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2015年9月25日金曜日

中野宗時の乱 02 -謀反の発覚からその顛末まで-

【承前】前編 -伊達輝宗、中野宗時、そして遠藤基信-

前編では伊達輝宗と中野宗時の対立ボルテージが最高潮まで高まったところまで解説した。

■ 新田義直の捕縛 -謀反の発覚-

元亀元年(1570年)4月4日、輝宗の下に新田景綱がその息子・義直を捕えて献上した。新田景綱によれば、中野宗時、牧野久仲がクーデタをたくらんでおり、義直もこれに荷担していたため、それを防ぎ、息子の義直を捕えてきたという。

新田義直は、中野宗時の嫡子・親時の娘婿にあたる。つまり、中野宗時からみれば義理の孫となる。この縁で中野宗時から謀反計画に加わるように誘われた。義直は「父・景綱と相談したい」と答えたが宗時はこれを責めたて、義直は仕方なく計画に加わった。

このあたり、関係がややこしいのだが中野宗時にまつわる縁者を系図にしてみたので、下の図で確認してほしい。



この件について義直が父に相談すると、景綱はこれを静止し、壮絶な親子ゲンカが始まる。どれくらい壮絶な親子ゲンカだったかといえば、これは実際に『治家記録』から引用してみよう。
遠州(※新田景綱)驚き、汝縁類の好よしみを以って累代の主君に対し暴逆無道の与動を作さんや、必ず思い止まれと警いましむ。四朗(※新田義直)、武士の一度約して違変すること有んと言う。遠州、一たびは怒り、一たびは歎きて言を蓋して静し止む。四朗終ついに従わず。遠州大に怒りて、(※伊達輝宗)に背くのみか父を棄すてる大賊、手打にせんとて刀を抜く。四朗即ち逃去る『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
口論の末、刀に手をかけるまでの親子ゲンカである。「一度約束した以上武士として背くわけにはいかない」という義直の理論と、「親族の縁よりも歴代の主君に仕える方が大事」という景綱の理論。どちらも正論といえば正論なので、決着はつかない。となれば、もはや戦いで決するしかない。

この後、新田景綱は息子・義直の居城である館山城を襲い、義直を捕え事件について輝宗に報告した。こうして、中野宗時のクーデタ計画が明るみになったのである。

■ 小松城の戦い

同日(1570年4月4日)の夜には、中野宗時にも新田義直が捕えられ、謀反の計画が明るみになったとの報がもたらされた。宗時は、自宅と配下の家に放火したうえで、実子である牧野久仲の居城である小松城へと逃げ込んだ。

このあわただしいリアクションを見る限り、新田義直から計画がもれるのは完全に想定外だったのだろう。なお、米沢城下町はこのときの放火により壊滅した。『治家記録』は「御城下一宇も残らず焼亡」したと伝えている。

中野ら一党が逃げ込んだ小松城は、米沢城から直線距離でもわずか15キロの距離にある。翌4月5日、輝宗はこれを攻めるためにさっそく自ら出陣した。

小松城跡。自分は実際にここを訪れたことがないので、今回Google ストリートビューで実際の地点を確かめて
みた。城跡を囲む道を進みながら画像をみていると、見事に土塀で囲まれたまま遺構が残っていることがわか
る。便利な時代になったなぁ。               (場所:山形県 東置賜郡 川西町 中小松

まず、新田景綱・小梁川宗秀らの軍団が押し寄せた。小梁川宗秀は敵武者を打ち取る手柄をあげたが、このとき負傷し戦死。一方、新田景綱の軍団の力戦っぷりはすさまじかった。おそらく、謀反に荷担した息子の尻拭いをしなければいけないという新田家としての体面、息子をそそのかした中野宗時への恨みをこの戦いにぶつけたのだろう。

籠城する中野一党は
宗時・久仲ふと籠城す。よって久しく保ち難し。大勢の攻め寄せざる前に相馬に奔らんと思い、一方を打破り、刈田関・湯原に中野が采地の有けるを便にして、遂にこの山中にかかりて逃行きけり。
 『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
大した計画もないままに追い込まれるようにして小松城へ籠城せざるをえなくなったが、ここは伊達の本拠地・米沢城からも近い。援軍が大勢おしよせる前に、相馬へ亡命しようと考え、城の囲みの一方をなんとか突破して逃亡した。

■ 亘理親子の迎撃

米沢からみて相馬はほぼ真西に位置する。そこまでたどりつくには、奥州山脈を越えて福島盆地まで行き、そこからさらに山越えをして太平洋側まで行かねばならない(後述の様に、どうもこの最短ルートではなく、かなりの回り道をした可能性があるのだが)。

