坂家そのものは血縁関係にある桑折氏の子息を養子に迎えることでしばらく存続するのである。

飯坂宗康には男子がおらず、娘である飯坂御前と伊達政宗の間に男子が生まれたらその子を飯坂家の跡取りとする約束だった。しかし、二人の間には子ができなかったため、別の側室(新造の方)と政宗の間に生まれた子(権八郎)を養子とし、飯坂宗清として飯坂家を継がせた。

しかし、宗清にも男子は生まれず、飯坂家は一度断絶する。そこで目をつけられたのが縁戚関係にある桑折氏で、飯坂御前の姉が桑折政長に嫁いだことから、その孫である宗長が飯坂氏を継いだ。

宗長にも男子が生まれなかったことで、仙台藩2代藩主・伊達忠宗の子を養子に迎え、飯坂宗章として飯坂家を継ぐが、さらにこの宗章にも子がなかったため、宗長の妻の甥にあたる輔俊を跡取りとして迎えた。

しかし、この輔俊の父が寛文事件(伊達騒動)で有名な原田甲斐宗輔であったことから彼の罪に連座して切腹。ここに飯坂家は途絶えた。

かなりごちゃついている系図で申し訳ないが、黄土色の人物が飯坂家歴代当主。
桑折氏の血脈を媒介に、いちおう血のつながりは確保されていることがわかる。

...というように、駆け足で宗康以後の飯坂氏当主について追ってみた。宗康以後、どの当主も男子に恵まれず、飯坂家は養子で家を存続させていったために前後の当主同士に親子関係はないのだが、系図をひも解いてみると、実は桑折氏という地下水脈でつながっているのである。


■ 悲運の一族・飯坂氏シリーズ一覧

飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家-
こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学- 
飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【資料集付】
鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる- 
分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族- 
┗【資料集】中世の飯坂氏
⑥飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク- ← 今ココ
⑦飯坂宗康と戦国時代 -その功罪-
【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
┗【資料集】飯坂宗清
┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
┗【資料集】近世の飯坂氏
⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表



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