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2018年1月27日土曜日

仙台領の城館調査に使える新旧文献ガイド -江戸時代の史料から現代の書籍まで-

城がアツい。一般に歴史に興味がない人でも、国内観光の目玉といえばやはり旧城下町の「城」を目指すことが多い。


近年では天守閣や石垣がなくても、土塁や曲輪などの遺構だけでも楽しめる、いわゆる「土の城」愛好家も増えている様で、筆者の様な歴史趣味者のTwitterには、日々全国の城の写真がタイムラインを埋め尽くしている。

城について調べるならば、やはり現地を訪れてみるのが一番だろう。だが、やはり文献資料を用いての予習・復習も欠かせない。というわけで、旧仙台藩領域に存在する城について調べるための文献ガイドを作ってみた。

以下、古いものから並べていくので、現代語で書かれた資料を参考にしたい方は下にスクロールしていただきたい。また、仙台城についてはここに挙げた以外にも多くの史料・書籍が残されているため、記事の対象外とする。


■ 『仙台領古城書上』

旧仙台領の城を網羅した文献としては一番古く、仙台藩として、領内の旧城をリストアップして延宝年間(1673~1681年)に幕府に提出したもの。536もの城が挙げられており、当時としてもかなりの城が廃城となっていたことがわかる。
※いや、一国一城令下の江戸時代、仙台城以外は廃城で当たり前でしょ、と思った方には、こちらをお読みいただきたい ⇒ 仙台藩の城・要害・所・在所 -伊達四十八舘-。仙台藩には一国一城令の例外要素がそれなりにあったのだ。
あくまでリストとしての性格が強いため、情報量としては城の規模、種類(平城、平山城、山城の区別)、旧城主などに限られるが、仙台藩として領内の古城について網羅的に触れたものとしては最も古く、基本資料となっている。


現在は『仙台叢書』の第4巻、または『宮城県史』の第32巻に収録されているものがアクセスしやすい。多くの写本が残されており、概ね内容は一致しているが、タイトルは「仙台古城記」「仙台領古城書立之覚」「仙台封内古城記」などばらつきがある。

なお、仙台藩の北・南部領にはもっと古い「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上」なる史料が残っており、奥州仕置後に破却された城館のリストとなっている。内容についてはこちらに詳しい。


■ 仙台藩公式地誌シリーズ

仙台藩の学者が編集にかかわった、藩の公式記録としての性格が強い地誌郡。すなわち『奥羽観蹟聞老志』『封内名跡志』『封内風土記』『風土記御用書出』であり、いずれも江戸時代中期の成立。

詳細はこちらを参照 ⇒ 仙台藩の官選地誌まとめ -今読んでも面白い江戸時代の地理書4選-

情報量としては、最も後期の『風土記御用書出』(安永9年、1780成立)が一番充実しているが、地域によっては散逸していまった部分もあるのが難点(『風土記御用書出』以外の3つは全地域完備)。一方、記述が城にとどまらず、村の様子や寺社仏閣についても詳しい記述があるため、地域ガイド本としても機能するので汎用性は高い。

『風土記御用書出』いまはきちんと翻刻されたものが読める。

仙台藩にはこういった官選地誌だけでなく、民間の手による地誌も多いが、こちらについては筆者もまだあまり触れたことがないので、そのうちまとめたいと思う。また、仙台藩の南、福島県に相当する地域では『新編会津風土記』『信達一統志』といった地誌、『積達古館弁』などの書が江戸時代に成立しており、参考になる。


■ 当時の絵図

仙台藩の要害クラスの城だと、当時の絵図や城下町の町割り図が残っていることが多い。要害は実質的には城の扱いであり、改修の際は幕府への届け出と許可が必要だった事情も関係しているのだろう。

下記の各自治体史に掲載されていたり、各地の郷土資料館や現地の案内板で掲示されていることが多いが、仙台城以外にこれら近世の絵図についてまとめられた書籍を筆者は知らない。絵図自体は宮城県図書館が所蔵しているケースが多いようだが、これらの資料について体系的に参照する方法については改めてまとめてみたい。

金ヶ崎要害の案内板。江戸時代の絵図も掲載。

また、城館からは話がそれるが、明治時代に作成された村の絵図については宮城県公文書館がデータをCD-Rに書き出すサービスを行っている。


【追記】「そういう本みたことある」との証言のもと、探してみたら要害絵図がまとまった書籍があったことが判明。

『復刻 仙台領国絵図』
渡辺信夫 監修、株式会社ユーメディア、2000年

である。ただし非売品とのことで、古本としての流通があるのかどうかも不明。かろうじて宮城県内のいくつかの図書館には所蔵を確認できた。

本来はタイトルの通り「仙台領国絵図」を拡大して収録したもので、付録として21要害+一関陣屋の絵図も載っている。やはりどれも宮城県図書館所蔵の絵図で、貞享年間(1684-1688)の絵図で統一されている模様。要害絵図はこの時期以外のものもあるが、一覧性(あと閲覧申請がいらない利便性)という意味では、本書が一番便利だろう。非売品かぁ...。