都合のいいことに、その経路上にある刈田郡の関・湯原は中野の領地があり、小松城を脱出した反乱軍はまずそこを目指した。

一方、彼らの逃亡を許した輝宗としても
中野・牧野を追いけれども、山路険難といい、彼が領地といい、敢えて容易く進み難し。公(※輝宗)も伊達・信夫の一族大身、中野に心を合する者も有べきかと遠慮ありて、速やかに御帰陣あり。
 『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
彼らを追撃するために通過する伊達・信夫郡の領主たちの中に、中野宗時ら反乱軍に味方するものがいるのでは? との疑いを捨てきれず、これ以上の追撃を断念した。

反乱軍は関・湯原を通って、刈田郡の宮(現・蔵王町 宮)の河原まで到達した。この時点で中野一党に従うものは500騎程であったというが、相馬まではまだ距離がある。



この宮の河原で反乱軍を待ち受けたのが、亘理元宗・重宗の軍勢であった。亘理親子は小松城の籠城事件の報告を受けて、亘理城から出撃してきており、反乱軍を迎撃。やっとの思いで逃亡してきた反乱軍にあらがう力は残っておらず大いに敗れ、中野宗時・牧野久仲らはやっとの思いで相馬へと逃げ込んだ。

■ 全ては遠藤基信の計画だった!?

結果的に中野宗時の逃亡は許してしまったものの、彼らの謀反計画は事前に露見し、失敗に終わった。後に判明するのだが、実はこれはすべて遠藤基信の計略によるものだったという。遠藤基信が中野を裏から操って謀反を起こさせた、というわけではない。中野が謀反に及ぶことがあったら、それを事前に察知できるように仕組んでいた、というのである。
新田忠功の事、畢竟(※ひっきょう、つまるところ)遠藤基信が計策より出たり。中野連々驕肆(※きょうし、驕りたかぶること)甚しくして、遂には謀反すべき事を予め慮り、新田四朗(義直)を中野が縁者に成し置かば謀反の時遠州(新田景綱)まず知るべし、遠州は権勢も有りて忠貞の志深ければ、却かえって中野を亡すべき人なりと思い、大膳(中野宗時)が壻に取り計らいしなり。基信が知慮の深き事、この時に至りて皆嘆美せり。                      『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
新田義直が中野宗時の縁者となったのは、権勢もあり、主君への忠節の厚い父・新田景綱を見込んでの縁談であったという。これを仕込んだのが、遠藤基信だったというのだ。新田親子にしてみれば巻き込まれた感は否めない気がするが、何にせよ、遠藤基信の仕込んだ安全弁が役に立ったのだ。

もともと輝宗の信頼厚かった基信の名声はこの事件で飛躍的に高まり、以後、伊達家における遠藤基信の執権体制が確立する。彼は君主・伊達輝宗と二人三脚で伊達家の舵取りをしてゆくことになる。

■ 事件の後始末

『治家記録』を読む限り、この中野の乱の後処理にはかなりの時間がかかったものと思われるフシがある。というのも、この件に関する論功行賞が、かなり時間をおいてポツポツと散見されるからだ。

事件の後始末に関する事項を書き出してみよう。

  • 1570年4月23日 小関土佐、今後の奉公を誓う。輝宗は彼の処置を父・晴宗に任せる
    (小関は事件の際に上方にいた。詳細は不明だが、『治家記録』著者は中野の親族と推測している。)
  • 1570年5月    亘理元宗・重宗親子に加増
  • 1570年9月上旬 小梁川盛宗(泥播斎)、白石宗利、宮内宗忠、田手宗光を赦免。
  • 1571年12月17日 鹿股壱岐に加増

注目すべきは9月上旬の小梁川盛宗らの赦免である。「赦免」とは彼らの領地を中野宗時が通過したのを見逃した罪に対する赦免である。

疑問なのは、事件からここまでに約半年が経っていることだ。彼らの赦免に関しては伊達晴宗や伊達実元の奔走も記されており、それによって時間が延びたとも考えられる。しかし、半年である。

おそらく、事件の全容を解明するための捜査に時間がかかったのではないだろうか。

中野の謀反計画は突発的に露呈したため、反乱軍は追い詰められたように逃亡した。おそらく反乱に荷担する予定だった者も他に多数いただろうが、こういう状態では日和見を決め込んだかもしれない。事実、輝宗も小松城から逃亡した中野の追撃を、彼に味方する者が伊達・信夫の地にいることを恐れて諦めている。

今回たまたま「中野一族」の反乱という形をとったが、伊達家臣団の中に、潜在的な中野のシンパはかなりいたことだろう。下手に粛清を進めてやぶで蛇をつつくようなことにならないように、事件の後始末には慎重を期す必要があったに違いない。なお、伊達輝宗は中野の逃亡を許した者たちに対して厳罰を主張したが、これも遠藤基信が諌めて止めたという。

では、中野宗時の謀反計画の全貌とはどういったものだったのか?

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