■ 『伊達諸城の研究』

岩手の城郭研究家・沼館愛三による城館記録。ブログ筆者のカウントが正しければ373の城について触れられている。

沼館氏の元陸軍士官という経歴からか、城館の軍事的・地政学的な考察が加えられている点が特徴と言える。ただし、項目によっては位置を誤認しているのではないかと思われる城や、時代を誤認している部分も目立つ。

奥付によると出版は昭和56年(1981)だが、経歴によると著者は昭和25年(1950)に亡くなっており、実際に調査を行ったのは戦後まもなくの時期だったのではないかと思われる。

また、同じ著者のシリーズ本として『会津・仙道・海道地方諸城の研究』『出羽諸城の研究』『南部諸城の研究』『津軽諸城の研究』があり、東北の城を網羅している。


■ 『仙台領内古城・館』

宮城県の郷土史家・紫桃正隆氏による旧仙台藩領の城館ガイド決定版。特筆すべきは何といってもその圧倒的なボリュームである。構成は


  • 第1巻 岩手県 南部(旧葛西領北部)407城(1972年)
  • 第2巻 宮城県 東北部(旧葛西領南部)397城(1973年)
  • 第3巻 宮城県 西部及び中央部 301城(1973年)
  • 第4巻 宮城県 南部 246城(1974年)

となっており、藩が幕府に提出した『仙台領古城書上』が完全ではなかったことを示しつつ、その数(536)を優に超える1351か所もの城について記述されている。仙台藩の面目丸つぶれである。これを高校教師である民間の郷土史家がやってしまったのだから、恐ろしい。

位置・構造・歴史について触れつつ、特筆すべきは地元の古老による伝承を積極的に採録している点であろう。文献的な裏付けができない話も多いが、興味深い。

記述の一部。図や写真も満載。

筆者は1巻のあとがきにて、本書執筆のモチベーションとして、急激に進む開発で城の元の姿が失われつつあることに危機感を覚えたと述べている。発掘調査を伴っていないこともあり、現代の最新の研究と比べると内容が古く感じることもあるが、1巻が出版された1972年といえば田中角栄内閣の時代である。「列島改造」の波にのまれる前の城館の姿を記録してくれた功績には素直に頭が下がる。

惜しむらくは、もともと需要の少ない地方の郷土史本のため、流通量が非常に限られていることである。すでに絶版であり、なかなか出回らない古本の価格は1冊4万円近くまで高騰している。うへー。素直に図書館で利用しましょう!


■『日本城郭大系』

The 城郭研究の定番。全20巻+別巻2巻で、全国の城を網羅している。旧仙台藩領としては「第2巻 青森・岩手・秋田」と「第3巻 山形・宮城・福島」が相当。宮城県でいえば151(ポケモンかっ!)の城が詳細解説付き、925の城が名前、住所、数行の解説で紹介されている。






昭和56年(1981)に刊行されたもので、当時の第一人者たちによる執筆だが、約40年を経た現在となっては若干古い情報が目立つことも。現在は絶版だが、古本は比較的多く流通している模様。巻によっては価格が高騰している場合もあるが、東北の2巻・3巻については3000~5000円程度が相場の様だ。...あれ、Amazon出品の古本、ちょっと値段上がってないかコレ。


■『仙台城と仙台領の城・要害』

日本城郭史研究叢書の第2巻。1982年出版。南奥州歴史研究の大家・小林清治氏の編で、仙台城と白石城、21要害について各論がまとめられた一冊。その性格上、対象の城は要害クラス以上に限られるが、専門の研究者たちによって書かれた内容は非常に信憑性が高い。

どちらかといえば城の構造よりも、歴史や支配者の変遷についての記述が豊富な傾向があり、それらの情報量でいえば今回紹介した本の中で一番充実している。とても参考になるが、やはり絶版であり流通も限られ値段が高騰している模様。


■ 各市町村史

各自治体が発行している書籍。内容とボリュームについては自治体によって差が激しく、中には明治以降の議会史・行政史しか記載がないものも。ただし、古代からの通史が整っているものであれば、中世・近世編あたりに自治体内の城館について触れた章があることが多い。


一般的には昭和時代に刊行されたものが多く、高度経済成長期の開発ラッシュにのまれる前の貴重な姿が写真として掲載されていることも。

考古学的な調査結果もさることながら、城館にまつわる歴史や統治した支族についての情報が充実していることが多く、参考になる。各地の資料館や役所で販売していることが多いが、図書館での利用が現実的か。

余談だが、平成版『仙台市史』は「特別編7 城館」だけで1冊刊行となっており、仙台市域の城館についてはマイナーなものであっても城の構造・歴史共にかなりの情報がまとまっている。100万都市・仙台の威厳を見せつけるかの如き一冊。欲を言えばこのレベルの書籍が各自治体にあればとも思うが、仙台市民のおごりと非難を受けくぁwせdrftgyふじこ。


■ 発掘調査報告書

主に各自治体の教育委員会や大学・博物館などの学術団体が発行している冊子で、発掘調査の成果をまとめたもの。あくまで考古学的観点からの報告書なので、城館にまつわる歴史についての記述は薄い傾向にあるが、遺構や発掘物についての情報量とその精度、図の緻密さは圧倒的である。

運が良ければ、資料館などで無料配布していることも

各自治体の図書館で利用するか、こちらのサイト(全国遺跡報告総覧)に登録されているものであればPDFで読むこともできる。

余談だが、筆者は学生時代にこういった発掘調査書用の製図を行う会社のバイト面接を受けたことがある。Adobe Illustrator を使えない筆者が採用されなかったのは言うまでもない。


■『東北の名城を歩く』

2017年に出版されたばかりの新刊で、本屋に平積みされているのを目撃された方も多いと思う。旧仙台領領に限らず、東北で有名だったり特筆すべき城についてはほぼ網羅されており、入門編としても最適。かつ、研究の最前線にいる方々による最新の研究結果が反映された内容なので、信憑性も高い。






旧仙台藩領は宮城県(と福島)と岩手県にまたがっているため、南東北編・北東北編 両方が必要になるが、他県のことも勉強になるので得した気分になれる。この商売上手め!

このシリーズ、地域ごとじゃなくて県ごとに細分化して出してくれないかなぁ...。


■ 城跡の位置について

さて、こういった書籍・資料を携えて実際に城を訪れる際なのだが、有名どころはともかくマイナーな城である場合に大変なのは、その位置の特定だろう。古い書籍になると、掲載されている地図があまり役に立たなかったり、昭和・平成の大合併を経た今となっては、現在は使われていない住所が掲載されていたりすることが多い。

正確な位置については、このネット時代の現代、城郭訪問サイトがたくさんあるので、それらを参考にされた方が早いと思う。サイトによっては駐車場の情報やカラー写真をたくさん掲載したものも多く、筆者も参考にさせていただいている。

また、仙台領については朗報がある。

知人の@ken©さんが『仙台領内古城・館』に掲載されている城館については、Google Mapにその位置を落とし込み、Googleに申請する作業をされているのである! 4巻から進められているとのことなので、現在申請が通った城については宮城県南部に集中しているが、旧仙台藩領の古城がすべてGoogle Mapの検索にひっかかる様になる日も遠くはない。



上記の通り、マイナーな城跡の位置特定はなかなか骨の折れる作業ではある。ken©さんの地道な作業に感謝である。




2018年1月9日火曜日

飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク-【悲運の一族・飯坂氏シリーズ⑥】

さて、どうにかこうにか息切れせずに(?)更新を続けることができている飯坂氏シリーズ、今回からようやく華の戦国、そして飯坂ピープルたちの細かなプロフィールや事象にも触れられる時代までやってまいりました。うぇーい。

前回、室町時代の後期には飯坂本家よりも、分家・下飯坂氏の方が重用されていたのでは? という記事を書いたのだけれども、今回はそんな飯坂氏の立場浮揚につながった背景について触れたいと思う。ここでいよいよ、戦国時代の当主・飯坂宗康にご登場願おう。

飯坂宗康の閨閥関係、婚姻戦略をみてみると、今後飯坂氏がたどる運命についてストンと腑に落ちる。そして、ここを押さえておかないと、なぜこの人が飯坂家の養子に? という理解が難しい。ということで、飯坂宗康の具体的なプロフィールよりも先に、婚姻関係から見ていこうと思う。

やたら前置きばかりで本題に入らないのはこのシリーズのご愛敬。しばしお付き合いください。


■ 桑折氏との閨閥関係

飯坂宗康の妻は桑折宗茂(播磨、景長)の娘で、桑折点了斎宗長の姉である。宗康には妹がおり、彼女の夫も桑折氏出身の飯田宗親である。さらに宗康は、後に生まれる娘も桑折政長に嫁がせている。

母も妻も桑折氏の出身、妹も娘も桑折氏出身者に嫁ぐ。飯坂氏と桑折氏の間には4重の婚姻関係が存在しているのだが、ややこしくなってきたのでまとめてみると、飯坂宗康からみたときに

・父:飯坂宗定
・岳父:桑折宗茂(景長、貞長)
・母:桑折保宗の娘
・妹婿:飯田宗親(桑折宗茂の子)
・妻:桑折宗茂の娘
・義弟:桑折宗長
・娘婿:桑折政長

となっており、四方八方 桑折一族である! これだけ桑折桑折と言われると冒頭からゲシュタルト崩壊必至なので、まずは下に掲げる系図をゆっくり眺めて落ち着いていただきたい。

さて、注目すべきは宗康にとっての岳父・桑折宗茂である。この人は桑折播磨守、伊勢守、貞長、景長といった名前で呼ばれることもある人物なのだが、天文の乱(一言でいうと伊達稙宗、晴宗による南奥州全土を巻き込んだ壮絶な親子喧嘩)の際から晴宗党の主力として活躍し、戦後は晴宗の奥州探題職 補任にあわせて守護代に任命された実力者である。

さらに嫡男の点了斎 宗長、孫にあたる政長も政宗時代に重用された家柄であり、桑折氏とこれだけ太いパイプをもっていたことは、飯坂宗康にとって伊達家内部におけるおおきなバックボーンとなっていたに違いない。

「信長の野望」に登場する桑折景長(貞長の名で登場、左)と宗長(右)親子。残念ながら、
さらにその息子である政長が登場しないのだが(最新作・大志にはでているのだろうか?)
彼も伊達政宗に重用され、朝鮮出兵時に病死した際には、その死を嘆いた。
政長の妻は飯坂宗康の娘、飯坂御前の姉であり、政長の死に際して政宗が彼女を気遣い、
桑折氏の家督について気を遣っている文書(割と泣ける)が残されている【政宗文書965】
おそらく戦国時代の飯坂氏出身者に唯一残されている政宗文書である。

桑折氏も、飯坂氏と同じく伊達の庶流である。伊達氏3代・義広の庶長子・伊達 左衛門蔵人 親長(4代・政依の庶兄か?)がその家祖であると伝わり、飯坂氏と同じく伊達傍流としての歴史は長い。

桑折氏にとって飯坂氏との婚姻関係は、同じ伊達庶流同氏の結束を固めるうえでメリットがあり、飯坂氏にとって桑折氏との結びつきは、伊達家内部における立場浮揚のおおきな助けとなる、Win-Winの関係だったはずだ。


■ 桑折党としての飯坂氏

さて、飯坂氏との関係以外にも、桑折氏を注進にその家系図を眺めてみると、なかなか派手な婚姻政策を展開していることがわかる。息子や娘を伊達家臣の有力家臣(ほとんどが城主クラス)に送り込んでおり、さながら奥州のハプスブルク・伊達稙宗を彷彿とさせる。というか、南奥州全域に渡った稙宗の婚姻政策をそのままスケールダウンして、伊達家内部で行ったのだろう。

桑折氏の系図を掲げてみる。以下は「海田桑折文書」の「桑折家系図」を元に筆者が作成した桑折氏の系図だ。

クリックで拡大

桑折氏の系図にはいくつかのバリエーションがあり、これが確実に正しい系図とは言い切れないものの、同一の系図内に伊達家内部における重鎮クラスの家が桑折氏の血縁ネットワークに包摂されていることがわかる。

伊達稙宗の子を養子に
残念ながら事故死して家督を継ぐには至らなかったが、奥州の覇王・伊達稙宗の子を養子にもらい受けている。稙宗には20人以上の子女がいたが、その多くが東北の中小大名に養子や姫として嫁いでおり、家臣に養子入りは珍しいパターン。

石母田家
桑折景長と同様、伊達稙宗の有力家臣にして後に晴宗にも仕えた石母田光頼、その子で政宗時代に奉行職も務めた石母田宗頼など。江戸時代の家格は一家第10席。

原田家
同じく譜代の重臣・原田宗政や伊達政宗がその死を嘆いた原田宗時など。甲斐宗輔の時代に寛文事件で断絶するが、間違いなく重臣クラス。

飯坂家
飯坂氏出身の姫が政宗の側室になったことで、間接的に仙台藩初代藩主とも縁戚関係に。また、宇和島藩主・秀宗が飯坂御前の子と誤認されたことも宇和島時代の桑折氏には有利な要素となった可能性がある。

白石家
白石宗実で有名。宗実は伊達の傍流である梁川氏の宗直を養子としたことから、以後この家系は登米伊達氏を名乗り、江戸時代には一門第5席の重臣となる。

奥山家
政宗に奉行として取り立てられた奥山兼清、常良兄弟が有名。以後も奉行職を数名輩出。家格は着座第3席・第4席(奥山家は2系統ある)。

大町家
系図の大町三河は頼隆のことか。一族第2席、新地(蓑首)要害、藤沢所、金ヶ崎要害などの要所の領主を歴任。

中野家
晴宗党の主要人物にして一時期は伊達家当主を凌ぐ権勢を誇った中野宗時の家系。クーデタ失敗で失脚するも、それまでは無視できない婚姻関係だったはずである。

このラインナップがどれだけ錚々たる顔ぶれになるかは、伊達クラスタ諸氏にはお分かりいただけるかと思う。よくわからない方はとりあえず華麗なる一族であることだけご理解いただけるとありがたい。

飯坂氏は、そんな桑折氏の婚姻政策に組み込まれたといえる。のちに飯坂宗康は2人目の娘を伊達政宗の側室に差し出すことになるのだが、そのアイディアの根源は、この桑折氏の婚姻政策にあったのではないか。


■ 桑折系飯坂氏

このページはもともと飯坂宗康ついて書くつもりだったのが、このまま勢いで「飯坂氏と桑折氏」というテーマに方向転換したまま、宗康死後の飯坂氏と桑折氏の関係について書ききってしまおうと思う。

というのも、飯坂宗康以後、飯坂家嫡流の血は一度絶えるのだが、飯坂家そのものは血縁関係にある桑折氏の子息を養子に迎えることでしばらく存続するのである。

飯坂宗康には男子がおらず、娘である飯坂御前と伊達政宗の間に男子が生まれたらその子を飯坂家の跡取りとする約束だった。しかし、二人の間には子ができなかったため、別の側室(新造の方)と政宗の間に生まれた子(権八郎)を養子とし、飯坂宗清として飯坂家を継がせた。

しかし、宗清にも男子は生まれず、飯坂家は一度断絶する。そこで目をつけられたのが縁戚関係にある桑折氏で、飯坂御前の姉が桑折政長に嫁いだことから、その孫である宗長が飯坂氏を継いだ。

宗長にも男子が生まれなかったことで、仙台藩2代藩主・伊達忠宗の子を養子に迎え、飯坂宗章として飯坂家を継ぐが、さらにこの宗章にも子がなかったため、宗長の妻の甥にあたる輔俊を跡取りとして迎えた。

しかし、この輔俊の父が寛文事件(伊達騒動)で有名な原田甲斐宗輔であったことから彼の罪に連座して切腹。ここに飯坂家は途絶えた。

かなりごちゃついている系図で申し訳ないが、黄土色の人物が飯坂家歴代当主。
桑折氏の血脈を媒介に、いちおう血のつながりは確保されていることがわかる。

...というように、駆け足で宗康以後の飯坂氏当主について追ってみた。宗康以後、どの当主も男子に恵まれず、飯坂家は養子で家を存続させていったために前後の当主同士に親子関係はないのだが、系図をひも解いてみると、実は桑折氏という地下水脈でつながっているのである。


■ 悲運の一族・飯坂氏シリーズ一覧

飯坂氏シリーズはじめました -初代・為家-
こらんしょ飯坂 -物語の舞台・飯坂の地政学- 
飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥城との比較を中心に-【資料集付】
鎌倉・室町時代の飯坂氏 -記録を妄想で補填して空白期間を埋めてみる- 
分家・下飯坂氏の発展 -ある意味本家よりも繁栄した一族- 
┗【資料集】中世の飯坂氏
⑥飯坂氏と桑折氏 -戦国時代伊達家の閨閥ネットワーク- ← 今ココ
⑦飯坂宗康と戦国時代 -その功罪-
【資料集】飯坂宗康
⑧飯坂の局と伊達政宗 -謎多き美姫-
戦国奥州の三角関係 -飯坂の局、黒川式部、そして伊達政宗-
飯坂の局に関する誤認を正す -飯坂御前と新造の方、猫御前は別人である-
⑨悲運のプリンス・飯坂宗清
┗【資料集】飯坂宗清
┗下草城と吉岡要害・吉岡城下町
⑩相次ぐ断絶と養子による継承 -定長・宗章・輔俊-
┗【資料集】近世の飯坂氏
⑪飯坂氏の人物一覧
⑫飯坂氏に関する年表